起居(夏油傑)

起居【ききょ】
日常の暮らし、生活。起伏し。❘「起居を共にする」「寮に起居する」

 

 

かつては賑わいのあったらしい観光地付近での任務だった。悪さをしていたのは人でなく呪霊だったから後味の悪さは特にない。ただ、滲む汗で額に張り付いた前髪が酷く鬱陶しかった。
人里からそれほど離れたわけでもないのに鬱蒼としているのは呪霊のせいではなかったらしい。澄んだ空気には程遠い湿気が纏わりつく。羽織を剥ぎ取り腰に巻き付けた。衣替えを終えてもまだ当分は手放せないと思っていたのに、今は邪魔で仕方がない。
降りたバス停へと戻りながら携帯を開き、別行動をとっていた傑に連絡すると『こっちも片付いたよ』と事もなげに言うのだった。
歪んだ停留所標識の時刻表を確認して脱力した。とても待つ気にはなれない。

補助監督へと回収を要請すれば、すぐに合流するから動かないように、と焦った様子で頼まれてしまった。聞かん坊の子どもじゃあるまいし、と思うも彼ら大人を振り回すのが趣味のひとつらしい同級生のことを考えると怒る気にはなれなかった。一人のせいで学年まとめて補助監督ウケが悪い。
補助監督の位置からは傑の方が近いらしく、先にそっちを拾うという。迎えを待つ間、木陰には事欠かないのが救いだった。肩を回したり腕を伸ばしたり、屈伸のついでに蟻の巣穴を眺めたりして時間を潰した。

久しぶりの遠方出張で、泊まりの予定だった。怪異が起こるという場所を訪れたところで、原因がその場に留まっているとは限らないから今日は朝から情報収集、狭い町ではないから明日も使おう。その予定だった。
ところが、早々に噂の怪異とやらに出会し、祓い、冒頭に至る。
あの程度の呪霊なら放っておいても大した問題は起こらなかったんじゃないだろうか。公的機関のように事が起こらなければ動けないようでは意味がないと分かってはいても、ついそんな風に考えてしまう。
だって、泊まりの予定だった。曲がりなりにも観光地で、任務とはいえ、この温泉地に。泊まりの予定だったのに、終わってしまったからにはとんぼ帰りに違いない。
温泉旅館と露天風呂で日頃の疲れを癒す予定が音を立てて崩れていった。

 

 

すっかり身体が解れた頃にやってきた補助監督が情報の擦り合わせを終えて「宿に向かいましょう」と言った。後部から間抜け面で「え? 今、何て?」と聞き返す。先に拾われていた傑はもう知っていたらしく、黙って笑っている。どういうこと、と尋ねると補助監督は「予約した宿が勿体ないから泊まってきていいそうです」と欲しい答えそのままを返してくれた。
それはもう飛び上がって喜んだ。本当か、と三回くらい訊いたと思う。何回確認しても本当だった。

宿泊を予定していたのは寂れた観光地でも一等地にある温泉旅館だった。一介の学生には些か不相応に思えたけれど、どうせこの旅館は御三家に所縁あるとかどっちがどっちに御恩あるとかそんなところだろう。どちらでも構わなかった。私に直接関係しない。
呪いは祓った。お偉方に関係あろうとなかろうと温泉の質は変わらない。数匹の呪霊を祓って、お給料もらえて、おまけとして温泉に浸かれる。ラッキー。それだけだった。

自慢がてら硝子にメールで泊まりの報告を入れる。つい先程まで愚痴を送り続けていたのに、翻してご機嫌なテンションの私に返されたのは『よかったな』との一言だけ。拗ねるなよ。ちゃんとお土産買って帰るよ。と返信すれば『地酒よろしく』と返ってきた。オイコラ未成年。ところで向こうはまだ授業中の筈だが、やけに返信が早い。教師が泣いていなければいいけれど大丈夫だろうか。

