不安定恋心(宮侑)

 

 

 

朝練を終える時間はどの運動部も大体変わらない。最近はずっと、終わると同時に素早く着替えて教室へ走ってた。だけど、今日は部活がない。ないからと言って身体を動かさないわけにはいかないから、いつも通り早起きして走り込みして、せっかくだからシャワー浴びて優雅に朝ごはん食べて、なんてことしてたら結局いつもより遅くなってしまった。学校に着く頃にはシャワーを浴びた爽やかさなんてすっかり消え失せていた。汗を拭いながら駆け込んだ生徒玄関、こんな時間では他に誰も居ないだろうと思ったのに、下駄箱の向こうに現れたのは、よく知る人物だった。

「なまえやん。おはよ」
「あ、あつむ」
「寝坊したん? 髪ぐちゃぐちゃやで」

息を切らしながら靴を替える隙をついて、乱れた髪を大きな手が撫でつける。触れた瞬間、驚きで身体が跳ね上がる。

「あ、あとで直す。それより早よ教室行かな!」
「今更焦っても変わらんて」
「変わるやろ! 私、急ぐから!」

侑の横をすり抜けて教室へと廊下を駆けた。遅刻寸前だというのに侑は随分と落ち着いていた。そっちの担任は優しいかもしれないけど、こっちはそうもいかない。鐘の音が鳴るのと同時に教室へ滑り込むと、侑の言う通りぐちゃぐちゃになっているのだろう私の姿を見て何人かが大爆笑だった。担任はまだ来ていないらしい。セーフ。息を切らしながら席について、ようやく深呼吸する。そういえば、侑におはよう、って言ってない。

私にとって侑は元カレだけど、侑にとってのわたしは元元元カノくらいで、もう記憶の彼方向こうだと思う。そもそも私は、たった一日で音を上げたのだ。元カノとは言えないかもしれない。やっぱり友だちで居たい、って言った私の願い通りに今は何でもない。良かった、と思うのは別に嘘じゃない。だって望んだのは私だ。だけど人間そう簡単に割り切れるはずもなく「おはよう」を口にする度、「また明日」を告げる度、うまく笑えないことに気付かれないよう必死だ。全然、フツーに出来なくて、つい、直接的な接触を避けてしまっている。
部活があるときはいい。身体を動かしていれば、余計なことを考えなくて済む。だけどそうじゃないとき、今朝みたいに顔を合わせてしまうとダメだった。
私は何かを後悔してるんだろうか。分からない。どうしたら良かったのか、どうしたらいいのか、ずっと分からないままだ。だけど、あのまま続けた方が今より不自然な方向に転がってた。きっとそうだ、そうに違いない。そうやって自分を言い聞かせてる。

「はあ〜……」

机に突っ伏して大仰に溜息を吐き出した。無視してほしい気持ち半分、構ってほしい気持ち半分。そんな複雑な感情のどこを汲んだのかは知らないけれど頬杖をついた隣人は呆れる顔で口を開いた。

「ウザ」

私の吐き出した息を押し戻すように辛辣な言葉で撥ね付ける。天板に頬を張り付けたまま隣の席を見遣れば、心底面倒くさそうな顔した角名がこちらを向いていた。

「角名、おはよう……の前にソレはなくない?もうちょい言葉選んでや」
「爽やかな朝に重苦しい溜め息吐いてるからだろ。無条件で優しくしてもらえる特権を持つのは幼い子どもか恋に傷付いた女のコだけだよ。みょうじは今どっちでもないよね」

ぐうの音も出ない。だけどもう少し遠慮があってもいいと思う。「友だち特権で優しくされたい。優しくしてや」と身体を起こして反論すれば角名はド正直にも「めんどくさ」と投げ返した。そういう男だと知っていた。他人になんて興味ありませんという顔をしながら面白そうなことにはアンテナ張って、火の粉のかからないところでカメラ構えて薄く笑ってるような男だ。そんなだから、例え子ども相手にだって無条件で優しい角名なんてとても想像できない。「ねぇ、聞こえてるよ」と言われて気付く。ぶつぶつ零した悪態は本人に届いていたらしい。

「どうしたの、って聞いてほしい?」
「……聞かんといてほしい」

私が俯くと角名は「やっぱりね」と言って会話を終わらせてしまった。ちょうど担任が教室に入ってきてHRを始める。先生の連絡事項をぼんやりと聞きながら、よそごとばかりを考えていた。
傷付いている、なんて言えるわけがない。 やっぱり友だちとしてしか見れない、なんて言葉で終わらせたのは私だった。侑は“付き合うてみる?”なんて冗談みたいに告げたあのときと同じように薄く笑って、別れの要請をアッサリと了承した。前のテストのときだから気持ち的にはかなり昔。でも実際そんなに時間は経っていない。だけど侑はすぐに新しいカノジョが出来て、また別れて、また別のコと付き合って……とひっきりなし。そんなだから、周りも私が侑の元カノなんてことは知らないと思うし、もしかしたら侑すら覚えてないんじゃないだろうか。それくらい私たちは元通り、元クラスメイトで選択授業や授業の合間にたまたま顔を合わせるくらいの距離の、フツーの友だちだった。ただ、最近ずっと何となく気まずい。
気が付くと、いつのまにかHRは終わりクラスみんなが席を立ち始めていた。どうやらテスト前だというのに先生たちの都合で時間割が替わるらしい。つまり朝イチから選択授業で教室移動となってしまった、らしい。聞いてなかったの、と角名からの冷たい視線に晒されながら、急遽必要となった教科書を探すため机に手を突っ込んだ。

 

 

果たして集中できるか効率が良いかどうかはさておき、勉強会と称し、放課後の教室に屯する習慣がいつの間にか出来上がっている。とは言っても、個々で机に向かっていたり他のクラスからも集まって机を寄せ合ったり、形は様々だ。

「俺の机使ってもいいよ。帰るから」
「ダイジョーブ足りとる! ありがと」

角名を始めとした真っ直ぐ帰宅組が帰り支度するのと同時、約束していたメンバーで机を固める。残るのはクラスの半分以下。机移動を終えて教室を見回しながら席に着く。さぁ始めるぞ、と教科書やらノートやらを取り出しした矢先、上から数冊のノートやプリントがどさりと落とされた。落とした人物を見上げれば、このクラスじゃない方の双子だった。不遜を露わに見下ろす瞳と視線がかち合う。

「次も教えるて言うたやろ」
「……もっと適任おるやろ? ほら角名とか」
「ヤダよ、めんどくさい」

向けた水はいとも容易く弾き返された。物理的に捕まえようと伸ばした手を躱し、じゃあね頑張れ、と思ってもいないだろう一言を落として、角名は一瞬のうちに教室から消えてしまった。

「なまえ」

伸ばした手の行き場をなくしたまま頭上を見上げれば、決してご機嫌とは言えない表情の侑。前のテストのとき、確かに、確かに次も教えるというか一緒に勉強しようなんて話をしたかもしれない。話の流れで次のテストもよろしくな、なんて持ちかけにも了承したかもしれない。

「カノジョに教えてもーたらええやん」
「別れた」
「もう? 早っ!」
「おまえに言われたないわ」

強烈に心臓を突き刺す一言だった。ごもっともや。今日はこんなのばっかりか。言われたくないなら来んな、とでも言い返せばいいのに架空の苦虫を噛み潰して押し黙る。そうしているうち、机を囲っていた友人たちはあろうことかそそくさと離れて新たな島を作っていた。抗議の為に立ち上がる。

「ちょっとぉ! 何でみんな離れてくん!」
「侑くんと約束しとったんやろ〜? アタシらのことは気にせんといて」
「気にするわ!」
「ええからなまえはそっちで勉強しとき」

