Earth617(爆豪勝己)

 

律儀に信号を待つからクルマに突っ込まれるのだ、とはどこぞの国で他人を揶揄するときによく使われるフレーズらしい。ちなみに「日本人みたいに」を付け足して。
行く先に邪魔するものが何もなくても、ルールだからと深く考えもせず立ち止まるから馬鹿を見る。決して信号無視をしろ、というのではなく、その進路以外に道はないのか考えろ、という話だ。

交差点の角、誰から聞いたのか本で読んだのかぼんやりとした知識を反芻する。目の前の車道は勢いよくクルマが行き交っている。信号が青に変わるのを待つことなくここを渡るのはもちろん自殺行為というもので、自宅へ帰るにはこの道が最短ルートであることも間違いない。
もっと職場に近いところに住めば五分でも十分でも多く睡眠を取れるだろうか、なんて目の隈が最早トレードマークのようになっている上司みたいなことを考える。

何でもいいから考えていないと、頭が痛くて仕方ないからだ。ここのところずっと頭痛に悩まされていた。
昔からたまにあった偏頭痛。ストレスなのか疲れが溜まっているのか知らないがとにかく頭が重い。痛い。そんな状態がしばらく続く。市販薬で誤魔化すも解消は一時的なもので、痛みは数日間ずっと続いていた。仕事が手につかないほどのものではない。逆に、他に考えることがあれば痛みを忘れていられる気もした。だから、こうして家に帰る間も、普段考えないないことをずっと考えていた。

そういえば、卵を切らしていた気がする。朝食の選択肢に目玉焼きも卵焼きも入れられないのでは一日の活力に関わる。かといって駅まで戻る気力はない。既に辿り着いてしまった自宅マンションを見上げた。そこそこの家賃で広さもあって選んだものの、駅から地味に遠いのが玉に瑕。
運良く一階にあったエレベーターへと乗り込み、せっかちにも『閉』を連打した。
ところが、扉は閉まらない。エレベーターの箱がガコン、と音を立てて揺れた。

「てめェ気付いてんだろが」

原因を作った男がキレ気味に強引に扉をこじ開けてきた。仕方なくもう一度ボタンを押し直すとエレベーターはようやく上へ動き始めた。

「来るなら連絡してよ」

小言を投げ付ければ、彼は返事代わりに被っていた帽子とマスクを剥ぎ取って寄越した。仕方なくソレを受け取って言葉の返しを諦める。「明日お休み?」と尋ねれば、短く「違ぇ」と返ってきた。起きるまで居てくれないくせに、わざわざ来てくれたのか。
顔を合わせるのはとても久し振りだった。なんせ高額納税者のプロヒーロー様である。巨悪の居ない平和な世の中であっても小悪党が消えることはあり得ない。景気の悪さが影響してか、最近は特に忙しそうで、連絡もこちらからのメッセージに既読がつくばかりだった。ならば連絡しない方がいいのでは、とは思うものの、近況報告しなければソレはソレで怒るので虚しくも一方的に送り続けていた。

エレベーターを降りて自室までは再び夜風に晒される。共用スペースでの声は地味に響くため、口を開くことはない。
玄関を開けて客人を先に迎え入れる。自分も入り、鍵をかけるため彼に背を向けると、後ろから体を覆い込まれた。振り返ろうにも首筋に顔を埋められ、表情を窺うことは出来ない。

「……勝己くん?」
「ん」

返事らしい返事もくれず、その場に閉じ込められて動けない。何かあったのか、と聞いたところで教えてはくれないだろう。こういうことは、たまにある。人に話して楽になるタイプでもないだろうから話してほしいとも思わないし、仕事柄話せないことも多々あるだろう。私だって彼に話せないことはある。
だから、会いに来てくれるだけ嬉しい。何かあったときに会いたいと思ってくれたのであれば、その相手が私だったなら、それだけで十分だ。
そうやって、いつも自分を言い聞かせていた。

