横恋慕(灰谷竜胆)

 

 

玄関を開けた先、見知らぬ女の攻撃的なヒールが乱雑に転がってる日はまだマシな方。リビングでおっ始めてようが汚い喘ぎ声が聞こえてようがどうでもいい。素通りして自室に籠ってヘッドホンで全部シャットアウトしながら眠りにつけばいいだけだ。何の問題も疑問もない。
サイアクなのは、今日みたいに見慣れたちゃちなローファーがキレイにつま先を揃えてこちらに顔を向けているときだ。こういう朝は、自宅だというのに入るのを躊躇してしまう。こればかりはいつまで経っても慣れる気がしない。
それでも、まだマシなパターンだ。その履き古されたローファーが慌てて脱いだみたいに転がり、ましてや続く廊下に服が脱ぎ散らかしてあるよりはサイアクじゃない。そんな日があって堪るか、と思うのにソレはちっとも非現実な話じゃなくて、いつ起こってもおかしくない現実だ。

まだマシ、だというのに、ばか丁寧に並べられた女の靴を見下ろし玄関で項垂れていると、やがてランドリールームからドライヤーの音が聴こえることに気が付いた。よかった、今日はまだサイアクのサイアクじゃあない。ぐっと堪えて、靴を脱ぎ去った。
躊躇いを捨てて扉を開けた先のリビングには嗅ぎ慣れたシャンプーの香りが漂っていた。他人ではないけど家族でも何でもない女がそれを纏い、こちらに笑顔を寄越す。

「竜胆、おかえり。おはよ」
まだ少し濡れた髪そのまま、無防備を晒している。何となく視線を外し、ぶっきらぼうな返事を送った。
「……ただいま。来てたんだな」
「うん、竜胆はクラブ帰り?」
「ん」

それだけじゃなくて適当な女を引っ掛けて発散していたわけだけど、わざわざ言う必要はないだろう。
泊まりに来るなんて聞いてないとか、何で除け者にするんだとか、喉まで上がりかけたガキみたいな戯言を飲み込んだ。

「兄貴はまだ寝てんの」
「昨日遅くまで愚痴付き合ってもらったから。まだ当分起きてこないかも」
「グチ?」
「んー、大したことじゃないの」
「あっそ」

兄貴には言えてオレには言えないのかよ。
逃しきれない不満があからさまに顔と声に出た。
泊まりに来るならそれくらい言えよ。そうすれば一人で出掛けたりしなかったのに。少なくとも朝帰りする必要はなかった。
過ごした年月は同じだけあるというのに、何かというと兄が優先される。些細な連絡も、相談事も、一緒に居る時間も、何もかもだ。残酷にもきっと無自覚に、そこにはあからさまな差がある。
なんて思ってるのはきっとオレだけで。兄が連絡するからコイツは返すだけであって。オレが素っ気ないからコイツも兄に連絡するだけであって。そんなこと、本当は分かっているのに。
目の前のオンナはそんなわだかまりに気付きもせず、何なら鼻歌を口ずさみながら冷蔵庫を開けた。誰の家だか分からない。

「トーストとか焼くけど、竜胆も食べる?」

トーストとか、の『とか』が何を指しているのかは分からないが、そう言われると何か腹に入れたい気もする。ホテルでロクに眠れたはずもなく、本当なら今すぐもう一眠りしたいところだが、気が付いてしまえば眠気よりも空腹が勝った。

「食べる……けど、何もなくねェ?」

しばらく外食続きだったから冷蔵庫は空だったハズ。思い浮かべながら近付いて、背後から冷蔵庫の中を覗き込む。そこには意外にも調味料以外の幾つかの食材が詰まっていた。
何で?昨日来るとき買ってきたのか?なんて疑問はすぐに打ち消される。

「蘭と買い物行ったから。簡単なものは出来るよ」

そう言って卵やらベーコンやら食材を取り出す様を眺める。ちょっと高い食パンも買っちゃったぁ、とにこやかに振り返った顔が近くて、反射的に後退った。
食パンくらいで喜んでかわいいな、とか何で二人だけで出掛けてんの? とか、感情はバラバラだ。誤魔化すようにカウンターに置かれた食パンを手にとり、指の腹で押してみる。

「つーか、そのTシャツ、オレの?」
「その辺にあったやつ適当に借りた。ダメだった?」
「別に良いけど」

別にいいけど、兄ちゃん怒んねぇよな?

