起居(夏油傑)

起居【ききょ】
日常の暮らし、生活。起伏し。❘「起居を共にする」「寮に起居する」

 

 

かつては賑わいのあったらしい観光地付近での任務だった。悪さをしていたのは人でなく呪霊だったから後味の悪さは特にない。ただ、滲む汗で額に張り付いた前髪が酷く鬱陶しかった。
人里からそれほど離れたわけでもないのに鬱蒼としているのは呪霊のせいではなかったらしい。澄んだ空気には程遠い湿気が纏わりつく。羽織を剥ぎ取り腰に巻き付けた。衣替えを終えてもまだ当分は手放せないと思っていたのに、今は邪魔で仕方がない。
降りたバス停へと戻りながら携帯を開き、別行動をとっていた傑に連絡すると『こっちも片付いたよ』と事もなげに言うのだった。
歪んだ停留所標識の時刻表を確認して脱力した。とても待つ気にはなれない。

補助監督へと回収を要請すれば、すぐに合流するから動かないように、と焦った様子で頼まれてしまった。聞かん坊の子どもじゃあるまいし、と思うも彼ら大人を振り回すのが趣味のひとつらしい同級生のことを考えると怒る気にはなれなかった。一人のせいで学年まとめて補助監督ウケが悪い。
補助監督の位置からは傑の方が近いらしく、先にそっちを拾うという。迎えを待つ間、木陰には事欠かないのが救いだった。肩を回したり腕を伸ばしたり、屈伸のついでに蟻の巣穴を眺めたりして時間を潰した。

久しぶりの遠方出張で、泊まりの予定だった。怪異が起こるという場所を訪れたところで、原因がその場に留まっているとは限らないから今日は朝から情報収集、狭い町ではないから明日も使おう。その予定だった。
ところが、早々に噂の怪異とやらに出会し、祓い、冒頭に至る。
あの程度の呪霊なら放っておいても大した問題は起こらなかったんじゃないだろうか。公的機関のように事が起こらなければ動けないようでは意味がないと分かってはいても、ついそんな風に考えてしまう。
だって、泊まりの予定だった。曲がりなりにも観光地で、任務とはいえ、この温泉地に。泊まりの予定だったのに、終わってしまったからにはとんぼ帰りに違いない。
温泉旅館と露天風呂で日頃の疲れを癒す予定が音を立てて崩れていった。

 

 

すっかり身体が解れた頃にやってきた補助監督が情報の擦り合わせを終えて「宿に向かいましょう」と言った。後部から間抜け面で「え? 今、何て?」と聞き返す。先に拾われていた傑はもう知っていたらしく、黙って笑っている。どういうこと、と尋ねると補助監督は「予約した宿が勿体ないから泊まってきていいそうです」と欲しい答えそのままを返してくれた。
それはもう飛び上がって喜んだ。本当か、と三回くらい訊いたと思う。何回確認しても本当だった。

宿泊を予定していたのは寂れた観光地でも一等地にある温泉旅館だった。一介の学生には些か不相応に思えたけれど、どうせこの旅館は御三家に所縁あるとかどっちがどっちに御恩あるとかそんなところだろう。どちらでも構わなかった。私に直接関係しない。
呪いは祓った。お偉方に関係あろうとなかろうと温泉の質は変わらない。数匹の呪霊を祓って、お給料もらえて、おまけとして温泉に浸かれる。ラッキー。それだけだった。

自慢がてら硝子にメールで泊まりの報告を入れる。つい先程まで愚痴を送り続けていたのに、翻してご機嫌なテンションの私に返されたのは『よかったな』との一言だけ。拗ねるなよ。ちゃんとお土産買って帰るよ。と返信すれば『地酒よろしく』と返ってきた。オイコラ未成年。ところで向こうはまだ授業中の筈だが、やけに返信が早い。教師が泣いていなければいいけれど大丈夫だろうか。

宿に着くと、すぐに女将らしき人が出て私たちを出迎えた。長々しい口上や社交辞令は他二人に任せて、何も知らぬ子どもの顔でやふらりと席を外す。広々としたロビーには誰のものか分からない有り難そうな手形や趣味の悪い剥製が並んでいた。相当な年季が入っているのがそこかしこから読み取れる。端から端までうろついていると、やがて傑が咎めるのを諦めたような何とも言えない表情で私を呼び戻した。どうやらようやく部屋へ案内されるらしい。鼻歌とスキップを重ねたい気持ちだ。そのまま実行すると、傑は今度こそ咎める顔を向けたけれど、無視を決め込む。