日が昇り、目が覚めると、また一人。寝落ちするときにあったはずの隣の温もりはとうの昔に消えていた。
こめかみを抑えながら起き上がる。気絶するように眠ったからだろう、頭だけじゃなく体まで重かった。
身支度をしながら朝のニュース番組を流し、寝ぼけ頭で犬の散歩映像や天気予報を眺めた。大した話題もないらしく、少し前に結婚報道のあったヒーローたちが映し出されていた。去年初めてビルボードチャート入りした人気の若手ヒーローらしく、哀しむ女性ファンがかなり多いらしい。
そのヒーローの隣に立つ人、所謂『人気ヒーローと電撃結婚した一般女性』は、リポーターの問いかけに「好きになった人がたまたまヒーローだっただけです」なんてキラキラした瞳で答えていた。
何て素敵なんだろう!などと思える、若かりし頃が私にもあったかもしれない。いざ、本物になったヒーローを間近で見るようになった今、とてもそんな風には考えられない。

ヒーローだって色々だ。普通のサラリーマンのように生活のため家族のため細やかな活動をするヒーローだって少なくはない。
けれど、彼は違う。彼の個性がそうさせるのか。性格からか。
そんな特別なヒーローに、私は憧れている。隣にいるはずなのに憧れを抱く、とはおかしな話だ。だけど対等でいようとすればするほど、その差が浮き彫りになるだけだった。普通の恋愛だったら、こんなことは考えないに違いない。

もしも、彼がヒーローじゃなかったら。

そんなことを考える時間が日に日に増えていく。
抱き締めて抱き締められて、それだけで十分に満たされるはずが我侭にもいつの間にか足らないと思い始めた。昨日みたいに夜だけの逢瀬が、いい加減虚しい。
もしも、を考えることに意味はない。彼がヒーローをやめるなんて天地がひっくり返るか記憶喪失にでもならない限りあり得ないし、もし何らかの敵の個性でそうなったとしても何だかんだで記憶を取り戻してすぐ元の彼に戻りそうだ。
だから、私が彼を好きでいることをやめてしまう方が現実的だ。
そう考えるのは、おかしなことだろうか。彼本人が聞いたら「くだらねえ」と一蹴されるだろう。バカなこと考うんじゃねえ、って怒るかな。そうかよ、って溜息吐いて案外うっさり受け入れられたらどうしよう。結局、何の覚悟も出来ていやしない。
頭痛薬を飲み忘れたせいで、いつも以上に頭も足取りも重かった。

家を出ていつも歩く道、補修工事を行なっているビルの正面に差し掛かったとき、何かが崩れる大きな音がして、ふと上を見上げた。太陽を遮るように、鋼版がすぐ目の前まで迫っていた。とっさに避けるとか、そんな能力は働かない。
こういうときって本当に全部がスローモーションに見えるんだなあ。これでは今日の出勤は難しそう。 ああ、こういうとき、強い個性が私にあったら良かったのに。
呑気に普段通りにうだうだ考えながら、この先に起こる出来事を受け入れようとした。
つまり、良くて大怪我、悪ければ全部終わり。だと思ったのに、気が付くと何故かビルのてっぺんに居た。

「もう大丈夫だ!」

不安を吹き飛ばす力強い声。誰もが憧れた逞しい腕に抱えられて、命の危機は遥か遠くに消え去っていく。
夢だろうか、と瞠目した。かつての平和の象徴、オールマイトの姿がそこにあった。
あの神野から萎んでしまった姿ではなく、全盛期のオールマイトだ。一体全体どういうことだろう。何か科学技術が発展して力を取り戻したのか、誰かの個性か、いいや私の夢かもしれない。ぐるぐると考えていたら視界まで回ってしまって、地面に降ろされるのと同時にその場に崩れ落ちた。誰かの声が遠くに聞こえる。世界が遠い。

目が覚めると、知らないベッドの上で知らない天井が広がっていた。周囲をカーテンに覆われていて視界から多くの情報は得られない。ご丁寧にも点滴に繋がれている。サイドボードに提げられたナースコールと独特の消毒剤の匂いでここが病院だと把握する。
隣の丸椅子に腰掛ける勝己くんが「寝すぎだ」と力なく笑い、私の額に触れる。その手に籠手は付いていない。仕事だったはずなのに、普通に私服姿である。
ぼんやりと覚えているのは、鋼版が頭上に落っこちてきて死を覚悟したこと。それから、誰かに救けられたこと。

「勝己くんが救けてくれたの?」
「何言っとンだ」

事実を確認したところ、工事現場のミスで鋼版が足場から落下し真下に居た私に直撃寸前だったこと、オールマイトが救出してくれたこと、が分かった。私がその場で気絶したものだから病院に運び込まれてしまったが、特に外傷もなく、とりあえず起きるまで寝かされていた、らしい。

