揺蕩う海月(サンジ)

 

 

 

島に辿り着いたのは、陽が落ちる頃だった。
そこはかつて海賊旗に守られた島。活気ある街で人々が平和に暮らしていた。けれど、その海賊旗は二年前に意味を成さなくなった。後ろ盾を失った島では別の海賊により幾度かの略奪が繰り返され、侵略に怯える日々が続いた。海賊全てが悪でないことを皆忘れたわけではなくても、今は受け入れることはできないのだ、と灯台守は語った。
悪いが出て行ってくれないか、と絞り出された懇願を受け入れ、私たちは上陸を諦めた。幸いにも本島から少し離れたところに船が隠れる程度の小島があり、記録はそこで貯めることが出来るらしい。岸壁に寄せて錨を降ろした。ここなら夜明けと共に海賊が来たと騒がれることはないだろう。
夜は深く、もうすぐ今日が終わる。部屋を抜け出るときに起こしてしまっていなければ同室の彼女たちは夢の中だろう。他はまだ何人か起きているかもしれない。男部屋は静かなものだが地下や展望室からは人の気配がする。けれど誰も甲板に出てくる様子はない。
何をするでもなく甲板の芝生に転がった。潮風にさらされて髪がべたべたする。それに少し肌寒い。けれど、いつまで経っても眠気は襲ってくれそうになかった。

今夜は星が見えない。空と海の境界は曖昧だ。すべてが、真っ暗だった。愛しきも憎しみもその全てがこの偉大なる海に眠っている。だから海はこわい、なんて口にしたら海賊のくせに何を言うと笑われるだろうか。だけどこわいものはこわいのだからどうしようもない。別に泳げないから言うわけじゃない、見ているだけで身が竦むのでもない。それでも、目の前にするととても哀しい気持ちになるのは確かだった。だけど、陸に上がると寂しくて恋しくなる。それが私にとっての海だった。それが何故なのか、うまく言葉にできそうもない。わからない。忘れてしまったのかもしれない。忘れた。きっと、そうなんだろう。あの船を降りて、たくさんの冒険をわたしは失くしてしまった。
同じ航路は二度と辿れない。不可能ではないけれど、大体にして偉大なる航路はそういう場所だった。もとより同じ島々を旅したとして、船が異なり船員も変われば違うと感じるのは誰より自分自身だろう。

だったらおれたちと新しい冒険をしよう。そうして半分無理やりにも思える形で乗せられたのがこの船だった。誘いに確かな返事を返せないまま、ひとつふたつと海を越えた。気の良い船長と船員たちのおかげで一人のときよりずっと楽しい旅路を過ごすことができている。サニー号はとても海賊船とは思えぬ遊び心溢れる船だった。芝生にブランコ、生簀を兼ねたアクアリウム。各所の動力がコーラとは何の冗談かと驚いた。それから、お風呂の広さは素晴らしいと言わざるを得ない。ゆったりと湯舟に浸かると、難しいことは全部どうでもいいように思えた。そうして、心の空虚を見逃したまま揺蕩うように海を進んでいる。新しい冒険とやらを始められないまま。
星を掴もうと空に手を伸ばした。届くはずもない。降ろした腕で視界を覆う。

「手伝おうか」

声が聞こえて瞼を起こすと、頭上にくゆる煙草が声の主を確かなものとした。その気配を感じた時点で深夜の芝生に転がる女を無視してくれないことは予想ができていた。
食料庫から出てきたらしいコックは小脇に箱を抱えている。食材をダイニングに移すところだろう。まだ他にあるなら手伝おうか。そんなことを考えて口を開きかけたのに、言葉を送られたのはこちらの方だった。

「探しものかい?」

何の話か、と聞き返そうとして、先ほどまで空虚に手を伸ばしていた自分の奇行に思い当たる。上半身を起こし、芝生に座り直した。

「……何を探してるのか、自分でもよくわからないの」
「なら一緒に考えるよ」

空に何を落としたわけでもないことは互いに知っている。戯れのような意味のない会話。彼も承知の上だろうと思っても、ロマンチストなこの男のことだ、もしかすると本気かもしれない。その微笑みの向こう、消えていく煙を見つめる。消えた煙はどこへ行くのだろうか。考えてみても答えは得られないと決めつけた。諦めて彼へ視線を戻せば、穏やかな笑みはやがて戸惑いに変わった。「あー……どうかした? おれの顔に何か付いてる?」と頬をかく。「何も」と返せば彼は困ったように笑った。