宿に着くと、すぐに女将らしき人が出て私たちを出迎えた。長々しい口上や社交辞令は他二人に任せて、何も知らぬ子どもの顔でやふらりと席を外す。広々としたロビーには誰のものか分からない有り難そうな手形や趣味の悪い剥製が並んでいた。相当な年季が入っているのがそこかしこから読み取れる。端から端までうろついていると、やがて傑が咎めるのを諦めたような何とも言えない表情で私を呼び戻した。どうやらようやく部屋へ案内されるらしい。鼻歌とスキップを重ねたい気持ちだ。そのまま実行すると、傑は今度こそ咎める顔を向けたけれど、無視を決め込む。

「嬉しそうだね」
「そりゃそうでしょ、温泉だよ温泉! 傑は楽しみじゃないの?」
「まぁそれなりに」

嬉しいなら嬉しいなりに全身で喜びを表現してほしいところだが、傑に求めるのは無理な話だと分かっていた。

案内されたのは中庭の奥にある離れ棟だった。といっても幾つかの部屋が隣り合っている形で、そのうち二つを性別を分けて充てがわれた。つまり、こちらは一人部屋だ。
嬉々として部屋に入ろうとしたところを傑に呼び止められる。

「夕食まではまだ時間があるようだよ。どうする?」
「え、どうしよう」

部屋でゆっくりする、宿を探検する、もしくは贅沢にも明るいうちから温泉に入る。選択肢は多い。

「土産物を探すんだろう。街道を歩いてみるのは?」
「いいね。それに決まり」

温泉街に繰り出す、という傑の提案に二つ返事で乗った。仕事があると嘆く補助監督を残し、二人で出ることになった。
硝子のリクエストに応えるなら制服のままではよろしくない。せっかくだから浴衣に着替えることにした。浴衣に羽織、下駄に巾着までフルセット貸出で完璧装備。部屋を出ると、先に支度を終えていた傑が同じく浴衣姿で待ってくれていた。幸運にも合うサイズがあったようで、つんつるてんにならず済んだらしい。似合っているよとかいやそれほどでもとかお約束のやり取りをしつつ、普段着と異なる装備に浮かれながら歩き始めた。

宿を出たところで巾着に入れた携帯電話が音を鳴らした。歩きながら取り出して開く。着信は悟からだった。別任務で遠方に出かけていたはずだけれど、向こうも終わったんだろうか。通話ボタンを押せば、こちらの初手を遮って不機嫌な声が送られてきた。

『泊まりってナニ?』

何、とは何だろうか。辞書で出てくる説明を求めているわけじゃないだろうが意図が分からない。遠方の任務が珍しいわけでもない。さては、ビジホならともかく温泉旅館なんて旅行気分かと僻んでいるのだろう。

「何って、温泉宿だよ温泉宿! 羨ましい?」
『ハ? 呪いは祓ったなら帰れるだろ』
「せっかくゆっくりしなさい、って言われてるのに帰るわけないじゃん。元から泊まりの予定だったし、そのつもりで荷物持ってきてるもん」
『…………傑は』

傑は、と言われて隣を歩く当人を見上げる。私の話す言葉で電話の相手を察したのだろう。口角を上げるだけの笑顔を送られて、こちらもへらりと笑い返す。

「一緒だよ。電話代わろうか?」
『要らない』
「そぉ? ちゃんとお土産買って帰るから、いい子で待ってなさい」
『ガキ扱いすんな』

掛けてきたくせに、悟は言うだけ言って一方的に電話を切ってしまった。結局何だったのか、よく分からない。携帯を巾着に入れ直した。

「何か悟、機嫌わるくて面倒だった」
「私たちが一緒なのが気に食わないんだろう」

今回の任務、当初は悟が一人で行く予定だった。ところが別用で間に合わなくなり、急遽私と傑が代わりを務める形になった。本来なら自分が入れたはずの温泉なのだから僻むのも無理はない。仕方ないから名産のお菓子でも買って帰ってやろう。