「オールマイト、って……」
「覚えてねえんか」
「復活のニュースなんて見てないよ!」
「アタマでも打ったか?」

頭を打った。そうかもしれない。もしくは夢でも見ているのかもしれない。どれだけ説明してもらっても状況が掴めない。
勝己くんには病院から連絡が入ったらしい。スマホに緊急連絡先として電話番号を登録していたからだ。私の職場には彼から事の次第を伝えてくれたらしい。改めて自分からも連絡すると、今日は休みで構わないと言ってもらえた。私の代わりに誰かがまた残業を延ばすのかもしれないが、今は甘えたい。おかげで週末と合わせて三連休になった。

「送ってく」

会計やら何やらを済ませて病院の外に出ると、見たことのないSUVが病院のロータリーに停車した。運転席には、先に出ていた彼の姿。何となく居心地の悪さを感じながら助手席に乗り込む。いつクルマを買ったのか、と尋ねるのはやめた。寝惚けている、で誤魔化せなくなりそうだった。
鋼版ではなくタライが落ちてきて、都合よく記憶が消えたんだろうか。スマホでネットニュースを開くと、オールマイトの今日の活躍のひとつに私の出来事が連ねられていた。それから、勝己くんに内緒でまとめていたアルバムの『大・爆・殺・神ダイナマイト』フォルダが消えていた。寝てる間に本人に消されたんだろうか。そんなまだるっこしいことするくらいならスマホごと爆破するだろう。アルバムは初めからなかったのかもしれない。分からない。
病院で目が醒めてから、あれだけ苦しめられていた偏頭痛はすっかり消えていた。

「オールマイトにサイン貰った」

信号待ちが長い交差点で、運転席の勝己くんが自慢げにヒーローカードを掲げる。まるで子どもみたいに、無邪気に笑っている。

こんな風に、笑う人だっただろうか。

全身の血管を何かが這いまわるような感覚に襲われた。心臓の音がやけに大きく聴こえる。
私の頭がおかしくなったんだろうか。これはまだ夢か、そうに違いない。もしくは壮大なドッキリに巻き込まれているか、質の悪い敵の仕業だ。

「オイ、顔やべえぞ」

鏡を見なくても分かる。病人みたいな蒼白っぷりだろう。勝己くんは心配そうに私の頬を撫でる。気付けば、もう自宅前に着いていたらしい。クルマを降りなければならない。慌ててシートベルトを外す。

「今日は帰る……よね?」
「明日休みだろ。また来る」
「えっ、勝己くんお仕事じゃないの?」
「休みにした」
「でも」

キスで続きを塞がれる。

「俺が約束破ったことあっかよ」
「……ない、です」

唇が瞼に落とされる。優しく抱き締めてくれるその腕にぎゅっとしがみついた。こんなに近くにいるのに何故だか酷く遠くに感じた。コンソールボックスを今すぐ取っ払ってしまいたかった。

「また明日な」

名残惜しさを感じながらも体を離し、クルマを降りる。去り行く姿が見えなくなるまで見送った。

寝て起きて一晩あければおかしなことは全部夢で、まだ今日は金曜日で普通に仕事なんじゃないかと思ったのに、ワイドショーはオールマイト特集を流していた。そして今日は土曜日で仕事は休みだ。
あれから部屋中をひっくり返したりネットやテレビを見てみたけれど、彼がヒーローであるという証がどこにもない。導き出される答えは一つだった。
爆豪勝己は、ヒーローではない。
そんな馬鹿な、と否定したいのに、その術が何も見つからなかった。
ヒーローになることが夢だった勝己くん。オールマイトに憧れる勝己くん。どこまでが本当で、どこまでが私の夢だったんだろう。

翌日、彼は約束通りに部屋に来た。出来ない約束はしない男だというのに、不覚にも驚いてしまう。仕事は休みでなく「休みにした」と言っていた。そもそも、何の仕事だっけ。ヒーローにならない勝己くんは、何になるんだろう。靄がかかったように思い出せない。
勝己くんは、昨日から様子がおかしいだろう私を気遣う表情で、優しい瞳に私を映す。
普通に、二人で、のんびりと過ごす休日。今夜は泊まっていく、と言う。おまけに明日も休みだから何処か出掛けようと宣った。こんな週末は初めてかもしれない。違和感に蓋をして過ごす。

