CONTINUE(及川徹)

 

近い、って気付いたのは多分だけど俺が先だったと思う。隣に座ってたあのコがほら見てよ、ってスマホの画面を向けるから何も考えずに覗き込んだらちょっと皆には言えないけど面白い画像見せられて、油断してたから思わず噴き出しちゃってソレにつられて向こうもお腹抱えて笑い始めてさ、今思い出したら別にそこまで面白いわけじゃないんだけどそのときはツボっちゃって他にも見せてよなんて肩寄せて、そしたらいつもよりずっと顔が近くて笑ってる横顔がすごくかわいくて見てたら向こうも気付いて固まって視線が重なって何か静かになっちゃって、わかるでしょ? ちょっとイイ感じだったから……。でも起ころうとしたことにビックリしたみたいで飛び退かれちゃって、あ、やべ、と思って取り繕うとしたんだけど「用事思い出したから帰る」ってすぐ行っちゃってさ、それから何となく? 気のせいかもしれないけど? もしかしたら? 避けられてるのかな~って思ってるんだよね。

「それが俺の隣の席のヤツのことなら、まあ間違いなくここんとこお前を避けてるな」

何を隠そう、目下の俺の想い人、隣のクラスのみょうじなまえのことだ。
そう高らかに宣言すれば、とうの昔に知っていたとばかりに溜息を寄越された。岩ちゃんなんて、部室の隅でいじけていた俺を引っ張り出して、珍しくも理由を訊いてくれるものだから話したのに、今はまるで毛虫でも見るような顔を俺に向けている。ぐるり部室を見回すと、まっつんもマッキーもそう変わりはなかった。

「つまり、イケると思ったら失敗しました、ってこと?」
「サイテーだな」
「やだ及川クン、野蛮〜」

三者三様の心無い言葉は俺の頭上に重石としてのし掛かった。ずぶずぶと地中にめり込んでいく気持ち。追い討ちをかけるように岩ちゃんが「本人の了承得ずに手ェ出すとかアリエネーだろ」なんて高尚なコト宣う。

「それはそうだけど雰囲気ってものがあるじゃん? え、まさか岩ちゃん。手を繋ぐのもキスもそれ以上も毎回そのウブでクソ真面目なカンジで『……いいか?』とか聞いてるわけじゃないよね? うわ~、カノジョ大変そう……」

緊張で眉を吊り上げた顔をつくった岩ちゃんのモノマネは思いのほか上手くできて、マッキーには大ウケしたようだ。まっつんも噴き出しながら「言ってそう」と震えている。
でしょー、俺ってば観察力ある。伊達に幼馴染みやってないよね。
得意になって鼻の下をこすったところで、派手なげんこつを食らった。

 

 

牛乳パンを頬張りながら改めて朝練終わりと同じ議題に思考を巡らせる。言ってみろと言うから相談したのに、誰も彼も薄情なもんだ。とはいえ、あのコのことで部員たちに悩みとも言えない悩みを打ち明けるのは別に初めてのことじゃない。朝練から教室へ向かう道すがらが一緒だったからと一喜一憂したり、同クラ特権で岩ちゃんが貰った調理実習のマフィンを奪い取ったり、これまでそこそこ忙しなく恋の話題を提供してきた。だからこそ「またか」って態度になるんだろうけけど。
それでも今は、これまでになかったとんでもない一大事なんだよ。
チャンスだと思ってがっついたことは、認めよう。据え膳、とまではいかないけど、今がそのタイミングだって思ったんだから仕方ない。少しずつ関係性を築いてきて、正直脈ありだと思ってたからこそのチャレンジだ。まあ、時には失敗もある。視野に入れなかったわけじゃない。
だからって、ハイこれでおしまい諦めましょう、というわけにはいかない。打開策を考えて次の一手だ。
何がいけなかったんだろう。もしかしなくてもファーストキスまだとか? でも去年カレシ居たと思うんだけど。いや、でももしそうだったとしたら、俺サイテー? ファーストキスなのにあんな面白画像見てバカ笑いしてムードも何もあったもんじゃないときにキスしようとしたの? うわ、それはヒドイ。他人ごとみたいに考えてみると少し反省できた。
……嫌われたかもしれない。だったら、一時退却も作戦のひとつかだろうか。気まずいまま、何となく時間が解決するのを待って、いつかなあなあに誤魔化せる日が来るのを待つか。気持ちも伝えてないのに? それはないデショ。

目的の教室を覗くと「よぉ及川、また岩泉か?」とは廊下側に座る男子から。そうだね、いつもの俺ならそうなんだけど、今日の目的はそうじゃない。教室を見回すと、すぐに目的の人物としっかり目があった。
知ってる。俺って目立つから、違う教室に入ったら皆一度は視線をくれるんだよね。無意識だって分かってるよ。だからさ、そんなあからさまに目を逸らさなくてもよくない?
ずかずかと教室に入って行って、その机に両手を降ろした。

「話あるんだけど」

思ったよりも両手が大きな音を立てて、華奢な肩を跳ねさせてしまった。視線を送った顔はみるみる間に青褪めて、えっそんなに拒否ることある? と少し焦って岩ちゃんに助けを求めてしまう。もう一方からも同じように助けを求める視線を送られたらしい岩ちゃんは、眉間の皺を深くしてそれはそれは大きな溜息を吐いた。

「どっかヨソでやれ」

双方の首ねっこ掴んで廊下へ放り出された俺たちは座り込んで顔を見合わせる。行き交う生徒たちからまたやってる、と苦笑を送られた。

「……とりあえず、場所変えよっか」

目の前の彼女に見慣れた明るい表情はなく、眉毛は情けなく垂れ下がっている。それでも頷いてくれたことに安堵した。先に立ち上がり手を差し伸べる。素直に手を取ってくれたことに安堵した。それを離さないままに廊下を進む。

「ちょ……、及川」
「いいからこっち」

明らかな戸惑いが背後から伝わるけど、制止は聞いてやれない。冷やかすような誰かとすれ違うこともなく階段を下りて校舎を離れて、その先へ。コンパスの差のせいで後ろで時々足がもつれかけているのが分かっても、お構いなしに突き進んだ。

「ねぇ、どこ行くの」
「ここ」

指し示した先は部室棟。トーゼン向かうはバレー部の部室だ。先に彼女を招き入れてドアを閉める。特別散らかってはいないけど片付いてもいない。転がっているボールを拾い上げて適当なラックに押し込めた。彼女はきょろきょろと落ち着かない様子で部室を見回していた。中に入ってくれたはいいけどそこから動こうとはしない。
まあ、アウェイだよね。

「初めて入ったけど、ウチと全然違うね」
「運動部でも女子と男子じゃ違うだろうね。男バレはマネジもいないし」

キレイに使っている方だと思うけど、それでも女子と比べたら差は歴然だろう。その違いはどこで生まれるんだろうね。
所在なさげに突っ立って、それでも興味深そうにへこんだロッカーやまた落ちて転がったボールに視線を移していく彼女を観察した。やがて見られていることに気が付いて顔を赤くした彼女と目があって、だけどすぐに逸らされた。ここのところずっとこれだから、フツーに傷付く。
はあ、と溜息を吐き出したらビクついて、扉の外の通路を誰かが通ればまた飛び上がって、まったく見てられなかった。

「鍵持ってるの俺と岩ちゃんだけだから、鍵閉めちゃえば誰も入れないよ」

扉を背にして動こうとしない彼女越しに手を伸ばしてサムターンを回す。触れるようで触れない距離まで近づいたのは、わざとだ。すぐに離れて肩をすくめても彼女の緊張が解けることはない。
勢いでここまで連れてきたはいいけど、この先を考えていたわけじゃない。何から話そうか。あのときその唇に触れようとした理由? 初めて意識した日のこと? 会った日のこと? さすがにそれは覚えてない。一年の一学期なんて、正直認識すらしてなかった。だけど三年になってクラスが離れたことにショック受けて岩ちゃんに八つ当たりなんかして怒られて、そのくせ岩ちゃん理由に教室訪ねて話しかけたりちょっかいかけたりしちゃうんだから、俺って結構分かりやすいと思う。わかんないかな。わかってよ。わかんないなら訊いてよ。

「好きって言ったらどうする?」

ほんの出来心で勢いでそう口にした。やっぱり雰囲気もクソもなくて、しかも意地の悪い聞き方だと自分でも思う。すると彼女は、思いっきり顔を顰めて言った。

「言われないと、わかんない」

驚いて瞬きを繰り返す。それから肩の力を抜いて笑った。
そうだね。言ってないし、言われてもない。でもそんな顔してたら、言ってるようなもんだって分かってるんだろうか。どうやら嫌われてはいなかったようだ、と確信する。それから、脈ありっていうのも間違いじゃなかった。

「ねえ」
「……なに」
「好き。好きだよ」

ストレートに想いを告げればそれは想定しなかったのか、ボンッ、と音が聴こえるくらい勢いよく染め上がった。自覚はあるのか腕で顔を覆ってしまったけれど、覗く耳まで赤い。かわいい。