イヤだ私もそっちに入れて、いや諦めてあっち行って、などと押し問答の後、遂に完全に新しい島から断絶されてしまった。同じクラスの治ならともかく、侑には何となし近寄りづらいという女子は少なくない。だからって分断しないでほしい。薄情な友人たちに取り残され私を尻目に、侑は角名の机を動かして私の真横に連結させた。向かい合わせにするより隣り合わせにした方がノートが見やすいから、と私たちはいつもそうしていた。他意など全くなかったころの話だ。だけど今、そんな手も身体も触れ合うような距離で過ごせるはずもなく……無言で机を動かし、向かい合わせに組み立て直す。侑は不満そうに眉を寄せながらも黙って椅子を引いた。

「早よ始めんで」
「……何で教わる方が偉そやねん!」
「なまえがうだうだ言うとるからやろ。約束したんちゃうんか。誰が悪いねん」
「うっ…………ごめん」
「しゃーないから許したるわ。早よ座って」

これ以上、意地を張っても仕方がない。フツーに接しろ。フツーに。

「……どこが分からんの」
「だいたい分からん。出るとこ教えてや」
「ヤマカンは外れたときのリスク高いやろ」
「今からテスト範囲ぜんぶやる方がムリやろ」
「全部分からん言うつもりか! 授業中なにしとったんや!」
「考え事ようけあったんやろなぁ」
「他人事みたいに言うな!」

噛み付くように指摘しても、侑はあっけらかんとしている。それどころかまるで楽しそうに笑い始めた。フツーに。赤点とらんかったらそれでええねん、と言う侑から先日の小テストの結果を聞くと、別に教える必要はないように思えた。
結局、教えるというよりはほとんど互いに机に向かってるだけだった。時折、視線を悟られないように侑を盗み見ると珍しくも真面目な表情で、随分と集中しているらしかった。そういえば、侑の部活してる姿をしばらく見ていないな、と思った。インターハイの県決勝は皆で応援に出掛けたけど、そこから大きな試合はないし、練習試合は誰かに誘われなければ行かない。そもそも自分の部活もある。他学年の女子みたいにうちわ作って応援したいとは思わないが、汗水流す角名を見て笑いたい気持ちもある。性格ワルいって言われない?なんて悪態を吐かれそうだ。
やがて日が暮れる頃、クラスメイトたちは徐々に帰っていき、私たちもそろそろ帰ろうか、ということになった。校舎の外に出る頃には空が暗くなってきた。自然に、二人並んで歩く。

「俺のこと避けよったやろ。あれ、辞めろ」
「……うん、ごめん」
「フツーにしろ言うたんはなまえやろ。フツーにして」
「ん。せやな」

暗くなる前に帰ろう、とは変な感じだ。部活がないとこんなにも早い。夕陽に照らされた横顔を見上げる。私が変だから、気を遣ってくれたんだろうか。フツーにしろって言ったのに気まずいままだったから、イヤだと思ってくれたんだろうか。元通りになれるだろうか。私だって、気の合う友人を失くしたくはない。帰り道、互いに口数は多いわけじゃないけど自然にどうでもいい会話をした。今朝は寝坊したんじゃない、という言い訳もできた。侑こそがギリギリまで寝てしまい治には置いて行かれたらしく、諦めてのんびりと登校したらしい。

翌日は休み時間の度に現れて、それは別に珍しいことでもないけど、治に「自分の教室帰れ」とか何とか言われて騒いでいた。昼は昼で、お弁当が二段とも白米だったと喚きながら駆け込んできたので角名が「本当にやるんだ、それ」とツボに入っていた。治や角名とは席が近いから会話が自然と耳に入る。別に侑と二人で会話するわけじゃないけど、一言二言話すことはあって、フツーだった。すごく、フツー。
そして放課後、別に約束してるわけでもないのに侑はまたこっちの教室に現れた。治も角名も既に消えている。侑は教室の入り口から私を見つけると、ずかずかと踏み込んできた。私は案の定グループから弾かれて侑と机を囲む羽目になる。

「何やねん、もぉ」
「ええやろ別に」
「ええけど良くない」
「どっちやねん」

結局、また二人で帰ることになって、それは別にフツー。昨日今日が初めてじゃない。フツーだけど、前よりずっと侑を近くに感じる気がして、何だかむず痒かった。意識してるからでしょ、とだれかが頭で囁く。思わず頭を振り回してそんな考えを否定した。横を歩く侑が「何しとるん」と笑っていた。

 

 

「はぁ………」
「辛気くさいんだけど」
「早くテスト期間終わんないかな……」

授業を一日こなした後のHR前、清々しいはずの時間なのに気持ちは曇天だった。

「何なの最近。どうしたいの」

どうしたの、じゃなくてどうしたいの、と言う。面倒臭がるポーズを取りながらも一応聞いてくれるあたり、性格が悪くても角名は何だかんだ優しい。角名に侑との話をしたことはない。もしかしたら侑から、一日だけの彼女になったことくらいは聞いているかもしれないけど、たいして面白い話でもなかっただろう。だから私も、わざわざ愚痴になるだけの詳細を話そうとは思わない。

「……今日は放課後残るのやめる。角名、一緒に帰ろ」
「俺は別にいいけど。いいの?」
「アカン要素なんて何もないやろ」

知らんけど。きっと何もない。HRが終わるなり、荷物を引っ掴み教室を出た。同時に歩き出したはずなのに、コンパスの差のせいで少し早足になる。

「角名は家で勉強しとるん?」
「基本的にはね。昨日は治とファミレス寄ったよ」
「何それ、ええなぁ。私も行きたい」
「今度ね」

あしらうような返しを頂いた。今度っていつやねん。かといって、別に約束を取り付けるようなことでもない。っていうか、適当な約束は身を滅ぼすと最近学んだばかりだ。

「何だかなぁ……」
「溜め息、吐きすぎ」
「悩みごと多い年頃なもので」
「いい加減、疲れない? もう認めたら?」
「何を?」

横を歩く角名を見上げる。身長差あるから視線合わせると首が痛いんだよなぁ、とどうでもいいことを考える。だから、繰り出される言葉に核心を突かれるなん予想はしていなかった。

「みょうじ、侑のこと、好きでしょ?」

え、の形に口を開けて固まる。違うそうじゃない、って反論するにはもうタイミングが遅い。この男は、突然、何を言い出すんだ。私が、侑を好き? 今更? そんなアホな。何て答えたらいいのか分からなくて黙り込んだまま、歩みを止める。
動転していたと思う。だから、背後から近付いていた人物が話題の張本人であることに全く気付いていなかった。

「それホンマ?」

一縷の希望に賭けて、見知った声を振り返る。残念、それは治ではなく確かに侑だった。その顔は研いだ刃物のような無表情。やばい。目が据わってる。どうしてかは分からないけど、良くない空気であることは確かだった。

「角名、今日は帰ってくれ」
「うん」
「え、ちょっ……角名ァ!」
「バイバイ」

引き留めようと手を伸ばすも、侑に首根っこ捕まえられて身動きが取れない。暴れる間もなく、角名はひらひらと手を振って去ってしまった。優しいなんて一瞬でも思った自分がアホだった。やっぱり人の不幸を笑う薄情なやつだ!