「……どうした」

ソファに座る私の隣に腰を下ろし、眉尻を下げた勝己くんが、そっと私を抱き締める。あたたかい。
もう、いいじゃないか。
卑怯な私が私に囁く。もういいじゃない。おかしな夢は忘れてしまえ。

「勝己くんが勝己くんじゃなくても、私は好きになったかな、って考えてた」
「ハァ?」
「そういう夢を見たの。ヘンだよね。勇者でも敵でもヒーローでも盗賊でも勝己くんは勝己くんなのに」

勝己くんは、優しい。私が言ったことを、どうでもいいとかくだらねえとか言いながらもいつも全部聞いてくれる。言葉や時間じゃなくモノで誤魔化そうとするきらいがあるけどプレゼントのチョイスで私の好きなものを覚えてくれているのが分かるし忙しさからの不摂生で肌荒れしようものなら怒って念入りに手入れされる。お家デートが基本だけど、私の為にゴハン作ってくれるし我侭にねだればお菓子だって焼いてくれるし、やることが結構細かい。口が悪くても態度が粗暴でも大切にされていること、ちゃんと知っている。いつも、優しく、抱き締めてくれる。
その温もりは今この瞬間も変わらない。
腕の中、顔を見上げると柔らかく笑う彼と目が合った。

「ばぁか。ヒーローなんかなったら、お前の傍にいられねえだろ」

ハンマーで頭を強く殴られたような衝撃が走る。そして、いつもの偏頭痛がじわじわと戻ってきた。おまけにジャイアントスイングでも食らった直後のように頭を揺さぶられる眩暈付きだ。

傍にいたい、傍にいてほしい、といつも願っていた。普通の恋愛がしたい、と思った。だけど。

そもそも普通って何だっけ。おはようおやすみの連絡を送りあったり、週末ごとに街デートしたり、離れてる間の怪我やまして生死の心配なんかしなくてよくて、好きって言ったら愛してるって言葉がちゃんと返ってくる。そんな普通の恋愛がしたかった。

本当に? 本当にそんな陳腐なものが欲しかったのか? 相手が誰でも?

私が好きになったのは。欲しい、と思ったのは。誰だ。

ああ、頭が割れそうに痛い。いつもどうでもいいことを考えて痛みを誤魔化していたのに、今は何も考えたくない。

「お前、昨日からマジで意味わかんねえ。やっぱアタマ打ったんじゃねーのか」
「……大丈夫」

大丈夫じゃない。だけど、どうしたら良いのか分からない。大丈夫だよ、と強がることは出来る。誤魔化して笑うのは得意だ。
だけど残念ながら彼は簡単に誤魔化されてくれない人だから、話を切り替えるために飲み物を取りに行くていで立ち上がった。瞬間、マンションがだるま落としでも食らったかのような轟音と揺れ。

「……ッオイ!」

勝己くんが声を荒げた。私の腕を引こうとしてくれた、けど、届かなくて。私は衝撃で立っていられなくて、近くの壁を伝ってその場にしゃがみ込む。
それから、立て続けに響く耳をつんざくような轟音、目を開けていられないくらいの眩しい光。それがようやく収まった頃、恐る恐る顔を上げる。衝撃が送られたバルコニーの向こう。そこに、彼がいた。心を奪われる、鮮烈な光。

「え……勝己くん?」
「他に誰に見えンだ。あァ?」
「……ヒーロー、ダイナマイト」
「そぉだよ」

取っ払われた壁のせいで、いつもより広く見える空。太陽を背負って、不敵に笑うヒーロー。生で見るのは久し振りのコスチュームスタイル。
一体、どういうことだ。分からないことが多すぎる。
まず、状況から考えて間違い無いのは先程の爆発は彼の個性で、この見る影もなくぐちゃぐちゃになった場所は確かに私の部屋だった、ということ。バルコニーに向かう窓ガラスは粉々、家具はほとんど全部ひっくり返っていた。
そして、部屋をぐるり見回しても、私と彼の二人以外には誰も居なかった。
狐につままれたような顔をしていただろう私を、勝己くんは鼻で笑った。

「受け身くらい取れや」
「か弱き一般市民に何てこと言うの……」
「誰がか弱いって?」

私でしょ、私。あまりの出来事に腰が抜けて立てないくらい、か弱い。仕方なく、とでもいうように差し伸べられた手を掴むと、およそ優しくない雑な動作で引っ張り上げて無理やり立たされた。