「ねぇ、こっち向いてよ」
「やだ」
「おねがい」
「やだってば、ばか、触んないで」
「あのさ、俺だって傷付くんだよ?」
「え、そうなの」
「俺のこと何だと思ってるの」

イケメンナルシストとかそんなところだろうなと思いつつ返事を待っていたら「考えすぎのバレー馬鹿」って返ってきた。なんだ。俺のことわかってるじゃん。

「俺をこんなにヘコませたり喜ばせたり悩ませたりするのはバレーの他に一人だけだよ」

もちろん今言った「バレー」の中には岩ちゃんを筆頭にバレー部の面々が連なってるんだけど、それは今わざわざ口にすることじゃないよね?
顔を覗き込まれないようにか、遂にはその場に座り込んでしまった彼女の前に腰を落とす。

「ちょ……顔ちかい」
「知ってる。でももっと近付きたい」
「なッ」
「うん」
「何も言ってない!」
「でも、ダメって言わないでしょ?」

こんなの全然スマートじゃないし、無理強いしたいわけじゃないんだけど、仕方ないよね。だって、みょうじがかわいいから悪い。
イヤなことはイヤだと言えないコじゃないって知ってる。気持ちを自覚した日のことも、あの日のことも、今触れたい理由も、みょうじが知りたいことは言葉にして伝えるよ。要らないって言われても言っちゃうけど。全部、好きだからだ。
だからお願い、嫌いじゃないなら触れさせて。

 

 

 

Challenge to change(宮治)

 

 

高校二年、進路に悩んでいた。走り出して大声で叫びたい気分だったけどまだ半分通う高校で変人認定されたくはないから、ぐっと我慢。制服のまま汗をかきたくもないから走るのも我慢。だけど結局落ち着かなくて、校内をぐるぐると歩き回った。じっとしているより少しでも身体を動かした方がいい。
普段はうろつかないところまで歩いてくると何やら荒らげた声が聞こえた。体育館だ。開け放されていた扉から中を覗けば、バレーボール用のネットがかかっていて、ここがバレー部の練習場所であることを思い出した。声の発生源はどうやら同学年の双子たちらしい。胸ぐら掴んで睨み合っているものだからぎょっとしたけど長引く話ではなかったのか、二人はすぐに離れてしまった。ならば速やかに離れるべきだったのに、うっかり体育館を見回したものだからそこに居た角名くんと目が合ってしまった。慌てて頭を引っ込めようとするも遅く、ひらひらと手を振られる。気付かないふりをして扉の陰に隠れてみたのに、わざわざ近付いてきてくれたらしい。面白いものでも見つけたかのような角名くんの声が頭上から降ってきた。

「何してんのみょうじ」
「……野次馬」
「ふっ、正直すぎ」

とはいうものの部外者が不躾に詳細を尋ねるのは気が引けて、「おっきい声聞こえたら気になるやん」とだけ言い訳をした。「てっきり練習見にきたのかと思った」と言うから、入部希望者でもないのにそんなもの見てどうするのか、と首を傾げれば「試合じゃなくても見に来る女子多いんだよ。誰かを目当てにして」と返ってきた。なるほどそういうことか、と再び体育館を覗き込む。全体での練習は行っておらず、自主練習時間のようだ。双子をはじめ各々単体でストレッチをしていたり、ボールと戯れたりしていた。見学に来る女子とやらも、なるほど別の扉からちらほらと覗いていた。

「あの二人、いつもあんな感じなん?」
「酷いときは取っ組み合いしてるよ。今日のは大丈夫なやつ。じいさんになったときの幸せ度で競うんだってさ」
「ふぅん?」

何の話かさっぱり分かりません、を顔に出しても、角名くんは説明してくれず笑うばかりだった。

80歳なった時、俺より幸せやって自信持って言えたんなら、そん時もっかい俺をバカにせえや』

聞こえてしまった声を反芻する。じいさんになったとき、と聞いてヨボヨボの双子を想像しようとしたけど、うまく出来なかった。角名くんは飄々としてるところは変わらなさそう。誰にしてもバレー部の面々は背が高いから迫力あるおじいちゃんになるだろうな、と思った。そこまで考えて、誰の腰が曲がる想像も出来ないことに気が付いた。私はどうだろう。しゃんとしたおばあちゃんになれるだろうか。

 

双子の片方がバレーをやめるらしい、というのは後から人に聞いて知ったことだ。どうやらあの日の諍いはそれが理由だったらしい。侑くんはバレーを続けるけど、治くんは高校でやめて別の道へ進む決意をしていること。それをバレーからの「逃げ」みたいに言われて怒ったこと、治くんには譲れない想いがあってぶつかったということ。バレー部のファンであるクラスメイトが教えてくれた。

「でも治くんバレーめっちゃ上手いのに、もったいない!」

休み時間の教室、席が離れているとはいえ本人が教室にいる状況でのそんな発言。彼女に悪気はないんだろう。聞こえてはいまいか、と後方の席を見遣れば、治くんは机に突っ伏して寝ているようだった。胸を撫で下ろして正面に座る彼女へと向き直る。
もったいない、なんて。きっと聞き飽きるほど言われてるんだろう。彼はその言葉をどう受け取っているんだろうか。称賛の裏返しであると受け入れるのか。他人に言われることじゃないと気を悪くするだろうか。それとも百も承知で、それでも違う道に進むんだろうか。想像したところで分からないけど、新しいことを始めるのに勇気がいるのは誰だって同じはず。それだけの覚悟を持って、今までとは違う道に進むなんて、素直に格好いいと思った。

「……もったいないて思うほどの男がまた新しいこと始めようとしとるんやろ? 寧ろ楽しみやん」
「なまえはほんま何でもええ風に言うなぁ。一回でも試合観たら気持ち分かるはずや!」

目の前の彼女はいっそ羨ましいわ、と項垂れた。言っても仕方ないことは彼女も理解しているんだろう。それでも言わずに居られない魅力があるというのだから、稲荷崎のアイドルと言われるだけのことはある。

「まぁそんな言うんやったら一回見てみたなるな」
「行こうや! 今週末も練習試合あるて言うてたで!」
「私も部活やから無理やわ」
「そんなぁ……」

ほんまにほんまに二人ともかっこええから!と力説された。彼が引退するまでに一度くらいは機会があるだろうか。
続けてきたことやめて新しい道へ進むのはいつだって不安だ。だけど今まで頑張ってきた事実が消えるわけじゃないし、やる前に諦めることで数十年後に後悔はしたくない。怖がらずに、新しいことを始めてみたいと、そう思った。

 

 

高校三年、部活を引退した。幼い頃からずっと続けてきた唯一に、区切りをつけた。出来るとわかっていることをやめて新しい道を選ぶのは勇気がいるけど、不思議ともう怖くはなかった。進路調査票には学びたい学部のある大学名を書き込んだ。正直、今の成績だと相当必死にならないといけない。部活顧問からは今後も続けるつもりならそれなりのところに突っ込めるのに、と言われた。それじゃ意味がないんで、と断るには相応の勇気が必要な成績だったけど、このままズルズルといくのはやめにしたかった。部の後輩の指導もそこそこに、ひたすら勉強に励んだ。
引退が特別早かった方ではないと思う。大会のシーズンは部によって違うから皆バラバラだ。春、夏、秋、少しずつ誰かの夢が終わっていく。残った誰かは、種目も頑張ってきた形もまるで違うのに全部託されたみたいになって、全国へ進む部は学校を挙げて応援する雰囲気になる。
バレー部は県内では常勝だ。だけど春高バレーの本戦は東京だから、甲子園みたいに全校で行くことは出来ない。代わりに、県予選最後の日には学校からバスが出るらしい。クラスの有志で応援に行くことになった。吹奏楽部のコが応援ルールについて事細かに教えてくれた。バレーボールのルールならいざ知らず、ウチ独自の応援ルールまであるとは驚きだ。基本的には応援団に合わせればいいというけど不安が残る。軽い気持ちで行くと言ったのは間違いだっただろうか。
いよいよ明日というところで、休み時間の教室、クラスメイトたちと集合時間を確認していた。

「バレー部の試合、初めて見るわ」

思い出したように呟けば、熱心なバレー部ファンのコから信じられないという顔を向けられる。

「嘘やろ!?」
「現役の間はヨソの部の大会見る機会なんて早々ないやん」
「あー、せやなー。ほな、これも初めてちゃう?」

目の前にずいと出されたのは、それはそれはポップでキュートな応援うちわだった。『あつむ愛してる♡』とか『すなくん今日もするどい!』とか『いぶし銀島』とか結構自由だ。誰がいい?と言われて、これは必ず持たなければならないものなのかと頭を抱える。ゼッタイ持たなアカン!と押し切られ「……クラスメイトやしな」と一人を選び、手に取った。「クラスメイト他にもおるけどな」との揶揄いはなるべく自然にスルーした。男子はあっさり断っていた。