「まだ眠らないなら、ホットミルクでもいかがですか」

彼にかかればどんな女も等しく淑女となるらしい。恭しく頭を下げる彼に感心半分、呆れ半分で言葉を返す。

「ありがとう。だけどあなたはもうベッドに入る時間でしょう?」

なんで知ってるの、とでも言うように目を丸める。「仕込みのために朝早いのも知ってる。いつもありがとう」と伝えれば「やりたくてやってることだ。この船のコックだからさ」と少し照れたように、だけど誇らしげに応えた。誘いは遠慮します、の意を伝えたつもりだったのに、そんな理由で引き下がってはくれない。

「おれがもう寝るって言ったら君もそうしてくれる?」
「もう少しだけここにいるつもり」
「ならこちらへどうぞ。おもてなしするよ」

折れてくれる気はないらしく苦笑する。触れない手に導かれてダイニングへと続いた。促されるままテーブルへ着くと、数分もしないうちにふわり甘い匂いが鼻腔をくすぐった。

「眠れないんだろ? 別に詳しく聞かせてくれってわけじゃない。そんな夜に君を独りにしたくねェだけさ」

目の前にそっと置かれたマグカップを口へ運べば、温かなミルクが身体を通っていく。濁り固まった全身をゆっくりと解して、溶かしていく。

「……この船の人はみんな優しいね」
「そりゃ下心があるから」

少なくともおれはね、と戯ける。まぁルフィの奴は下心っつーか欲望全部そのまま表に出ちまってるし他も裏表分かりやすい奴ばっかで笑っちまうけど。彼はそうして誤魔化しながら再びカウンターの向こうに戻り、調理台に野菜を転がし始めた。袖を捲り上げて蛇口を捻る。その手に握られた包丁が手際よく芋の皮を剥いていく。
本来予定していた仕込みはもう終わっていただろうに。誘われたのはこちらとはいえ、夜更かしに付き合わせて申し訳なく思う。
いつだったか、この船に乗ったばかりの頃、少ない乗員とはいえコックの仕事をほとんど彼一人でこなしていることに驚いたものだ。代わりに掃除洗濯その他の雑務、夜間航行時の見張りなんかを基本的には外されているのだとは、すぐに分かることだったけれど。それでも、誰よりも朝早くに起床して三食はもちろんオヤツも欠かさず、時には見張り番への夜食も用意するのは並大抵の苦労ではあるまい。けれど、好きでやってることだから苦労にはならない、と彼は言う。彼の料理は美味しい。腕利きのコックを何人も乗せた船に乗っていたから舌は肥えていると思い込んでいたのに、ここでは毎日呻らされるのだから相当だ。深夜に提供されたホットミルクひとつ、自分で用意するのとは全然ちがう。あたたかい。
下心だ、と彼はそう言うけれど、優しさを覆い隠すには些か下手すぎる嘘だった。鼻唄でも歌いそうな表情で食材を見つめる彼をぼんやりと眺めていた。

「静かな方がいいかと思ったけど、退屈?」

慌てて視線を外したけれど、彼は顔を上げるでもなく手元を動かしていた。そういえば、見聞色が得意だと聞いた気がする。視線のやり場を失って、両手で包んだマグカップを見つめる。

「この船に乗ってから退屈だった日なんて思い出せない」
「それはイイコト? ワルイコト?」
「……あなたたちには感謝してる」

あれから、海を離れようと何度思ったことだろう。その度に潮騒の響きが身体にこだまして何ひとつ捨てさせてはくれなかった。陸はこわい。海もこわい。ひとりでいると震えが止まらないのに、誰かといても不安が消えることはなかった。失くしたことを忘れて、新しい冒険を初めて、また失ってしまったら? そんな漠然とした恐怖がいつもいつでも付き纏っていた。夢の中で誰かの声が消えていく。眠る度に魘された。起きていても思い出す。次第にどちらが夢でどちらが現実か分からなくなる。もしかしたら、あの日の悪夢も、すべて夢だったかもしれない。そう一縷の望みをかけて目を醒ますのに、そこにかつての仲間たちは誰もいない。このどうしようもなく広大な海に独り放り出されて、どこへ向かえばいいのかわからない。わからないまま、勝手に進む船に揺られるのは容易で、だけどどこかずっと居心地が悪くて。こんな状態でどこまで行くつもりだろう。どこへ向かうつもりだろう。

