妄執モラトリアム(呪術廻戦/宿儺)

 

 

 

 

押し付けられた唇に噛み付いたのがいけなかった。滲む血に反して私の顔は蒼く染まっているに違いない。宿儺は自身の唇を舐め上げると「面白い」と笑った。何が面白いのか全く分からない。身体が震える。こちらの怯む姿を見て宿儺が何を思ったのかは分からない。顎を掴み、強引に上を向かされる。抵抗する暇なく二度目の口づけ。合わせるだけでは足らぬとばかりに開かされて乱暴に口内を蹂躙する舌がいつまでも呼吸を許してくれない。苦しくて胸を押し返そうとしても頭と腰を固定されてびくともしない。嘆きは声にならず飲み込まれる。まるで捕食だった。漸く解放されて息を整えるのも束の間、首筋に歯を立てられて、ぴりと痛みが走る。逆立てた毛を嘲笑うかのように宿儺は私の喉元に噛みついた。

「ひっ……!」

声が漏れたのは、悦楽ではなく純然たる恐怖の所為だった。すると宿儺はぴたりと止まって面を上げた。怪訝に細められた目がこちらを捉える。零れた涙を指で掬われた。

「感動の再会というやつだろう。何故悦ばぬ」
「……殺したいなら殺せ」
「俺が、オマエを?」

宿儺は愉快そうに喉を鳴らして笑った。虎杖悠仁を受肉した古き呪いの王、両面宿儺。家に代々受け継がれた一本の指は疾うに手放し高専の管理下にある。理由は偏に私では守り切れないからだ。それに対して抱く悔恨はなく、事実として受け入れていた。その程度しか関わりのなかった伝説の呪いは、しかし自分に深く根差したものだったなど宿儺の復活がなければ今生も知ることはなかっただろう。この世に生を受けて過ごしてきた数十年に重ねるように突如として流れ込んできた別の一生は、確かに千年前に生きた人間のソレだった。受け継がれた魂の奥底に眠っていた記憶。宿儺の領域に触れた瞬間、それが頭を殴るように突然流れ込んできて、まだ馴染みきらず朧にぼんやりとしている。頭が痛い。これは。一人の男を愛して、失って、殺したくても殺せなくて封じた、千年前の確かな記憶だった。
しかし、どうやら宿儺を封じてからの人生の方が永かったらしいその人間が、果たして宿儺の知るソレと同じと言えるだろうか。だから噛み合わず、奴は何故を繰り返すのだ。こちらからすれば何故悦べると思うかが不思議でならない。
知らぬからだ。お前を封じたあと、その身体を砕き二十本の指に散して、そのうち一本を前に一人の女が何を想い生きて何を想い死んだのか、ひとつも知らぬからだ。

「何故、泣く」

先ほど拭われた生理的な涙と違い、今頬を伝うのは哀しみだった。脳に収まりきらず溢れた哀しみの印。問いに応えず啜り泣く私に対し宿儺はさも面白くなさそうに鼻を鳴らす。頬を伝う涙を舌でなぞる。

「泣くな」

嗚咽を飲み込んだ私の背中を宿儺は宥めるように柔く叩いた。とても呪いの王と呼ばれる者の行動とは思えず驚きが優先される。抱き寄せられるまま身を寄せると、確かな鼓動と温もりが伝う。それが宿儺でなく受肉体である虎杖悠仁のものであることなど百も承知だ。それでも、今ここに居るのは確かに宿儺だった。
おかしな感情を抱いてはいけない。離れなくてはならない。そう思うのに、他にどうすることも出来なかった。仕方ない、と言い聞かせる。呪いの王と相対したところで私一人に祓えるはずもなく、また虎杖悠仁を殺す予定もない。ここで暴れたところで何にもならない。今この命が生かされているのは宿儺の気紛れに過ぎないだろう。不興を買えば即座この場で三枚におろされてもおかしくはない。だから仕方ないのだ、と自分に言い聞かせた。
やがて私の呼吸が落ち着きを見せると宿儺はわざとらしくも大きく息を吐きだした。

「興が醒めた。今日はもうよい」

そして、金縛りが解けるように重圧は消えた。気配が変わった。顔を上げると、目を限界まで大きく見開き驚く虎杖悠仁が状況を読みきれず硬直していた。宿儺が出ていた間の行動には憶えがないらしい。知らぬうちに大して親しくもない女をその腕に抱いているのだから驚くのも無理はない。肩を掴まれ、勢いよく身体が離れる。

「えっ、何これ。何で……」
「……悠仁」
「うおっ、……大丈夫?」

安堵して腰が抜けたところを、再び目の前の男に支えられた。私程度の呪術師が宿儺に相対して五体欠けずに切り抜けたことは奇跡に近い。それだけでも足りるのに、頭に流れ込んだ記憶のせいで頭痛が酷い。

「あー、うん、ごめん。今ちょっと混乱してて、うまく説明できそうにない」
「それは良いけど顔、真っ青」

大丈夫だ、と言っていいだろうか。悠仁が戻ってきて本当に良かった。それにしても彼等の力関係は一体どうなっているのだろう。こんなに簡単に替わられていては堪ったものじゃない。

「歯形ついてる。……これ、宿儺?」
っ」
「あ、ゴメンナサイ」

悠仁の指が触れて、首筋の痛みを思い出す。自分でも触れてみると、なるほど確かに痕がついているし血が出ているらしい。「ごめん」と繰り返す悠仁に覚束ない頭で「大丈夫」とだけ返答する。

「私こそ、ごめん」

切れた唇を指し示して謝罪を告げれば、悠仁は言われて初めて気が付いたのか、舌で触れてその傷口を確かめた。やがてその意味を理解したのか、顔を赤くして再び硬直してしまった。申し訳ない。
その後、私の呪力の変化を感じ取ったらしい五条が様子見に現れて悠仁を回収していった。あとで恵に聞くところによるとその日の悠仁は動揺を極めて踊ったり隠れたり挙動不審だし五条は終始不機嫌だしで大変だったらしい。後者は知らないが前者については本当に申し訳ない。
今は再び眠る両面宿儺。出来ればもう二度と相対したくはないがそうもいかないだろう。私たちは呪霊を祓うだけでは飽き足らず、宿儺の指を集めて虎杖悠仁に食わせなければならないのだ。その指を全て食わせてから殺せばいいなどと五条が上を言いくるめに考えた説得はこうなれば悪手にしか思えなかった。お偉方が受肉体ごと今すぐ殺せと呻るのも頷ける。けれど、本人に出会ってしまえば、それを肯定できるほど冷徹にはなりきれない。彼は今ここに生きているのだから。
だから仕方ないのだ、と言い聞かせる思考が自分のものかそうでないか解らず判然としない。果たして、生きながらえさせたいのは誰のことか。頭痛がする。気持ちが悪い。徐々に鮮明になっていく忌まわしい過去に吐き気がした。気付きたくなかった。こんな醜い感情が自分に眠っていたなど。

『俺が、オマエを?』

宿儺じゃない。
殺したいと願ったのは、私だ。私が、宿儺を。殺したいほど愛し、その身が呪いに転じたことを悦びさえしただろう。屍蝋を前に、その指よりも頭蓋を欲しがった。あのとき叶わなかった願いが今また叶うかもしれない現実が目の前にある。だから器に死んでもらっては困る。正しく復活してもらわなければ困る。そう考えた自分を自覚して、背筋が凍る。思い出したくなかった。こんな歪んだ感情、呪いと何が違う。もう一度まみえたとき、私は正気で居られるだろうか。そもそもそのとき、私は私だろうか。わからない。
宿儺、オマエが憎い。