「みんな応援来てくれるん?」

机に突っ伏していたから、聞いているとは思わなかった。斜め後ろ席、治くんが欠伸をしながら身体を伸ばしていた。”みんな”ちゃうけどな、と軽口を叩きながらも「当たり前やん」とか「絶対勝てよ!」とか「負けても骨拾ったるわ」とか好き勝手に返事をしていた。苦笑いで見守っていたのに、治くんと目が合ってしまう。

「みょうじさんも?」
「ん。邪魔ならんよう応援するわ」
「……ソレ振ってくれるん?」

頬杖をついてニヤリと笑う治くんの視線を追うと、私が手に持つ応援うちわ。コートから観覧席では見えなくても、この距離ならはっきりと読めてしまっただろう。『おさむLOVE♡♡』と書いてあった。顔に火が昇った。

「いや、これは……っ!」
「嬉しいわ~。愛ある応援は歓迎やで」

「任せろ」とか「俺も愛いっぱいやで!」とか混ざる面子が揃っていたのだから必死になって否定せず乗っかればよかったのに、頭が回らなかった。

「ちゃうねん! さっき必需品や言うて配られてな!?」
「ええやん、めっちゃがんばれるわ。ちゃんと振ってな。見つけるから」
「恥ずかしいからもう言わんといて……」

家に忘れてしまおうか、との企みは「忘れてもいっぱいあるからダイジョーブやで!」とのフォローにより打ち消された。

春高バレー、兵庫県代表校決定戦、当日。クラスで集まって座席を確保する。応援するだけだっていうのに、心臓がうるさかった。自分が出る大会とはまた別の緊張に襲われる。いざ試合が始まってしまえば、息つく暇もない。当たり前だけど体育の授業とは全然違った。それから選手たちが……宮くんが、教室とは全然違う。
目まぐるしく動く試合展開に圧倒されっぱなしだった。結果はストレート勝ち。大勢の観客と一緒に、歓声を上げた。
試合中は観客を思い出す隙もなかったのだろう。試合終了後、治くんは初めてクラスのかたまりを見つけたらしく、声援に手を振って応えてくれた。目があった気がするのは、盛大な勘違いだ。別に、アイドルじゃなくてクラスメイトなんだから目くらい合ってもおかしくないのに、動揺した。手に持つ応援うちわを小さく振り返した。心臓の高鳴りはしばらくおさまりそうにない。

 

 

冬、冬休み、春高。きっと、治くんにとって最後の公式試合になるんだろう。その日ばかりは机じゃなくてテレビにかじりついた。自分の部屋にテレビがあってよかった。どんな結果になっても感極まって泣く自信があった。あの日うっかり持って帰った応援うちわを握りしめて祈った。試合中も試合後も泣いた。
新学期、もう登校する日は多くない。それでも初日の始業式にはクラス全員が揃っていた。バレー部員はどこに行っても囲まれていた。一年からずっと同じクラスで比較的親しい角名くんとは少し話すことができた。治くんにも声をかけたかったけど良い言葉も浮かばずタイミングもなく、午前だけで終わりの一日はあっという間に放課後を迎えた。HRを終えて人が疎らになった教室で他クラスが終わるのを待っていた。

「誰か待っとるん?」

携帯から顔を上げて振り向くと、治くんが教室の扉に手をかけて立っていた。もうとっくに教室を出ていたのに、戻ってきたのは何か忘れ物だろうか。制服姿で、鞄はその手にない。教室に入ってきた宮くんと入れ替わりで、まだ残っていた他のクラスメイトも皆帰っていってしまった。

「二組のコと帰る約束しとって、向こう終わるん待機中」
「あのセンセー、めっちゃハナシ長いよな」
「せやねん。そろそろお腹鳴りそうやわ」
「みょうじさん意外と食い意地張っとるよな」
「治くんに言われたない」
「そらそうや」

軽口に軽口で返すと、宮くんはからからと笑った。コートの中とは全然違う。あのピンと糸を貼ったような治くんを見ることは、もう無いんだろう。もったいない、とは思わずとも、どこか寂しい気持ちはあった。
宮くんは話しながら自分の席に歩いていった。その机の横には見慣れたエナメルが掛けられている。どうやら忘れ物は意外にもソレらしい。

「今日はまだ行くんやね、部活」
「ミーティングだけやけどな。年末でロッカー片付けきらんかったからコレは荷物入れる用。今は空っぽや」

そう言って空っぽのバッグをこちらに向けた。これまでなら忘れるはずもなかっただろうもの。中身の入っていないエナメルを見ると、胸にぽっかり穴が空いたような気がした。

「何か寂しいなぁ」
「……応援してくれとった?」

そんな胸中を見透かすように送られた質問。脈絡なくとも、何のことか分からないはずはない。テレビの向こうにエールを送った、春高。

「……テレビにうちわ振ってもーた」
「そんな気したわ」

急いではいないのか、宮くんはエナメルを持って近くの机に腰掛けた。どうやらもう少し会話に付き合ってくれるらしい。

「結局、生では一回しか観れんかったけど、私も治くんのファンなったわ」
「……ただのファンなん?」
「うーん、熱烈なファンかも? 春高テレビで見とってちょっと泣いてもーたし」
「泣くとこあった?」
「あったあった。……めっちゃカッコよかった」

もう随分と長い間、その背中に勇気を貰ってるよ。そんなことを言えば別にあげた覚えないけどと返されるんだろう。
やめると決めたことを最後までやりきること、その先の新しい挑戦を見据えること。周りにも認められるほど「出来る」と分かっていることを手放して、別の何かを一から始めるのは、すごく勇気が必要だ。だけど怖がる必要なんてなくて、誰より自分自身が楽しみにして立ち向かっていきたい。治くんを見ているとそんな風に考えるようになった。

「俺、バレーやめてもかっこええ予定やから」
「うん? うん」
「楽しみしといてくれるんやろ?」

緩やかに笑う治くんと視線がかち合う。瞬きを繰り返して疑問を訴えても治くんは微笑むばかりで答えをくれない。見つめられることに慣れていなくて、思わず視線を逸らした。すると治くんは何やら脱力して、まぁ覚えとらんよな、と零すように口にした。

「バレーやめた俺も楽しみや、ってみょうじさんが言うたんやで」
「私が? いつ?」
「二年のとき。俺に言うたわけやなくて、誰かと喋っとったと思う。俺がバレーやめるんもったいない〜て言う女子にバレーやめても楽しみな男やん、って返しとったわ」
「私そんなエラそうなこと言うたん!?」

何目線やねん、私。羞恥で顔が熱くなる。治くんがバレーやめるのもったいない、と何人もが口にしていたことは覚えている。だけど、そんな風に言ったどうか、記憶は曖昧だ。

「あの頃はそんな風に言うやつ誰もおらんかったし。おもろいなぁと思って覚えてた」

治くんとは、二年の頃はほとんど接点がなかった。あの頃は自分のことでいっぱいいっぱいで、皆が注目するバレー部にも双子にも特別な興味はなかった。だけど治くんがきっかけで、部活をやめたあとの自分がクリアになった。三年になっても同じクラスで、何度か席が近くなったり、初めてバレー部の試合を観に行ったりして、よく話すようになったと思う。私が意識してしまっているから、だと思っていた。

「別に俺に興味あって言ったんやないってすぐ分かったからちょっとショックやったわ。そっからみょうじさんのこと見るようなってん」
「なに、何のはなし」
「いま教室戻ってきたんも、みょうじさんまだ残っとるて聞いたからやねんけど」
「ちょ、ちょお待って」

思わず両手をかざして制止すると、治くんは「ええけど」と言って黙ってしまった。止めたところで、処理は現実に追いつきそうにない。心の準備ができそうにない。

「これ、何? 何の話しようとしとるん?」
「考えとるままやと思うけど」

意地悪な言い方をする。私が動揺しているのが面白いのか、治くんは楽しそうに笑っている。考えているままの話だというけれど本当にそうだろうか。暇だからってからかっているんじゃないだろうか。もし本当に、これが想像する通りの話ならこっちは寝耳に水だ。だって、もうすぐ卒業だ。登校する期間はあと僅かで、クラスは解散して私たちは皆、別々の道を行く。治くんはバレーをやめる。その道を応援したいと思ってはいたけど、それは私の勝手な思惑で、治くんには届かないところにある想い。だったはずなのに。

「……もう、ええ?」
「あかん。待って、全然あかん」
「早よせな二組終わるやん」

最後まで言わせてや、と治くんが言った矢先、廊下から人の移動する音や声が流れてきた。机に置きっぱなしだった携帯が短く鳴った。待ち人が来てしまう。治くんも気が付いたのか、急かすように私を呼んだ。思わず身体が強張る。視線を泳がせても逃げ場はない。

「みょうじさん」
「……何でしょう」
「ふ、何で敬語やねん」
「緊張するやん!」
「緊張するん俺やと思うけど、まぁええわ。……バレーやめた俺のことも見といてくれる?」