「なまえはコッチ」
「なに、何でっ」
「話さなアカンことあるやろ」

ずるずると引き摺られて誰もいない教室に押し込まれる。閉め切るようなことはしないけれどそれでも他に誰も居ない空間に、二人。

「帰りたい。帰らせて」
「ハナシ終わるまでアカン」
「話さなアカンこととか別にないやろ」
「俺はある」

だったら早く殺してくれ、の意で口を噤む。侑は私を壁際に立たせると、自分は行儀わるくも誰かの机に腰掛けた。手を伸ばせば届く距離。ゆっくりと息を吐いた侑がこちらへ鋭い視線を向けた。

「まず何で先帰ろとしたん? 避けるんヤメロ言うたよな」
「……別に避けとるわけやない」
「じゃあ何やねん。トモダチでおりたい言うたのにそれもイヤか? ええ加減にせぇよ」

低く唸るように牙を剝く。空気が軋む。
別に約束してるわけでもないのに、勝手に帰ろうとしたことをどうして責められなければならないのか、と思っていた。さっきまでは。侑は多分、ずっと怒ってた。カノジョもトモダチも出来ず中途半端な私に、ずっと怒ってたんだろう。申し訳なさに押し黙り俯く。

「あー……ちゃう。そうやない。そんなんが言いたいんとちゃうねん」

侑はうーとかあーとか言ったあと、溜め息を吐いて髪をかき乱した。

「……ムリて言うことさせたいわけちゃう。なまえがイヤならトモダチでええかな、って思った。女のコやったら他に幾らでもおるし寄ってくるし別に困らん。せやけど俺はなまえがいいいし、なまえがイヤちゃうなら話は別や」

さらっとヒドいこと言った気がする。私にも他の人にも全方面に失礼すぎる。何言ってんねん、と遮ろうとして口を開きかけたのに、緊張からか声が掠れて言葉にならない。
今、一体どういう状況で何が起こっているのか、脳のリソースが足りなくて処理しきれない。侑は一体、何の話をしているんだろう。話の目的は、終着点は、どこにあるんだろう。金魚みたいに口の開閉だけを繰り返した。侑はそんな私に追い討ちをかけるようになまえ、と私の名前を呼ぶ。

「少しでも気持ちあるんやったら、否定すんな。口にしたら意識するやろ。思い込むやろ。ホンマになるやろ。心のどっかに1ミリでもあるんやったら、それ膨らまして。……俺のこと好きって言えや」

侑の言葉をゆっくりと受け止める。受け取ったソレを、どうしていいのか、まだ分からない。もういっぱいいっぱいだ。侑は黙って私が話すのを待っていた。深く呼吸を繰り返して、声を捻りだす。

「む、むり」
「……何でムリなん」
「しんぞうが……」
「は?」
「心臓が爆発しそう」

両手で顔を覆い隠す。今、鏡を覗いたら、私の顔は真っ赤に茹で上がっているだろう。これ以上、見られたくないし、侑を直視できない。堪えきれず俯いていると突然、腕を掴まれ引き寄せられる。密着する。そんな距離に異性の他人が居るのは初めてだった。反射的に腕を突っ張って拒否を訴えても、びくともしない。

「ちょっ……侑!?」
「何やめっちゃ抱きしめたなった」
「ほんま無理やって」
「ムリて言うな。ムリな理由あるなら今言って。全部否定したるわ」

侑のことが好き? 分からない。だけど、こんなにも特定の誰かで頭がいっぱいになったことなんてこれまでにない。これを恋だと言うのだろうか。決めつけるに早計すぎやしないだろうか。流されてるだけなんじゃないだろうか。そうやっていつまでも焦ったい思考がやまない。そんな中途半端を続けたがる私が作る壁を、侑は何度で壊してしまう。侑のことが好き、なんて。口にしてしまったら最後、きっともう戻れない。

「……私おかしいねん。侑のことばっか考えて、私が私じゃなくなって、アホになりそう」
「ええやん。何が悪いん? まぁアタシとバレーどっちが大事なんとか言われたら引くけど」

言われたことあるのか。あるんだろな。侑がバレーとカノジョを比べられないように、私にだって他に大切なことは幾らでもある。その上で、好きだと、言っていいんだろうか。

「もうええやろ」

諦めろ、の意。いつもながら見上げている目線は、侑が机に腰掛けているせいでほとんど同じ高さだ。その距離が今よりまた縮まろうとしている。あなたはこんなシチュエーション慣れているのかもしれませんが私はそうじゃないんです、と頭がパニックを起こす。廊下を歩く誰かの足音が聞こえてきたから尚更だ。

「ちょっ……誰か来る!」
「別に、見せといたらええやん」
「よくない!」
「もー黙っとき」
「んっ」

吐き出すはずだった反論は飲み込まれた。啄むように唇を喰む。侑が、私の。すぐに離れたその顔を見上げれば、侑は嬉しそうに目を細めて笑った。恥ずかしくてすぐに逸らした。頭をぽんぽん、と撫でられる。
話はまだ終わっていないはずだ。終わりそうもない。だけどもう、逃げるわけにもいかないだろう。なるようにしかならない。好きだよ、と果たして素直に伝えられるだろうか。

 

 

うましか(宮侑)

 

 

「放っといて。侑に話せるようなこと、なんもないから」

言っても仕方がないというよりは、ちっぽけな悩みだと笑われるのが怖かった。
口にしたと同時に「しまった」と思った。冷たく放った言葉がどれだけ深く相手に突き刺さったかを知る術はない。後悔したところで覆水盆に返らず。取り繕いたくて触れようとした手は振り払われてしまう。無言で俯く侑が告げた言葉が、鋭い刃になって真っ直ぐ返ってきた。

「アレもコレもしんどい思うんは、なまえが何にも本気で向き合っとらんから違う?」

敵意には敵意でもって返す。そういう男だ。先に傷付いたのはわたしの方だなんて言い訳は効かないし傷付けられたら傷付けていいわけじゃないことを知っている。だから本当に浅慮からなる言葉だったのだと、謝らなければならないのに、それを告げる前に侑は背を向けて行ってしまった。

しなる背もたれに身体を預けて大きく伸びをした。気を抜きすぎだ、と誰かが咎めるかもしれない。そう思い周囲を見渡してみてもフロアに居る人数も限られたこんな時間では誰もこちらに注目していなかった。壁掛け時計を見て、すっかり遅くなってしまったことを認識する。優に三時間は定時を過ぎていた。スーパーはまだ開いている時間とはいえ、今夜は自炊する気になれそうもない。いつもなら嬉しいはずの週末も、過ごし方が変わったことにまだ慣れず暗雲とした気持ちで迎えるだけだった。
数時間振りにプライベート用のスマホを確認すると、三件の通知が届いていた。古いものから順番に既読をつけていく。定時刻に来るニュースマガジン、近々会う約束をしている友人とのやりとりの続き、それから何の脈絡も無く送られた位置情報。一応はまだ恋人であるだろう宮侑から送られたものだった。最後の一つを開き、その詳細を確認して溜息を吐く。どれに返事を送ることもなく、ディスプレイを暗転させる。まだ残る同僚たちに声をかけてオフィスを後にした。
ビルを出て駅へと歩く。定期を取り出して改札をくぐり、ちょうど到着した電車に小走りで乗り込む。扉に凭れて一息、改めてスマホを見ればリマインドのつもりか、もう一度同じ場所からの位置情報が届いていた。最初のメッセージに既読がついたと気が付いたのだろう。だけど送られてきたのはやはり変わらず位置情報それだけ。

