うましか(宮侑)

 

 

「放っといて。侑に話せるようなこと、なんもないから」

言っても仕方がないというよりは、ちっぽけな悩みだと笑われるのが怖かった。
口にしたと同時に「しまった」と思った。冷たく放った言葉がどれだけ深く相手に突き刺さったかを知る術はない。後悔したところで覆水盆に返らず。取り繕いたくて触れようとした手は振り払われてしまう。無言で俯く侑が告げた言葉が、鋭い刃になって真っ直ぐ返ってきた。

「アレもコレもしんどい思うんは、なまえが何にも本気で向き合っとらんから違う?」

敵意には敵意でもって返す。そういう男だ。先に傷付いたのはわたしの方だなんて言い訳は効かないし傷付けられたら傷付けていいわけじゃないことを知っている。だから本当に浅慮からなる言葉だったのだと、謝らなければならないのに、それを告げる前に侑は背を向けて行ってしまった。

しなる背もたれに身体を預けて大きく伸びをした。気を抜きすぎだ、と誰かが咎めるかもしれない。そう思い周囲を見渡してみてもフロアに居る人数も限られたこんな時間では誰もこちらに注目していなかった。壁掛け時計を見て、すっかり遅くなってしまったことを認識する。優に三時間は定時を過ぎていた。スーパーはまだ開いている時間とはいえ、今夜は自炊する気になれそうもない。いつもなら嬉しいはずの週末も、過ごし方が変わったことにまだ慣れず暗雲とした気持ちで迎えるだけだった。
数時間振りにプライベート用のスマホを確認すると、三件の通知が届いていた。古いものから順番に既読をつけていく。定時刻に来るニュースマガジン、近々会う約束をしている友人とのやりとりの続き、それから何の脈絡も無く送られた位置情報。一応はまだ恋人であるだろう宮侑から送られたものだった。最後の一つを開き、その詳細を確認して溜息を吐く。どれに返事を送ることもなく、ディスプレイを暗転させる。まだ残る同僚たちに声をかけてオフィスを後にした。
ビルを出て駅へと歩く。定期を取り出して改札をくぐり、ちょうど到着した電車に小走りで乗り込む。扉に凭れて一息、改めてスマホを見ればリマインドのつもりか、もう一度同じ場所からの位置情報が届いていた。最初のメッセージに既読がついたと気が付いたのだろう。だけど送られてきたのはやはり変わらず位置情報それだけ。

他に何か言うことないんか。

自分勝手にも再び深い溜息を吐いた。こういうことは別に初めてじゃない。それは分かりやすく『ここに来い』の意味を込めて送られたメッセージ。

喧嘩したときは、いつも同じだ。言い合いになればやがて向こうが怒って場を離れ、謝るでもなくこうやって探しに来るように仕向ける。昔からそうだ。『非常階段』とか『理科準備室』とか、それだけ一言送られてきて、仕方なく向かえば決して可愛げのない図体をそれでも小さくして待っている。言葉は尊大でも心の内を見ることが出来た。それでつい絆されて、何で怒っていたのかどうでもよくなってしまう。原因がどちらにあっても、同じだった。高校生の痴話喧嘩なんてそんなもんだ。どれだけすれ違っても、たとえ呼び出しに応じなくても、教室に行けば毎日顔を合わせてしまうのだからどちらかが決定打を口にしない限り簡単に修正が効いた。もう話したくない、なんて思っても「おはよう」には「おはよう」を返さないわけにはいかなくて、それで朝イチ授業何やっけとか宿題やった?とかぎこちなくも話して、気付いたら元通り。高校二年の春から卒業までずっとそうだった。
だけど今は違う。会おうと思わなければ、会えない。カッとなるとすぐに突き放す言葉で拒絶するのがわたしの悪いくせ、そして話し合いを途中で放棄するのは侑の悪いくせだ。
あれから二ヶ月が経っていた。お互い社会人で向こうは遠征も多いことを考えれば、顔を合わせない期間としてそう長い方ではない。けれど、連絡すら取らないのは初めてだった。
このまま終わるんだろうか、それでもいいかもしれない、と考えていたわたしは卑怯なんだろう。話し合うことをいつも怖がったのは侑じゃなくわたしの方だ。だけどそんな臆病さをどうやら彼は今回も許してくれないらしい。
今日は行けないごめん、と一言返そうかと思った。それでは先延ばしにするだけで解決に至らないことを知っていても。解決、したい気持ちがあるならば、向き合わなければならない。

