横恋慕(灰谷竜胆)

 

 

玄関を開けた先、見知らぬ女の攻撃的なヒールが乱雑に転がってる日はまだマシな方。リビングでおっ始めてようが汚い喘ぎ声が聞こえてようがどうでもいい。素通りして自室に籠ってヘッドホンで全部シャットアウトしながら眠りにつけばいいだけだ。何の問題も疑問もない。
サイアクなのは、今日みたいに見慣れたちゃちなローファーがキレイにつま先を揃えてこちらに顔を向けているときだ。こういう朝は、自宅だというのに入るのを躊躇してしまう。こればかりはいつまで経っても慣れる気がしない。
それでも、まだマシなパターンだ。その履き古されたローファーが慌てて脱いだみたいに転がり、ましてや続く廊下に服が脱ぎ散らかしてあるよりはサイアクじゃない。そんな日があって堪るか、と思うのにソレはちっとも非現実な話じゃなくて、いつ起こってもおかしくない現実だ。

まだマシ、だというのに、ばか丁寧に並べられた女の靴を見下ろし玄関で項垂れていると、やがてランドリールームからドライヤーの音が聴こえることに気が付いた。よかった、今日はまだサイアクのサイアクじゃあない。ぐっと堪えて、靴を脱ぎ去った。
躊躇いを捨てて扉を開けた先のリビングには嗅ぎ慣れたシャンプーの香りが漂っていた。他人ではないけど家族でも何でもない女がそれを纏い、こちらに笑顔を寄越す。

「竜胆、おかえり。おはよ」
まだ少し濡れた髪そのまま、無防備を晒している。何となく視線を外し、ぶっきらぼうな返事を送った。
「……ただいま。来てたんだな」
「うん、竜胆はクラブ帰り?」
「ん」

それだけじゃなくて適当な女を引っ掛けて発散していたわけだけど、わざわざ言う必要はないだろう。
泊まりに来るなんて聞いてないとか、何で除け者にするんだとか、喉まで上がりかけたガキみたいな戯言を飲み込んだ。

「兄貴はまだ寝てんの」
「昨日遅くまで愚痴付き合ってもらったから。まだ当分起きてこないかも」
「グチ?」
「んー、大したことじゃないの」
「あっそ」

兄貴には言えてオレには言えないのかよ。
逃しきれない不満があからさまに顔と声に出た。
泊まりに来るならそれくらい言えよ。そうすれば一人で出掛けたりしなかったのに。少なくとも朝帰りする必要はなかった。
過ごした年月は同じだけあるというのに、何かというと兄が優先される。些細な連絡も、相談事も、一緒に居る時間も、何もかもだ。残酷にもきっと無自覚に、そこにはあからさまな差がある。
なんて思ってるのはきっとオレだけで。兄が連絡するからコイツは返すだけであって。オレが素っ気ないからコイツも兄に連絡するだけであって。そんなこと、本当は分かっているのに。
目の前のオンナはそんなわだかまりに気付きもせず、何なら鼻歌を口ずさみながら冷蔵庫を開けた。誰の家だか分からない。

「トーストとか焼くけど、竜胆も食べる?」

トーストとか、の『とか』が何を指しているのかは分からないが、そう言われると何か腹に入れたい気もする。ホテルでロクに眠れたはずもなく、本当なら今すぐもう一眠りしたいところだが、気が付いてしまえば眠気よりも空腹が勝った。

「食べる……けど、何もなくねェ?」

しばらく外食続きだったから冷蔵庫は空だったハズ。思い浮かべながら近付いて、背後から冷蔵庫の中を覗き込む。そこには意外にも調味料以外の幾つかの食材が詰まっていた。
何で?昨日来るとき買ってきたのか?なんて疑問はすぐに打ち消される。

「蘭と買い物行ったから。簡単なものは出来るよ」

そう言って卵やらベーコンやら食材を取り出す様を眺める。ちょっと高い食パンも買っちゃったぁ、とにこやかに振り返った顔が近くて、反射的に後退った。
食パンくらいで喜んでかわいいな、とか何で二人だけで出掛けてんの? とか、感情はバラバラだ。誤魔化すようにカウンターに置かれた食パンを手にとり、指の腹で押してみる。

「つーか、そのTシャツ、オレの?」
「その辺にあったやつ適当に借りた。ダメだった?」
「別に良いけど」

別にいいけど、兄ちゃん怒んねぇよな?

「っていうか、下履けよ」

よく見れば、いやよく見なくとも気付いてはいた。Tシャツ一枚で生脚を晒している。幾らサイズが大きくて尻まですっぽり覆い隠せているとはいえ、太腿から下が全部見える。

「制服のスカートと長さ変わんないよ」
「変わるんだよ」

そもそも制服だったら下に何か履いてんだろ。知らないけど。多分そう。
ほんの数時間前までもっと刺激的なものを目にしていたはずなのに。でももうその相手の顔も名前も思い出せない。誰だったっけ。どうでもいい。

「捲んぞ」
「どしたの、欲求不満なの?」
「ンなワケあるか」

そう、そんなワケはない。何なら解消してきたばかりだ。

「いいから、履けって。オレのでいいなら何か貸すから」
「昨日そこで裾踏んで盛大に転けたからヤダ」
「……マジ?」

ダッセ、と笑えば朝食の準備をしていたその手を止めてまで睨みを送ってきた。どつかれる気配を察してキッチンから離れる。もちもちの食パンを右手で弄びながらソファに腰を下ろした。

「仕方ないでしょ、脚の長さが違うんだから! テーブルの角で脇腹打って痣になったんだよ。サイアク」

そう言って右の脇腹を押さえている。

「蘭なんかゲラゲラ笑ってて。酷くない!?」
「オレも見たら笑うと思うわ」
「今もう笑ってるじゃん……。ねえ、食パン焼くから渡してよ」

何となく、食パンを目の前のローテーブルに放り投げた。
遠いよ、なんて文句を言いながらも回収に近付いてきたところ、腕を掴んで足の間に引っ張り込む。少し苛めてやりたくなって、痣のあるらしい括れに視線を送る。引っ張ったことでバランスを崩し座面に乗り上げた体を、そのまま横に引き倒した。足首を掴み、Tシャツの裾に手を掛ける。

「なぁ。痣って、どこ? 見せて」

下を履いていない状態で捲れば、露わになるのは痣だけではないだろう。

「え、むり」

裾を下に引っ張りながら、捉われていないもう片方の足ででこちらの腹を蹴り上げてくる。残念ながら痛くも痒くも無い。そんな風に動けば、つまりもう色々見えてしまっている。恥じらうところ違くね? と思うも、教えてやる余裕はない。

「ちょっ……と! 竜胆! ばか!」
「弱すぎ」
「もう!」

ほとんど無意味だった抵抗を完全に無に帰して、隠されていたところをあらわにした。テーブルに打ちつけた以外の痕跡があれば理性の全部を捨てるかもしれない。そんな綱渡りを楽しみたいわけじゃないのに、勢いで動いた。幸いにも、見えたのは痣だけ。誰かが付けたような別の痕は、どこにもない。多分。見えないだけかもしれない。

「……蹴られた痕みてぇ」

腰骨の上、間抜けな青痣が鎮座する白い肌。指を這わせば、痛みが走るのか体を跳ねさせた。
何でこんなに、どこもかしこも柔らかいんだろうか。もっと触れたい。暴かなければ見えないところまで全部見たい。頭が馬鹿になりそうだった。
理由や言い訳なんてなくても、行動に移してしまえばいいのに。片隅でそう考える自分を何とか押し留める。ここで騒げば間違いなく奥の部屋に届くだろう。それが何を意味するのかは明白だ。
お前にそんな勇気はないだろう、と馬鹿な自分を嗜める。

「………竜胆?」
「兄貴も見た? コレ」
「見せるわけないじゃん。もういいでしょ離して」
「ふぅん」

足首を掴んでいた手を緩めてやる。下ろされた脚に頭を転がした。つまり、膝枕。突き落とされないのをいいことにそのまま瞼を閉じる。

「竜胆? 本当に今日どうしちゃったの」
「別に何もねぇけど」

こんなに戯れ合うのは随分と久し振りだった。もしかしたら、二人だけで過ごすことすら。

「ねぇ、私お腹空いてるんだけど」
「後にして」
「後っていつ? 寝ようとしてるでしょ」
「兄貴が起きるまで」
「それって、もしかしてお昼回るんじゃない?」
「かもな」
「もう……」

諦めた様子でソファの背もたれに体を預ける姿を細目で眺めた。文句を言いながらも、押しに弱くてオレに甘いことを知っている。
手持ち無沙汰であるのか、こちらの頭を撫で始めた。髪をすく手が気持ちよくて睡魔に襲われる。本気で眠ってしまえば、優しく起こされるか兄貴にどつき起こされるか、危険過ぎる賭けになる。
それでも、もう少しだけ、このままで。
今だけだとしても。後で勘気に触れたとしても。ほんの束の間、今だけ、あと少しだけ。一人占めを許してほしい。