他に何か言うことないんか。

自分勝手にも再び深い溜息を吐いた。こういうことは別に初めてじゃない。それは分かりやすく『ここに来い』の意味を込めて送られたメッセージ。

喧嘩したときは、いつも同じだ。言い合いになればやがて向こうが怒って場を離れ、謝るでもなくこうやって探しに来るように仕向ける。昔からそうだ。『非常階段』とか『理科準備室』とか、それだけ一言送られてきて、仕方なく向かえば決して可愛げのない図体をそれでも小さくして待っている。言葉は尊大でも心の内を見ることが出来た。それでつい絆されて、何で怒っていたのかどうでもよくなってしまう。原因がどちらにあっても、同じだった。高校生の痴話喧嘩なんてそんなもんだ。どれだけすれ違っても、たとえ呼び出しに応じなくても、教室に行けば毎日顔を合わせてしまうのだからどちらかが決定打を口にしない限り簡単に修正が効いた。もう話したくない、なんて思っても「おはよう」には「おはよう」を返さないわけにはいかなくて、それで朝イチ授業何やっけとか宿題やった?とかぎこちなくも話して、気付いたら元通り。高校二年の春から卒業までずっとそうだった。
だけど今は違う。会おうと思わなければ、会えない。カッとなるとすぐに突き放す言葉で拒絶するのがわたしの悪いくせ、そして話し合いを途中で放棄するのは侑の悪いくせだ。
あれから二ヶ月が経っていた。お互い社会人で向こうは遠征も多いことを考えれば、顔を合わせない期間としてそう長い方ではない。けれど、連絡すら取らないのは初めてだった。
このまま終わるんだろうか、それでもいいかもしれない、と考えていたわたしは卑怯なんだろう。話し合うことをいつも怖がったのは侑じゃなくわたしの方だ。だけどそんな臆病さをどうやら彼は今回も許してくれないらしい。
今日は行けないごめん、と一言返そうかと思った。それでは先延ばしにするだけで解決に至らないことを知っていても。解決、したい気持ちがあるならば、向き合わなければならない。

少しばかり葛藤したところで、取る選択肢は変わらない。不躾な呼び出しが腹立たしくはあるもののパブロフの犬よろしく、その位置情報を見れば思い浮かぶ抗えない魅力もある。そう、疲れた身体に力をくれる美味しいおにぎり。もう閉店の時間とはいえ呼び出すからにはお腹を満たしてくれるに違いない。店主には俺が呼び出したんとちゃうし、とか何とか言われるかもしれないが知らないはずないのだから同罪だった。
心が決まれば、さて地図が示す場所へと向かうべく、自宅に帰るのとは逆方向の電車に乗り換える。通勤の群れはとっくに消えて、車内は金曜の夜に浮かれる人々で溢れていた。かと思えば、疲れ切った顔で座席に沈む会社員も少なくはない。果たして、わたしはどちらに見えるだろうか。
目的の駅へ降りて店に辿り着くと、引き戸には『閉店』の札が下がっていた。のれんも既に無い。けれど明かりは点いている。だから遠慮なく戸を開いた。

「お、なまえちゃん」
「治、おつかれ」

店へ入ると、帽子を外し店主モードを解除した治が出迎えてくれた。それでも「腹減っとる?」なんて聞いてくれるものだから、正直に「もうペコペコ!」と答えてしまう。ちょっと待っとれ、と笑う治に元気よく了承の返事をして、カウンターの丸椅子に腰を下ろす。他に客は誰も居ない。店内をぐるりと見回してみても変わらない。閉店後だから当たり前かもしれないが、今夜ばかりはもう一人居ると思って訪れたのだから首を傾げる。

「……侑は?」
「さっきまで居ったんやで。どっか飲みに行った」
「ウソやろ!?」

人を呼び出しといて? 飲みに行った? ありえへん!
口にせずとも表情で全て伝わったらしく、治が笑う。

「今日はもうなまえちゃん来ーへんと思って不貞腐れよったわ。既読なったけど返事ない、て騒いどったで」
「……返しようなかったもん。何て送られてきたか知っとる?」
「知らん」
「この店の位置情報だけやで。他に何も、一言もなし」

食い気味に告げれば、治は呆れた表情を作った。

「それは……ようソレで来てくれたなあ」
「位置情報がどこか分かったら、ムカつくんより食欲が勝った」
「何や嬉しいこと言うやん。ほい、お待たせしました〜」
「明太子! やったぁ」

こればかりは手放しで喜んでいい。目の前に提供された皿からはほかほかと湯気が上がっている。私はそれが、ふわふわのおにぎりだと知っている。お味噌汁とお漬物を添えて、まごうこと無き主役の輝きを放っていた。手を合わせて、いただきますをする。この時ばかりは、おしとやかさは必要ない。大きく口を開けて勢いよく頬張る。広がるしあわせを噛み締めていると、視線を感じてカウンター向こうを見上げた。ニヤニヤと、と表すのが正しいだろう顔で治がこちらを眺めている。今更取り繕う必要はないけれど気恥ずかしさがないわけじゃない。

「……見られとると恥ずいんやけど」
「美味そに食べてくれるなー思て」
「美味しいんやもん」

それだけで、今日ここに来た意味はある。寧ろコレ以外に何かあっただろうか。美味しいごはんを求めてやってきた。それでいい。

「こーんなええコ放っぽって一人で飲みにいくなんてアイツほんまアホやなあ」
「……もっと言うたって」

外れない視線は諦めて食事を続ける。まだ明太子を頬張っている最中だというのに今度は鮭といくらのコンボを差し出してきた。果たして食べきれるだろうか、なんて心配は完全に杞憂だった。いとも簡単にぺろりと平らげてしまう。営業時間内なら絶対にしないだろうに、治はカウンターに肘をついて遂にわたしが食べ終わるまで眺めていた。お茶を飲みながら「ごちそうさま」を告げたのに、治は「足りとる?」とまだ手を動かそうとするものだから慌てて「お腹いっぱい。ありがと」と膨れたお腹を叩いて見せた。

「空腹はサイアクのコンディションやからな〜。あとは、まあ……飲みたい気分やったら付き合うで?」

見えるように獺祭を掲げた治は返事を聞くでもなく「座敷で飲も」といそいそど靴を脱いだ。丸椅子をくるりと回し、治を追う。

「おにぎり宮、いつの間にそんなサービス始めたん?」
「なってへんよ~。店仕舞いしたし、なまえちゃんやからトクベツ」

悪戯に笑う治につられて表情が緩む。生まれてから同じ歳月を重ねてきたはずなのに治は侑より、わたしより、ずっと大人になった気がする。言葉に甘えて座敷に上がり込む。何となく正座したわたしを治が笑う。一升瓶からお猪口へ注がれた筋を眺めた。魅力的な表面張力を揺らし掲げ、零さないようにその一杯を煽った。足を崩して座り直す。「まあ飲み」と再び注がれた二杯目にちびちびと口をつける。お腹いっぱいのはずなのにツマミにと出されたピリ辛きゅうりは入るから不思議だ。

「ほんで?」
「……弱音吐くことは、頑張ってない証明になると思う?」
「何やソレ。ツムが言うたんか?」
「侑やないよ。わたしの考え」
「そんでもなまえちゃんがそう思う何かは言うたわけやろ」

指摘されて思わず黙り込む。侑がそう言ったわけじゃない。だけどふとした瞬間にその重圧を感じてつらくなる。勝手に卑屈になっているだけだと分かっている。もうずっと、プロのスポーツ選手と一般人との隔たりに臆したまま、侑に弱音なんて吐けないままだ。だってそうでしょう。わたしが日々の仕事で感じるしんどさなんて、侑が感じてる重圧に比べたらちっぽけなもの。だから侑もわたしには何にも言わない。部活とは違うんだから当たり前だ。
弱音と愚痴に境目はあるだろうか。当然、受けとる相手次第だと分かっている。努力が足りないから不安になるのだ、なんて言われるまでもない。甘えだって分かってる。だけど誰もが毎日満点取れるわけじゃない。及第点目指して適度に頑張って、それでも自分を褒め称えたい日だってある。そんな日は疲れたなとかちょっとヤなことあってさなんて何てことない会話をしたいだけだ。それはわたしの我が侭だろうか。自分のことでいっぱいいっぱいで、他人を思い遣る余裕をなくしてる。