拒否する理由なんて無かった。素直に頷くと、治くんは小さくガッツポーズした。
バレーをする治くんをもっと早く知りたかった、もっと長く見ていたかったと思った。だけど、バレーをしている治くんも、そうじゃない治くんも、全部格好いい。もうすぐ卒業だとか別々の道を行くとか、すべてが些細な話に思えた。

 

 

不安定恋心(宮侑)

 

 

 

朝練を終える時間はどの運動部も大体変わらない。最近はずっと、終わると同時に素早く着替えて教室へ走ってた。だけど、今日は部活がない。ないからと言って身体を動かさないわけにはいかないから、いつも通り早起きして走り込みして、せっかくだからシャワー浴びて優雅に朝ごはん食べて、なんてことしてたら結局いつもより遅くなってしまった。学校に着く頃にはシャワーを浴びた爽やかさなんてすっかり消え失せていた。汗を拭いながら駆け込んだ生徒玄関、こんな時間では他に誰も居ないだろうと思ったのに、下駄箱の向こうに現れたのは、よく知る人物だった。

「なまえやん。おはよ」
「あ、あつむ」
「寝坊したん? 髪ぐちゃぐちゃやで」

息を切らしながら靴を替える隙をついて、乱れた髪を大きな手が撫でつける。触れた瞬間、驚きで身体が跳ね上がる。

「あ、あとで直す。それより早よ教室行かな!」
「今更焦っても変わらんて」
「変わるやろ! 私、急ぐから!」

侑の横をすり抜けて教室へと廊下を駆けた。遅刻寸前だというのに侑は随分と落ち着いていた。そっちの担任は優しいかもしれないけど、こっちはそうもいかない。鐘の音が鳴るのと同時に教室へ滑り込むと、侑の言う通りぐちゃぐちゃになっているのだろう私の姿を見て何人かが大爆笑だった。担任はまだ来ていないらしい。セーフ。息を切らしながら席について、ようやく深呼吸する。そういえば、侑におはよう、って言ってない。

私にとって侑は元カレだけど、侑にとってのわたしは元元元カノくらいで、もう記憶の彼方向こうだと思う。そもそも私は、たった一日で音を上げたのだ。元カノとは言えないかもしれない。やっぱり友だちで居たい、って言った私の願い通りに今は何でもない。良かった、と思うのは別に嘘じゃない。だって望んだのは私だ。だけど人間そう簡単に割り切れるはずもなく「おはよう」を口にする度、「また明日」を告げる度、うまく笑えないことに気付かれないよう必死だ。全然、フツーに出来なくて、つい、直接的な接触を避けてしまっている。
部活があるときはいい。身体を動かしていれば、余計なことを考えなくて済む。だけどそうじゃないとき、今朝みたいに顔を合わせてしまうとダメだった。
私は何かを後悔してるんだろうか。分からない。どうしたら良かったのか、どうしたらいいのか、ずっと分からないままだ。だけど、あのまま続けた方が今より不自然な方向に転がってた。きっとそうだ、そうに違いない。そうやって自分を言い聞かせてる。

「はあ〜……」

机に突っ伏して大仰に溜息を吐き出した。無視してほしい気持ち半分、構ってほしい気持ち半分。そんな複雑な感情のどこを汲んだのかは知らないけれど頬杖をついた隣人は呆れる顔で口を開いた。

「ウザ」

私の吐き出した息を押し戻すように辛辣な言葉で撥ね付ける。天板に頬を張り付けたまま隣の席を見遣れば、心底面倒くさそうな顔した角名がこちらを向いていた。

「角名、おはよう……の前にソレはなくない?もうちょい言葉選んでや」
「爽やかな朝に重苦しい溜め息吐いてるからだろ。無条件で優しくしてもらえる特権を持つのは幼い子どもか恋に傷付いた女のコだけだよ。みょうじは今どっちでもないよね」

ぐうの音も出ない。だけどもう少し遠慮があってもいいと思う。「友だち特権で優しくされたい。優しくしてや」と身体を起こして反論すれば角名はド正直にも「めんどくさ」と投げ返した。そういう男だと知っていた。他人になんて興味ありませんという顔をしながら面白そうなことにはアンテナ張って、火の粉のかからないところでカメラ構えて薄く笑ってるような男だ。そんなだから、例え子ども相手にだって無条件で優しい角名なんてとても想像できない。「ねぇ、聞こえてるよ」と言われて気付く。ぶつぶつ零した悪態は本人に届いていたらしい。

「どうしたの、って聞いてほしい?」
「……聞かんといてほしい」

私が俯くと角名は「やっぱりね」と言って会話を終わらせてしまった。ちょうど担任が教室に入ってきてHRを始める。先生の連絡事項をぼんやりと聞きながら、よそごとばかりを考えていた。
傷付いている、なんて言えるわけがない。 やっぱり友だちとしてしか見れない、なんて言葉で終わらせたのは私だった。侑は“付き合うてみる?”なんて冗談みたいに告げたあのときと同じように薄く笑って、別れの要請をアッサリと了承した。前のテストのときだから気持ち的にはかなり昔。でも実際そんなに時間は経っていない。だけど侑はすぐに新しいカノジョが出来て、また別れて、また別のコと付き合って……とひっきりなし。そんなだから、周りも私が侑の元カノなんてことは知らないと思うし、もしかしたら侑すら覚えてないんじゃないだろうか。それくらい私たちは元通り、元クラスメイトで選択授業や授業の合間にたまたま顔を合わせるくらいの距離の、フツーの友だちだった。ただ、最近ずっと何となく気まずい。
気が付くと、いつのまにかHRは終わりクラスみんなが席を立ち始めていた。どうやらテスト前だというのに先生たちの都合で時間割が替わるらしい。つまり朝イチから選択授業で教室移動となってしまった、らしい。聞いてなかったの、と角名からの冷たい視線に晒されながら、急遽必要となった教科書を探すため机に手を突っ込んだ。

 

 

果たして集中できるか効率が良いかどうかはさておき、勉強会と称し、放課後の教室に屯する習慣がいつの間にか出来上がっている。とは言っても、個々で机に向かっていたり他のクラスからも集まって机を寄せ合ったり、形は様々だ。

「俺の机使ってもいいよ。帰るから」
「ダイジョーブ足りとる! ありがと」

角名を始めとした真っ直ぐ帰宅組が帰り支度するのと同時、約束していたメンバーで机を固める。残るのはクラスの半分以下。机移動を終えて教室を見回しながら席に着く。さぁ始めるぞ、と教科書やらノートやらを取り出しした矢先、上から数冊のノートやプリントがどさりと落とされた。落とした人物を見上げれば、このクラスじゃない方の双子だった。不遜を露わに見下ろす瞳と視線がかち合う。

「次も教えるて言うたやろ」
「……もっと適任おるやろ? ほら角名とか」
「ヤダよ、めんどくさい」

向けた水はいとも容易く弾き返された。物理的に捕まえようと伸ばした手を躱し、じゃあね頑張れ、と思ってもいないだろう一言を落として、角名は一瞬のうちに教室から消えてしまった。

「なまえ」

伸ばした手の行き場をなくしたまま頭上を見上げれば、決してご機嫌とは言えない表情の侑。前のテストのとき、確かに、確かに次も教えるというか一緒に勉強しようなんて話をしたかもしれない。話の流れで次のテストもよろしくな、なんて持ちかけにも了承したかもしれない。

「カノジョに教えてもーたらええやん」
「別れた」
「もう? 早っ!」
「おまえに言われたないわ」

強烈に心臓を突き刺す一言だった。ごもっともや。今日はこんなのばっかりか。言われたくないなら来んな、とでも言い返せばいいのに架空の苦虫を噛み潰して押し黙る。そうしているうち、机を囲っていた友人たちはあろうことかそそくさと離れて新たな島を作っていた。抗議の為に立ち上がる。

「ちょっとぉ! 何でみんな離れてくん!」
「侑くんと約束しとったんやろ〜? アタシらのことは気にせんといて」
「気にするわ!」
「ええからなまえはそっちで勉強しとき」

イヤだ私もそっちに入れて、いや諦めてあっち行って、などと押し問答の後、遂に完全に新しい島から断絶されてしまった。同じクラスの治ならともかく、侑には何となし近寄りづらいという女子は少なくない。だからって分断しないでほしい。薄情な友人たちに取り残され私を尻目に、侑は角名の机を動かして私の真横に連結させた。向かい合わせにするより隣り合わせにした方がノートが見やすいから、と私たちはいつもそうしていた。他意など全くなかったころの話だ。だけど今、そんな手も身体も触れ合うような距離で過ごせるはずもなく……無言で机を動かし、向かい合わせに組み立て直す。侑は不満そうに眉を寄せながらも黙って椅子を引いた。

「早よ始めんで」
「……何で教わる方が偉そやねん!」
「なまえがうだうだ言うとるからやろ。約束したんちゃうんか。誰が悪いねん」
「うっ…………ごめん」
「しゃーないから許したるわ。早よ座って」