 

 

Earth617(爆豪勝己)

 

律儀に信号を待つからクルマに突っ込まれるのだ、とはどこぞの国で他人を揶揄するときによく使われるフレーズらしい。ちなみに「日本人みたいに」を付け足して。
行く先に邪魔するものが何もなくても、ルールだからと深く考えもせず立ち止まるから馬鹿を見る。決して信号無視をしろ、というのではなく、その進路以外に道はないのか考えろ、という話だ。

交差点の角、誰から聞いたのか本で読んだのかぼんやりとした知識を反芻する。目の前の車道は勢いよくクルマが行き交っている。信号が青に変わるのを待つことなくここを渡るのはもちろん自殺行為というもので、自宅へ帰るにはこの道が最短ルートであることも間違いない。
もっと職場に近いところに住めば五分でも十分でも多く睡眠を取れるだろうか、なんて目の隈が最早トレードマークのようになっている上司みたいなことを考える。

何でもいいから考えていないと、頭が痛くて仕方ないからだ。ここのところずっと頭痛に悩まされていた。
昔からたまにあった偏頭痛。ストレスなのか疲れが溜まっているのか知らないがとにかく頭が重い。痛い。そんな状態がしばらく続く。市販薬で誤魔化すも解消は一時的なもので、痛みは数日間ずっと続いていた。仕事が手につかないほどのものではない。逆に、他に考えることがあれば痛みを忘れていられる気もした。だから、こうして家に帰る間も、普段考えないないことをずっと考えていた。

そういえば、卵を切らしていた気がする。朝食の選択肢に目玉焼きも卵焼きも入れられないのでは一日の活力に関わる。かといって駅まで戻る気力はない。既に辿り着いてしまった自宅マンションを見上げた。そこそこの家賃で広さもあって選んだものの、駅から地味に遠いのが玉に瑕。
運良く一階にあったエレベーターへと乗り込み、せっかちにも『閉』を連打した。
ところが、扉は閉まらない。エレベーターの箱がガコン、と音を立てて揺れた。

「てめェ気付いてんだろが」

原因を作った男がキレ気味に強引に扉をこじ開けてきた。仕方なくもう一度ボタンを押し直すとエレベーターはようやく上へ動き始めた。

「来るなら連絡してよ」

小言を投げ付ければ、彼は返事代わりに被っていた帽子とマスクを剥ぎ取って寄越した。仕方なくソレを受け取って言葉の返しを諦める。「明日お休み?」と尋ねれば、短く「違ぇ」と返ってきた。起きるまで居てくれないくせに、わざわざ来てくれたのか。
顔を合わせるのはとても久し振りだった。なんせ高額納税者のプロヒーロー様である。巨悪の居ない平和な世の中であっても小悪党が消えることはあり得ない。景気の悪さが影響してか、最近は特に忙しそうで、連絡もこちらからのメッセージに既読がつくばかりだった。ならば連絡しない方がいいのでは、とは思うものの、近況報告しなければソレはソレで怒るので虚しくも一方的に送り続けていた。

エレベーターを降りて自室までは再び夜風に晒される。共用スペースでの声は地味に響くため、口を開くことはない。
玄関を開けて客人を先に迎え入れる。自分も入り、鍵をかけるため彼に背を向けると、後ろから体を覆い込まれた。振り返ろうにも首筋に顔を埋められ、表情を窺うことは出来ない。

「……勝己くん?」
「ん」

返事らしい返事もくれず、その場に閉じ込められて動けない。何かあったのか、と聞いたところで教えてはくれないだろう。こういうことは、たまにある。人に話して楽になるタイプでもないだろうから話してほしいとも思わないし、仕事柄話せないことも多々あるだろう。私だって彼に話せないことはある。
だから、会いに来てくれるだけ嬉しい。何かあったときに会いたいと思ってくれたのであれば、その相手が私だったなら、それだけで十分だ。
そうやって、いつも自分を言い聞かせていた。

日が昇り、目が覚めると、また一人。寝落ちするときにあったはずの隣の温もりはとうの昔に消えていた。
こめかみを抑えながら起き上がる。気絶するように眠ったからだろう、頭だけじゃなく体まで重かった。
身支度をしながら朝のニュース番組を流し、寝ぼけ頭で犬の散歩映像や天気予報を眺めた。大した話題もないらしく、少し前に結婚報道のあったヒーローたちが映し出されていた。去年初めてビルボードチャート入りした人気の若手ヒーローらしく、哀しむ女性ファンがかなり多いらしい。
そのヒーローの隣に立つ人、所謂『人気ヒーローと電撃結婚した一般女性』は、リポーターの問いかけに「好きになった人がたまたまヒーローだっただけです」なんてキラキラした瞳で答えていた。
何て素敵なんだろう!などと思える、若かりし頃が私にもあったかもしれない。いざ、本物になったヒーローを間近で見るようになった今、とてもそんな風には考えられない。

ヒーローだって色々だ。普通のサラリーマンのように生活のため家族のため細やかな活動をするヒーローだって少なくはない。
けれど、彼は違う。彼の個性がそうさせるのか。性格からか。
そんな特別なヒーローに、私は憧れている。隣にいるはずなのに憧れを抱く、とはおかしな話だ。だけど対等でいようとすればするほど、その差が浮き彫りになるだけだった。普通の恋愛だったら、こんなことは考えないに違いない。

もしも、彼がヒーローじゃなかったら。

そんなことを考える時間が日に日に増えていく。
抱き締めて抱き締められて、それだけで十分に満たされるはずが我侭にもいつの間にか足らないと思い始めた。昨日みたいに夜だけの逢瀬が、いい加減虚しい。
もしも、を考えることに意味はない。彼がヒーローをやめるなんて天地がひっくり返るか記憶喪失にでもならない限りあり得ないし、もし何らかの敵の個性でそうなったとしても何だかんだで記憶を取り戻してすぐ元の彼に戻りそうだ。
だから、私が彼を好きでいることをやめてしまう方が現実的だ。
そう考えるのは、おかしなことだろうか。彼本人が聞いたら「くだらねえ」と一蹴されるだろう。バカなこと考うんじゃねえ、って怒るかな。そうかよ、って溜息吐いて案外うっさり受け入れられたらどうしよう。結局、何の覚悟も出来ていやしない。
頭痛薬を飲み忘れたせいで、いつも以上に頭も足取りも重かった。

家を出ていつも歩く道、補修工事を行なっているビルの正面に差し掛かったとき、何かが崩れる大きな音がして、ふと上を見上げた。太陽を遮るように、鋼版がすぐ目の前まで迫っていた。とっさに避けるとか、そんな能力は働かない。
こういうときって本当に全部がスローモーションに見えるんだなあ。これでは今日の出勤は難しそう。 ああ、こういうとき、強い個性が私にあったら良かったのに。
呑気に普段通りにうだうだ考えながら、この先に起こる出来事を受け入れようとした。
つまり、良くて大怪我、悪ければ全部終わり。だと思ったのに、気が付くと何故かビルのてっぺんに居た。

「もう大丈夫だ!」

不安を吹き飛ばす力強い声。誰もが憧れた逞しい腕に抱えられて、命の危機は遥か遠くに消え去っていく。
夢だろうか、と瞠目した。かつての平和の象徴、オールマイトの姿がそこにあった。
あの神野から萎んでしまった姿ではなく、全盛期のオールマイトだ。一体全体どういうことだろう。何か科学技術が発展して力を取り戻したのか、誰かの個性か、いいや私の夢かもしれない。ぐるぐると考えていたら視界まで回ってしまって、地面に降ろされるのと同時にその場に崩れ落ちた。誰かの声が遠くに聞こえる。世界が遠い。

目が覚めると、知らないベッドの上で知らない天井が広がっていた。周囲をカーテンに覆われていて視界から多くの情報は得られない。ご丁寧にも点滴に繋がれている。サイドボードに提げられたナースコールと独特の消毒剤の匂いでここが病院だと把握する。
隣の丸椅子に腰掛ける勝己くんが「寝すぎだ」と力なく笑い、私の額に触れる。その手に籠手は付いていない。仕事だったはずなのに、普通に私服姿である。
ぼんやりと覚えているのは、鋼版が頭上に落っこちてきて死を覚悟したこと。それから、誰かに救けられたこと。

「勝己くんが救けてくれたの?」
「何言っとンだ」

事実を確認したところ、工事現場のミスで鋼版が足場から落下し真下に居た私に直撃寸前だったこと、オールマイトが救出してくれたこと、が分かった。私がその場で気絶したものだから病院に運び込まれてしまったが、特に外傷もなく、とりあえず起きるまで寝かされていた、らしい。