「……そっちへ行っても?」

ふいに蛇口が閉まり水音が止む。顔を上げると、半分も焼けていない煙草が灰皿に押し潰されるところだった。作業を終えたらしい彼が捲り上げていた袖を直す。わたしが返事をする前に動いた彼が隣の椅子を軋ませた。
パーソナルスペースは狭い方ではない自覚がある。フリータイムは基本的にひとりで過ごしているし、上陸時には買い出しや偵察の役割がなければこれもひとりふらふらと出掛けている。船員が一堂に会するような食事時に逸脱するようなことはなくても、それ以外でわざわざ誰かの傍に居るようなことはなかった。拒絶したいわけじゃない。これ以上に彼らを知ることがこわかった。
仲間か敵か、既知か他人か。簡単なはずの境界線なのに、この海でそれは酷く曖昧だった。それでも、船の上だけは違うと疑わなかった。そういう居場所はきっと一生にひとつ出会えるかどうかで、一度失ってしまったあとにもう一度信じるのはとても困難だ。

「いつ船を降りようか、って顔だ」
「……船長の許可がないと出来ない、でしょう? もう何度も聞いた」

はぐらかすように肩をすくめた。透き通った紺碧の瞳が見透かすようにこちらを覗き込む。誤魔化されてはくれないらしい。
この船は前に進んでいる。立ち止まった人間がいつまでもいては足手纏いになるだろう。別に、黙って消えるような恩知らずをするつもりはない。だというのに、ひとりで夜を過ごすことすら許してくれない紳士は悩む気配すら見逃してくれない。

「ルフィは君を手放す気はねェよ。もう仲間だと決めちまってる。もちろん、おれたち皆同じ気持ちさ。……おれは、下心もあるけど」

さきほどと同じ言葉をもう一度繰り返してみせた。歯を見せて戯ける様子に、和ませようとする優しさを受け取って肩の力が抜ける。

「最後のは余計でしょ」
「信じてくれねェの?」
「下心を信じてほしいなんて変なこと言う」
「おれのこと、もっと知ってほしいから」

彼は角砂糖を落とすように甘く囁いてみせた。ぬるくなったホットミルクでは溶かしきれないような大きな塊だ。

「知ってる、博愛主義のコックさんでしょ。平等に注がれる愛ほど本当から遠いものはないよ」
「みんなと同じはイヤ? おれの特別を欲しがってくれるの?」

決して、そんな意味で言ったのではなかった。第一誰かの特別なんて、そんなものこわくてとても欲しがれない。臆病な海賊だ。欲しがることが、こわいだなんて。
俯くと、耳にかけていた横髪がはらりとすべり落ちた。ふいに、まだ嗅ぎ慣れない煙草のにおいが鼻に届く。伸ばされた指先が顔にかかったその一房を拾った。指の背が僅かに頬をくすぐる。不意打ちの接触に肩を跳ねさせれば彼は小さく笑った。私の耳に髪をかけ直すと、それ以上は触れることなく立ち上がり、一歩二歩と退がると再び煙草に火を点けた。深く吸い込まれた煙がまた流れていく。

「イヤがってくれねェと期待しちまう」
「欲しがってほしいの? 嫌がってほしいの?」
「どっちもさ。恋心は複雑なんだ」

そんな冗談ばかりを口にした。このテのことに関してはああ言えばこう言うのが彼の常なので言い負かすのは諦めている。こちらの呆れを読んでなおスタイルを変えるつもりのない彼は緩やかに笑った。

「ここは海の上で、次の島はまだ遠い。今晩だけだと焦る必要はねェだろうから時間をかけてゆっくり口説くことにするよ」
「またそんなこと言って……」
「今日はもう眠ろう。眠れなくてもベッドに入って休んで。朝食は好きなものを作るよ。何が食べたい?」

それはとびっきり大きな甘言だった。この船に乗って以来、すこし甘やかされ過ぎている気がする。

「……何でも美味しいよ。みんなと同じものにして」
「そっか」

美味しい、と言ったことに対してだろう、彼は嬉しそうに笑った。働き者のコックさんをいつまでも夜更かしさせるのは忍びなく、そろそろ大人しくベッドへ戻ることを決めた。ぬるくなったホットミルクの最後を口に含む。角砂糖ふたつ分は、甘すぎる気がした。