少しばかり葛藤したところで、取る選択肢は変わらない。不躾な呼び出しが腹立たしくはあるもののパブロフの犬よろしく、その位置情報を見れば思い浮かぶ抗えない魅力もある。そう、疲れた身体に力をくれる美味しいおにぎり。もう閉店の時間とはいえ呼び出すからにはお腹を満たしてくれるに違いない。店主には俺が呼び出したんとちゃうし、とか何とか言われるかもしれないが知らないはずないのだから同罪だった。
心が決まれば、さて地図が示す場所へと向かうべく、自宅に帰るのとは逆方向の電車に乗り換える。通勤の群れはとっくに消えて、車内は金曜の夜に浮かれる人々で溢れていた。かと思えば、疲れ切った顔で座席に沈む会社員も少なくはない。果たして、わたしはどちらに見えるだろうか。
目的の駅へ降りて店に辿り着くと、引き戸には『閉店』の札が下がっていた。のれんも既に無い。けれど明かりは点いている。だから遠慮なく戸を開いた。

「お、なまえちゃん」
「治、おつかれ」

店へ入ると、帽子を外し店主モードを解除した治が出迎えてくれた。それでも「腹減っとる?」なんて聞いてくれるものだから、正直に「もうペコペコ!」と答えてしまう。ちょっと待っとれ、と笑う治に元気よく了承の返事をして、カウンターの丸椅子に腰を下ろす。他に客は誰も居ない。店内をぐるりと見回してみても変わらない。閉店後だから当たり前かもしれないが、今夜ばかりはもう一人居ると思って訪れたのだから首を傾げる。

「……侑は?」
「さっきまで居ったんやで。どっか飲みに行った」
「ウソやろ!?」

人を呼び出しといて? 飲みに行った? ありえへん!
口にせずとも表情で全て伝わったらしく、治が笑う。

「今日はもうなまえちゃん来ーへんと思って不貞腐れよったわ。既読なったけど返事ない、て騒いどったで」
「……返しようなかったもん。何て送られてきたか知っとる?」
「知らん」
「この店の位置情報だけやで。他に何も、一言もなし」

食い気味に告げれば、治は呆れた表情を作った。

「それは……ようソレで来てくれたなあ」
「位置情報がどこか分かったら、ムカつくんより食欲が勝った」
「何や嬉しいこと言うやん。ほい、お待たせしました〜」
「明太子! やったぁ」

こればかりは手放しで喜んでいい。目の前に提供された皿からはほかほかと湯気が上がっている。私はそれが、ふわふわのおにぎりだと知っている。お味噌汁とお漬物を添えて、まごうこと無き主役の輝きを放っていた。手を合わせて、いただきますをする。この時ばかりは、おしとやかさは必要ない。大きく口を開けて勢いよく頬張る。広がるしあわせを噛み締めていると、視線を感じてカウンター向こうを見上げた。ニヤニヤと、と表すのが正しいだろう顔で治がこちらを眺めている。今更取り繕う必要はないけれど気恥ずかしさがないわけじゃない。

「……見られとると恥ずいんやけど」
「美味そに食べてくれるなー思て」
「美味しいんやもん」

それだけで、今日ここに来た意味はある。寧ろコレ以外に何かあっただろうか。美味しいごはんを求めてやってきた。それでいい。

「こーんなええコ放っぽって一人で飲みにいくなんてアイツほんまアホやなあ」
「……もっと言うたって」

外れない視線は諦めて食事を続ける。まだ明太子を頬張っている最中だというのに今度は鮭といくらのコンボを差し出してきた。果たして食べきれるだろうか、なんて心配は完全に杞憂だった。いとも簡単にぺろりと平らげてしまう。営業時間内なら絶対にしないだろうに、治はカウンターに肘をついて遂にわたしが食べ終わるまで眺めていた。お茶を飲みながら「ごちそうさま」を告げたのに、治は「足りとる?」とまだ手を動かそうとするものだから慌てて「お腹いっぱい。ありがと」と膨れたお腹を叩いて見せた。

