にっちもさっちも(木兎)

 

空調を効かせるほど暑くも寒くもなく、かつ締め切るには勿体ない快晴だった。季節の間の心地いい空。そして、お昼前で集中力があるような無いような絶妙な時間。先生が黒板に綴る数字と記号を黙々と書き写し、その続きに自分なりの解を記してペンを置いた。周りはまだ多くが机に向かっていて、先生はそれを止める様子はない。

開け放した窓の外からは気持ちいいそよ風と共に、時折ワッと歓声が届いた。カーテンは風に靡かないよう束ねられていて、身を乗り出さなくてもグラウンドがよく見える。今は1組と2組が合同で体育をしている時間割。女子は体育館でバレー、男子はグラウンドでサッカー。試合形式で、半分遊びのように走り回っているらしい。校舎とグラウンドを隔てるフェンスのせいで距離があっても、ギャラリーが呼ぶ声のせいで誰がコートの中心に居るかなんて見なくても分かってしまう。バレー部主将、木兎光太郎。3年になってクラスが離れてしまい、少しばかり残念に思っていたけれど同じクラスならこの景色は見られなかっただろう。パスを受けて、当然のようにそのまま遠方からゴールを決めた。どこに居ても目立つ男だ。大きく勝どきを上げてガッツポーズしている。金一封がかかった球技大会や食券が貰える体育祭ならともかく、普通の体育でここまで盛り上がるのも珍しい。他のクラスメイトも木兎の熱気に巻き込まれているのか、一緒になってチームの勝利を祝っているようだった。

意識を教室内に戻すと、先ほどよりも顔を上げている生徒が増えていた。小声で話す人数も少なくない。先生がざわついてきた教室を見回し、あと何分待つか考えるように時計に視線を送っていた。黒板の解答欄を埋めるのは果たして誰だろうか。自信は無いから解答役が当たりませんように、と祈る。今日の日付と出席番号は被っていないから確率は低い。そうじゃなくて先生の気まぐれならせめて目立たないように、目が合わないようにしなければならない。

無駄な努力と分かっていて精一杯気配を薄くしたところで、丸めていた背中を後ろの席からちょちょい、とつつかれた。私語をしているクラスメイトは他にも居る。それでも、ここで指名されるリスクを上げたくはないのに一体何だ。頭だけ振り返り、声には出さず何ですか、を伝えると、木葉は笑ってグラウンドを指差した。その方向へと視線を遣ると、ギャラリーが集まる校舎側にまで戻ってきたらしい木兎が満面の笑みでこちらに両腕を振っていた。それだけなら良かった。

「みょうじーっ!!」

まさか、大声で名前を呼ばれるなんて思わないじゃないか。反射的に視線を逸らし、姿勢を正して座る。

「あれ? 聞こえねえのかな? みょうじーっ!!」

聞こえてる。聞こえてるけど、少しは考えてくれ。自分が授業の真っ最中であると同じく、こちらも授業中であるのだと。

「……みょうじ、呼んでる」
「聞こえない。わたしは何も聞こえない」

小声で告げる木葉の言葉に思わず身をかがめ耳を塞ぐ。こんなの、どうしたらいいんだ。っていうか、何の用があって呼ぶんだ。用があっても後にしてほしい。意味が分からない。

大声で何度も名を呼ばれれば、周りも何事なのかとこちらに視線を送る。そして窓に近い者たちは身を乗り出してグラウンドを覗き、けれどその声の主を知ると「何だ、木兎か」と納得してしまう。早く諦めてくれ、と身を小さくして嵐が過ぎるのを待つ頃、先生までが窓に寄り賑やかさの原因を知ってしまった。そんな先生の姿を見つけてしまった木兎が、今度は先生の名を呼び「ヤッホー!」などと持ち前のアホを発揮している。これで木兎の意識が逸れたならそれでいい、と恐る恐る突っ伏していた身体を起こすと、目敏くそれに気付いてしまったらしい木兎が再びわたしを呼んだ。

「みょうじーッ! 昼、そっち行って良いー!?」

この後の昼食について相談したいらしい。そんなの、携帯にでも送ってくれ。何がどうしてこんな大衆の面前で話す必要があるのか。先生は名指しされて溜息を零したのち、あからさまにわたしに視線を向けた。

「……みょうじ。返事してやれ。うるさくて敵わん」
「いや、あのぉ……」

しどろもどろと返すわたしを周りも茶化し始める。「旦那が呼んでるぞ!」と囃し立てる輩まで出る始末。旦那じゃありません。マジで。元来、目立つことは得意じゃない。教室中の視線を浴びて、羞恥で耳まで赤くなっているだろうことを自覚した。

「木葉、何とかしてよ……チームメイトでしょ」
「いや俺にはムリ。ごめん」

あっさりと白旗を揚げた木葉を睨む。何でこんなことになってるんだ。気のせいではない頭痛にこめかみを抑えながら窓の外へ顔を向けると、見えるはずのない距離でキラキラとした瞳がこちらに向いているのが見えた。どうやら、大人しく返事を待っているらしい。諦めて気の抜けた腕を振り上げると、それだけで肯定したことが伝わったらしい。直視できずとも視界の端に映る木兎が飛び上がるのが分かった。

「良かった! また後でなーっ!」

良かった。終わった。全体通して良かったとはとても言えないがとにかく嵐は過ぎ去ったのだ、と胸を撫で下ろす。木葉が我慢しきれない笑いを堪えて震えているのが伝わり、八つ当たりに文句の一つでも言ってやろうと後ろを振り返ったところで先生から再び名指される。

「……よし、じゃあみょうじ。お前コレ解け」
「エッ、わたしですか!?」
「授業妨害したからだ」
「わたしのせいじゃないですよね!?」
「同罪だ」

冤罪にも程がある。納得がいかないながらも拒否する権利はどこにもなく、渋々ノートを片手に立ち上がり黒板へと向かった。

自信がないながらも答えた問題は、途中式が足りていなかったらしく満点とはいかなかったけれど先生の優しさでマルを貰えた。席に戻ると後ろの席からまだニヤニヤが送られてくるので後で覚えてろよ、と思ったけれど先生から「次は木葉だ」と指名されていたので少し溜飲が下がった。

やがてチャイムが鳴り、お昼休みを迎える。そうすれば着替え時間のロスなど物ともせず御機嫌な誰かさんが教室へと駆け込んでくるだろう。正直、これ以上教室中の視線に耐えられそうにない。学食もごめんだ。あれだけ大声で叫ばれては、クラスに限らず認知されてしまっているだろう。幸いにも今日はお弁当だし、どこか人の少ないところへ逃げ込むに限る。出来れば一人で静かに過ごしたいけれど、約束した限りそれはとうに叶わない望みだった。諦めて、賑やかな昼食を楽しもう。