これ以上、意地を張っても仕方がない。フツーに接しろ。フツーに。

「……どこが分からんの」
「だいたい分からん。出るとこ教えてや」
「ヤマカンは外れたときのリスク高いやろ」
「今からテスト範囲ぜんぶやる方がムリやろ」
「全部分からん言うつもりか! 授業中なにしとったんや!」
「考え事ようけあったんやろなぁ」
「他人事みたいに言うな!」

噛み付くように指摘しても、侑はあっけらかんとしている。それどころかまるで楽しそうに笑い始めた。フツーに。赤点とらんかったらそれでええねん、と言う侑から先日の小テストの結果を聞くと、別に教える必要はないように思えた。
結局、教えるというよりはほとんど互いに机に向かってるだけだった。時折、視線を悟られないように侑を盗み見ると珍しくも真面目な表情で、随分と集中しているらしかった。そういえば、侑の部活してる姿をしばらく見ていないな、と思った。インターハイの県決勝は皆で応援に出掛けたけど、そこから大きな試合はないし、練習試合は誰かに誘われなければ行かない。そもそも自分の部活もある。他学年の女子みたいにうちわ作って応援したいとは思わないが、汗水流す角名を見て笑いたい気持ちもある。性格ワルいって言われない?なんて悪態を吐かれそうだ。
やがて日が暮れる頃、クラスメイトたちは徐々に帰っていき、私たちもそろそろ帰ろうか、ということになった。校舎の外に出る頃には空が暗くなってきた。自然に、二人並んで歩く。

「俺のこと避けよったやろ。あれ、辞めろ」
「……うん、ごめん」
「フツーにしろ言うたんはなまえやろ。フツーにして」
「ん。せやな」

暗くなる前に帰ろう、とは変な感じだ。部活がないとこんなにも早い。夕陽に照らされた横顔を見上げる。私が変だから、気を遣ってくれたんだろうか。フツーにしろって言ったのに気まずいままだったから、イヤだと思ってくれたんだろうか。元通りになれるだろうか。私だって、気の合う友人を失くしたくはない。帰り道、互いに口数は多いわけじゃないけど自然にどうでもいい会話をした。今朝は寝坊したんじゃない、という言い訳もできた。侑こそがギリギリまで寝てしまい治には置いて行かれたらしく、諦めてのんびりと登校したらしい。

翌日は休み時間の度に現れて、それは別に珍しいことでもないけど、治に「自分の教室帰れ」とか何とか言われて騒いでいた。昼は昼で、お弁当が二段とも白米だったと喚きながら駆け込んできたので角名が「本当にやるんだ、それ」とツボに入っていた。治や角名とは席が近いから会話が自然と耳に入る。別に侑と二人で会話するわけじゃないけど、一言二言話すことはあって、フツーだった。すごく、フツー。
そして放課後、別に約束してるわけでもないのに侑はまたこっちの教室に現れた。治も角名も既に消えている。侑は教室の入り口から私を見つけると、ずかずかと踏み込んできた。私は案の定グループから弾かれて侑と机を囲む羽目になる。

「何やねん、もぉ」
「ええやろ別に」
「ええけど良くない」
「どっちやねん」

結局、また二人で帰ることになって、それは別にフツー。昨日今日が初めてじゃない。フツーだけど、前よりずっと侑を近くに感じる気がして、何だかむず痒かった。意識してるからでしょ、とだれかが頭で囁く。思わず頭を振り回してそんな考えを否定した。横を歩く侑が「何しとるん」と笑っていた。

 

 

「はぁ………」
「辛気くさいんだけど」
「早くテスト期間終わんないかな……」

授業を一日こなした後のHR前、清々しいはずの時間なのに気持ちは曇天だった。

「何なの最近。どうしたいの」

どうしたの、じゃなくてどうしたいの、と言う。面倒臭がるポーズを取りながらも一応聞いてくれるあたり、性格が悪くても角名は何だかんだ優しい。角名に侑との話をしたことはない。もしかしたら侑から、一日だけの彼女になったことくらいは聞いているかもしれないけど、たいして面白い話でもなかっただろう。だから私も、わざわざ愚痴になるだけの詳細を話そうとは思わない。

「……今日は放課後残るのやめる。角名、一緒に帰ろ」
「俺は別にいいけど。いいの?」
「アカン要素なんて何もないやろ」

知らんけど。きっと何もない。HRが終わるなり、荷物を引っ掴み教室を出た。同時に歩き出したはずなのに、コンパスの差のせいで少し早足になる。

「角名は家で勉強しとるん?」
「基本的にはね。昨日は治とファミレス寄ったよ」
「何それ、ええなぁ。私も行きたい」
「今度ね」

あしらうような返しを頂いた。今度っていつやねん。かといって、別に約束を取り付けるようなことでもない。っていうか、適当な約束は身を滅ぼすと最近学んだばかりだ。

「何だかなぁ……」
「溜め息、吐きすぎ」
「悩みごと多い年頃なもので」
「いい加減、疲れない? もう認めたら?」
「何を?」

横を歩く角名を見上げる。身長差あるから視線合わせると首が痛いんだよなぁ、とどうでもいいことを考える。だから、繰り出される言葉に核心を突かれるなん予想はしていなかった。

「みょうじ、侑のこと、好きでしょ?」

え、の形に口を開けて固まる。違うそうじゃない、って反論するにはもうタイミングが遅い。この男は、突然、何を言い出すんだ。私が、侑を好き? 今更? そんなアホな。何て答えたらいいのか分からなくて黙り込んだまま、歩みを止める。
動転していたと思う。だから、背後から近付いていた人物が話題の張本人であることに全く気付いていなかった。

「それホンマ?」

一縷の希望に賭けて、見知った声を振り返る。残念、それは治ではなく確かに侑だった。その顔は研いだ刃物のような無表情。やばい。目が据わってる。どうしてかは分からないけど、良くない空気であることは確かだった。

「角名、今日は帰ってくれ」
「うん」
「え、ちょっ……角名ァ!」
「バイバイ」

引き留めようと手を伸ばすも、侑に首根っこ捕まえられて身動きが取れない。暴れる間もなく、角名はひらひらと手を振って去ってしまった。優しいなんて一瞬でも思った自分がアホだった。やっぱり人の不幸を笑う薄情なやつだ!

「なまえはコッチ」
「なに、何でっ」
「話さなアカンことあるやろ」

ずるずると引き摺られて誰もいない教室に押し込まれる。閉め切るようなことはしないけれどそれでも他に誰も居ない空間に、二人。

「帰りたい。帰らせて」
「ハナシ終わるまでアカン」
「話さなアカンこととか別にないやろ」
「俺はある」

だったら早く殺してくれ、の意で口を噤む。侑は私を壁際に立たせると、自分は行儀わるくも誰かの机に腰掛けた。手を伸ばせば届く距離。ゆっくりと息を吐いた侑がこちらへ鋭い視線を向けた。

「まず何で先帰ろとしたん? 避けるんヤメロ言うたよな」
「……別に避けとるわけやない」
「じゃあ何やねん。トモダチでおりたい言うたのにそれもイヤか? ええ加減にせぇよ」

低く唸るように牙を剝く。空気が軋む。
別に約束してるわけでもないのに、勝手に帰ろうとしたことをどうして責められなければならないのか、と思っていた。さっきまでは。侑は多分、ずっと怒ってた。カノジョもトモダチも出来ず中途半端な私に、ずっと怒ってたんだろう。申し訳なさに押し黙り俯く。

「あー……ちゃう。そうやない。そんなんが言いたいんとちゃうねん」

侑はうーとかあーとか言ったあと、溜め息を吐いて髪をかき乱した。

「……ムリて言うことさせたいわけちゃう。なまえがイヤならトモダチでええかな、って思った。女のコやったら他に幾らでもおるし寄ってくるし別に困らん。せやけど俺はなまえがいいいし、なまえがイヤちゃうなら話は別や」

さらっとヒドいこと言った気がする。私にも他の人にも全方面に失礼すぎる。何言ってんねん、と遮ろうとして口を開きかけたのに、緊張からか声が掠れて言葉にならない。
今、一体どういう状況で何が起こっているのか、脳のリソースが足りなくて処理しきれない。侑は一体、何の話をしているんだろう。話の目的は、終着点は、どこにあるんだろう。金魚みたいに口の開閉だけを繰り返した。侑はそんな私に追い討ちをかけるようになまえ、と私の名前を呼ぶ。

「少しでも気持ちあるんやったら、否定すんな。口にしたら意識するやろ。思い込むやろ。ホンマになるやろ。心のどっかに1ミリでもあるんやったら、それ膨らまして。……俺のこと好きって言えや」

侑の言葉をゆっくりと受け止める。受け取ったソレを、どうしていいのか、まだ分からない。もういっぱいいっぱいだ。侑は黙って私が話すのを待っていた。深く呼吸を繰り返して、声を捻りだす。