「あんなぁなまえちゃん、弱音なんて誰でも吐いてええに決まっとる。俺かて毎日手探りやしコレやと思って出した新メニューが全然アカンくんてヘコむことあるし、侑も同じや。しょっちゅーここに突っ伏してウンウン唸っとる」
「二人とも? ほんまに?」
「おん。アイツはなまえちゃんの前やとカッコつけとるんか知らんけど」
「……こんな長く一緒おるのに、今更?」
「なまえちゃんやてそーやん。カッコつけたいから侑には言えんのやろ。吐き出してみたら案外あっさりしてるもんやで。今、俺に言うてるみたいにな」

カッコつけたいから弱みを見せたくないと思うなら、カッコつけたいのは好きだからだ。なのにそれが原因で傷つけ合っていれば世話ない。付き合う前ならともかく、もう何年も一緒に居るというのに、そんなの、そんなの二人してアホみたいじゃないか。
考え込んでいたわたしを引き戻したのは、店の戸をガタガタと揺らす音だった。明かりが点いているからまだ営業していると勘違いされたか。それにしても鍵は開いていないのに諦める様子がなく壊されそうな勢い。ガラの悪い酔っ払いだろうか。不安を携えて治へ視線を送ると、その口元は意外にも弧を描いていた。矢先、聞こえてきたのは聞き覚えのある声で。よく見れば、戸の向こうに見える影は見慣れたその人で。

サム! 居るんやろ。早よ開けろ!」
「うるさいわぁ。ガラ悪い酔っ払いやなぁ」

反応を見るに初めから誰だか分かっていただろうに、治は渋々といった様子で立ち上がった。治が戸を開けると、不機嫌ですと顔に書いた侑が仁王立ちした。鍵を開けてくれた治を一瞥するとこちらに届くか届かないかの小声で「飲んどったんか」と呟く。再び戸締りをする治が「いつもと違うこと、やろ?」と返事した。わたしが来たことはリークされていたのだろうか。侑は座敷の横までやってくると、こちらを見下ろしドスの効いた声を吐き出した。

「……返事くらいせえや」

メッセージを既読スルーしたことを言っているらしい。もう慣れたもので睨まれても怖くもなんともないけれど、およそ彼女に向ける声色じゃない。ぷいと顔を背けて反論する。空になったお猪口に今度は自分で三杯目を注いだ。戻ってきたはいいが喧嘩腰でくるのなら結局何も変わりはしない。

「したい思うように送らん侑が悪い」
「はぁ? 何やねん」

どかり、と先程まで治が座っていた側に腰を下ろした。座敷に上がるでもなく足は床につけたまま上半身だけをこちらへ向ける。ぶすくれた顔で文句を続けた。

「試合も見に来ーへんし。感謝祭……は別に来んでええけど」
「試合の日は仕事やて前から言うてたやろ」
「土日祝まで仕事て、ブラックなんちゃうか」
「ブラックはそっちやろ」
「せやねんチームみんな腹黒いもんやからチーム名までブラック……ってそんな洒落いらんねん!」
「土日祝は基本休みやけど、そうじゃないときもあんの。ちゃんと振替は取っとる」
「ハナシ振っといてスルーせんといて!」

次第にいつもの調子でギャーギャーうるさいわたしたちを見て、治は聞かせるようにわざとらしく咳払いした。思わず口を閉ざし、侑と揃って治へ視線を送る。

「長なりそうやから後ろ片してくるわ。ちゃんと仲直りせぇよ。店でいかがわしいことすんなよ」
「せぇへんよ!」
「するわけないやろ!」

反論したのは同時だった。「ならええけど」と笑いながら奥に入った治を見送り、暫し黙り込む。言わなければ。わたしが、謝らなければならない。

「……スマンかった」

先に口を開いたのは侑だった。出てくると思わなかったストレートな言葉に驚く。何に対しての謝罪だろうか。入るなり突っ掛かってきたこと? それとも。

「あんとき、酷いこと言うた」
「……何で侑が謝るん」
「土俵の違う人間にぶつける言葉やなかった。なまえがどれだけ頑張っとるかは俺が測ってええことちゃう」

真っ直ぐ、相手を射るような瞳でわたしを見る。わたしが好きな侑の眼。弱さを見せるのが怖いだなんて、もうとっくに射抜かれて全部曝け出してるくせに、今更何を足掻いていたんだろう。

「ごめん。わたし余裕なくて、話すことぜんぶ愚痴になってまいそうで、何も言えんくて……やからって突き放して、それで嫌われたら意味ないのにな」
「キライなるわけないやろ。見くびんな」

強い語調で言われても、感じるのはあたたかさだけだった。

「しょーもないことも大事やと思うことも教えてや。なまえのことなら全部知りたい」

わたしだって侑の全部が知りたい。分からなくても分かりたい。自分にも他人にも厳しくて、いつも本気でぶつかってくる侑がわたしは怖かった。向き合う前に怯えて、言っても仕方ないなんてカッコつけて、ぐちゃぐちゃと余計なことばかり考えていた。ただ、真っ直ぐな気持ちにわたしなりの本気で応えればよかっただけなのに。

「わたし、侑のこと本気やなかったみたい」
「は? ちょお待て、どういうことや」
「あ、ちゃうねん。語弊ある」
「ちゃうて何がやねん本気やないなら浮気? え? 今の流れで??」

けらけらと笑うわたしを侑は訝しげに睨めつける。「カッコわるいな、わたし」と肩を竦めれば侑は「意味わからん」と口を尖らせた。結局、今も昔も変わらない。大なり小なり何があっても、元通りにならずにはいられない。
一人で納得してしまったわたしから中身を聞き出すことを諦めたのか、侑は一際大きな溜息を吐いた。履きっぱなしだった靴を脱いでようやく座敷に上がると胡座をかいて両手を広げる。そっと近寄れば、それだけでは足りないと引き寄せられて上に乗せられた。体勢を整える間もなく唇を寄せられて、思わず掌で防げば、侑はむくれた顔でその手を掴む。

「仲直りのチューは必須やろ」
「ここではせえへん」
「せやったら、早よ帰っていかがわしいことしよ」
「……アホ」

悪態は単なる照れ隠しだと知られている。形の良い唇が弧を描き、わたしの前髪を掻き分けた。含み笑いを隠そうともせずに覗き込まれて、気恥ずかしさに顔を逸らす。頬を掴まれてまた戻される。
喚き合いが聞こえなくなった頃合い、そろそろ治が戻ってくるだろう。正直、一連の流れを考えればただでさえ頭が上がらないのにこんなところでイチャついている姿を見られたくはない。お礼を告げて、お詫びを約束して、今日のところは退散しよう。明日が休みでよかった。今まで言えなかったこと、伝えたいこと、知りたいことがたくさんある。いかがわしいことをお預けにして、夜更けまで語らいたいという希望は果たして受け入れてもらえるだろうか。

 

 

君じゃなきゃダメなんてことはない(宮侑)

 

 

 

今日の日直は誰だ。先生はそれを確認しないままわたしに目を止めた。運が悪かったとしか言いようがない。諦めて集めたクラス全員分のノートを職員室まで届け、戻った教室にはもう誰もいなかった。
次の授業は移動教室だということをすっかり忘れていた。何で誰も教えてくれんかったんや、と薄情な友人たちへの文句を考えながら自分の机へ駆け寄ると、机に突っ伏していたらしい誰かが身じろぐのが目に留まった。自分以外にも取り残されている人間がいたらしい。