「嬉しそうだね」
「そりゃそうでしょ、温泉だよ温泉! 傑は楽しみじゃないの?」
「まぁそれなりに」

嬉しいなら嬉しいなりに全身で喜びを表現してほしいところだが、傑に求めるのは無理な話だと分かっていた。

案内されたのは中庭の奥にある離れ棟だった。といっても幾つかの部屋が隣り合っている形で、そのうち二つを性別を分けて充てがわれた。つまり、こちらは一人部屋だ。
嬉々として部屋に入ろうとしたところを傑に呼び止められる。

「夕食まではまだ時間があるようだよ。どうする?」
「え、どうしよう」

部屋でゆっくりする、宿を探検する、もしくは贅沢にも明るいうちから温泉に入る。選択肢は多い。

「土産物を探すんだろう。街道を歩いてみるのは?」
「いいね。それに決まり」

温泉街に繰り出す、という傑の提案に二つ返事で乗った。仕事があると嘆く補助監督を残し、二人で出ることになった。
硝子のリクエストに応えるなら制服のままではよろしくない。せっかくだから浴衣に着替えることにした。浴衣に羽織、下駄に巾着までフルセット貸出で完璧装備。部屋を出ると、先に支度を終えていた傑が同じく浴衣姿で待ってくれていた。幸運にも合うサイズがあったようで、つんつるてんにならず済んだらしい。似合っているよとかいやそれほどでもとかお約束のやり取りをしつつ、普段着と異なる装備に浮かれながら歩き始めた。

宿を出たところで巾着に入れた携帯電話が音を鳴らした。歩きながら取り出して開く。着信は悟からだった。別任務で遠方に出かけていたはずだけれど、向こうも終わったんだろうか。通話ボタンを押せば、こちらの初手を遮って不機嫌な声が送られてきた。

『泊まりってナニ?』

何、とは何だろうか。辞書で出てくる説明を求めているわけじゃないだろうが意図が分からない。遠方の任務が珍しいわけでもない。さては、ビジホならともかく温泉旅館なんて旅行気分かと僻んでいるのだろう。

「何って、温泉宿だよ温泉宿! 羨ましい?」
『ハ? 呪いは祓ったなら帰れるだろ』
「せっかくゆっくりしなさい、って言われてるのに帰るわけないじゃん。元から泊まりの予定だったし、そのつもりで荷物持ってきてるもん」
『…………傑は』

傑は、と言われて隣を歩く当人を見上げる。私の話す言葉で電話の相手を察したのだろう。口角を上げるだけの笑顔を送られて、こちらもへらりと笑い返す。

「一緒だよ。電話代わろうか?」
『要らない』
「そぉ? ちゃんとお土産買って帰るから、いい子で待ってなさい」
『ガキ扱いすんな』

掛けてきたくせに、悟は言うだけ言って一方的に電話を切ってしまった。結局何だったのか、よく分からない。携帯を巾着に入れ直した。

「何か悟、機嫌わるくて面倒だった」
「私たちが一緒なのが気に食わないんだろう」

今回の任務、当初は悟が一人で行く予定だった。ところが別用で間に合わなくなり、急遽私と傑が代わりを務める形になった。本来なら自分が入れたはずの温泉なのだから僻むのも無理はない。仕方ないから名産のお菓子でも買って帰ってやろう。

宿の外は石畳に木造の建物が軒を連ねる通りが続く。とりあえず端から端まで歩いてみることにした。浴衣で歩く温泉街は風情が増す。尤も、ほとんどの店は閉まっていた。観光客も居ない。暗い噂が続いたせいだろう。あの呪霊は放っておいても害はなかった、と思ったことを少し反省する。祓ったからといってすぐに賑わいが戻ることはないだろう。もしかしたら、もうずっと寂れたままかもしれない。