「ア? 意味わかんねー状態から救けてやったんだ。良かっただろーが、彼氏サマがヒーローで」

全然よくない。良いわけない。何せどういう状況なのか、さっぱり分からないのだ。この場で説明する気がないのは見てとれたので、諦めて肩を落とす。何もかも分からないが、何かに巻き込まれたらしいことは確かだった。
どうせダイナマイトに怨恨がある誰かが私に目をつけて何かしたとか、そういう類の事件だ。そもそもヒーローじゃなければそんな危険に晒されることもなかったんだろうし、日々あれやこれや不安を抱くこともないんだから。

「ほんと全ッ然意味わかんないけど、とりあえずありがとう……。で、この状況どうする気?」

冷静に部屋を見渡す。外に面する壁は全壊、家具はひっくり返り瓦礫に埋もれ、家電は火花を散らしていた。何でこれで私が怪我していないのか不思議なくらいだ。いつもとは違う種類の頭痛がしそう。バルコニーが音を立てて崩れ落ちた。どうか、下に誰も居ませんように。

その後、半壊した部屋にいられるはずもなく、諸々の処理を終えた私たちは彼の自室でお茶を啜っていた。話は後だ、で引き伸ばされて、何の説明もないまま今に至る。ようやく、ここ数日のおかしな状況の謎が解明されるというわけだ。と思ったのに。

「勝己くんを怨む敵の個性にやられて巻き込まれたか弱い一般市民・私の話じゃないの!?」
「何で俺のせいにしとんだ!」

勝己くんの話によると、私は数日前から部屋を一歩も出ておらず、なのに合鍵を使って入ってもそこには誰もいない、という状態だったらしい。ただし、耳を澄ませば部屋の中から声も物音も聴こえる。これはおかしい、と何やかんやあって準備して今日の行動に至った、とのこと。

「ごめん。さっぱり分かんない」
「俺だってそうだわ」

さらに話を聞くと、マンションのエレベーターで鉢合わせたあの日、私は勝己くんに突然喚いて会話にならないまま一方的に別れを告げて寒空の下、部屋から追い出したらしい。で、再び入ろうとしても先程の流れ。

「私、そんなこと言ってない」
「だろうな」

何それ。っていうか、それが本当なら怒ってそのまま放って帰ってもおかしくないのに。それでも救けてくれたのか。

「テメェの我侭に付き合ってられっか」
「うん、だから今その主旨で話してるんだけど。置いて帰ればよかったのに」
「そうじゃねーだろ!」

掌の汗腺から小さく爆発を起こす。もう慣れたけど、血管を浮き上がらせて怒る様はヒーローどころか敵のソレだ。恐ろしくて普通とても目を合わせられない。

「うだうだバカ考えんのヤメロっつっとんだバカ! ンなだからワケわかんねーことになるんだーが!」

そう言って、彼は勢いよく椅子から立ち上がった。私が手に持つカップをテーブルに置き直すのを待ってから、私まで立たせて。何で?と尋ねる間もなく、腕を引いて手繰り寄せられ、ソファに引き摺り込まれた。
脚を開いて座る彼に跨って膝立ちするような格好で固定される。

「……いい加減、俺を諦めるのを諦めろ」

何でバレてるんだろう。私が彼から離れようとしていたこと。いや、彼の話によれば別れる、って喚いたんだっけ。どこの私の話だソレ。何でもっと上手いことやらなかったんだ、バカ。
考えてみても、分かるはずがない。茶々を入れて誤魔化そうにも、見透かすような瞳で射抜かれて逸らすことが出来ない。

「勝己くん」
「俺は曲げる気ねえから、そっちが譲れ」

会話にならないのは彼のせいでもあるのではないだろうか。私の知らない私を知っているなら、もう少し情報をくれてもいいのに。
所在無く逃げ場を探し始めた私を見て、勝己くんは大きく溜め息を吐いた。残念ながら、腰をがっちりホールドされていて身動きは取れない。ぽすん、と肩口に顔を埋められる。