宿の外は石畳に木造の建物が軒を連ねる通りが続く。とりあえず端から端まで歩いてみることにした。浴衣で歩く温泉街は風情が増す。尤も、ほとんどの店は閉まっていた。観光客も居ない。暗い噂が続いたせいだろう。あの呪霊は放っておいても害はなかった、と思ったことを少し反省する。祓ったからといってすぐに賑わいが戻ることはないだろう。もしかしたら、もうずっと寂れたままかもしれない。

風鈴を鳴らしていたのは、ガラス細工の土産物屋らしき古びた店だった。音に釣られて覗き入ると、カウンターの奥で老齢の女性が椅子に腰掛けて舟を漕いでいる。客の入店に気付く様子もない。所狭し並べられた細工に袖を引っ掛けないよう気を付けて奥へと進む。
動物を模った小さな置き物、細やかな柄の器、加工用に並べられたトンボ玉。壁で日焼けした手書きのポスターには手作り体験の案内があった。但し、週末限定らしく今日は行なっていないらしい。
色とりどりのガラス細工が差し込む西日を曲げている。跳ね返った光が、少し眩しかった。窓際で一際多彩な光を放つ多面体の透明な置物が目についた。気になって手に取ると、置かれていたときとはまた違う色になった。光に当てて動かせば万華鏡のように表情を変える。
虹色と言うには容易いが、透き通る海のような、薄明けの空のような、果てのない宇宙のような。
答えのない色。

「それが気になる?」

背後からの問い掛けに振り返らず呟く。

「これもガラスかな。綺麗だね」
「プリズムだろう」
「プリズム?」
「太陽の光を屈折によって分離する。空気中の水滴を通った光で虹ができるのと同じ原理だね」
「ふぅん」

習ったと思うよ。そう嗜めるみたいに言うものだから、益々苦い顔をするほかなかった。

「ガラスで出来たものもあるけど、それは天然水晶じゃないかな」

どうして見分けがつくのか、と顔を覗き込めば、その視線の先にはこの水晶の値札があった。手軽な土産物とは言えない値段から判断したらしい。目玉が飛び出るほど、というわけじゃないけど落としたら今日の働きが無に帰すことは間違いないだろう。急に慎重になって棚へと戻した。

「欲しいなら買えばいいのに」
「まさか」
「随分と後ろ髪引かれてそうだけど」
「見ていたかっただけ。でも本当に欲しくなるといけないからやめとく」

見つめていたいと思うのと、手に入れたいと思うものは別物だから。

再び街道に出て、今度こそ土産を探す。目当てのものはすぐに見つかり、地域の名産品らしいお菓子を自分土産深めて買い漁った。硝子のリクエストをクリアするのは、私一人では叶わなかったと思う。間違いなく年齢確認されてレジを通れなかったに違いない。傑にそれを告げると「老けてるってことか……」と落ち込むものだから笑った。真実だから否定しない。

目的を果たしてからも、引き返さずに端まで歩いた。同じ一本道を戻るときには、往路で気になっていた足湯に寄り道をした。あまり乗り気ではなさそうな傑が口を開くより早く、裸足になる。傑は諦めたように笑った。

「傑もおいでよ。気持ちいいよ」
「濡れた足はどうする気だい?」
「あ」
「まったく……すこし待ってて」

待つも何も、拭くものも持たずに足を浸からせたのだから動きようがない。図らずも貸切となった足湯をちゃぷちゃぷと揺らした。
やがて、傑は薄いタオルを二本携えて戻ってきた。タオルと同時に顔の前に垂らされたのは、先ほど見たよりも小さな透明の光。

「え、なに」
「私からなまえにお土産」
「一緒に来てるのに?」

驚いて顔を見上げると傑は小さく笑った。隣に座った彼から受け取るように促され、作った手の皿に落とされたサンキャッチャーのストラップ。

「呪いは防げないだろうけど」
「呪いは自分で対処するから大丈夫。……ありがとう。私、そんなに物欲しそうにしてた?」

そういうわけではない、と傑は言うけれど私のことだから隠し切れていなかったに違いない。受け取ったソレを目の前に翳してみる。海のような虹のような不思議な光。とても惹かれる。けれど眩しすぎて、ずっと見つめてはいられない宝石。
ちゃぷちゃぷと足を遊ばせながらぼんやりとしていた。