「オールマイト、って……」
「覚えてねえんか」
「復活のニュースなんて見てないよ!」
「アタマでも打ったか?」

頭を打った。そうかもしれない。もしくは夢でも見ているのかもしれない。どれだけ説明してもらっても状況が掴めない。
勝己くんには病院から連絡が入ったらしい。スマホに緊急連絡先として電話番号を登録していたからだ。私の職場には彼から事の次第を伝えてくれたらしい。改めて自分からも連絡すると、今日は休みで構わないと言ってもらえた。私の代わりに誰かがまた残業を延ばすのかもしれないが、今は甘えたい。おかげで週末と合わせて三連休になった。

「送ってく」

会計やら何やらを済ませて病院の外に出ると、見たことのないSUVが病院のロータリーに停車した。運転席には、先に出ていた彼の姿。何となく居心地の悪さを感じながら助手席に乗り込む。いつクルマを買ったのか、と尋ねるのはやめた。寝惚けている、で誤魔化せなくなりそうだった。
鋼版ではなくタライが落ちてきて、都合よく記憶が消えたんだろうか。スマホでネットニュースを開くと、オールマイトの今日の活躍のひとつに私の出来事が連ねられていた。それから、勝己くんに内緒でまとめていたアルバムの『大・爆・殺・神ダイナマイト』フォルダが消えていた。寝てる間に本人に消されたんだろうか。そんなまだるっこしいことするくらいならスマホごと爆破するだろう。アルバムは初めからなかったのかもしれない。分からない。
病院で目が醒めてから、あれだけ苦しめられていた偏頭痛はすっかり消えていた。

「オールマイトにサイン貰った」

信号待ちが長い交差点で、運転席の勝己くんが自慢げにヒーローカードを掲げる。まるで子どもみたいに、無邪気に笑っている。

こんな風に、笑う人だっただろうか。

全身の血管を何かが這いまわるような感覚に襲われた。心臓の音がやけに大きく聴こえる。
私の頭がおかしくなったんだろうか。これはまだ夢か、そうに違いない。もしくは壮大なドッキリに巻き込まれているか、質の悪い敵の仕業だ。

「オイ、顔やべえぞ」

鏡を見なくても分かる。病人みたいな蒼白っぷりだろう。勝己くんは心配そうに私の頬を撫でる。気付けば、もう自宅前に着いていたらしい。クルマを降りなければならない。慌ててシートベルトを外す。

「今日は帰る……よね?」
「明日休みだろ。また来る」
「えっ、勝己くんお仕事じゃないの?」
「休みにした」
「でも」

キスで続きを塞がれる。

「俺が約束破ったことあっかよ」
「……ない、です」

唇が瞼に落とされる。優しく抱き締めてくれるその腕にぎゅっとしがみついた。こんなに近くにいるのに何故だか酷く遠くに感じた。コンソールボックスを今すぐ取っ払ってしまいたかった。

「また明日な」

名残惜しさを感じながらも体を離し、クルマを降りる。去り行く姿が見えなくなるまで見送った。

寝て起きて一晩あければおかしなことは全部夢で、まだ今日は金曜日で普通に仕事なんじゃないかと思ったのに、ワイドショーはオールマイト特集を流していた。そして今日は土曜日で仕事は休みだ。
あれから部屋中をひっくり返したりネットやテレビを見てみたけれど、彼がヒーローであるという証がどこにもない。導き出される答えは一つだった。
爆豪勝己は、ヒーローではない。
そんな馬鹿な、と否定したいのに、その術が何も見つからなかった。
ヒーローになることが夢だった勝己くん。オールマイトに憧れる勝己くん。どこまでが本当で、どこまでが私の夢だったんだろう。

翌日、彼は約束通りに部屋に来た。出来ない約束はしない男だというのに、不覚にも驚いてしまう。仕事は休みでなく「休みにした」と言っていた。そもそも、何の仕事だっけ。ヒーローにならない勝己くんは、何になるんだろう。靄がかかったように思い出せない。
勝己くんは、昨日から様子がおかしいだろう私を気遣う表情で、優しい瞳に私を映す。
普通に、二人で、のんびりと過ごす休日。今夜は泊まっていく、と言う。おまけに明日も休みだから何処か出掛けようと宣った。こんな週末は初めてかもしれない。違和感に蓋をして過ごす。

「……どうした」

ソファに座る私の隣に腰を下ろし、眉尻を下げた勝己くんが、そっと私を抱き締める。あたたかい。
もう、いいじゃないか。
卑怯な私が私に囁く。もういいじゃない。おかしな夢は忘れてしまえ。

「勝己くんが勝己くんじゃなくても、私は好きになったかな、って考えてた」
「ハァ?」
「そういう夢を見たの。ヘンだよね。勇者でも敵でもヒーローでも盗賊でも勝己くんは勝己くんなのに」

勝己くんは、優しい。私が言ったことを、どうでもいいとかくだらねえとか言いながらもいつも全部聞いてくれる。言葉や時間じゃなくモノで誤魔化そうとするきらいがあるけどプレゼントのチョイスで私の好きなものを覚えてくれているのが分かるし忙しさからの不摂生で肌荒れしようものなら怒って念入りに手入れされる。お家デートが基本だけど、私の為にゴハン作ってくれるし我侭にねだればお菓子だって焼いてくれるし、やることが結構細かい。口が悪くても態度が粗暴でも大切にされていること、ちゃんと知っている。いつも、優しく、抱き締めてくれる。
その温もりは今この瞬間も変わらない。
腕の中、顔を見上げると柔らかく笑う彼と目が合った。

「ばぁか。ヒーローなんかなったら、お前の傍にいられねえだろ」

ハンマーで頭を強く殴られたような衝撃が走る。そして、いつもの偏頭痛がじわじわと戻ってきた。おまけにジャイアントスイングでも食らった直後のように頭を揺さぶられる眩暈付きだ。

傍にいたい、傍にいてほしい、といつも願っていた。普通の恋愛がしたい、と思った。だけど。

そもそも普通って何だっけ。おはようおやすみの連絡を送りあったり、週末ごとに街デートしたり、離れてる間の怪我やまして生死の心配なんかしなくてよくて、好きって言ったら愛してるって言葉がちゃんと返ってくる。そんな普通の恋愛がしたかった。

本当に? 本当にそんな陳腐なものが欲しかったのか? 相手が誰でも?

私が好きになったのは。欲しい、と思ったのは。誰だ。

ああ、頭が割れそうに痛い。いつもどうでもいいことを考えて痛みを誤魔化していたのに、今は何も考えたくない。

「お前、昨日からマジで意味わかんねえ。やっぱアタマ打ったんじゃねーのか」
「……大丈夫」

大丈夫じゃない。だけど、どうしたら良いのか分からない。大丈夫だよ、と強がることは出来る。誤魔化して笑うのは得意だ。
だけど残念ながら彼は簡単に誤魔化されてくれない人だから、話を切り替えるために飲み物を取りに行くていで立ち上がった。瞬間、マンションがだるま落としでも食らったかのような轟音と揺れ。

「……ッオイ!」

勝己くんが声を荒げた。私の腕を引こうとしてくれた、けど、届かなくて。私は衝撃で立っていられなくて、近くの壁を伝ってその場にしゃがみ込む。
それから、立て続けに響く耳をつんざくような轟音、目を開けていられないくらいの眩しい光。それがようやく収まった頃、恐る恐る顔を上げる。衝撃が送られたバルコニーの向こう。そこに、彼がいた。心を奪われる、鮮烈な光。

「え……勝己くん?」
「他に誰に見えンだ。あァ?」
「……ヒーロー、ダイナマイト」
「そぉだよ」

取っ払われた壁のせいで、いつもより広く見える空。太陽を背負って、不敵に笑うヒーロー。生で見るのは久し振りのコスチュームスタイル。
一体、どういうことだ。分からないことが多すぎる。
まず、状況から考えて間違い無いのは先程の爆発は彼の個性で、この見る影もなくぐちゃぐちゃになった場所は確かに私の部屋だった、ということ。バルコニーに向かう窓ガラスは粉々、家具はほとんど全部ひっくり返っていた。
そして、部屋をぐるり見回しても、私と彼の二人以外には誰も居なかった。
狐につままれたような顔をしていただろう私を、勝己くんは鼻で笑った。

「受け身くらい取れや」
「か弱き一般市民に何てこと言うの……」
「誰がか弱いって?」

私でしょ、私。あまりの出来事に腰が抜けて立てないくらい、か弱い。仕方なく、とでもいうように差し伸べられた手を掴むと、およそ優しくない雑な動作で引っ張り上げて無理やり立たされた。