「……言いたいことあるなら、別れる以外なら聞いてやる。ちゃんと言え」

言いたいこと。そんなもの無限にある。彼だってそうだろう。朝食はパン派か米派かとか、パンケーキはふわふわスフレかもちもち喫茶店スタイルがとか、そういうことじゃなくて。新しく出来たカフェに行くのは一人でもいいけど本当は一緒に行きたいとか、クリスマスプレゼントは高価なジュエリーも嬉しいけど本当はケーキとシャンパンだけで良いとか、多分そういうこと。何か食べ物の話ばかりだな。
考え込んでいると、せっかちな彼が「オイ」と急かす。

「……お前とかテメェとか言わないでほしい。恋人に対する呼び方じゃないよ」
「……わかった」

返事はしてくれてもすぐに名前を呼んでくれるわけではない。今は許そう。

「あと溜息つくのやめてほしい。地味に傷付く」
「それはテメェが別れたいとかバカ言うからだろがッ!」
「そんなこと言ってない」
「言ったわクソが!」
「っていうか、またテメェって言った」

指摘すると彼は言葉に詰まり、ばつが悪そうに舌打ちした。本当は舌打ちもやめて、って言いたいけど今のは私に対してじゃなくて自分に対してだと思うから大目に見よう。
傲慢で粗暴で、私のこと全部知ってるくせに半分くらいしか考慮してくれない自分勝手な優しい人。言葉足らずだし大事なことほど教えてくれないし、結構酷い。私の好きな人。

好きだった人がたまたまヒーローだったんです。なんて思えるわけがない。それは、彼が彼である所以だ。ヒーローであることこそが、彼のすべてだ。
粗暴な言動に反し、誰よりも実直に前を向いている人。その傲慢なまでの自信の裏に、確かな努力がある人。
強気に勝気に全部捩じ伏せる、一番カッコいいヒーロー。
その苛烈さに、惹かれた。

眩しくて強烈で、鮮明な光。一番近くで見ていたい、とそう思った。

「病院いくぞ」
「え、何で」

頭痛が続いている、と彼の前で零してしまったのが悪かった。日常に支障をきたすほどでもなし大丈夫だと言い続ける私の訴えを他所に、先日運び込まれたのよりずっと大きい総合病院に引き摺られてきてしまった。

「保険証」

促され、持ち歩いているもののあまり出すことのないソレを財布から取り出した。個性項目の空白が悪目立ちする虚しいカードを受付に渡す。
こういう大きな病院って、救急ならともかく普通かかりつけ医から紹介だとかそれでも数か月待ちだとか色々あるだろうに、昨日の今日で緊急性も何もない私が診察を受けられるってどういう仕組みだろう。
あまり考えない方がいいことをMRI検査の機械の真ん中に寝転がりながらぼんやりと考える。レントゲンやら何やら、あちこちの部屋を回されて、ついでに意味のない個性検査まで挟まれて一日仕事だ。驚くことに、勝己くんはその一つ一つに大人しくついてきてくれている。
ようやくすべての検査が終わり、これで解放かと思いきやそれぞれの結果が出るまで待機、それから診察だからそれまで待て、という。朝イチから始まってもうさすがにそろそろ昼食をとりたい、と弱ってきたころだったからちょうどいい休憩にはなるが、まだ終わらないのか、とぐったりしてしまう。
昼食は病院内にあるカフェテリアで簡単に済ませた。普段の活動ではマスクをしているとはいえ、顔出ししていないわけではない。素顔でうろうろしていれば、病院とはいえ人に囲まれてしまうのでは?とハラハラしたがそうでもなかった。
本人いわく、オフの日には話しかけるなと公表していること、またエンデヴァー同様「話しかけづらいヒーローランキング」に名を連ねているらしい。それは果たして良いことなのか、悪いことなのか。

診察室に入ると、おじいちゃん先生が目の前のディスプレイに私の検査結果だろうアレコレを広げて何やら唸っていた。

「いるんだよねぇ、大人になってから個性制御しきれなくなる発動型タイプ。いつか周囲に大きな影響を及ぼしかねない。ちゃんと訓練し直した方がいいと思うよ」
「いや、あの……!」
「ん?」

そんなことは口にしなくても分かりきっている、ハズだ。

「……私に個性は、ありません」
「いや確実にあるよ。ほら、これ足の小指のレントゲン」
「え」

言葉を失くす私を背後に立つ勝己くんが聞こえるように鼻で笑う。硬く振り返って顔を見れば、口で言っても納得しねぇだろうが、と不敵に笑っていた。

 

 

 

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