「そろそろ戻ろうか」
「……え?」

声を掛けられなければずっと目の前の光に囚われていたかもしれない。目を丸くして振り返った私を見て傑は笑った。そろそろ時間が足りなくなるよ、という。夕食の前に露天風呂に行きたいと言っていたのは私だ。この季節は夕刻になっても明るいから時間感覚が狂う。
地域の名が記された薄いタオルで濡れた足を拭いて靴を履き、立ち上がる。あっという間に落ち始めた陽の光を小さな水晶に集めながら、再び街道を歩き始めた。

 

 

 

死にたがりの嘘(五条悟)

 

 

 

舌を、絡めとられて、奥まで押し込まれて。大きな手が、背骨をなぞる。まだたったそれだけなのに、もうとっくに立っていられない。逃げようとしても頬を包む手が固定する役割も担って動けない。ようやく離れた唇が上機嫌に弧を描く。少しだけ腹が立ったから、身体を預けるふりして距離を詰めてその瞳を覆う布をずり下ろした。不意を突いたつもりの行動すら読んでいたとでもいうように、目の前の男は飄々とした態度を崩してくれない。露わになった淡い瞳に蕩けた自分が映り込んで、目を逸らしたくなるだけだった。

「ねえ、こっち向いて」
「やだ」
「じゃあ食べさせて」
「もっといや」
「傷付くんだけど?」
「嘘ばっかり」

私ごときに傷付けられる人じゃないくせに。あなたが許さなければ私はあなたに触れることすら出来ないのだから。全てを拒絶することさえ容易なその術式にいつ壁を構築されてもおかしくない。いつかそんな日が来たらどうしよう、なんて不安を抱き続けてることに気付かれているだろうか。聡い人だから、きっと全て知られてしまっている。
それでも今こうして直接肌に触れている、触れられていることに歓喜しながら今一度口付けを受け入れる。こじ開けられるまでもなく開いた唇から舌が侵入して、まるで捕食するように口内を蹂躙する。受け入れたばかりなのにすぐに根を上げて、声にならない声で棄権を訴え胸を押し返した。

「諦めるの早すぎでしょ」
「し、仕方ない、じゃない……ッ」
「なまえにはさ、簡単に諦めてもらったら困るんだよね」

息を整えながら精一杯の言い訳をして、恨みがましく睨み上げると目の前の男はやれやれ、とわざとらしく溜め息を吐いた。

「問題です。なまえは崖から足を踏み外してかろうじてぶら下がっています! 自力で上がることは出来ません。助けようと手を伸ばした僕の背後には何と特級呪霊がうようよ! さて、このあとなまえはどうするでしょう?」
「いきなり何? っていうか、うようよ居たところで余裕でしょ」
「そのルートは除外」
「ルートって何」
「いいから、答えて」

一体突然何の話か。明かされぬまま急かされて仕方なく考えるふりをする。脈略のない話を始めるのは今に始まったことじゃない。腰に回された腕は緩めてくれそうになく離れるのは諦めた。
悟と二人で任務に赴くようなことは今ではほとんど無い。数少ない同級生が減ったばかりの頃はよく一緒に派遣されていただろうか。最強に成った悟にとって、最早お荷物でしかないだろう私を何故同行させるのか、その意味が分からないほど無垢ではなかった。上層部は何をバカな心配をしているのか、その心配は果たして悟だけでなく私にも向けられているものなのか。杞憂だと跳ね返すことはできなかった。暗闇に引っ張られる人間を理解できないわけじゃなかったし、あのときは、私自身壊れてしまいたいと何度も思った。
呪いを抱いて、この力をもって何を壊せるだろうか、何が出来るだろうかと一度も考えたことがないと言えば嘘になる。考えれば考えるほど頭が痛くて、あのときは考えるのをやめた。
我武者羅に鍛えた甲斐あって一級術師として在るようになった今も、悟と私の差は天と地ほどあって埋まることはない。もし自分の存在が身内を危ぶむような状態になれば、取る選択肢は一つしかない。言えば咎められるだろうとは理解していても、ここで嘘を吐くことに意味はない。