「む、むり」
「……何でムリなん」
「しんぞうが……」
「は?」
「心臓が爆発しそう」

両手で顔を覆い隠す。今、鏡を覗いたら、私の顔は真っ赤に茹で上がっているだろう。これ以上、見られたくないし、侑を直視できない。堪えきれず俯いていると突然、腕を掴まれ引き寄せられる。密着する。そんな距離に異性の他人が居るのは初めてだった。反射的に腕を突っ張って拒否を訴えても、びくともしない。

「ちょっ……侑!?」
「何やめっちゃ抱きしめたなった」
「ほんま無理やって」
「ムリて言うな。ムリな理由あるなら今言って。全部否定したるわ」

侑のことが好き? 分からない。だけど、こんなにも特定の誰かで頭がいっぱいになったことなんてこれまでにない。これを恋だと言うのだろうか。決めつけるに早計すぎやしないだろうか。流されてるだけなんじゃないだろうか。そうやっていつまでも焦ったい思考がやまない。そんな中途半端を続けたがる私が作る壁を、侑は何度で壊してしまう。侑のことが好き、なんて。口にしてしまったら最後、きっともう戻れない。

「……私おかしいねん。侑のことばっか考えて、私が私じゃなくなって、アホになりそう」
「ええやん。何が悪いん? まぁアタシとバレーどっちが大事なんとか言われたら引くけど」

言われたことあるのか。あるんだろな。侑がバレーとカノジョを比べられないように、私にだって他に大切なことは幾らでもある。その上で、好きだと、言っていいんだろうか。

「もうええやろ」

諦めろ、の意。いつもながら見上げている目線は、侑が机に腰掛けているせいでほとんど同じ高さだ。その距離が今よりまた縮まろうとしている。あなたはこんなシチュエーション慣れているのかもしれませんが私はそうじゃないんです、と頭がパニックを起こす。廊下を歩く誰かの足音が聞こえてきたから尚更だ。

「ちょっ……誰か来る!」
「別に、見せといたらええやん」
「よくない!」
「もー黙っとき」
「んっ」

吐き出すはずだった反論は飲み込まれた。啄むように唇を喰む。侑が、私の。すぐに離れたその顔を見上げれば、侑は嬉しそうに目を細めて笑った。恥ずかしくてすぐに逸らした。頭をぽんぽん、と撫でられる。
話はまだ終わっていないはずだ。終わりそうもない。だけどもう、逃げるわけにもいかないだろう。なるようにしかならない。好きだよ、と果たして素直に伝えられるだろうか。

 

 

うましか(宮侑)

 

 

「放っといて。侑に話せるようなこと、なんもないから」

言っても仕方がないというよりは、ちっぽけな悩みだと笑われるのが怖かった。
口にしたと同時に「しまった」と思った。冷たく放った言葉がどれだけ深く相手に突き刺さったかを知る術はない。後悔したところで覆水盆に返らず。取り繕いたくて触れようとした手は振り払われてしまう。無言で俯く侑が告げた言葉が、鋭い刃になって真っ直ぐ返ってきた。

「アレもコレもしんどい思うんは、なまえが何にも本気で向き合っとらんから違う?」

敵意には敵意でもって返す。そういう男だ。先に傷付いたのはわたしの方だなんて言い訳は効かないし傷付けられたら傷付けていいわけじゃないことを知っている。だから本当に浅慮からなる言葉だったのだと、謝らなければならないのに、それを告げる前に侑は背を向けて行ってしまった。

しなる背もたれに身体を預けて大きく伸びをした。気を抜きすぎだ、と誰かが咎めるかもしれない。そう思い周囲を見渡してみてもフロアに居る人数も限られたこんな時間では誰もこちらに注目していなかった。壁掛け時計を見て、すっかり遅くなってしまったことを認識する。優に三時間は定時を過ぎていた。スーパーはまだ開いている時間とはいえ、今夜は自炊する気になれそうもない。いつもなら嬉しいはずの週末も、過ごし方が変わったことにまだ慣れず暗雲とした気持ちで迎えるだけだった。
数時間振りにプライベート用のスマホを確認すると、三件の通知が届いていた。古いものから順番に既読をつけていく。定時刻に来るニュースマガジン、近々会う約束をしている友人とのやりとりの続き、それから何の脈絡も無く送られた位置情報。一応はまだ恋人であるだろう宮侑から送られたものだった。最後の一つを開き、その詳細を確認して溜息を吐く。どれに返事を送ることもなく、ディスプレイを暗転させる。まだ残る同僚たちに声をかけてオフィスを後にした。
ビルを出て駅へと歩く。定期を取り出して改札をくぐり、ちょうど到着した電車に小走りで乗り込む。扉に凭れて一息、改めてスマホを見ればリマインドのつもりか、もう一度同じ場所からの位置情報が届いていた。最初のメッセージに既読がついたと気が付いたのだろう。だけど送られてきたのはやはり変わらず位置情報それだけ。

他に何か言うことないんか。

自分勝手にも再び深い溜息を吐いた。こういうことは別に初めてじゃない。それは分かりやすく『ここに来い』の意味を込めて送られたメッセージ。

喧嘩したときは、いつも同じだ。言い合いになればやがて向こうが怒って場を離れ、謝るでもなくこうやって探しに来るように仕向ける。昔からそうだ。『非常階段』とか『理科準備室』とか、それだけ一言送られてきて、仕方なく向かえば決して可愛げのない図体をそれでも小さくして待っている。言葉は尊大でも心の内を見ることが出来た。それでつい絆されて、何で怒っていたのかどうでもよくなってしまう。原因がどちらにあっても、同じだった。高校生の痴話喧嘩なんてそんなもんだ。どれだけすれ違っても、たとえ呼び出しに応じなくても、教室に行けば毎日顔を合わせてしまうのだからどちらかが決定打を口にしない限り簡単に修正が効いた。もう話したくない、なんて思っても「おはよう」には「おはよう」を返さないわけにはいかなくて、それで朝イチ授業何やっけとか宿題やった?とかぎこちなくも話して、気付いたら元通り。高校二年の春から卒業までずっとそうだった。
だけど今は違う。会おうと思わなければ、会えない。カッとなるとすぐに突き放す言葉で拒絶するのがわたしの悪いくせ、そして話し合いを途中で放棄するのは侑の悪いくせだ。
あれから二ヶ月が経っていた。お互い社会人で向こうは遠征も多いことを考えれば、顔を合わせない期間としてそう長い方ではない。けれど、連絡すら取らないのは初めてだった。
このまま終わるんだろうか、それでもいいかもしれない、と考えていたわたしは卑怯なんだろう。話し合うことをいつも怖がったのは侑じゃなくわたしの方だ。だけどそんな臆病さをどうやら彼は今回も許してくれないらしい。
今日は行けないごめん、と一言返そうかと思った。それでは先延ばしにするだけで解決に至らないことを知っていても。解決、したい気持ちがあるならば、向き合わなければならない。

少しばかり葛藤したところで、取る選択肢は変わらない。不躾な呼び出しが腹立たしくはあるもののパブロフの犬よろしく、その位置情報を見れば思い浮かぶ抗えない魅力もある。そう、疲れた身体に力をくれる美味しいおにぎり。もう閉店の時間とはいえ呼び出すからにはお腹を満たしてくれるに違いない。店主には俺が呼び出したんとちゃうし、とか何とか言われるかもしれないが知らないはずないのだから同罪だった。
心が決まれば、さて地図が示す場所へと向かうべく、自宅に帰るのとは逆方向の電車に乗り換える。通勤の群れはとっくに消えて、車内は金曜の夜に浮かれる人々で溢れていた。かと思えば、疲れ切った顔で座席に沈む会社員も少なくはない。果たして、わたしはどちらに見えるだろうか。
目的の駅へ降りて店に辿り着くと、引き戸には『閉店』の札が下がっていた。のれんも既に無い。けれど明かりは点いている。だから遠慮なく戸を開いた。

「お、なまえちゃん」
「治、おつかれ」

店へ入ると、帽子を外し店主モードを解除した治が出迎えてくれた。それでも「腹減っとる?」なんて聞いてくれるものだから、正直に「もうペコペコ!」と答えてしまう。ちょっと待っとれ、と笑う治に元気よく了承の返事をして、カウンターの丸椅子に腰を下ろす。他に客は誰も居ない。店内をぐるりと見回してみても変わらない。閉店後だから当たり前かもしれないが、今夜ばかりはもう一人居ると思って訪れたのだから首を傾げる。

「……侑は?」
「さっきまで居ったんやで。どっか飲みに行った」
「ウソやろ!?」

人を呼び出しといて? 飲みに行った? ありえへん!
口にせずとも表情で全て伝わったらしく、治が笑う。

「今日はもうなまえちゃん来ーへんと思って不貞腐れよったわ。既読なったけど返事ない、て騒いどったで」
「……返しようなかったもん。何て送られてきたか知っとる?」
「知らん」
「この店の位置情報だけやで。他に何も、一言もなし」