「ア? 意味わかんねー状態から救けてやったんだ。良かっただろーが、彼氏サマがヒーローで」

全然よくない。良いわけない。何せどういう状況なのか、さっぱり分からないのだ。この場で説明する気がないのは見てとれたので、諦めて肩を落とす。何もかも分からないが、何かに巻き込まれたらしいことは確かだった。
どうせダイナマイトに怨恨がある誰かが私に目をつけて何かしたとか、そういう類の事件だ。そもそもヒーローじゃなければそんな危険に晒されることもなかったんだろうし、日々あれやこれや不安を抱くこともないんだから。

「ほんと全ッ然意味わかんないけど、とりあえずありがとう……。で、この状況どうする気?」

冷静に部屋を見渡す。外に面する壁は全壊、家具はひっくり返り瓦礫に埋もれ、家電は火花を散らしていた。何でこれで私が怪我していないのか不思議なくらいだ。いつもとは違う種類の頭痛がしそう。バルコニーが音を立てて崩れ落ちた。どうか、下に誰も居ませんように。

その後、半壊した部屋にいられるはずもなく、諸々の処理を終えた私たちは彼の自室でお茶を啜っていた。話は後だ、で引き伸ばされて、何の説明もないまま今に至る。ようやく、ここ数日のおかしな状況の謎が解明されるというわけだ。と思ったのに。

「勝己くんを怨む敵の個性にやられて巻き込まれたか弱い一般市民・私の話じゃないの!?」
「何で俺のせいにしとんだ!」

勝己くんの話によると、私は数日前から部屋を一歩も出ておらず、なのに合鍵を使って入ってもそこには誰もいない、という状態だったらしい。ただし、耳を澄ませば部屋の中から声も物音も聴こえる。これはおかしい、と何やかんやあって準備して今日の行動に至った、とのこと。

「ごめん。さっぱり分かんない」
「俺だってそうだわ」

さらに話を聞くと、マンションのエレベーターで鉢合わせたあの日、私は勝己くんに突然喚いて会話にならないまま一方的に別れを告げて寒空の下、部屋から追い出したらしい。で、再び入ろうとしても先程の流れ。

「私、そんなこと言ってない」
「だろうな」

何それ。っていうか、それが本当なら怒ってそのまま放って帰ってもおかしくないのに。それでも救けてくれたのか。

「テメェの我侭に付き合ってられっか」
「うん、だから今その主旨で話してるんだけど。置いて帰ればよかったのに」
「そうじゃねーだろ!」

掌の汗腺から小さく爆発を起こす。もう慣れたけど、血管を浮き上がらせて怒る様はヒーローどころか敵のソレだ。恐ろしくて普通とても目を合わせられない。

「うだうだバカ考えんのヤメロっつっとんだバカ! ンなだからワケわかんねーことになるんだーが!」

そう言って、彼は勢いよく椅子から立ち上がった。私が手に持つカップをテーブルに置き直すのを待ってから、私まで立たせて。何で?と尋ねる間もなく、腕を引いて手繰り寄せられ、ソファに引き摺り込まれた。
脚を開いて座る彼に跨って膝立ちするような格好で固定される。

「……いい加減、俺を諦めるのを諦めろ」

何でバレてるんだろう。私が彼から離れようとしていたこと。いや、彼の話によれば別れる、って喚いたんだっけ。どこの私の話だソレ。何でもっと上手いことやらなかったんだ、バカ。
考えてみても、分かるはずがない。茶々を入れて誤魔化そうにも、見透かすような瞳で射抜かれて逸らすことが出来ない。

「勝己くん」
「俺は曲げる気ねえから、そっちが譲れ」

会話にならないのは彼のせいでもあるのではないだろうか。私の知らない私を知っているなら、もう少し情報をくれてもいいのに。
所在無く逃げ場を探し始めた私を見て、勝己くんは大きく溜め息を吐いた。残念ながら、腰をがっちりホールドされていて身動きは取れない。ぽすん、と肩口に顔を埋められる。

「……言いたいことあるなら、別れる以外なら聞いてやる。ちゃんと言え」

言いたいこと。そんなもの無限にある。彼だってそうだろう。朝食はパン派か米派かとか、パンケーキはふわふわスフレかもちもち喫茶店スタイルがとか、そういうことじゃなくて。新しく出来たカフェに行くのは一人でもいいけど本当は一緒に行きたいとか、クリスマスプレゼントは高価なジュエリーも嬉しいけど本当はケーキとシャンパンだけで良いとか、多分そういうこと。何か食べ物の話ばかりだな。
考え込んでいると、せっかちな彼が「オイ」と急かす。

「……お前とかテメェとか言わないでほしい。恋人に対する呼び方じゃないよ」
「……わかった」

返事はしてくれてもすぐに名前を呼んでくれるわけではない。今は許そう。

「あと溜息つくのやめてほしい。地味に傷付く」
「それはテメェが別れたいとかバカ言うからだろがッ!」
「そんなこと言ってない」
「言ったわクソが!」
「っていうか、またテメェって言った」

指摘すると彼は言葉に詰まり、ばつが悪そうに舌打ちした。本当は舌打ちもやめて、って言いたいけど今のは私に対してじゃなくて自分に対してだと思うから大目に見よう。
傲慢で粗暴で、私のこと全部知ってるくせに半分くらいしか考慮してくれない自分勝手な優しい人。言葉足らずだし大事なことほど教えてくれないし、結構酷い。私の好きな人。

好きだった人がたまたまヒーローだったんです。なんて思えるわけがない。それは、彼が彼である所以だ。ヒーローであることこそが、彼のすべてだ。
粗暴な言動に反し、誰よりも実直に前を向いている人。その傲慢なまでの自信の裏に、確かな努力がある人。
強気に勝気に全部捩じ伏せる、一番カッコいいヒーロー。
その苛烈さに、惹かれた。

眩しくて強烈で、鮮明な光。一番近くで見ていたい、とそう思った。

「病院いくぞ」
「え、何で」

頭痛が続いている、と彼の前で零してしまったのが悪かった。日常に支障をきたすほどでもなし大丈夫だと言い続ける私の訴えを他所に、先日運び込まれたのよりずっと大きい総合病院に引き摺られてきてしまった。

「保険証」

促され、持ち歩いているもののあまり出すことのないソレを財布から取り出した。個性項目の空白が悪目立ちする虚しいカードを受付に渡す。
こういう大きな病院って、救急ならともかく普通かかりつけ医から紹介だとかそれでも数か月待ちだとか色々あるだろうに、昨日の今日で緊急性も何もない私が診察を受けられるってどういう仕組みだろう。
あまり考えない方がいいことをMRI検査の機械の真ん中に寝転がりながらぼんやりと考える。レントゲンやら何やら、あちこちの部屋を回されて、ついでに意味のない個性検査まで挟まれて一日仕事だ。驚くことに、勝己くんはその一つ一つに大人しくついてきてくれている。
ようやくすべての検査が終わり、これで解放かと思いきやそれぞれの結果が出るまで待機、それから診察だからそれまで待て、という。朝イチから始まってもうさすがにそろそろ昼食をとりたい、と弱ってきたころだったからちょうどいい休憩にはなるが、まだ終わらないのか、とぐったりしてしまう。
昼食は病院内にあるカフェテリアで簡単に済ませた。普段の活動ではマスクをしているとはいえ、顔出ししていないわけではない。素顔でうろうろしていれば、病院とはいえ人に囲まれてしまうのでは?とハラハラしたがそうでもなかった。
本人いわく、オフの日には話しかけるなと公表していること、またエンデヴァー同様「話しかけづらいヒーローランキング」に名を連ねているらしい。それは果たして良いことなのか、悪いことなのか。

診察室に入ると、おじいちゃん先生が目の前のディスプレイに私の検査結果だろうアレコレを広げて何やら唸っていた。

「いるんだよねぇ、大人になってから個性制御しきれなくなる発動型タイプ。いつか周囲に大きな影響を及ぼしかねない。ちゃんと訓練し直した方がいいと思うよ」
「いや、あの……!」
「ん?」

そんなことは口にしなくても分かりきっている、ハズだ。

「……私に個性は、ありません」
「いや確実にあるよ。ほら、これ足の小指のレントゲン」
「え」

言葉を失くす私を背後に立つ勝己くんが聞こえるように鼻で笑う。硬く振り返って顔を見れば、口で言っても納得しねぇだろうが、と不敵に笑っていた。

 

 

 

起居(夏油傑)

起居【ききょ】
日常の暮らし、生活。起伏し。❘「起居を共にする」「寮に起居する」

 

 

かつては賑わいのあったらしい観光地付近での任務だった。悪さをしていたのは人でなく呪霊だったから後味の悪さは特にない。ただ、滲む汗で額に張り付いた前髪が酷く鬱陶しかった。
人里からそれほど離れたわけでもないのに鬱蒼としているのは呪霊のせいではなかったらしい。澄んだ空気には程遠い湿気が纏わりつく。羽織を剥ぎ取り腰に巻き付けた。衣替えを終えてもまだ当分は手放せないと思っていたのに、今は邪魔で仕方がない。
降りたバス停へと戻りながら携帯を開き、別行動をとっていた傑に連絡すると『こっちも片付いたよ』と事もなげに言うのだった。
歪んだ停留所標識の時刻表を確認して脱力した。とても待つ気にはなれない。

