好きになったから負け(及川徹)

好きになったから負け

 

 

 

好きだ、って気付いたのは、失恋と同時でした。

 

 

 

その男が告白されるなんて別に珍しいことでもないだろう。とはいえ、実際そのシーンに遭遇して他人の告白の一部始終を聞いてしまう、なんてそうあることではない。
だけど、わたしは2回目だった。

昼休み、中庭にある自販機のいちごオレが売り切れていた。だから校舎の端にある自販機まで探しにくるしかなかった。だって、どうしても飲みたかったんだもん、いちごオレ。無事に買えたことに満足して機嫌よくパックを手にした、その瞬間だった。校舎の角を曲がった向こうから聞こえてきたのは、少し震えた女のコの声で「好きなんです」の一言。出来ることなら続きを聞くことなくこの場を立ち去ってあげたいけれど、何せここは行き止まりで教室に戻るには植木に突っ込むか彼らの横を通るかしかない。葉っぱだらけになったところで物音で気付かれてしまうのは必須。ならば何も知らない聞いてないふりで横切るか、事が終わるまで空気になるか……。そうして逡巡している間に会話は進み、彼女がどうして彼を好きになったのか、それは彼女が音楽室に忘れた楽譜を彼、及川徹が、優しくも教室まで届けたのがきっかけでした────なんてストーリー展開が始まってしまった。
失敗した。もたもたしてるうち完全にタイミングを失い、出るに出られなくなった。いちごオレはここで飲むしかない。諦めて、手元のパックにストローを突き刺した。

校舎の角から見えてしまったその姿、「告白されている側」は同じクラスの及川徹、その人だった。「している側」の女のコに見覚えはなく、及川に敬語を使っているので1年か2年か、とにかく後輩なんだろう。相変わらず他学年にはモテる男だ。ちらり、と覗いてまた校舎の陰でなるべく小さくなる。聞いちゃってごめんね、の気持ちとこんなところで告白するなよ、の気持ちが拮抗する。どちらにせよ、それが終わるまでわたしに出来ることは気配を消すくらいだった。

及川のことが好き。そう自覚したのは、どう考えても失恋の瞬間だった。彼にカノジョが出来たとき。だからってどうするわけでも別になくて。だってそうでしょう、仲のいいクラスメイトというポジションに甘んじて3年になるまで過ごしてきて、彼女が居るのに今更「好きみたいです」なんて言えるわけがない。負けると分かってる勝負なんてしたくない。けれど、あのコは違うらしい。気持ちを伝えたいだけなのかそれとも勝算があってのことかは分からないけれど、見てるだけのわたしより勝率はあるだろう。

「かっこわる……」

壁に背を預けたまま呟いて、ずるずるとその場にしゃがみ込んだ。

「及川先輩、彼女と別れたって聞きました」

 

 

 

────別れた。

震えた声の女のコは、確かにそう言った。
つまり、それはあのときの、1回目の遭遇のときの彼女か。

 

 

そんなに昔でもない。あのときも今と同じように校舎の陰に隠れて、及川が告白されるのを聞く羽目になった。但し、隠れるのが下手すぎて盗み聞きしてることはあっさりバレてしまっていたんだけど。
あのときは好きです、と言うだけ言って答えも聞かず女のコが走り去ったその後、一人になった及川に見つかり、あからさまに動揺した。狼狽えた。ただ盗み聞きしてしまったのが気まずかったから、だけじゃない。不可抗力のようなものとはいえ及川が告白を断らなかったことに対して、密かに、確かに、平手打ちされたような衝撃を覚えていたのだ。
それが何なのか、なんて考える間もなく元凶だろう男と対峙する羽目になったのだから、普段通りに振る舞えなくても仕方なかったと思う。
わたしを見つけた及川は、いけ好かないいつもの笑顔を打ち消してこちらを見下ろしていた。わたしはその口から言葉が飛び出す前に『相変わらずモテますね』なんて軽口を叩いた。そうしたら及川は『そうだね。どうすればいいと思う? 付き合ってみようかな』と宣った。
どう思う? なんて聞かれて。うまく頭の回らないわたしは、口の中がカラカラに乾いているのを自覚しながら、それでも動揺を悟られないよう精一杯の虚勢を張って、いいんじゃない、なんて答えていた。かわいいコだったじゃん、付き合ってみれば。なんて。思ってもない言葉を。