食い気味に告げれば、治は呆れた表情を作った。

「それは……ようソレで来てくれたなあ」
「位置情報がどこか分かったら、ムカつくんより食欲が勝った」
「何や嬉しいこと言うやん。ほい、お待たせしました〜」
「明太子! やったぁ」

こればかりは手放しで喜んでいい。目の前に提供された皿からはほかほかと湯気が上がっている。私はそれが、ふわふわのおにぎりだと知っている。お味噌汁とお漬物を添えて、まごうこと無き主役の輝きを放っていた。手を合わせて、いただきますをする。この時ばかりは、おしとやかさは必要ない。大きく口を開けて勢いよく頬張る。広がるしあわせを噛み締めていると、視線を感じてカウンター向こうを見上げた。ニヤニヤと、と表すのが正しいだろう顔で治がこちらを眺めている。今更取り繕う必要はないけれど気恥ずかしさがないわけじゃない。

「……見られとると恥ずいんやけど」
「美味そに食べてくれるなー思て」
「美味しいんやもん」

それだけで、今日ここに来た意味はある。寧ろコレ以外に何かあっただろうか。美味しいごはんを求めてやってきた。それでいい。

「こーんなええコ放っぽって一人で飲みにいくなんてアイツほんまアホやなあ」
「……もっと言うたって」

外れない視線は諦めて食事を続ける。まだ明太子を頬張っている最中だというのに今度は鮭といくらのコンボを差し出してきた。果たして食べきれるだろうか、なんて心配は完全に杞憂だった。いとも簡単にぺろりと平らげてしまう。営業時間内なら絶対にしないだろうに、治はカウンターに肘をついて遂にわたしが食べ終わるまで眺めていた。お茶を飲みながら「ごちそうさま」を告げたのに、治は「足りとる?」とまだ手を動かそうとするものだから慌てて「お腹いっぱい。ありがと」と膨れたお腹を叩いて見せた。

「空腹はサイアクのコンディションやからな〜。あとは、まあ……飲みたい気分やったら付き合うで?」

見えるように獺祭を掲げた治は返事を聞くでもなく「座敷で飲も」といそいそど靴を脱いだ。丸椅子をくるりと回し、治を追う。

「おにぎり宮、いつの間にそんなサービス始めたん?」
「なってへんよ~。店仕舞いしたし、なまえちゃんやからトクベツ」

悪戯に笑う治につられて表情が緩む。生まれてから同じ歳月を重ねてきたはずなのに治は侑より、わたしより、ずっと大人になった気がする。言葉に甘えて座敷に上がり込む。何となく正座したわたしを治が笑う。一升瓶からお猪口へ注がれた筋を眺めた。魅力的な表面張力を揺らし掲げ、零さないようにその一杯を煽った。足を崩して座り直す。「まあ飲み」と再び注がれた二杯目にちびちびと口をつける。お腹いっぱいのはずなのにツマミにと出されたピリ辛きゅうりは入るから不思議だ。

「ほんで?」
「……弱音吐くことは、頑張ってない証明になると思う?」
「何やソレ。ツムが言うたんか?」
「侑やないよ。わたしの考え」
「そんでもなまえちゃんがそう思う何かは言うたわけやろ」

指摘されて思わず黙り込む。侑がそう言ったわけじゃない。だけどふとした瞬間にその重圧を感じてつらくなる。勝手に卑屈になっているだけだと分かっている。もうずっと、プロのスポーツ選手と一般人との隔たりに臆したまま、侑に弱音なんて吐けないままだ。だってそうでしょう。わたしが日々の仕事で感じるしんどさなんて、侑が感じてる重圧に比べたらちっぽけなもの。だから侑もわたしには何にも言わない。部活とは違うんだから当たり前だ。
弱音と愚痴に境目はあるだろうか。当然、受けとる相手次第だと分かっている。努力が足りないから不安になるのだ、なんて言われるまでもない。甘えだって分かってる。だけど誰もが毎日満点取れるわけじゃない。及第点目指して適度に頑張って、それでも自分を褒め称えたい日だってある。そんな日は疲れたなとかちょっとヤなことあってさなんて何てことない会話をしたいだけだ。それはわたしの我が侭だろうか。自分のことでいっぱいいっぱいで、他人を思い遣る余裕をなくしてる。

「あんなぁなまえちゃん、弱音なんて誰でも吐いてええに決まっとる。俺かて毎日手探りやしコレやと思って出した新メニューが全然アカンくんてヘコむことあるし、侑も同じや。しょっちゅーここに突っ伏してウンウン唸っとる」
「二人とも? ほんまに?」
「おん。アイツはなまえちゃんの前やとカッコつけとるんか知らんけど」
「……こんな長く一緒おるのに、今更?」
「なまえちゃんやてそーやん。カッコつけたいから侑には言えんのやろ。吐き出してみたら案外あっさりしてるもんやで。今、俺に言うてるみたいにな」

カッコつけたいから弱みを見せたくないと思うなら、カッコつけたいのは好きだからだ。なのにそれが原因で傷つけ合っていれば世話ない。付き合う前ならともかく、もう何年も一緒に居るというのに、そんなの、そんなの二人してアホみたいじゃないか。
考え込んでいたわたしを引き戻したのは、店の戸をガタガタと揺らす音だった。明かりが点いているからまだ営業していると勘違いされたか。それにしても鍵は開いていないのに諦める様子がなく壊されそうな勢い。ガラの悪い酔っ払いだろうか。不安を携えて治へ視線を送ると、その口元は意外にも弧を描いていた。矢先、聞こえてきたのは聞き覚えのある声で。よく見れば、戸の向こうに見える影は見慣れたその人で。

サム! 居るんやろ。早よ開けろ!」
「うるさいわぁ。ガラ悪い酔っ払いやなぁ」

反応を見るに初めから誰だか分かっていただろうに、治は渋々といった様子で立ち上がった。治が戸を開けると、不機嫌ですと顔に書いた侑が仁王立ちした。鍵を開けてくれた治を一瞥するとこちらに届くか届かないかの小声で「飲んどったんか」と呟く。再び戸締りをする治が「いつもと違うこと、やろ?」と返事した。わたしが来たことはリークされていたのだろうか。侑は座敷の横までやってくると、こちらを見下ろしドスの効いた声を吐き出した。

「……返事くらいせえや」

メッセージを既読スルーしたことを言っているらしい。もう慣れたもので睨まれても怖くもなんともないけれど、およそ彼女に向ける声色じゃない。ぷいと顔を背けて反論する。空になったお猪口に今度は自分で三杯目を注いだ。戻ってきたはいいが喧嘩腰でくるのなら結局何も変わりはしない。

「したい思うように送らん侑が悪い」
「はぁ? 何やねん」

どかり、と先程まで治が座っていた側に腰を下ろした。座敷に上がるでもなく足は床につけたまま上半身だけをこちらへ向ける。ぶすくれた顔で文句を続けた。

「試合も見に来ーへんし。感謝祭……は別に来んでええけど」
「試合の日は仕事やて前から言うてたやろ」
「土日祝まで仕事て、ブラックなんちゃうか」
「ブラックはそっちやろ」
「せやねんチームみんな腹黒いもんやからチーム名までブラック……ってそんな洒落いらんねん!」
「土日祝は基本休みやけど、そうじゃないときもあんの。ちゃんと振替は取っとる」
「ハナシ振っといてスルーせんといて!」

次第にいつもの調子でギャーギャーうるさいわたしたちを見て、治は聞かせるようにわざとらしく咳払いした。思わず口を閉ざし、侑と揃って治へ視線を送る。

「長なりそうやから後ろ片してくるわ。ちゃんと仲直りせぇよ。店でいかがわしいことすんなよ」
「せぇへんよ!」
「するわけないやろ!」

反論したのは同時だった。「ならええけど」と笑いながら奥に入った治を見送り、暫し黙り込む。言わなければ。わたしが、謝らなければならない。

「……スマンかった」

先に口を開いたのは侑だった。出てくると思わなかったストレートな言葉に驚く。何に対しての謝罪だろうか。入るなり突っ掛かってきたこと? それとも。

「あんとき、酷いこと言うた」
「……何で侑が謝るん」
「土俵の違う人間にぶつける言葉やなかった。なまえがどれだけ頑張っとるかは俺が測ってええことちゃう」

真っ直ぐ、相手を射るような瞳でわたしを見る。わたしが好きな侑の眼。弱さを見せるのが怖いだなんて、もうとっくに射抜かれて全部曝け出してるくせに、今更何を足掻いていたんだろう。

「ごめん。わたし余裕なくて、話すことぜんぶ愚痴になってまいそうで、何も言えんくて……やからって突き放して、それで嫌われたら意味ないのにな」
「キライなるわけないやろ。見くびんな」