補助監督へと回収を要請すれば、すぐに合流するから動かないように、と焦った様子で頼まれてしまった。聞かん坊の子どもじゃあるまいし、と思うも彼ら大人を振り回すのが趣味のひとつらしい同級生のことを考えると怒る気にはなれなかった。一人のせいで学年まとめて補助監督ウケが悪い。
補助監督の位置からは傑の方が近いらしく、先にそっちを拾うという。迎えを待つ間、木陰には事欠かないのが救いだった。肩を回したり腕を伸ばしたり、屈伸のついでに蟻の巣穴を眺めたりして時間を潰した。

久しぶりの遠方出張で、泊まりの予定だった。怪異が起こるという場所を訪れたところで、原因がその場に留まっているとは限らないから今日は朝から情報収集、狭い町ではないから明日も使おう。その予定だった。
ところが、早々に噂の怪異とやらに出会し、祓い、冒頭に至る。
あの程度の呪霊なら放っておいても大した問題は起こらなかったんじゃないだろうか。公的機関のように事が起こらなければ動けないようでは意味がないと分かってはいても、ついそんな風に考えてしまう。
だって、泊まりの予定だった。曲がりなりにも観光地で、任務とはいえ、この温泉地に。泊まりの予定だったのに、終わってしまったからにはとんぼ帰りに違いない。
温泉旅館と露天風呂で日頃の疲れを癒す予定が音を立てて崩れていった。

 

 

すっかり身体が解れた頃にやってきた補助監督が情報の擦り合わせを終えて「宿に向かいましょう」と言った。後部から間抜け面で「え? 今、何て?」と聞き返す。先に拾われていた傑はもう知っていたらしく、黙って笑っている。どういうこと、と尋ねると補助監督は「予約した宿が勿体ないから泊まってきていいそうです」と欲しい答えそのままを返してくれた。
それはもう飛び上がって喜んだ。本当か、と三回くらい訊いたと思う。何回確認しても本当だった。

宿泊を予定していたのは寂れた観光地でも一等地にある温泉旅館だった。一介の学生には些か不相応に思えたけれど、どうせこの旅館は御三家に所縁あるとかどっちがどっちに御恩あるとかそんなところだろう。どちらでも構わなかった。私に直接関係しない。
呪いは祓った。お偉方に関係あろうとなかろうと温泉の質は変わらない。数匹の呪霊を祓って、お給料もらえて、おまけとして温泉に浸かれる。ラッキー。それだけだった。

自慢がてら硝子にメールで泊まりの報告を入れる。つい先程まで愚痴を送り続けていたのに、翻してご機嫌なテンションの私に返されたのは『よかったな』との一言だけ。拗ねるなよ。ちゃんとお土産買って帰るよ。と返信すれば『地酒よろしく』と返ってきた。オイコラ未成年。ところで向こうはまだ授業中の筈だが、やけに返信が早い。教師が泣いていなければいいけれど大丈夫だろうか。

宿に着くと、すぐに女将らしき人が出て私たちを出迎えた。長々しい口上や社交辞令は他二人に任せて、何も知らぬ子どもの顔でやふらりと席を外す。広々としたロビーには誰のものか分からない有り難そうな手形や趣味の悪い剥製が並んでいた。相当な年季が入っているのがそこかしこから読み取れる。端から端までうろついていると、やがて傑が咎めるのを諦めたような何とも言えない表情で私を呼び戻した。どうやらようやく部屋へ案内されるらしい。鼻歌とスキップを重ねたい気持ちだ。そのまま実行すると、傑は今度こそ咎める顔を向けたけれど、無視を決め込む。

「嬉しそうだね」
「そりゃそうでしょ、温泉だよ温泉! 傑は楽しみじゃないの?」
「まぁそれなりに」

嬉しいなら嬉しいなりに全身で喜びを表現してほしいところだが、傑に求めるのは無理な話だと分かっていた。

案内されたのは中庭の奥にある離れ棟だった。といっても幾つかの部屋が隣り合っている形で、そのうち二つを性別を分けて充てがわれた。つまり、こちらは一人部屋だ。
嬉々として部屋に入ろうとしたところを傑に呼び止められる。

「夕食まではまだ時間があるようだよ。どうする?」
「え、どうしよう」

部屋でゆっくりする、宿を探検する、もしくは贅沢にも明るいうちから温泉に入る。選択肢は多い。

「土産物を探すんだろう。街道を歩いてみるのは?」
「いいね。それに決まり」

温泉街に繰り出す、という傑の提案に二つ返事で乗った。仕事があると嘆く補助監督を残し、二人で出ることになった。
硝子のリクエストに応えるなら制服のままではよろしくない。せっかくだから浴衣に着替えることにした。浴衣に羽織、下駄に巾着までフルセット貸出で完璧装備。部屋を出ると、先に支度を終えていた傑が同じく浴衣姿で待ってくれていた。幸運にも合うサイズがあったようで、つんつるてんにならず済んだらしい。似合っているよとかいやそれほどでもとかお約束のやり取りをしつつ、普段着と異なる装備に浮かれながら歩き始めた。

宿を出たところで巾着に入れた携帯電話が音を鳴らした。歩きながら取り出して開く。着信は悟からだった。別任務で遠方に出かけていたはずだけれど、向こうも終わったんだろうか。通話ボタンを押せば、こちらの初手を遮って不機嫌な声が送られてきた。

『泊まりってナニ?』

何、とは何だろうか。辞書で出てくる説明を求めているわけじゃないだろうが意図が分からない。遠方の任務が珍しいわけでもない。さては、ビジホならともかく温泉旅館なんて旅行気分かと僻んでいるのだろう。

「何って、温泉宿だよ温泉宿! 羨ましい?」
『ハ? 呪いは祓ったなら帰れるだろ』
「せっかくゆっくりしなさい、って言われてるのに帰るわけないじゃん。元から泊まりの予定だったし、そのつもりで荷物持ってきてるもん」
『…………傑は』

傑は、と言われて隣を歩く当人を見上げる。私の話す言葉で電話の相手を察したのだろう。口角を上げるだけの笑顔を送られて、こちらもへらりと笑い返す。

「一緒だよ。電話代わろうか?」
『要らない』
「そぉ? ちゃんとお土産買って帰るから、いい子で待ってなさい」
『ガキ扱いすんな』

掛けてきたくせに、悟は言うだけ言って一方的に電話を切ってしまった。結局何だったのか、よく分からない。携帯を巾着に入れ直した。

「何か悟、機嫌わるくて面倒だった」
「私たちが一緒なのが気に食わないんだろう」

今回の任務、当初は悟が一人で行く予定だった。ところが別用で間に合わなくなり、急遽私と傑が代わりを務める形になった。本来なら自分が入れたはずの温泉なのだから僻むのも無理はない。仕方ないから名産のお菓子でも買って帰ってやろう。

宿の外は石畳に木造の建物が軒を連ねる通りが続く。とりあえず端から端まで歩いてみることにした。浴衣で歩く温泉街は風情が増す。尤も、ほとんどの店は閉まっていた。観光客も居ない。暗い噂が続いたせいだろう。あの呪霊は放っておいても害はなかった、と思ったことを少し反省する。祓ったからといってすぐに賑わいが戻ることはないだろう。もしかしたら、もうずっと寂れたままかもしれない。

風鈴を鳴らしていたのは、ガラス細工の土産物屋らしき古びた店だった。音に釣られて覗き入ると、カウンターの奥で老齢の女性が椅子に腰掛けて舟を漕いでいる。客の入店に気付く様子もない。所狭し並べられた細工に袖を引っ掛けないよう気を付けて奥へと進む。
動物を模った小さな置き物、細やかな柄の器、加工用に並べられたトンボ玉。壁で日焼けした手書きのポスターには手作り体験の案内があった。但し、週末限定らしく今日は行なっていないらしい。
色とりどりのガラス細工が差し込む西日を曲げている。跳ね返った光が、少し眩しかった。窓際で一際多彩な光を放つ多面体の透明な置物が目についた。気になって手に取ると、置かれていたときとはまた違う色になった。光に当てて動かせば万華鏡のように表情を変える。
虹色と言うには容易いが、透き通る海のような、薄明けの空のような、果てのない宇宙のような。
答えのない色。

「それが気になる?」

背後からの問い掛けに振り返らず呟く。

「これもガラスかな。綺麗だね」
「プリズムだろう」
「プリズム?」
「太陽の光を屈折によって分離する。空気中の水滴を通った光で虹ができるのと同じ原理だね」
「ふぅん」