及川くんまた告白されたらしいよ、とは女子の間でよく上がる噂ネタのひとつだった。最も、その対象が及川でなくても、誰が誰を好きらしい、誰と誰が付き合って今度は別れた、告白した告白された、なんて思春期の学生には大好物の話題。かく言うわたしも例外ではなく、少女マンガやドラマの感想を話すのとは違う身近な恋の話題をドキドキしながら聞いたり話したりした。

及川徹という男は、軽薄なようでいてその実、向かい合ったものに対しては酷く真面目だった。オンオフの切り替えがはっきりしている。些か、はっきりしすぎている、とも感じるくらいに。
全部見透かしたようなその目が、はっきり言って苦手だ。

 

 

物思いに耽けるうち、告白は失敗に終わったらしい。よく聞いてなかったけど女のコが走り去ったのが足音で分かった。
はあ、これでやっと教室に戻れる。そう安心して、ゆっくりと立ち上がった。

「盗み聞きなんて随分と悪趣味だね」
「ひっ」

驚きに悲鳴を上げて、原因となる声がした方を振り返れば、角の向こうに居たはずの男が穏やかじゃない顔をこちらへ向けていた。

「また覗き見してたの」
「ひ、人聞き悪いこと言わないで。そっちが後から来たんでしょ。こんなところで話してる方が悪い」
「俺が場所決めたわけじゃないしー」
「だったら、わたしが不可抗力ってのも分かるでしょ」
「まあね。あーあ、相変わらずツイてない」

それは完全に、わたしが言いたい。
及川はもう一度「本当にツイてない」と呟いた。頭の後ろで手を組み、曲げた背中でやるせなさを物語っている。告白してる姿を見られたわけじゃあるまいし、そんなに嫌がらなくてもいいと思う。わたしだったらどっちも見られたくないけど。

「で、どう思ったの」
「は?」
「聞いてたんでしょ」
「どうすればいいと思う、って? 知らないよ、そんなの。今カノジョ居ないんでしょ。好きにすればいいじゃない」

相も変わらず可愛げのない返ししか出てこない。だけど他に何て答えろっていうんだ。彼女なら中途半端にせずにちゃんと断ってよと怒れるだろうし、親友と呼べるくらい親しければもっと良い相手が居るよなんて嘯くことも出来たかもしれない。そのどちらでもないから、わたしに言えるのはやっぱり、及川の好きにすればいい、の一言だけ。
逡巡しても至極真っ当な返答だと思えたのに、及川は片眉を吊り上げて不服そうにした。

「全部 聞いてたわけじゃないの」
「たまたま居合わせただけで、わざわざ聞き耳立てないよ。また新しい彼女できるんだなー、って思っただけ」
「あのねえ……別に来るもの拒まず、ってわけじゃないんだよ。誰でも良いわけでもない」
「なら、好きなコとしか付き合わないの?」
「それは……まあ、後から付いてくるかなって思うときもあるケド」

そうでしょうね。そうだろうね。
男ってやつは、なんて括るつもりじゃない。男女関係なく、そういうことに潔癖では世の中こんなに彼氏彼女に溢れていないだろう。

「ふーん」
「何その反応」
「別に。愛するより愛される方が幸せってこともあるよね、と思って」
「みょうじは好きじゃない奴とは付き合えない?」
「え」

好きな人だろうが好きじゃない人だろうが、そもそも誰かと付き合ったことがない。好きな人に告白する勇気もない。告白されたこと、は、あるけど学年が同じなだけで知らない人だったし、付き合うとか考えられなくてその場でゴメンナサイをした。

「わたしは、無理かなあ……何か、付き合ってみても虚しくなりそう」
「……ふーん」
「聞いといて何なの」
「別に。そりゃそうだよね、って思っただけ。何もないよ。もう教室戻ろう」