「空腹はサイアクのコンディションやからな〜。あとは、まあ……飲みたい気分やったら付き合うで?」

見えるように獺祭を掲げた治は返事を聞くでもなく「座敷で飲も」といそいそど靴を脱いだ。丸椅子をくるりと回し、治を追う。

「おにぎり宮、いつの間にそんなサービス始めたん?」
「なってへんよ~。店仕舞いしたし、なまえちゃんやからトクベツ」

悪戯に笑う治につられて表情が緩む。生まれてから同じ歳月を重ねてきたはずなのに治は侑より、わたしより、ずっと大人になった気がする。言葉に甘えて座敷に上がり込む。何となく正座したわたしを治が笑う。一升瓶からお猪口へ注がれた筋を眺めた。魅力的な表面張力を揺らし掲げ、零さないようにその一杯を煽った。足を崩して座り直す。「まあ飲み」と再び注がれた二杯目にちびちびと口をつける。お腹いっぱいのはずなのにツマミにと出されたピリ辛きゅうりは入るから不思議だ。

「ほんで?」
「……弱音吐くことは、頑張ってない証明になると思う?」
「何やソレ。ツムが言うたんか?」
「侑やないよ。わたしの考え」
「そんでもなまえちゃんがそう思う何かは言うたわけやろ」

指摘されて思わず黙り込む。侑がそう言ったわけじゃない。だけどふとした瞬間にその重圧を感じてつらくなる。勝手に卑屈になっているだけだと分かっている。もうずっと、プロのスポーツ選手と一般人との隔たりに臆したまま、侑に弱音なんて吐けないままだ。だってそうでしょう。わたしが日々の仕事で感じるしんどさなんて、侑が感じてる重圧に比べたらちっぽけなもの。だから侑もわたしには何にも言わない。部活とは違うんだから当たり前だ。
弱音と愚痴に境目はあるだろうか。当然、受けとる相手次第だと分かっている。努力が足りないから不安になるのだ、なんて言われるまでもない。甘えだって分かってる。だけど誰もが毎日満点取れるわけじゃない。及第点目指して適度に頑張って、それでも自分を褒め称えたい日だってある。そんな日は疲れたなとかちょっとヤなことあってさなんて何てことない会話をしたいだけだ。それはわたしの我が侭だろうか。自分のことでいっぱいいっぱいで、他人を思い遣る余裕をなくしてる。

「あんなぁなまえちゃん、弱音なんて誰でも吐いてええに決まっとる。俺かて毎日手探りやしコレやと思って出した新メニューが全然アカンくんてヘコむことあるし、侑も同じや。しょっちゅーここに突っ伏してウンウン唸っとる」
「二人とも? ほんまに?」
「おん。アイツはなまえちゃんの前やとカッコつけとるんか知らんけど」
「……こんな長く一緒おるのに、今更?」
「なまえちゃんやてそーやん。カッコつけたいから侑には言えんのやろ。吐き出してみたら案外あっさりしてるもんやで。今、俺に言うてるみたいにな」

カッコつけたいから弱みを見せたくないと思うなら、カッコつけたいのは好きだからだ。なのにそれが原因で傷つけ合っていれば世話ない。付き合う前ならともかく、もう何年も一緒に居るというのに、そんなの、そんなの二人してアホみたいじゃないか。
考え込んでいたわたしを引き戻したのは、店の戸をガタガタと揺らす音だった。明かりが点いているからまだ営業していると勘違いされたか。それにしても鍵は開いていないのに諦める様子がなく壊されそうな勢い。ガラの悪い酔っ払いだろうか。不安を携えて治へ視線を送ると、その口元は意外にも弧を描いていた。矢先、聞こえてきたのは聞き覚えのある声で。よく見れば、戸の向こうに見える影は見慣れたその人で。

サム! 居るんやろ。早よ開けろ!」
「うるさいわぁ。ガラ悪い酔っ払いやなぁ」

反応を見るに初めから誰だか分かっていただろうに、治は渋々といった様子で立ち上がった。治が戸を開けると、不機嫌ですと顔に書いた侑が仁王立ちした。鍵を開けてくれた治を一瞥するとこちらに届くか届かないかの小声で「飲んどったんか」と呟く。再び戸締りをする治が「いつもと違うこと、やろ?」と返事した。わたしが来たことはリークされていたのだろうか。侑は座敷の横までやってくると、こちらを見下ろしドスの効いた声を吐き出した。

「……返事くらいせえや」

メッセージを既読スルーしたことを言っているらしい。もう慣れたもので睨まれても怖くもなんともないけれど、およそ彼女に向ける声色じゃない。ぷいと顔を背けて反論する。空になったお猪口に今度は自分で三杯目を注いだ。戻ってきたはいいが喧嘩腰でくるのなら結局何も変わりはしない。