習ったと思うよ。そう嗜めるみたいに言うものだから、益々苦い顔をするほかなかった。

「ガラスで出来たものもあるけど、それは天然水晶じゃないかな」

どうして見分けがつくのか、と顔を覗き込めば、その視線の先にはこの水晶の値札があった。手軽な土産物とは言えない値段から判断したらしい。目玉が飛び出るほど、というわけじゃないけど落としたら今日の働きが無に帰すことは間違いないだろう。急に慎重になって棚へと戻した。

「欲しいなら買えばいいのに」
「まさか」
「随分と後ろ髪引かれてそうだけど」
「見ていたかっただけ。でも本当に欲しくなるといけないからやめとく」

見つめていたいと思うのと、手に入れたいと思うものは別物だから。

再び街道に出て、今度こそ土産を探す。目当てのものはすぐに見つかり、地域の名産品らしいお菓子を自分土産深めて買い漁った。硝子のリクエストをクリアするのは、私一人では叶わなかったと思う。間違いなく年齢確認されてレジを通れなかったに違いない。傑にそれを告げると「老けてるってことか……」と落ち込むものだから笑った。真実だから否定しない。

目的を果たしてからも、引き返さずに端まで歩いた。同じ一本道を戻るときには、往路で気になっていた足湯に寄り道をした。あまり乗り気ではなさそうな傑が口を開くより早く、裸足になる。傑は諦めたように笑った。

「傑もおいでよ。気持ちいいよ」
「濡れた足はどうする気だい?」
「あ」
「まったく……すこし待ってて」

待つも何も、拭くものも持たずに足を浸からせたのだから動きようがない。図らずも貸切となった足湯をちゃぷちゃぷと揺らした。
やがて、傑は薄いタオルを二本携えて戻ってきた。タオルと同時に顔の前に垂らされたのは、先ほど見たよりも小さな透明の光。

「え、なに」
「私からなまえにお土産」
「一緒に来てるのに?」

驚いて顔を見上げると傑は小さく笑った。隣に座った彼から受け取るように促され、作った手の皿に落とされたサンキャッチャーのストラップ。

「呪いは防げないだろうけど」
「呪いは自分で対処するから大丈夫。……ありがとう。私、そんなに物欲しそうにしてた?」

そういうわけではない、と傑は言うけれど私のことだから隠し切れていなかったに違いない。受け取ったソレを目の前に翳してみる。海のような虹のような不思議な光。とても惹かれる。けれど眩しすぎて、ずっと見つめてはいられない宝石。
ちゃぷちゃぷと足を遊ばせながらぼんやりとしていた。

「そろそろ戻ろうか」
「……え?」

声を掛けられなければずっと目の前の光に囚われていたかもしれない。目を丸くして振り返った私を見て傑は笑った。そろそろ時間が足りなくなるよ、という。夕食の前に露天風呂に行きたいと言っていたのは私だ。この季節は夕刻になっても明るいから時間感覚が狂う。
地域の名が記された薄いタオルで濡れた足を拭いて靴を履き、立ち上がる。あっという間に落ち始めた陽の光を小さな水晶に集めながら、再び街道を歩き始めた。

 

 

 

CONTINUE(及川徹)

 

近い、って気付いたのは多分だけど俺が先だったと思う。隣に座ってたあのコがほら見てよ、ってスマホの画面を向けるから何も考えずに覗き込んだらちょっと皆には言えないけど面白い画像見せられて、油断してたから思わず噴き出しちゃってソレにつられて向こうもお腹抱えて笑い始めてさ、今思い出したら別にそこまで面白いわけじゃないんだけどそのときはツボっちゃって他にも見せてよなんて肩寄せて、そしたらいつもよりずっと顔が近くて笑ってる横顔がすごくかわいくて見てたら向こうも気付いて固まって視線が重なって何か静かになっちゃって、わかるでしょ? ちょっとイイ感じだったから……。でも起ころうとしたことにビックリしたみたいで飛び退かれちゃって、あ、やべ、と思って取り繕うとしたんだけど「用事思い出したから帰る」ってすぐ行っちゃってさ、それから何となく? 気のせいかもしれないけど? もしかしたら? 避けられてるのかな~って思ってるんだよね。

「それが俺の隣の席のヤツのことなら、まあ間違いなくここんとこお前を避けてるな」

何を隠そう、目下の俺の想い人、隣のクラスのみょうじなまえのことだ。
そう高らかに宣言すれば、とうの昔に知っていたとばかりに溜息を寄越された。岩ちゃんなんて、部室の隅でいじけていた俺を引っ張り出して、珍しくも理由を訊いてくれるものだから話したのに、今はまるで毛虫でも見るような顔を俺に向けている。ぐるり部室を見回すと、まっつんもマッキーもそう変わりはなかった。

「つまり、イケると思ったら失敗しました、ってこと?」
「サイテーだな」
「やだ及川クン、野蛮〜」

三者三様の心無い言葉は俺の頭上に重石としてのし掛かった。ずぶずぶと地中にめり込んでいく気持ち。追い討ちをかけるように岩ちゃんが「本人の了承得ずに手ェ出すとかアリエネーだろ」なんて高尚なコト宣う。

「それはそうだけど雰囲気ってものがあるじゃん? え、まさか岩ちゃん。手を繋ぐのもキスもそれ以上も毎回そのウブでクソ真面目なカンジで『……いいか?』とか聞いてるわけじゃないよね? うわ~、カノジョ大変そう……」

緊張で眉を吊り上げた顔をつくった岩ちゃんのモノマネは思いのほか上手くできて、マッキーには大ウケしたようだ。まっつんも噴き出しながら「言ってそう」と震えている。
でしょー、俺ってば観察力ある。伊達に幼馴染みやってないよね。
得意になって鼻の下をこすったところで、派手なげんこつを食らった。

 

 

牛乳パンを頬張りながら改めて朝練終わりと同じ議題に思考を巡らせる。言ってみろと言うから相談したのに、誰も彼も薄情なもんだ。とはいえ、あのコのことで部員たちに悩みとも言えない悩みを打ち明けるのは別に初めてのことじゃない。朝練から教室へ向かう道すがらが一緒だったからと一喜一憂したり、同クラ特権で岩ちゃんが貰った調理実習のマフィンを奪い取ったり、これまでそこそこ忙しなく恋の話題を提供してきた。だからこそ「またか」って態度になるんだろうけけど。
それでも今は、これまでになかったとんでもない一大事なんだよ。
チャンスだと思ってがっついたことは、認めよう。据え膳、とまではいかないけど、今がそのタイミングだって思ったんだから仕方ない。少しずつ関係性を築いてきて、正直脈ありだと思ってたからこそのチャレンジだ。まあ、時には失敗もある。視野に入れなかったわけじゃない。
だからって、ハイこれでおしまい諦めましょう、というわけにはいかない。打開策を考えて次の一手だ。
何がいけなかったんだろう。もしかしなくてもファーストキスまだとか? でも去年カレシ居たと思うんだけど。いや、でももしそうだったとしたら、俺サイテー? ファーストキスなのにあんな面白画像見てバカ笑いしてムードも何もあったもんじゃないときにキスしようとしたの? うわ、それはヒドイ。他人ごとみたいに考えてみると少し反省できた。
……嫌われたかもしれない。だったら、一時退却も作戦のひとつかだろうか。気まずいまま、何となく時間が解決するのを待って、いつかなあなあに誤魔化せる日が来るのを待つか。気持ちも伝えてないのに? それはないデショ。

目的の教室を覗くと「よぉ及川、また岩泉か?」とは廊下側に座る男子から。そうだね、いつもの俺ならそうなんだけど、今日の目的はそうじゃない。教室を見回すと、すぐに目的の人物としっかり目があった。
知ってる。俺って目立つから、違う教室に入ったら皆一度は視線をくれるんだよね。無意識だって分かってるよ。だからさ、そんなあからさまに目を逸らさなくてもよくない?
ずかずかと教室に入って行って、その机に両手を降ろした。

「話あるんだけど」

思ったよりも両手が大きな音を立てて、華奢な肩を跳ねさせてしまった。視線を送った顔はみるみる間に青褪めて、えっそんなに拒否ることある? と少し焦って岩ちゃんに助けを求めてしまう。もう一方からも同じように助けを求める視線を送られたらしい岩ちゃんは、眉間の皺を深くしてそれはそれは大きな溜息を吐いた。

「どっかヨソでやれ」

双方の首ねっこ掴んで廊下へ放り出された俺たちは座り込んで顔を見合わせる。行き交う生徒たちからまたやってる、と苦笑を送られた。

「……とりあえず、場所変えよっか」

目の前の彼女に見慣れた明るい表情はなく、眉毛は情けなく垂れ下がっている。それでも頷いてくれたことに安堵した。先に立ち上がり手を差し伸べる。素直に手を取ってくれたことに安堵した。それを離さないままに廊下を進む。