無駄話を始めたのは自分のくせに、背中を向けてさっさと行ってしまう。わたしは慌てて追い掛けた。

「付き合ってから好きになるかも、なんてのはさ、好きな相手がいないときにしか言えないんだよね」

後ろ頭を掻きながら、及川はそんなことを呟いた。その表情は見えない。
思わず顔をこわばらせた。及川のその理論で行くなら、好きな人とじゃなきゃ付き合えないと答えたわたしは好きな人がいます、と言ったようなものじゃないか。その相手が及川だ、ということまでは分からないとしても、好きな人がいるなんて及川にバレたいネタではない。相手が誰か聞き出そうとして、からかってくるに決まってる。
そう思って構えたのに、及川は予想に反して静かに言葉を続けた。

「もう懲りたからしないよ」
「え?」
「好きじゃないコとは付き合わない」
「そう、なんだ」

よく分からないけど、わたしの話じゃなかったらしい。よかった。拍子抜けしてついでに肩の力も抜けた。
そうこうしているうち、とっくに予鈴が鳴り終わっていることに気付き、わたしたちは慌てて教室へ駆け込んだ。

 

 

 

春まで待てない(及川徹)

 

 

 

 

 

 

「それじゃ、別れよっか」

卒業式の後、泣きじゃくる友人を宥めていたその時、駆け寄ってきた彼はさも何でもないことのように二人の関係の終わりを告げた。私はといえば、友人たちが驚きのあまり涙を引っ込めたのも気にせず、とても穏やかに、笑顔すら浮かべて返事をした。

「……そうだね。バイバイ」

バレー部員たちの元へ戻っていく後ろ姿を見送る。その向こう、こちらを見遣る岩泉が『これで良いのか』と言っている気がして無理やり視線を逸らした。良いんだよ、初めからそういう約束だったから。卒業までしか一緒には居られない、期間限定の恋だった。

どういうこと、と詰め寄る友人たちに、まあ色々ね、なんて曖昧な返事をする。今はそれ以上聞いてくれるなという願いは通じたらしく、誰かの鼻を啜る音だけが残った。

私も先に泣いておけば良かった。今から涙を流せば別の理由がついてしまう。胃から迫り上がってくる感情をぐっと押し留め、空を仰ぎ、深く息を吸った。

ただのクラスメイトのままで居ればこんな想いはせずに済んだだろう。やっぱり初めからやめとけば良かったとか、泣き縋れば何か変わっただろうかとか、そんなことは何度だって考えた。たらればを言い出せばキリが無いし、今となってはどうしようもない。わたしたちは始まって、終わった。それだけのことだった。

長いようで短い春休みを終えた後は、第一志望だった大学に進学し、東京で一人暮らしを始めた。

合否発表の封書を開けた玄関先で叫びを上げたら次は誰かに報告したくなったけれど、親の次に受験を応援してくれた人はその時にはもう他人で、遠い海の向こうだと思い出した。家族と共にひとしきり騒いだ後にさりげなくSNSへ進路のことを書き込めば、大勢の反応に混じって彼からのイイネも追加された。それだけで嬉しくなって、でも、それだけ。

引越しだの何だので忙しくすれば春休みはあっという間に終わり、新生活が始まった。親しい友人はほとんどが宮城に残り、逆にあまり深く付き合いのなかった同郷メンバーと連絡を取り合うようになったりして、環境はそれはもう大きく変わった。お酒が飲めるようになって大人になったと思っても、出来ないことは依然多いままだ。コドモとオトナの境界線で浮遊するような時間は進みが早く、勉強にバイトにと明け暮れて、あっという間に三年が経った。

一週間のスケジュールをこなし、さて週末は部屋の掃除でもしてのんびり過ごそうか、なんて考えるだけで良かったはずの穏やかな休日前夜は、一通のメッセージ通知によって脆くも崩れ去った。電子音を鳴らした携帯を手に取って思わず目を見開く。

『明日、そっちへ行くね』

三年間、ひとつの音沙汰もなかった相手から突然の通知。は? 明日? そっちってどっち? 何の話?いや、待て。送り間違えたんじゃないだろうか。きっとそうだ、そうに違いない。

浮かんだ答えは誤送信という結論。そりゃそうだ。相手とは、繋がったままのSNSでたまにイイネだけを送り合う関係。

誰か、他の人に送るはずだったんだろう。指摘されるのは恥ずかしいだろうから気付かなかったふりをしてあげよう。そう結論付けて、ベッドへと潜り込んだ。もう日付も変わる時刻だから、向こうはちょうど昼食時だろうか。ほんの数年前まで自分には何の縁も無いと思っていた地球の反対側。時差なんていつの間に覚えてしまったんだろう。