「……何もしない。そのうち力尽きて落ちるよ」
「ほらね」

予想した通りの責めるような声色を返される。
だって、仕方ないじゃない。呪術師で在ることを決めたときから畳の上での大往生など望むべくもない。人より長生きしようなどと思わない。かろうじてしがみついて生き長らえてるだけの、弱い人間だ。呪いを祓うことに失敗した、愚かな呪術師だ。
私は、失敗した。祓ったはずの呪いが身体の中に巣食っていると気付いたのは最近のことだ。医者もこうして自分の末期を悟るのだろうかとどうでもいいことを考えた。側目には分からなくても呪いは徐々に私を蝕んでいて、いつまで形を保ってはいられるのか、もう分からなかった。
近いうち、この人を置いていく。それを口にすることを彼は許してくれないだろう。そんな言い訳で、真実を告げる勇気が出ないままいつもと変わらぬ日常を過ごし続けていた。
自惚れでなければ彼を哀しませることになるだろう。だけど、きっと大丈夫。彼の教え子たちは優秀だから彼を孤独にすることはない。そう思える環境があることに感謝していた。

「なまえはバカだよね」
「は?」

俯いていた顔を上げると、薄い唇が弧を描く。揺れる睫毛を見つめれば、長い指があやすように私の目尻をなぞった。

「最近、痩せたね?」
「……ダイエットしてるの」
「必要ないでしょ。それと気付いたら寝てるし肌荒れ酷いし平熱より低い体温が二週間続いてるし頭痛もあるんだろ、もしかして妊娠? って思ったけどどうも違う。っていうか呪力不安定だし。隠しようないのに何か隠してるよね。何で?」
「何なの、ちょいちょいキモチワルイんだけど」
「はーい、はぐらかさないの」
「別にはぐらかしたわけじゃなくて」
「ねえ、」

畳みかけるような問いかけは最早詰問に近い。何で、とはどこにかかる疑問だろうか。何で痩せたの、何で調子悪そうなの、何で黙ってるの。全部だよ、って言われそう。
一人で考えて一人で笑っていれば、悟は心を読んだかのように苛立ちを見せた。尤も、顔は笑っている。目だけが笑ってないから逆に怖くて、やっぱり目隠し取るんじゃなかったと今更後悔した。

「僕が気付かないとでも思ったの?」
「……気付かないふりをしてくれると思ってた」
「ほんとバカ」
「バカバカって酷くない?」

わかってる。貴方は優しいから、気付かないふりなんてしてくれないことは知っていた。だけど出来れば何も告げずにやり過ごせないだろうか、とは実に甘い考えだったらしい。だからといって、本当のところを告げたとて、変わる結末は何も無い。変わるとすれば、互いの嘘がすこし増える程度。

「自分から手を離すような真似、絶対するなよ。醜くてもしがみついて。僕を置いていかないでよ」

滅多なことで飄々とした態度を崩さない男が吐き出した弱音に、醜くも喜ぶ自分がいる。他人の感情を揺さぶって快感を得るとは、なんとも性格が悪い。
目の前の高そうなシャツを握りしめて皺を作った。それは無理だよ、とそう口に出来ないのは、すこし苦しいくらいに強く抱きしめられて身動きが取れないからだ。胸に顔を埋めたまま、形だけの返事をした。

「……うん。がんばるよ」

私の下手な嘘に悟はやっぱり気付かないふりをしてくれて、だけど私を抱き締める腕がまたすこし強くなって、それはどうしようもなく苦しかった。見上げてしまえばいつもは覆われている瞳が不安に揺らいでいるだろう。こんなに大きいのに、迷子の子犬みたいで可笑しかった。