「ちょ……、及川」
「いいからこっち」

明らかな戸惑いが背後から伝わるけど、制止は聞いてやれない。冷やかすような誰かとすれ違うこともなく階段を下りて校舎を離れて、その先へ。コンパスの差のせいで後ろで時々足がもつれかけているのが分かっても、お構いなしに突き進んだ。

「ねぇ、どこ行くの」
「ここ」

指し示した先は部室棟。トーゼン向かうはバレー部の部室だ。先に彼女を招き入れてドアを閉める。特別散らかってはいないけど片付いてもいない。転がっているボールを拾い上げて適当なラックに押し込めた。彼女はきょろきょろと落ち着かない様子で部室を見回していた。中に入ってくれたはいいけどそこから動こうとはしない。
まあ、アウェイだよね。

「初めて入ったけど、ウチと全然違うね」
「運動部でも女子と男子じゃ違うだろうね。男バレはマネジもいないし」

キレイに使っている方だと思うけど、それでも女子と比べたら差は歴然だろう。その違いはどこで生まれるんだろうね。
所在なさげに突っ立って、それでも興味深そうにへこんだロッカーやまた落ちて転がったボールに視線を移していく彼女を観察した。やがて見られていることに気が付いて顔を赤くした彼女と目があって、だけどすぐに逸らされた。ここのところずっとこれだから、フツーに傷付く。
はあ、と溜息を吐き出したらビクついて、扉の外の通路を誰かが通ればまた飛び上がって、まったく見てられなかった。

「鍵持ってるの俺と岩ちゃんだけだから、鍵閉めちゃえば誰も入れないよ」

扉を背にして動こうとしない彼女越しに手を伸ばしてサムターンを回す。触れるようで触れない距離まで近づいたのは、わざとだ。すぐに離れて肩をすくめても彼女の緊張が解けることはない。
勢いでここまで連れてきたはいいけど、この先を考えていたわけじゃない。何から話そうか。あのときその唇に触れようとした理由? 初めて意識した日のこと? 会った日のこと? さすがにそれは覚えてない。一年の一学期なんて、正直認識すらしてなかった。だけど三年になってクラスが離れたことにショック受けて岩ちゃんに八つ当たりなんかして怒られて、そのくせ岩ちゃん理由に教室訪ねて話しかけたりちょっかいかけたりしちゃうんだから、俺って結構分かりやすいと思う。わかんないかな。わかってよ。わかんないなら訊いてよ。

「好きって言ったらどうする?」

ほんの出来心で勢いでそう口にした。やっぱり雰囲気もクソもなくて、しかも意地の悪い聞き方だと自分でも思う。すると彼女は、思いっきり顔を顰めて言った。

「言われないと、わかんない」

驚いて瞬きを繰り返す。それから肩の力を抜いて笑った。
そうだね。言ってないし、言われてもない。でもそんな顔してたら、言ってるようなもんだって分かってるんだろうか。どうやら嫌われてはいなかったようだ、と確信する。それから、脈ありっていうのも間違いじゃなかった。

「ねえ」
「……なに」
「好き。好きだよ」

ストレートに想いを告げればそれは想定しなかったのか、ボンッ、と音が聴こえるくらい勢いよく染め上がった。自覚はあるのか腕で顔を覆ってしまったけれど、覗く耳まで赤い。かわいい。

「ねぇ、こっち向いてよ」
「やだ」
「おねがい」
「やだってば、ばか、触んないで」
「あのさ、俺だって傷付くんだよ?」
「え、そうなの」
「俺のこと何だと思ってるの」

イケメンナルシストとかそんなところだろうなと思いつつ返事を待っていたら「考えすぎのバレー馬鹿」って返ってきた。なんだ。俺のことわかってるじゃん。

「俺をこんなにヘコませたり喜ばせたり悩ませたりするのはバレーの他に一人だけだよ」

もちろん今言った「バレー」の中には岩ちゃんを筆頭にバレー部の面々が連なってるんだけど、それは今わざわざ口にすることじゃないよね?
顔を覗き込まれないようにか、遂にはその場に座り込んでしまった彼女の前に腰を落とす。

「ちょ……顔ちかい」
「知ってる。でももっと近付きたい」
「なッ」
「うん」
「何も言ってない!」
「でも、ダメって言わないでしょ?」

こんなの全然スマートじゃないし、無理強いしたいわけじゃないんだけど、仕方ないよね。だって、みょうじがかわいいから悪い。
イヤなことはイヤだと言えないコじゃないって知ってる。気持ちを自覚した日のことも、あの日のことも、今触れたい理由も、みょうじが知りたいことは言葉にして伝えるよ。要らないって言われても言っちゃうけど。全部、好きだからだ。
だからお願い、嫌いじゃないなら触れさせて。

 

 

 

揺蕩う海月(サンジ)

 

 

 

島に辿り着いたのは、陽が落ちる頃だった。
そこはかつて海賊旗に守られた島。活気ある街で人々が平和に暮らしていた。けれど、その海賊旗は二年前に意味を成さなくなった。後ろ盾を失った島では別の海賊により幾度かの略奪が繰り返され、侵略に怯える日々が続いた。海賊全てが悪でないことを皆忘れたわけではなくても、今は受け入れることはできないのだ、と灯台守は語った。
悪いが出て行ってくれないか、と絞り出された懇願を受け入れ、私たちは上陸を諦めた。幸いにも本島から少し離れたところに船が隠れる程度の小島があり、記録はそこで貯めることが出来るらしい。岸壁に寄せて錨を降ろした。ここなら夜明けと共に海賊が来たと騒がれることはないだろう。
夜は深く、もうすぐ今日が終わる。部屋を抜け出るときに起こしてしまっていなければ同室の彼女たちは夢の中だろう。他はまだ何人か起きているかもしれない。男部屋は静かなものだが地下や展望室からは人の気配がする。けれど誰も甲板に出てくる様子はない。
何をするでもなく甲板の芝生に転がった。潮風にさらされて髪がべたべたする。それに少し肌寒い。けれど、いつまで経っても眠気は襲ってくれそうになかった。

今夜は星が見えない。空と海の境界は曖昧だ。すべてが、真っ暗だった。愛しきも憎しみもその全てがこの偉大なる海に眠っている。だから海はこわい、なんて口にしたら海賊のくせに何を言うと笑われるだろうか。だけどこわいものはこわいのだからどうしようもない。別に泳げないから言うわけじゃない、見ているだけで身が竦むのでもない。それでも、目の前にするととても哀しい気持ちになるのは確かだった。だけど、陸に上がると寂しくて恋しくなる。それが私にとっての海だった。それが何故なのか、うまく言葉にできそうもない。わからない。忘れてしまったのかもしれない。忘れた。きっと、そうなんだろう。あの船を降りて、たくさんの冒険をわたしは失くしてしまった。
同じ航路は二度と辿れない。不可能ではないけれど、大体にして偉大なる航路はそういう場所だった。もとより同じ島々を旅したとして、船が異なり船員も変われば違うと感じるのは誰より自分自身だろう。

だったらおれたちと新しい冒険をしよう。そうして半分無理やりにも思える形で乗せられたのがこの船だった。誘いに確かな返事を返せないまま、ひとつふたつと海を越えた。気の良い船長と船員たちのおかげで一人のときよりずっと楽しい旅路を過ごすことができている。サニー号はとても海賊船とは思えぬ遊び心溢れる船だった。芝生にブランコ、生簀を兼ねたアクアリウム。各所の動力がコーラとは何の冗談かと驚いた。それから、お風呂の広さは素晴らしいと言わざるを得ない。ゆったりと湯舟に浸かると、難しいことは全部どうでもいいように思えた。そうして、心の空虚を見逃したまま揺蕩うように海を進んでいる。新しい冒険とやらを始められないまま。
星を掴もうと空に手を伸ばした。届くはずもない。降ろした腕で視界を覆う。

「手伝おうか」

声が聞こえて瞼を起こすと、頭上にくゆる煙草が声の主を確かなものとした。その気配を感じた時点で深夜の芝生に転がる女を無視してくれないことは予想ができていた。
食料庫から出てきたらしいコックは小脇に箱を抱えている。食材をダイニングに移すところだろう。まだ他にあるなら手伝おうか。そんなことを考えて口を開きかけたのに、言葉を送られたのはこちらの方だった。

「探しものかい?」

何の話か、と聞き返そうとして、先ほどまで空虚に手を伸ばしていた自分の奇行に思い当たる。上半身を起こし、芝生に座り直した。

「……何を探してるのか、自分でもよくわからないの」
「なら一緒に考えるよ」

空に何を落としたわけでもないことは互いに知っている。戯れのような意味のない会話。彼も承知の上だろうと思っても、ロマンチストなこの男のことだ、もしかすると本気かもしれない。その微笑みの向こう、消えていく煙を見つめる。消えた煙はどこへ行くのだろうか。考えてみても答えは得られないと決めつけた。諦めて彼へ視線を戻せば、穏やかな笑みはやがて戸惑いに変わった。「あー……どうかした? おれの顔に何か付いてる?」と頬をかく。「何も」と返せば彼は困ったように笑った。