翌日、家に籠もるはずだった休日は何となく落ち着かなくて、何となく街へと繰り出した。とはいえ当てもなく一人ぶらぶらとして、余計なことばかり考えてしまう。それは家族のことだったり故郷のことだったり、まるでホームシック。いつもなら衝動買いしてしまうだろうかわいい服にも今日はときめくことが無い。まるで癖みたいに、小さな溜息を何度も吐き出した。もう帰ろうか、と時間を確認する為に取り出した、そのタイミングで携帯が震え始める。

────及川徹。携帯ディスプレイは、確かにその登録からの着信を知らせていた。

「……え」

何で。どうして。……どうしよう。思わず漏れ出た心の声はそれ以上でもそれ以下でもない。回らない頭のまま通話ボタンに触れた。

「は、はい」
『さすがに未読無視はヒドくない? ねえ、今どこにいるの』
「どこって、東京」
『それは知ってる。そうじゃなくて何してるの』
「え? 買い物だけど……」
『はあ? 行くって言ったのに何で出掛けちゃうの?』
「いや、行くって言って本当に来ると思わないし、誰かと間違えたんだろうと思ってたし……って、え? 徹、日本に帰ってきてるの?」
『だから、そう言ってるでしょ。ねえ、それどこ? 最寄駅は?』

────分かった。あまり動かないでね。

強引に居場所を聞き出され、通話は一方的に切られてしまった。

予定は大丈夫かとか、誰かと一緒じゃないかとか、そう言ったことは何も聞かずに。今から? 本当に? 何の為に? ふらふらと入った駅前のチェーン店で甘さたっぷりのラテを注文した。疲れているときは糖分に限る。

落ち着いたら腹が立ってきた。何で怒られないといけないの。まるでわたしが約束をすっぽかしたみたいに。まだ、まるで今が、制服着てたあの頃と同じみたいに。

小一時間ほど経った頃だろうか。コンコン、と目の前のガラスを軽く叩く音がして、顔を上げた。三年前と変わらぬ胡散臭い笑顔の、少し精悍な顔付きになったその男が、確かに目の前に立っていた。携帯を耳に当てている。もしかして、と自分の携帯を確認すると、ガラスの向こうからの着信。

『来たよ。出ておいで』

店の外に出ると、冷たい風が吹き付けた。思わず身をすぼめて、巻き直したマフラーへと顔を埋める。「とおる」と零れ落ちるみたいにその名を呼べば、相手は何の緊張感もなく「やっほー。ゲンキ?」と宣った。

「……そっちこそ。見るからに変わらず元気そうだけど」
「元気だけど。変わってないことはないでしょ! 背だってまた伸びたし筋肉だって付いたし格好よくなったもん」

自分で言うなよ。っていうか、まだ身長伸びるのか。恐ろしい。視線を合わせると首が痛いんだよなあ、と見上げれば、にこりと笑う徹。

三年だよ、三年。誰も変わらないはずがない。なのに、電話でも、顔を合わせても、何でこんなにも普通で居られるの。忘れてたはずの想いが込み上げる。こんなにも鮮やかに。

ねえ、何で連絡くれたの。何で会いに来てくれたの。

「……いつ帰ってきたの」
「さっき。短期間だから実家にも帰れないんだけどね。あ、東京じゃん、って思ったら顔が見たくなって連絡しちゃった」
「……ふぅん」
「寂しかった?」

────全然。そう口にするつもりが、音にならなくて。表情を覗き込もうとする顔を手振りで押し退ける。

「俺は寂しかったよ」
「……何なの。何しに来たの」
「いま答えたじゃん。ねえ、少し歩こうか」
「何なの、暇なの。バレー馬鹿」

馬鹿呼ばわりされたのに徹は嬉しそうに笑っていた。何だか腹が立つ。いつだって、そうだ。人の気なんて知らずに。

駅から繁華街へと進む徹の横に並んだ。

「それ、久しぶりに聞いたなぁ。向こうじゃバカばっかりだから。忙しいに決まってるじゃん。まあ想像の通りバレーばかりしてるよ。俺の試合、見てくれてる?」
「見てない」
「何で! スポーツチャンネル契約してない? してよ! って言っても、この間も負けたけど。うん、負けるのも慣れたよ」
「……そんなこと言うキャラだっけ」
「えー? 慣れるよ。今いるチームは、強いけど全勝なんてわけにはいかないし。続ける限り、負けのないチームなんてないんだからさ。悔しさに慣れるわけじゃない。……でも、勝っても負けても、バレーだ」