誰にも起こしてもらえんかったんやろうか。かわいそうに。

哀れみと親近感を込めて視線を送ると、その誰かは眠そうな目を擦りながらその大きい身体を起こして、ゆっくりと伸びをした。まだぼんやりとした様子で瞬きをしている。寝る子は育つ、というけれど、授業が終わっても気付かないなんて、よっぽどだ。去年同じクラスだった彼の片割れは睡眠より食事の方を大切にしているようだったから、双子でもやっぱり違いがあるんだろう。机から教科書と筆記用具を揃い終えた頃、ようやく現状を飲み込んだらしい宮くんは教室をぐるりと見まわして、最後にこちらに視線を止めた。ぱちり、と目が合った。まだ覚醒できていないのか、他に誰もいない教室を見ても焦る様子はない。無視して置いていくわけにもいかず机3つ分向こうに届く声を出す。

「次、移動やで。早よ行かんと」
「……みょうじさん戻ってくるん待っとってん」
「へ」

間抜けな声が漏れた。
待ってた? わたしを? 聞き違いだろうか。いつも一緒にいるグループのコたちならともかく、挨拶以上に関わったことのないわたしを待つ理由は思い当たらない。それとも知らないうちに何かやらかしたんだろうか。この間のバレー部の試合、サーブのタイミングで声を上げたのはわたしじゃない。誤解なら誤解、と言えばいいだけだけど他に何かあっただろうか。

「なかなか話す隙ないから困ったわ」
「なに、わたし、何かした?」
「そんなんちゃうけど」

動揺して声の上ずったわたしを宮くんは鼻で笑った。感じ悪い。人を小ばかにしたように斜めに見た態度があまり好きじゃない。まともに話したこともないから、これは完全に外から見たイメージの話だったけれど、やっぱり間違っていないと思う。

「話そうと思って、待っててん。みょうじさん、俺と付きおうてくれへん?」
「はあ?」

今度は意思を持って、間の抜けた返答をした。へらり、と笑う宮くんは、発した言葉を「どこに」とも「何に」とも補ってくれない。なら、付き合って、の真意は思い浮かぶソレで合っているんだろうか。

「イヤやけど」
「即答かい。もうちょい考えてもバチ当たらんで」
「だって宮くん、わたしのこと好きとちゃうやろ」

世の中には、一言も話したことがなくても相手が好きだと告白してしまえる人が居るのは知っている。いわゆる一目惚れとか、そうじゃなくてもこっそり見てました、とか、そういうやつ。でも、宮くんとは同じクラスなのに挨拶程度以上を交わしたこともなければ、吊り橋効果に陥るようなイベントが発生した記憶もない。寧ろ女子グループで話しているとき五月蠅そうに睨まれた覚えがあるくらいだ。
そういえば、あのときも机に突っ伏して寝てた気がする。休み時間とはいえ、そんな宮くんの席の近くで騒いでたのは少し悪かったと思うけど、そんな怒らなくてもいいじゃないか、ってくらい怖い目を向けられた。女子の一人はちょっと怯えてたし。わたしはわたしでムッとして、気持ちのこもってない謝罪を投げつけたと思う。それに対して宮くんは嘲笑するような顔をして、でも何も言わずにまた寝てしまったんだっけ。
うん。やっぱり、宮くんはわたしのことを好きじゃない。寧ろ敵意すら感じている。だから、どんな意図で発した言葉なのか、考えてもさっぱり分からなかった。

「好きやで?」
「なんで? どこが?」
「顔。かわええもん」

頰が引き攣る。顔が理由。そこそこ傷付く告白のひとつだ。宮くんなら分かりそうなものだけど、違うんだろうか。それとも、嫌がるのを分かって言ってるんだろうか。分からない。はあ、とたっぷり溜息を吐き出した。

「……そんなんで付き合うたりせん」
「悪い話ちゃうと思うけどなあ」
「何が?」

わたしがイライラしはじめたのが面白いのか、宮くんは楽しそうに笑っている。その大きな身体を背もたれに預けると、椅子はギイギイと軋みを上げた。あの椅子はほんとうにわたしの椅子と同じサイズなんだろうか。

「俺な、何や知らんけどモテんねん」
「知っとるけど、それが何でわたしに関係あるん」
「モテるんは悪い気せんけどな、知らんブタからの告りで時間とられるんウザいんよ。なら特定のカノジョ作ればーって言われてな」
「幾らでもおるやろ、宮くんの彼女なりたいコ」
「でもバレーの邪魔になるような女いらんし。どっち取るって言われたらバレー取るし。なら、俺のこと好きとちゃうコがええな、って思ってん。せやけどせっかくならかわいいコのがエエやん? それに、そっちかて知らん男からの告白ウザいなー、って思っとるやろ? 俺おったらそういうん減ると思うけど。な、利害一致しとるやろ」

いっそ清々しいほどのクズな回答だった。眉間の皺は取れそうにない。

「メリットよりデメリットの方が大きいやろ、そんなん」

すごく最低なことを言われてる気がするし、そういう問題じゃないとも思うけど、つい利害の部分に反応してしまった。それに、ここで彼を詰ったところで効果はないだろう。
数分前まで、何の冗談だ、と笑い飛ばしてしまうつもりだったけど、笑顔を崩さないくせに目は笑っていない宮くんを見ると、どうやら言葉は本気らしい。でも宮くんの言うメリットはメリットにならないのはお互いに、だと思う。彼に彼女が出来たところで稲荷崎でバレー部の芸能人みたいな人気ぶりは変わらないだろうし、その彼女になる方は周りからの好奇心や嫉妬に覆われるようにしか思えない。自分がその貧乏くじを引いた状況を想像すると、ゾッとする。

「ほな試しでええで? 今カレシも好きなヤツも居らんのやろ?」
「無理やから。もうええやろ。授業行くわ」
「もう始まんで?」

宮くんが言うと同時、チャイムが鳴った。遅刻して教室に入れば先生に叱られるし目立つことは必須だ。かといって、このままサボればどこで何をしていたか友だちに聞かれるに決まってる。そうだ、気分が悪くなって休んでいたことにしよう。宮くんに引き止められて告白紛いのことされてました、なんて言わなければ誰にも分からない。

「俺、好きなコには結構尽くす方やと思うけどなあ」
「でもわたしのこと好きちゃうやろ。わたしも宮くんを好きやない」
「好きやで? そやってはっきりモノ言うとことか」
「わたしは違う」
「そんなん後からついてくるかもしらんやろ」
「そうやけど!」

そうかもしれないけど、そんな一般論が誰にでも当て嵌まるわけじゃない。

「ほな、決まり。今日からよろしくな、なまえ」
「は?」
「俺、保健室でサボるわ。一緒いく?」
「行かん! っていうか、よろしくって……」
「付き合ったら好きになるかもしらんから付き合ってみるんやろ」
「そんなこと一言も、」
「キライじゃないなら好きなるかもやろ。ならええやん」

小綺麗な顔に嘘くさい笑顔を乗せて、話は終わり、とばかりに宮くんは立ち上がりすたすたと行ってしまった。追いかければよかったのに、何が起こっているのか理解する方に脳のリソースを使ってしまい出遅れた。一人教室に取り残され、ぽかんと口を開けたまま立ち尽くした。正直、何が何だか分からない。

ただの冗談であればいい、と願った。昨日は結局あれから宮くんは教室に戻らず、放課後もエンカウントする間もなく部活へ向かったらしく真意が何だったのかを問いただすことは叶わなかった。憂鬱を抱えたまま登校すると、上履きに履き替えるところから周囲にじろじろ顔を見られてヒソヒソ噂されている気がした。その原因が何かなんて、考えたくもなかった。教室へ入ると、嫌な予感は的中した。

「なまえ、おはよ」

宮くんは手を振り、わたしの下の名前を口にした。宮くんの周りに集まっていた人たちが、一斉にこちらを向く。正直に、うげっ、と声が漏れた。そして案の定、続くクラスメイトの質問攻め。

なまえ、いつの間に!? アツムみょうじのこと好きやったんやな〜、両想いやったん!? 何しかオメデトウ! 新カップル誕生かぁ!