風鈴を鳴らしていたのは、ガラス細工の土産物屋らしき古びた店だった。音に釣られて覗き入ると、カウンターの奥で老齢の女性が椅子に腰掛けて舟を漕いでいる。客の入店に気付く様子もない。所狭し並べられた細工に袖を引っ掛けないよう気を付けて奥へと進む。
動物を模った小さな置き物、細やかな柄の器、加工用に並べられたトンボ玉。壁で日焼けした手書きのポスターには手作り体験の案内があった。但し、週末限定らしく今日は行なっていないらしい。
色とりどりのガラス細工が差し込む西日を曲げている。跳ね返った光が、少し眩しかった。窓際で一際多彩な光を放つ多面体の透明な置物が目についた。気になって手に取ると、置かれていたときとはまた違う色になった。光に当てて動かせば万華鏡のように表情を変える。
虹色と言うには容易いが、透き通る海のような、薄明けの空のような、果てのない宇宙のような。
答えのない色。

「それが気になる?」

背後からの問い掛けに振り返らず呟く。

「これもガラスかな。綺麗だね」
「プリズムだろう」
「プリズム?」
「太陽の光を屈折によって分離する。空気中の水滴を通った光で虹ができるのと同じ原理だね」
「ふぅん」

習ったと思うよ。そう嗜めるみたいに言うものだから、益々苦い顔をするほかなかった。

「ガラスで出来たものもあるけど、それは天然水晶じゃないかな」

どうして見分けがつくのか、と顔を覗き込めば、その視線の先にはこの水晶の値札があった。手軽な土産物とは言えない値段から判断したらしい。目玉が飛び出るほど、というわけじゃないけど落としたら今日の働きが無に帰すことは間違いないだろう。急に慎重になって棚へと戻した。

「欲しいなら買えばいいのに」
「まさか」
「随分と後ろ髪引かれてそうだけど」
「見ていたかっただけ。でも本当に欲しくなるといけないからやめとく」

見つめていたいと思うのと、手に入れたいと思うものは別物だから。

再び街道に出て、今度こそ土産を探す。目当てのものはすぐに見つかり、地域の名産品らしいお菓子を自分土産深めて買い漁った。硝子のリクエストをクリアするのは、私一人では叶わなかったと思う。間違いなく年齢確認されてレジを通れなかったに違いない。傑にそれを告げると「老けてるってことか……」と落ち込むものだから笑った。真実だから否定しない。

目的を果たしてからも、引き返さずに端まで歩いた。同じ一本道を戻るときには、往路で気になっていた足湯に寄り道をした。あまり乗り気ではなさそうな傑が口を開くより早く、裸足になる。傑は諦めたように笑った。

「傑もおいでよ。気持ちいいよ」
「濡れた足はどうする気だい?」
「あ」
「まったく……すこし待ってて」

待つも何も、拭くものも持たずに足を浸からせたのだから動きようがない。図らずも貸切となった足湯をちゃぷちゃぷと揺らした。
やがて、傑は薄いタオルを二本携えて戻ってきた。タオルと同時に顔の前に垂らされたのは、先ほど見たよりも小さな透明の光。

「え、なに」
「私からなまえにお土産」
「一緒に来てるのに?」

驚いて顔を見上げると傑は小さく笑った。隣に座った彼から受け取るように促され、作った手の皿に落とされたサンキャッチャーのストラップ。

「呪いは防げないだろうけど」
「呪いは自分で対処するから大丈夫。……ありがとう。私、そんなに物欲しそうにしてた?」

そういうわけではない、と傑は言うけれど私のことだから隠し切れていなかったに違いない。受け取ったソレを目の前に翳してみる。海のような虹のような不思議な光。とても惹かれる。けれど眩しすぎて、ずっと見つめてはいられない宝石。
ちゃぷちゃぷと足を遊ばせながらぼんやりとしていた。

「そろそろ戻ろうか」
「……え?」

声を掛けられなければずっと目の前の光に囚われていたかもしれない。目を丸くして振り返った私を見て傑は笑った。そろそろ時間が足りなくなるよ、という。夕食の前に露天風呂に行きたいと言っていたのは私だ。この季節は夕刻になっても明るいから時間感覚が狂う。
地域の名が記された薄いタオルで濡れた足を拭いて靴を履き、立ち上がる。あっという間に落ち始めた陽の光を小さな水晶に集めながら、再び街道を歩き始めた。

 

 

 

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