「したい思うように送らん侑が悪い」
「はぁ? 何やねん」

どかり、と先程まで治が座っていた側に腰を下ろした。座敷に上がるでもなく足は床につけたまま上半身だけをこちらへ向ける。ぶすくれた顔で文句を続けた。

「試合も見に来ーへんし。感謝祭……は別に来んでええけど」
「試合の日は仕事やて前から言うてたやろ」
「土日祝まで仕事て、ブラックなんちゃうか」
「ブラックはそっちやろ」
「せやねんチームみんな腹黒いもんやからチーム名までブラック……ってそんな洒落いらんねん!」
「土日祝は基本休みやけど、そうじゃないときもあんの。ちゃんと振替は取っとる」
「ハナシ振っといてスルーせんといて!」

次第にいつもの調子でギャーギャーうるさいわたしたちを見て、治は聞かせるようにわざとらしく咳払いした。思わず口を閉ざし、侑と揃って治へ視線を送る。

「長なりそうやから後ろ片してくるわ。ちゃんと仲直りせぇよ。店でいかがわしいことすんなよ」
「せぇへんよ!」
「するわけないやろ!」

反論したのは同時だった。「ならええけど」と笑いながら奥に入った治を見送り、暫し黙り込む。言わなければ。わたしが、謝らなければならない。

「……スマンかった」

先に口を開いたのは侑だった。出てくると思わなかったストレートな言葉に驚く。何に対しての謝罪だろうか。入るなり突っ掛かってきたこと? それとも。

「あんとき、酷いこと言うた」
「……何で侑が謝るん」
「土俵の違う人間にぶつける言葉やなかった。なまえがどれだけ頑張っとるかは俺が測ってええことちゃう」

真っ直ぐ、相手を射るような瞳でわたしを見る。わたしが好きな侑の眼。弱さを見せるのが怖いだなんて、もうとっくに射抜かれて全部曝け出してるくせに、今更何を足掻いていたんだろう。

「ごめん。わたし余裕なくて、話すことぜんぶ愚痴になってまいそうで、何も言えんくて……やからって突き放して、それで嫌われたら意味ないのにな」
「キライなるわけないやろ。見くびんな」

強い語調で言われても、感じるのはあたたかさだけだった。

「しょーもないことも大事やと思うことも教えてや。なまえのことなら全部知りたい」

わたしだって侑の全部が知りたい。分からなくても分かりたい。自分にも他人にも厳しくて、いつも本気でぶつかってくる侑がわたしは怖かった。向き合う前に怯えて、言っても仕方ないなんてカッコつけて、ぐちゃぐちゃと余計なことばかり考えていた。ただ、真っ直ぐな気持ちにわたしなりの本気で応えればよかっただけなのに。

「わたし、侑のこと本気やなかったみたい」
「は? ちょお待て、どういうことや」
「あ、ちゃうねん。語弊ある」
「ちゃうて何がやねん本気やないなら浮気? え? 今の流れで??」

けらけらと笑うわたしを侑は訝しげに睨めつける。「カッコわるいな、わたし」と肩を竦めれば侑は「意味わからん」と口を尖らせた。結局、今も昔も変わらない。大なり小なり何があっても、元通りにならずにはいられない。
一人で納得してしまったわたしから中身を聞き出すことを諦めたのか、侑は一際大きな溜息を吐いた。履きっぱなしだった靴を脱いでようやく座敷に上がると胡座をかいて両手を広げる。そっと近寄れば、それだけでは足りないと引き寄せられて上に乗せられた。体勢を整える間もなく唇を寄せられて、思わず掌で防げば、侑はむくれた顔でその手を掴む。

「仲直りのチューは必須やろ」
「ここではせえへん」
「せやったら、早よ帰っていかがわしいことしよ」
「……アホ」

悪態は単なる照れ隠しだと知られている。形の良い唇が弧を描き、わたしの前髪を掻き分けた。含み笑いを隠そうともせずに覗き込まれて、気恥ずかしさに顔を逸らす。頬を掴まれてまた戻される。
喚き合いが聞こえなくなった頃合い、そろそろ治が戻ってくるだろう。正直、一連の流れを考えればただでさえ頭が上がらないのにこんなところでイチャついている姿を見られたくはない。お礼を告げて、お詫びを約束して、今日のところは退散しよう。明日が休みでよかった。今まで言えなかったこと、伝えたいこと、知りたいことがたくさんある。いかがわしいことをお預けにして、夜更けまで語らいたいという希望は果たして受け入れてもらえるだろうか。