 

 

 

 

妄執モラトリアム(呪術廻戦/宿儺)

 

 

 

 

押し付けられた唇に噛み付いたのがいけなかった。滲む血に反して私の顔は蒼く染まっているに違いない。宿儺は自身の唇を舐め上げると「面白い」と笑った。何が面白いのか全く分からない。身体が震える。こちらの怯む姿を見て宿儺が何を思ったのかは分からない。顎を掴み、強引に上を向かされる。抵抗する暇なく二度目の口づけ。合わせるだけでは足らぬとばかりに開かされて乱暴に口内を蹂躙する舌がいつまでも呼吸を許してくれない。苦しくて胸を押し返そうとしても頭と腰を固定されてびくともしない。嘆きは声にならず飲み込まれる。まるで捕食だった。漸く解放されて息を整えるのも束の間、首筋に歯を立てられて、ぴりと痛みが走る。逆立てた毛を嘲笑うかのように宿儺は私の喉元に噛みついた。

「ひっ……!」

声が漏れたのは、悦楽ではなく純然たる恐怖の所為だった。すると宿儺はぴたりと止まって面を上げた。怪訝に細められた目がこちらを捉える。零れた涙を指で掬われた。

「感動の再会というやつだろう。何故悦ばぬ」
「……殺したいなら殺せ」
「俺が、オマエを?」

宿儺は愉快そうに喉を鳴らして笑った。虎杖悠仁を受肉した古き呪いの王、両面宿儺。家に代々受け継がれた一本の指は疾うに手放し高専の管理下にある。理由は偏に私では守り切れないからだ。それに対して抱く悔恨はなく、事実として受け入れていた。その程度しか関わりのなかった伝説の呪いは、しかし自分に深く根差したものだったなど宿儺の復活がなければ今生も知ることはなかっただろう。この世に生を受けて過ごしてきた数十年に重ねるように突如として流れ込んできた別の一生は、確かに千年前に生きた人間のソレだった。受け継がれた魂の奥底に眠っていた記憶。宿儺の領域に触れた瞬間、それが頭を殴るように突然流れ込んできて、まだ馴染みきらず朧にぼんやりとしている。頭が痛い。これは。一人の男を愛して、失って、殺したくても殺せなくて封じた、千年前の確かな記憶だった。
しかし、どうやら宿儺を封じてからの人生の方が永かったらしいその人間が、果たして宿儺の知るソレと同じと言えるだろうか。だから噛み合わず、奴は何故を繰り返すのだ。こちらからすれば何故悦べると思うかが不思議でならない。
知らぬからだ。お前を封じたあと、その身体を砕き二十本の指に散して、そのうち一本を前に一人の女が何を想い生きて何を想い死んだのか、ひとつも知らぬからだ。

「何故、泣く」

先ほど拭われた生理的な涙と違い、今頬を伝うのは哀しみだった。脳に収まりきらず溢れた哀しみの印。問いに応えず啜り泣く私に対し宿儺はさも面白くなさそうに鼻を鳴らす。頬を伝う涙を舌でなぞる。

「泣くな」

嗚咽を飲み込んだ私の背中を宿儺は宥めるように柔く叩いた。とても呪いの王と呼ばれる者の行動とは思えず驚きが優先される。抱き寄せられるまま身を寄せると、確かな鼓動と温もりが伝う。それが宿儺でなく受肉体である虎杖悠仁のものであることなど百も承知だ。それでも、今ここに居るのは確かに宿儺だった。
おかしな感情を抱いてはいけない。離れなくてはならない。そう思うのに、他にどうすることも出来なかった。仕方ない、と言い聞かせる。呪いの王と相対したところで私一人に祓えるはずもなく、また虎杖悠仁を殺す予定もない。ここで暴れたところで何にもならない。今この命が生かされているのは宿儺の気紛れに過ぎないだろう。不興を買えば即座この場で三枚におろされてもおかしくはない。だから仕方ないのだ、と自分に言い聞かせた。
やがて私の呼吸が落ち着きを見せると宿儺はわざとらしくも大きく息を吐きだした。