わたしの回答を待たず矢継ぎ早。あからさまに戸惑っているわたしをヨソに、全ての質問に宮くんが勝手に回答した。それによるとどうやら宮くんは、わたしのことが去年から密かに気になっていて同じクラスになって接点を探り最近ようやく話すようになって距離を詰めて告白して渋々ながらOKを貰ったので付き合うことにはなったけどまだ片想いのようなものである────という設定、らしい。昨日のうちに拒否できなかったわたしには空笑いする以外、最早どうすることも出来なかった。ずぶずぶと底無し沼に沈んでいく自分の絵面を頭に描く。やがて予鈴が鳴り、席に着くと、今度はスマホの通知がぽこぽこと上がる。同じクラスはもちろん、他クラスの友人たちからも噂の真偽を確かめるような内容がどんどんと送られてきていた。誰も彼もが、どういうことだ聞いてないぞ、と問いかけている。そんなの、わたしが一番聞きたい。返信どころか既読にする気にもなれず、通知を放置したまま授業へ集中することにした。

現実逃避をしたところで、それは一時的な回避に過ぎず、休み時間の度に質問攻めは行われるし、友人たちを無視し続けることもできない。正直に打ち明けるかどうか悩みに悩み、それはもう悩んだ結果……打ち明けるタイミングを逃した。幸いにも宮くんの設定ではわたし自身の感情に嘘を吐く必要はなかったから、戸惑っているうちに周りは勝手に解釈した。本気か気まぐれかは知らないが宮くんと付き合うことになったラッキーガールの一人。そういうことになった。それはトレンドになる話題ではあるけれどいつまでも続くほど珍しいネタでもなく、一週間もすれば周囲はすっかり日常に戻っていた。宮くんは宮くんで部活が忙しいらしく一緒に通学するようなことはなく、お昼休みすら近寄ってこない。未だ互いの連絡先も知らず、あれから二人きりで話すこともない。つまり、わたしたちはただのクラスメイトのままだった。

今回ばかりは、保健室のお世話になることを決めた。いつもは割と何ともないのに、午後から酷くなった。お腹も頭も鈍い痛みに襲われている。そして何より、眠気が酷かった。普通の授業なら舟を漕いでも何とかやり過ごせるけど、とても体育を頑張れる体力じゃなかった。
保健室に入ると先客が居た。見慣れた……とは言い難いが、毎日見ているその顔と同じ顔、がベッドに腰掛けていた。どうやら先生は不在らしい。
治くんの方の宮くんとは、去年クラスが一緒だっただけでなく、今年も委員会が同じで接点がある。双子のもう一人よりはまだ自然に話すことができる相手だ。

「みょうじさんやん。どないしたん」
「ちょい貧血で……宮くんは?」
「俺は眠いから寝にきた」

正直か。いや、眠いから来たのは私も同じだけど。

「宮くんもそんなサボりするんやね」
「俺”も”?」
「あ、いや……」
「侑と付き合うてるてホンマなんやな」
「あ〜、うーん、うん……」
「何や、煮えきらんなぁ。侑のヤツ、いつもやったらべらべら彼女のハナシすんのに、みょうじさんのことは何も喋りよらん」
「そう、なんや」

正直、宮くん……侑くんの方、の、真意は未だに掴めないままだった。聞き出そうとしないわたしも悪いけど、また煙に巻かれそうな気がして半分諦めていた。無気力過ぎる、だろうか。宮くんが本当に告白してくる女子を減らすためだけにわたしを選んだんだとしたら、よく人を見ているな、と感心してしまいそうだ。とはいえ、このままでいいのかは疑問だった。本当に付き合っているのか、と聞かれてハイと答えられないような関係が健全と言えるだろうか。それに、もしわたしが本当に宮くんを好きになったらどうするんだろう。
片割れのことなら何か分からないか、と尋ねるため口を開きかけたけど、宮くんは「ほな、おやすみ」と言ってベッドのカーテンを閉めてしまった。まぁいいか、と空いた方のベッドへ上がり、同じようにカーテンを閉めた。

「やっと起きた。もうHRも終わったで」
「……宮くん?」

微睡から目を覚ますと、室内の人物は先ほどの銀髪から金髪に変わっていた。カーテンの内側、椅子を引っ張ってきてベッドに片肘を立ている。
体育どころか午後の授業が終わっても一向に教室へ戻らないわたしの荷物を、彼氏だからと押し付けられたらしい。

「ごめん、ありがと」
「寝顔はかわいないな」
「は!? ひど!」
「ウソウソ。カワイイカワイイ」

完全に棒読みだった。じとり、と睨め付ける。それでも、貴重な放課後にわざわざ来てくれたのだからあまり強くも言えない。

「起きんかったらどうしよ思たわ」
「そうやん。宮くん、部活は?」
「俺はバレー部やで」
「それは全校生徒が知っとる」
「今度の試合、応援来てな」
「クラスみんな行くからいつも行っとるよ」
「つれへんなあ。そこはガンバッテ、とかそんなんでええねん」
「ガンバッテ」
「棒読みか!」

仕返ししてやった。宮くんのテンポいいツッコミに思わず笑ってしまう。すると宮くんは「お、やっと笑ったな」とニヤニヤするので、何となく顔を背けた。

「部活は今から行く。そっちは? なまえて、ナニ部?」
「……好きとか言うなら少しは予習し。帰宅部や」
「はは」

乾いた笑い。やっぱり宮くんは、適度にわたしに興味がない。

「ちゃんと一人で帰れるん?」
「大丈夫。……ありがと」
「ほな帰ったらちゃんと報告な。連絡先教えてや」
「え、うん」

強く断る理由もなく連絡先を交換した。
それから少しずつメッセージのやり取りをするようになった。学校で話す頻度は変わらなかったけど、文字とスタンプだけで話す宮くんは思っていたよりも嫌なヤツではなかった。部活お疲れさまとか今日のご飯は何だとか、わたしはお昼はお弁当を持参して教室で食べることが多いけど宮くんはお弁当だけじゃ足らなくて購買で何か買い足してること、そのまま部室だったり片割れや角名くんの居る1組で食べていること、朝練があるから朝早くてしんどいけどバレーは苦にならないということ、部長の北さんは怒らなくても怖くて逆らえないんだということ、アランくん先輩のツッコミは欠かせないということ、朝から双子でケンカしたけどもう理由は忘れたこと、来週の球技大会は所属している部活の種目には出られない決まりだからバレーが出来なくて残念だということ、それからおやすみとかおはようとか、そんな話をした。少しずつ宮くんの情報が増えていった。何だか本当に彼氏彼女みたいだ。

現役バスケ部員はバレーへ、バレー部員はバスケへ。背が高いから、という安直な理由で球技大会の出場種目が決まるのはどこのクラスも同じらしい。宮ツインズの激戦は、それはもう凄い大歓声だった。観覧者は女子も男子も関係なく大盛り上がりでその戦いを見守った。いつもの試合とは違いお祭り騒ぎなものだから、本人たちも大はしゃぎ。身体だけでなく口も忙しそうな試合だった。結果は、うちのクラスの勝ち。尚、高身長二人は、もう少しやる気を出せ、とクラスメイトたちに怒られていた。

男子のバスケが一試合終わった後は、隣の体育館で女子のバレー。これもまた、対するは1組だった。球技大会は、所属してる部活の種目には出られない。けれど、そのルールは経験者には当て嵌まらないから、うちのクラスはやったことがある人を中心にチームを組む方針だ。つまり、わたしもバレーに出場する。中学の部活を引退してからは、体育の授業くらいでしかやらないバレー。正直、まともに動けるか心配ではあったけど、賞品がかかっているのだからやるしかない、と腹を括った。
結果は、快勝だった。