「まだ眠らないなら、ホットミルクでもいかがですか」

彼にかかればどんな女も等しく淑女となるらしい。恭しく頭を下げる彼に感心半分、呆れ半分で言葉を返す。

「ありがとう。だけどあなたはもうベッドに入る時間でしょう?」

なんで知ってるの、とでも言うように目を丸める。「仕込みのために朝早いのも知ってる。いつもありがとう」と伝えれば「やりたくてやってることだ。この船のコックだからさ」と少し照れたように、だけど誇らしげに応えた。誘いは遠慮します、の意を伝えたつもりだったのに、そんな理由で引き下がってはくれない。

「おれがもう寝るって言ったら君もそうしてくれる?」
「もう少しだけここにいるつもり」
「ならこちらへどうぞ。おもてなしするよ」

折れてくれる気はないらしく苦笑する。触れない手に導かれてダイニングへと続いた。促されるままテーブルへ着くと、数分もしないうちにふわり甘い匂いが鼻腔をくすぐった。

「眠れないんだろ? 別に詳しく聞かせてくれってわけじゃない。そんな夜に君を独りにしたくねェだけさ」

目の前にそっと置かれたマグカップを口へ運べば、温かなミルクが身体を通っていく。濁り固まった全身をゆっくりと解して、溶かしていく。

「……この船の人はみんな優しいね」
「そりゃ下心があるから」

少なくともおれはね、と戯ける。まぁルフィの奴は下心っつーか欲望全部そのまま表に出ちまってるし他も裏表分かりやすい奴ばっかで笑っちまうけど。彼はそうして誤魔化しながら再びカウンターの向こうに戻り、調理台に野菜を転がし始めた。袖を捲り上げて蛇口を捻る。その手に握られた包丁が手際よく芋の皮を剥いていく。
本来予定していた仕込みはもう終わっていただろうに。誘われたのはこちらとはいえ、夜更かしに付き合わせて申し訳なく思う。
いつだったか、この船に乗ったばかりの頃、少ない乗員とはいえコックの仕事をほとんど彼一人でこなしていることに驚いたものだ。代わりに掃除洗濯その他の雑務、夜間航行時の見張りなんかを基本的には外されているのだとは、すぐに分かることだったけれど。それでも、誰よりも朝早くに起床して三食はもちろんオヤツも欠かさず、時には見張り番への夜食も用意するのは並大抵の苦労ではあるまい。けれど、好きでやってることだから苦労にはならない、と彼は言う。彼の料理は美味しい。腕利きのコックを何人も乗せた船に乗っていたから舌は肥えていると思い込んでいたのに、ここでは毎日呻らされるのだから相当だ。深夜に提供されたホットミルクひとつ、自分で用意するのとは全然ちがう。あたたかい。
下心だ、と彼はそう言うけれど、優しさを覆い隠すには些か下手すぎる嘘だった。鼻唄でも歌いそうな表情で食材を見つめる彼をぼんやりと眺めていた。

「静かな方がいいかと思ったけど、退屈?」

慌てて視線を外したけれど、彼は顔を上げるでもなく手元を動かしていた。そういえば、見聞色が得意だと聞いた気がする。視線のやり場を失って、両手で包んだマグカップを見つめる。

「この船に乗ってから退屈だった日なんて思い出せない」
「それはイイコト? ワルイコト?」
「……あなたたちには感謝してる」

あれから、海を離れようと何度思ったことだろう。その度に潮騒の響きが身体にこだまして何ひとつ捨てさせてはくれなかった。陸はこわい。海もこわい。ひとりでいると震えが止まらないのに、誰かといても不安が消えることはなかった。失くしたことを忘れて、新しい冒険を初めて、また失ってしまったら? そんな漠然とした恐怖がいつもいつでも付き纏っていた。夢の中で誰かの声が消えていく。眠る度に魘された。起きていても思い出す。次第にどちらが夢でどちらが現実か分からなくなる。もしかしたら、あの日の悪夢も、すべて夢だったかもしれない。そう一縷の望みをかけて目を醒ますのに、そこにかつての仲間たちは誰もいない。このどうしようもなく広大な海に独り放り出されて、どこへ向かえばいいのかわからない。わからないまま、勝手に進む船に揺られるのは容易で、だけどどこかずっと居心地が悪くて。こんな状態でどこまで行くつもりだろう。どこへ向かうつもりだろう。

「……そっちへ行っても?」

ふいに蛇口が閉まり水音が止む。顔を上げると、半分も焼けていない煙草が灰皿に押し潰されるところだった。作業を終えたらしい彼が捲り上げていた袖を直す。わたしが返事をする前に動いた彼が隣の椅子を軋ませた。
パーソナルスペースは狭い方ではない自覚がある。フリータイムは基本的にひとりで過ごしているし、上陸時には買い出しや偵察の役割がなければこれもひとりふらふらと出掛けている。船員が一堂に会するような食事時に逸脱するようなことはなくても、それ以外でわざわざ誰かの傍に居るようなことはなかった。拒絶したいわけじゃない。これ以上に彼らを知ることがこわかった。
仲間か敵か、既知か他人か。簡単なはずの境界線なのに、この海でそれは酷く曖昧だった。それでも、船の上だけは違うと疑わなかった。そういう居場所はきっと一生にひとつ出会えるかどうかで、一度失ってしまったあとにもう一度信じるのはとても困難だ。

「いつ船を降りようか、って顔だ」
「……船長の許可がないと出来ない、でしょう? もう何度も聞いた」

はぐらかすように肩をすくめた。透き通った紺碧の瞳が見透かすようにこちらを覗き込む。誤魔化されてはくれないらしい。
この船は前に進んでいる。立ち止まった人間がいつまでもいては足手纏いになるだろう。別に、黙って消えるような恩知らずをするつもりはない。だというのに、ひとりで夜を過ごすことすら許してくれない紳士は悩む気配すら見逃してくれない。

「ルフィは君を手放す気はねェよ。もう仲間だと決めちまってる。もちろん、おれたち皆同じ気持ちさ。……おれは、下心もあるけど」

さきほどと同じ言葉をもう一度繰り返してみせた。歯を見せて戯ける様子に、和ませようとする優しさを受け取って肩の力が抜ける。

「最後のは余計でしょ」
「信じてくれねェの?」
「下心を信じてほしいなんて変なこと言う」
「おれのこと、もっと知ってほしいから」

彼は角砂糖を落とすように甘く囁いてみせた。ぬるくなったホットミルクでは溶かしきれないような大きな塊だ。

「知ってる、博愛主義のコックさんでしょ。平等に注がれる愛ほど本当から遠いものはないよ」
「みんなと同じはイヤ? おれの特別を欲しがってくれるの?」

決して、そんな意味で言ったのではなかった。第一誰かの特別なんて、そんなものこわくてとても欲しがれない。臆病な海賊だ。欲しがることが、こわいだなんて。
俯くと、耳にかけていた横髪がはらりとすべり落ちた。ふいに、まだ嗅ぎ慣れない煙草のにおいが鼻に届く。伸ばされた指先が顔にかかったその一房を拾った。指の背が僅かに頬をくすぐる。不意打ちの接触に肩を跳ねさせれば彼は小さく笑った。私の耳に髪をかけ直すと、それ以上は触れることなく立ち上がり、一歩二歩と退がると再び煙草に火を点けた。深く吸い込まれた煙がまた流れていく。

「イヤがってくれねェと期待しちまう」
「欲しがってほしいの? 嫌がってほしいの?」
「どっちもさ。恋心は複雑なんだ」

そんな冗談ばかりを口にした。このテのことに関してはああ言えばこう言うのが彼の常なので言い負かすのは諦めている。こちらの呆れを読んでなおスタイルを変えるつもりのない彼は緩やかに笑った。

「ここは海の上で、次の島はまだ遠い。今晩だけだと焦る必要はねェだろうから時間をかけてゆっくり口説くことにするよ」
「またそんなこと言って……」
「今日はもう眠ろう。眠れなくてもベッドに入って休んで。朝食は好きなものを作るよ。何が食べたい?」

それはとびっきり大きな甘言だった。この船に乗って以来、すこし甘やかされ過ぎている気がする。

「……何でも美味しいよ。みんなと同じものにして」
「そっか」

美味しい、と言ったことに対してだろう、彼は嬉しそうに笑った。働き者のコックさんをいつまでも夜更かしさせるのは忍びなく、そろそろ大人しくベッドへ戻ることを決めた。ぬるくなったホットミルクの最後を口に含む。角砂糖ふたつ分は、甘すぎる気がした。