「興が醒めた。今日はもうよい」

そして、金縛りが解けるように重圧は消えた。気配が変わった。顔を上げると、目を限界まで大きく見開き驚く虎杖悠仁が状況を読みきれず硬直していた。宿儺が出ていた間の行動には憶えがないらしい。知らぬうちに大して親しくもない女をその腕に抱いているのだから驚くのも無理はない。肩を掴まれ、勢いよく身体が離れる。

「えっ、何これ。何で……」
「……悠仁」
「うおっ、……大丈夫?」

安堵して腰が抜けたところを、再び目の前の男に支えられた。私程度の呪術師が宿儺に相対して五体欠けずに切り抜けたことは奇跡に近い。それだけでも足りるのに、頭に流れ込んだ記憶のせいで頭痛が酷い。

「あー、うん、ごめん。今ちょっと混乱してて、うまく説明できそうにない」
「それは良いけど顔、真っ青」

大丈夫だ、と言っていいだろうか。悠仁が戻ってきて本当に良かった。それにしても彼等の力関係は一体どうなっているのだろう。こんなに簡単に替わられていては堪ったものじゃない。

「歯形ついてる。……これ、宿儺?」
っ」
「あ、ゴメンナサイ」

悠仁の指が触れて、首筋の痛みを思い出す。自分でも触れてみると、なるほど確かに痕がついているし血が出ているらしい。「ごめん」と繰り返す悠仁に覚束ない頭で「大丈夫」とだけ返答する。

「私こそ、ごめん」

切れた唇を指し示して謝罪を告げれば、悠仁は言われて初めて気が付いたのか、舌で触れてその傷口を確かめた。やがてその意味を理解したのか、顔を赤くして再び硬直してしまった。申し訳ない。
その後、私の呪力の変化を感じ取ったらしい五条が様子見に現れて悠仁を回収していった。あとで恵に聞くところによるとその日の悠仁は動揺を極めて踊ったり隠れたり挙動不審だし五条は終始不機嫌だしで大変だったらしい。後者は知らないが前者については本当に申し訳ない。
今は再び眠る両面宿儺。出来ればもう二度と相対したくはないがそうもいかないだろう。私たちは呪霊を祓うだけでは飽き足らず、宿儺の指を集めて虎杖悠仁に食わせなければならないのだ。その指を全て食わせてから殺せばいいなどと五条が上を言いくるめに考えた説得はこうなれば悪手にしか思えなかった。お偉方が受肉体ごと今すぐ殺せと呻るのも頷ける。けれど、本人に出会ってしまえば、それを肯定できるほど冷徹にはなりきれない。彼は今ここに生きているのだから。
だから仕方ないのだ、と言い聞かせる思考が自分のものかそうでないか解らず判然としない。果たして、生きながらえさせたいのは誰のことか。頭痛がする。気持ちが悪い。徐々に鮮明になっていく忌まわしい過去に吐き気がした。気付きたくなかった。こんな醜い感情が自分に眠っていたなど。

『俺が、オマエを?』

宿儺じゃない。
殺したいと願ったのは、私だ。私が、宿儺を。殺したいほど愛し、その身が呪いに転じたことを悦びさえしただろう。屍蝋を前に、その指よりも頭蓋を欲しがった。あのとき叶わなかった願いが今また叶うかもしれない現実が目の前にある。だから器に死んでもらっては困る。正しく復活してもらわなければ困る。そう考えた自分を自覚して、背筋が凍る。思い出したくなかった。こんな歪んだ感情、呪いと何が違う。もう一度まみえたとき、私は正気で居られるだろうか。そもそもそのとき、私は私だろうか。わからない。
宿儺、オマエが憎い。