「っていうか、下履けよ」

よく見れば、いやよく見なくとも気付いてはいた。Tシャツ一枚で生脚を晒している。幾らサイズが大きくて尻まですっぽり覆い隠せているとはいえ、太腿から下が全部見える。

「制服のスカートと長さ変わんないよ」
「変わるんだよ」

そもそも制服だったら下に何か履いてんだろ。知らないけど。多分そう。
ほんの数時間前までもっと刺激的なものを目にしていたはずなのに。でももうその相手の顔も名前も思い出せない。誰だったっけ。どうでもいい。

「捲んぞ」
「どしたの、欲求不満なの?」
「ンなワケあるか」

そう、そんなワケはない。何なら解消してきたばかりだ。

「いいから、履けって。オレのでいいなら何か貸すから」
「昨日そこで裾踏んで盛大に転けたからヤダ」
「……マジ?」

ダッセ、と笑えば朝食の準備をしていたその手を止めてまで睨みを送ってきた。どつかれる気配を察してキッチンから離れる。もちもちの食パンを右手で弄びながらソファに腰を下ろした。

「仕方ないでしょ、脚の長さが違うんだから! テーブルの角で脇腹打って痣になったんだよ。サイアク」

そう言って右の脇腹を押さえている。

「蘭なんかゲラゲラ笑ってて。酷くない!?」
「オレも見たら笑うと思うわ」
「今もう笑ってるじゃん……。ねえ、食パン焼くから渡してよ」

何となく、食パンを目の前のローテーブルに放り投げた。
遠いよ、なんて文句を言いながらも回収に近付いてきたところ、腕を掴んで足の間に引っ張り込む。少し苛めてやりたくなって、痣のあるらしい括れに視線を送る。引っ張ったことでバランスを崩し座面に乗り上げた体を、そのまま横に引き倒した。足首を掴み、Tシャツの裾に手を掛ける。

「なぁ。痣って、どこ? 見せて」

下を履いていない状態で捲れば、露わになるのは痣だけではないだろう。

「え、むり」

裾を下に引っ張りながら、捉われていないもう片方の足ででこちらの腹を蹴り上げてくる。残念ながら痛くも痒くも無い。そんな風に動けば、つまりもう色々見えてしまっている。恥じらうところ違くね? と思うも、教えてやる余裕はない。

「ちょっ……と! 竜胆! ばか!」
「弱すぎ」
「もう!」

ほとんど無意味だった抵抗を完全に無に帰して、隠されていたところをあらわにした。テーブルに打ちつけた以外の痕跡があれば理性の全部を捨てるかもしれない。そんな綱渡りを楽しみたいわけじゃないのに、勢いで動いた。幸いにも、見えたのは痣だけ。誰かが付けたような別の痕は、どこにもない。多分。見えないだけかもしれない。

「……蹴られた痕みてぇ」

腰骨の上、間抜けな青痣が鎮座する白い肌。指を這わせば、痛みが走るのか体を跳ねさせた。
何でこんなに、どこもかしこも柔らかいんだろうか。もっと触れたい。暴かなければ見えないところまで全部見たい。頭が馬鹿になりそうだった。
理由や言い訳なんてなくても、行動に移してしまえばいいのに。片隅でそう考える自分を何とか押し留める。ここで騒げば間違いなく奥の部屋に届くだろう。それが何を意味するのかは明白だ。
お前にそんな勇気はないだろう、と馬鹿な自分を嗜める。

「………竜胆?」
「兄貴も見た? コレ」
「見せるわけないじゃん。もういいでしょ離して」
「ふぅん」

足首を掴んでいた手を緩めてやる。下ろされた脚に頭を転がした。つまり、膝枕。突き落とされないのをいいことにそのまま瞼を閉じる。

「竜胆? 本当に今日どうしちゃったの」
「別に何もねぇけど」

こんなに戯れ合うのは随分と久し振りだった。もしかしたら、二人だけで過ごすことすら。

「ねぇ、私お腹空いてるんだけど」
「後にして」
「後っていつ? 寝ようとしてるでしょ」
「兄貴が起きるまで」
「それって、もしかしてお昼回るんじゃない?」
「かもな」
「もう……」

諦めた様子でソファの背もたれに体を預ける姿を細目で眺めた。文句を言いながらも、押しに弱くてオレに甘いことを知っている。
手持ち無沙汰であるのか、こちらの頭を撫で始めた。髪をすく手が気持ちよくて睡魔に襲われる。本気で眠ってしまえば、優しく起こされるか兄貴にどつき起こされるか、危険過ぎる賭けになる。
それでも、もう少しだけ、このままで。
今だけだとしても。後で勘気に触れたとしても。ほんの束の間、今だけ、あと少しだけ。一人占めを許してほしい。