強い語調で言われても、感じるのはあたたかさだけだった。

「しょーもないことも大事やと思うことも教えてや。なまえのことなら全部知りたい」

わたしだって侑の全部が知りたい。分からなくても分かりたい。自分にも他人にも厳しくて、いつも本気でぶつかってくる侑がわたしは怖かった。向き合う前に怯えて、言っても仕方ないなんてカッコつけて、ぐちゃぐちゃと余計なことばかり考えていた。ただ、真っ直ぐな気持ちにわたしなりの本気で応えればよかっただけなのに。

「わたし、侑のこと本気やなかったみたい」
「は? ちょお待て、どういうことや」
「あ、ちゃうねん。語弊ある」
「ちゃうて何がやねん本気やないなら浮気? え? 今の流れで??」

けらけらと笑うわたしを侑は訝しげに睨めつける。「カッコわるいな、わたし」と肩を竦めれば侑は「意味わからん」と口を尖らせた。結局、今も昔も変わらない。大なり小なり何があっても、元通りにならずにはいられない。
一人で納得してしまったわたしから中身を聞き出すことを諦めたのか、侑は一際大きな溜息を吐いた。履きっぱなしだった靴を脱いでようやく座敷に上がると胡座をかいて両手を広げる。そっと近寄れば、それだけでは足りないと引き寄せられて上に乗せられた。体勢を整える間もなく唇を寄せられて、思わず掌で防げば、侑はむくれた顔でその手を掴む。

「仲直りのチューは必須やろ」
「ここではせえへん」
「せやったら、早よ帰っていかがわしいことしよ」
「……アホ」

悪態は単なる照れ隠しだと知られている。形の良い唇が弧を描き、わたしの前髪を掻き分けた。含み笑いを隠そうともせずに覗き込まれて、気恥ずかしさに顔を逸らす。頬を掴まれてまた戻される。
喚き合いが聞こえなくなった頃合い、そろそろ治が戻ってくるだろう。正直、一連の流れを考えればただでさえ頭が上がらないのにこんなところでイチャついている姿を見られたくはない。お礼を告げて、お詫びを約束して、今日のところは退散しよう。明日が休みでよかった。今まで言えなかったこと、伝えたいこと、知りたいことがたくさんある。いかがわしいことをお預けにして、夜更けまで語らいたいという希望は果たして受け入れてもらえるだろうか。

 

 

にっちもさっちも(木兎)

 

空調を効かせるほど暑くも寒くもなく、かつ締め切るには勿体ない快晴だった。季節の間の心地いい空。そして、お昼前で集中力があるような無いような絶妙な時間。先生が黒板に綴る数字と記号を黙々と書き写し、その続きに自分なりの解を記してペンを置いた。周りはまだ多くが机に向かっていて、先生はそれを止める様子はない。

開け放した窓の外からは気持ちいいそよ風と共に、時折ワッと歓声が届いた。カーテンは風に靡かないよう束ねられていて、身を乗り出さなくてもグラウンドがよく見える。今は1組と2組が合同で体育をしている時間割。女子は体育館でバレー、男子はグラウンドでサッカー。試合形式で、半分遊びのように走り回っているらしい。校舎とグラウンドを隔てるフェンスのせいで距離があっても、ギャラリーが呼ぶ声のせいで誰がコートの中心に居るかなんて見なくても分かってしまう。バレー部主将、木兎光太郎。3年になってクラスが離れてしまい、少しばかり残念に思っていたけれど同じクラスならこの景色は見られなかっただろう。パスを受けて、当然のようにそのまま遠方からゴールを決めた。どこに居ても目立つ男だ。大きく勝どきを上げてガッツポーズしている。金一封がかかった球技大会や食券が貰える体育祭ならともかく、普通の体育でここまで盛り上がるのも珍しい。他のクラスメイトも木兎の熱気に巻き込まれているのか、一緒になってチームの勝利を祝っているようだった。

意識を教室内に戻すと、先ほどよりも顔を上げている生徒が増えていた。小声で話す人数も少なくない。先生がざわついてきた教室を見回し、あと何分待つか考えるように時計に視線を送っていた。黒板の解答欄を埋めるのは果たして誰だろうか。自信は無いから解答役が当たりませんように、と祈る。今日の日付と出席番号は被っていないから確率は低い。そうじゃなくて先生の気まぐれならせめて目立たないように、目が合わないようにしなければならない。

無駄な努力と分かっていて精一杯気配を薄くしたところで、丸めていた背中を後ろの席からちょちょい、とつつかれた。私語をしているクラスメイトは他にも居る。それでも、ここで指名されるリスクを上げたくはないのに一体何だ。頭だけ振り返り、声には出さず何ですか、を伝えると、木葉は笑ってグラウンドを指差した。その方向へと視線を遣ると、ギャラリーが集まる校舎側にまで戻ってきたらしい木兎が満面の笑みでこちらに両腕を振っていた。それだけなら良かった。

「みょうじーっ!!」

まさか、大声で名前を呼ばれるなんて思わないじゃないか。反射的に視線を逸らし、姿勢を正して座る。

「あれ? 聞こえねえのかな? みょうじーっ!!」

聞こえてる。聞こえてるけど、少しは考えてくれ。自分が授業の真っ最中であると同じく、こちらも授業中であるのだと。

「……みょうじ、呼んでる」
「聞こえない。わたしは何も聞こえない」

小声で告げる木葉の言葉に思わず身をかがめ耳を塞ぐ。こんなの、どうしたらいいんだ。っていうか、何の用があって呼ぶんだ。用があっても後にしてほしい。意味が分からない。

大声で何度も名を呼ばれれば、周りも何事なのかとこちらに視線を送る。そして窓に近い者たちは身を乗り出してグラウンドを覗き、けれどその声の主を知ると「何だ、木兎か」と納得してしまう。早く諦めてくれ、と身を小さくして嵐が過ぎるのを待つ頃、先生までが窓に寄り賑やかさの原因を知ってしまった。そんな先生の姿を見つけてしまった木兎が、今度は先生の名を呼び「ヤッホー!」などと持ち前のアホを発揮している。これで木兎の意識が逸れたならそれでいい、と恐る恐る突っ伏していた身体を起こすと、目敏くそれに気付いてしまったらしい木兎が再びわたしを呼んだ。

「みょうじーッ! 昼、そっち行って良いー!?」

この後の昼食について相談したいらしい。そんなの、携帯にでも送ってくれ。何がどうしてこんな大衆の面前で話す必要があるのか。先生は名指しされて溜息を零したのち、あからさまにわたしに視線を向けた。

「……みょうじ。返事してやれ。うるさくて敵わん」
「いや、あのぉ……」

しどろもどろと返すわたしを周りも茶化し始める。「旦那が呼んでるぞ!」と囃し立てる輩まで出る始末。旦那じゃありません。マジで。元来、目立つことは得意じゃない。教室中の視線を浴びて、羞恥で耳まで赤くなっているだろうことを自覚した。

「木葉、何とかしてよ……チームメイトでしょ」
「いや俺にはムリ。ごめん」

あっさりと白旗を揚げた木葉を睨む。何でこんなことになってるんだ。気のせいではない頭痛にこめかみを抑えながら窓の外へ顔を向けると、見えるはずのない距離でキラキラとした瞳がこちらに向いているのが見えた。どうやら、大人しく返事を待っているらしい。諦めて気の抜けた腕を振り上げると、それだけで肯定したことが伝わったらしい。直視できずとも視界の端に映る木兎が飛び上がるのが分かった。

「良かった! また後でなーっ!」

良かった。終わった。全体通して良かったとはとても言えないがとにかく嵐は過ぎ去ったのだ、と胸を撫で下ろす。木葉が我慢しきれない笑いを堪えて震えているのが伝わり、八つ当たりに文句の一つでも言ってやろうと後ろを振り返ったところで先生から再び名指される。

「……よし、じゃあみょうじ。お前コレ解け」
「エッ、わたしですか!?」
「授業妨害したからだ」
「わたしのせいじゃないですよね!?」
「同罪だ」

冤罪にも程がある。納得がいかないながらも拒否する権利はどこにもなく、渋々ノートを片手に立ち上がり黒板へと向かった。

自信がないながらも答えた問題は、途中式が足りていなかったらしく満点とはいかなかったけれど先生の優しさでマルを貰えた。席に戻ると後ろの席からまだニヤニヤが送られてくるので後で覚えてろよ、と思ったけれど先生から「次は木葉だ」と指名されていたので少し溜飲が下がった。

やがてチャイムが鳴り、お昼休みを迎える。そうすれば着替え時間のロスなど物ともせず御機嫌な誰かさんが教室へと駆け込んでくるだろう。正直、これ以上教室中の視線に耐えられそうにない。学食もごめんだ。あれだけ大声で叫ばれては、クラスに限らず認知されてしまっているだろう。幸いにも今日はお弁当だし、どこか人の少ないところへ逃げ込むに限る。出来れば一人で静かに過ごしたいけれど、約束した限りそれはとうに叶わない望みだった。諦めて、賑やかな昼食を楽しもう。