「びっくりした。みょうじさん、バレーしとったんやな」

汗を拭っていると、話しかけてきたのは治くんの方の宮くんだった。バスケで負けてしまって、もう午前の出場予定はないから出歩いているらしい。

「バレーな。中学までやけど」
「さっき思い出したけど、たぶん試合見たことあるわ」
「ほんまに!?」
「侑のやつ、それでか」
「何が?」

ならしゃあないな、と宮くんは笑った。何がしゃあないの、と聞いてみたけど、一人で納得して満足したようで、何も教えてはくれない。

「保健室んとき、みょうじさんと話した言うたらアイツ拗ねとったで。お前の許可いるんかって聞いたら、許可とってくれな困る、やと」
「ええ……」

何やらむず痒い話だった。ここ暫くで、仲は随分とよくなった。よくなったと思う、けど、宮くんは別にわたしのことを好きなわけじゃない、と思う。『思う』というのは、少し願望が込められてしまっているかもしれない。ああ、イヤだ。
バレーをしてたから何だって言うんだろう。バレーは嫌いじゃなかったけど、高校まで続けるほど夢中なわけでもなかった。ただそれだけ。推薦はあったけど、別に将来有望だったわけじゃない。親は好きなことをやれ、と言ってくれたからバレーは続けず、ただ家から比較的近くて学力の見合う稲荷崎を選んだ。男バレが強豪なのは知ってたけど、特別に意識はしなかった。宮くんはわたしを見たことあると言ったけど、わたしが宮ツインズを知ったのは高校に入ってからだ。考えても、何も繋がらない。さっぱり分からない。後で宮くん本人に聞いてみよう。

そういえば、今日は日直だった。球技大会の日に日直やなんてラッキーやな、と言われながら日誌を書いた。書くことなんてロクにない一日だったわけだから適当で構わない。球技大会はみんなの頑張りの結果、2組は見事に学年優勝を飾った。おめでとうございます、というわけで、つまり、今から陽気な打ち上げだ。早くしろ早くしろ、と周りから急かされて書き上げたソレを待って職員室へ走った。
先生の長話にたっぷり付き合わされてから戻ると、教室は宮くんを残して誰も居なくなっていた。宮くんはずり落ちそうな座り方でスマホをいじっている。戻ってきたわたしに気がついているだろうに、顔を上げる様子はない。

「あれ、皆は?」
「先行け言うた」
「なんで」
「何で、て。カレシやから?」

尤もらしいことを嘯くものだから、こちらもあーそーいえばそーやったね、と適当に返してやる。席に戻り荷物を持って、なら早よ行こ、と促すも宮くんは全く動く様子がない。

「どうしたん」
「んー?」
「……何かあるん?」
「まぁ、ある。今日の動き、へっぽこもええとこやったなぁ。相手がド下手糞やったからええけど、あれでよう勝とう思たな」
「いやいや十分やったやろ、帰宅部やで? 何年バレーやってないと思っとるん」
「知らん。何でやってないんや」

何年、と言ったのに何で、を聞かれても困るる。宮くんの主張は、わたしにとって完全にいちゃもんだった。バレーのことだから熱くなるのか知らないが、わざわざ待ってまで言うことだろうか。いつもの軽口か、と顔を見れば、宮くんは全く笑っていなかった。一体、何だというのか。宮くんはスマホを机に置くと、睨み付けるようにわたしを見た。思わず怯む。

「治から聞いたんやろ」
「宮くん……治くん? わたしの中学の試合見たことある、ってハナシ? それが何なん?」
「それだけか。何やねん。お前ムカつくねん」

非もないのに貶されてお前呼ばわりされて、仕舞いにはムカつくとか言われて意味が分からない。ムカつく、のはこっちだ。不穏な空気を感じて、宮くんから距離を置いたまま続きを聞く。

「ほんま腹立つ。俺が見たお前は今日みたいなへっぽこちゃうかった。トス呼んで飛んで誰よりも点入れてカッコ良かったのにすっかりヘタレになってもて、真面目に勉強しよるし休み時間は女子でペチャクチャ呑気に喋りよるし帰宅部ってありえんやろ。それが今日はへっぽこのくせにいっちょまえに勝っとるし。大体、俺と付き合うてなったら喜べや!全然話しかけてこーへんし、一緒に帰りたいて言うどころか部活も見にこーへんし連絡先すら聞かんしどないやねん!何で俺から聞かなあかんねん!あまつ治クンって何やねん俺は宮クンのままやのに何でアイツは治クンやねんおかしいやろ、カレシ俺やぞ!」

それは自白だった。捲し立てられたけど、褒めてるのか貶されてるのか分からない。その上、後半はまるで嫉妬のようなことまで言い出す始末。治くん、と言ったのは別に会話上ややこしいと思ったから口にしただけで普段からそう呼んでいるわけじゃないけど、論点はそこじゃないだろう。正直、さっきよりもワケが分からなかった。

「えーと、宮くん、わたしのこと好きやったん?」
「ンなわけあるかい!……って言うはずやったのに、何やねん」
「いや、何やねんはこっちのセリフやし」
「お前なんか好きちゃうわ。やから惚れさせて捨てたろ、思ったのに」
「え、そんな計画やったん?」

思わず口が開きっぱなしになる。宮くんはそっぽを向いてしまった。近付くと、机に突っ伏して顔を隠してしまう。覗く耳が少し赤い。

「ムリやったけどな」
「つまり、わたしのこと嫌いやったわけや」
「嫌いとか言うてへん」
「何で無理なったん」

うっさい、と言いながら宮くんは少しだけ顔を上げた。

「……バレーしとるとき、やっぱカッコ良かったわ」
「わたしが?」
「おん。全然動けてない、へっぽこやったけど」

へっぽこは余計や、と思いながらも腹立たしさはもうすっかり抜けてしまった。何だか身体の力も抜けてしまって、宮くんの横の席を借りて座る。

「何か宮くん、思ってたんと全然ちゃうわ」
「思てたって、何なん」
「人を小馬鹿にして後ろで意地悪く笑ってるタイプやと思ってたけど、ウソ吐かれへんのやね」
「俺、性格悪すぎやん!」
「宮くんの日頃の行いやろ」

思ったままを言えば、宮くんは納得がいかない様子で、笑ってしまう。宮くんは深く溜め息を出しながら、今度こそ身体を起こした。

「宮クン、ってソレもうやめへん? 名前呼んで」
「…………侑くん?」
「なに? なまえ」

用があって呼んだわけじゃないのに、返事をされる。嬉しそうに笑うので何だか照れ臭い。

「……なぁ、何でバレーやめたん。推薦とかもあったんとちゃうん」
「あ……ったけど。他にやりたいことあったから。勉強と両立できるほど器用ちゃうし」
「やりたいことって?」
「親にも言うてない」
「そぉか。ならええわ」

言いたいことを散々言って満足したのか、もう毒気は漂っていなかった。
侑くん、は、わたしのことを好きじゃない。言葉通り、虫よけにするためにたまたま選んだだけで、選んだから一応相手をしようとしてるんだと思っていた。蓋を開けてみれば、そんな複雑な感情を抱かれていたなんて、気付くはずもない。

「なあ、俺と付き合うて」
「……もう付き合うてる」
「なら好きなって」
「…………うーん…」
「そこは『もう好き』って答えるとこやろ!」
「知らんよ」

テンポのいい会話に、顔を見合わせて笑った。それから、侑くんはいつものニヤニヤを作って言った。

「俺はほんまに好きなってもた。どーしよ」

知らんよ、とは言うわけにはいくまい。