変わらない、真っ直ぐな瞳を隣から見つめた。

バレーの話をする徹は、こちらを見ない。目線とかそういうことじゃなくて、他のことなんて全部わすれたみたいに、そこにバレーしかないみたいに。それは少し寂しいのと同時に、どこか憧れる姿だった。いつだったか、正直に言うとバレーに妬いたことがある、と岩泉に伝えたら心底残念なものを見る顔をされたっけ。

試合を観ていない、なんて大嘘だ。大きな試合はスマホひとつあれば観戦することができるし、国内で配信されていない試合だってネットで探しては勝敗を確認して、届かないのなんて分かりきっていても、がんばれ、がんばれって祈らずには居られない。離れて、その道がもう交わることはなくても、徹もがんばってるからわたしもがんばるんだ、って。ずっと変わらない。背筋を正す理由。

「……徹、わたしね」
「うん?」
「寂しかったし、会いたかったよ」

え、って顔のまま足を止めた間抜け面を振り返る。徹は固まったまま動かなくなった。かと思えば、顔を覆ってそれはそれは深い溜め息を吐き出した。

「……俺いまちょっとヘコんでてさ。顔見るだけ、って思ってたんだけど……会って、顔見たら、やっぱり無理」
「ちょっと、なに」
「今日だけじゃ足りない」

鋭い瞳に射抜かれ、思わず怯み後退りした。空いていた距離はたった一歩で詰められる。腕を掴もうとしたんだろう手は暫し空を彷徨った後、服の端だけ捕まえることにしたらしい。そんなことしなくても逃げないよ、の意味を込めて見上げれば、思ってたよりずっと必死な顔をした徹と視線が重なった。

「俺待っててとか言えないしでも遠恋なんて無理だって言うから別れるしかなかったけどすごく嫌だったんだよ大学で変な男に絡まれてないかなとか彼氏できたのかなとかまあ俺以上に良い男なんているわけないと思うけど心配で仕方なくて今どうしてるのかなって考えちゃうけど会ったら我慢できないの分かってるしでももう限界で連絡したら未読無視するしなのに会いたかったってなに!?」

一息で全部吐き出して、それでも問題のなさそうな肺活量にちょっと引いた。叫ぶというほどではないけれど大きな声で発せられた訴えに、行き交う人の視線が刺さる。

「俺、もう、我慢しなくていい?」

互いの吐き出した白い吐息が混ざり合う。

初めからやめておけば良かったとか他に何か出来たら違う結果になっただろうか、とかそんなことは何度でも考えた。でも出会いがあれば別れはあるものと自分に言い聞かせ、告白してくれたよく知りもしない人と付き合ってみてもすぐにダメになって、それは何でだって考えないようにして。理由なんて明白だったのに。

まだ、好きなんだ。

「……徹、向こうにはいつ戻るの?」
「明後日だけど、って今それ?」
「電話、してもいい?」

いつだったか、用もないのに電話するような仲じゃないと一蹴したのはわたし自身だった。今もそんな関係じゃない。でも。

まんまるになった徹の目。段々と俯いていくのでそっと覗き込めば、今度は勢いよく顔を上げた。

「どうしたの何でそんな素直なの、どうしようかわいい! 俺どうしたらいいの!」
「ああもう、うるさい! 良いのダメなのどっち!」
「良いに決まってるじゃん! どうしよう俺、感動で涙でそう……今すぐ抱き締めたい」
「絶対やめて。そんなことしたら二度と口聞かないから」
「うん、分かってる。あー、今この気持ちだけでゴハン三杯はいけそう……」
「そう。わたしはお腹空いた。食べて帰るから、じゃあね」
「ちょ、待ってよ何で置いてくの! 一緒に行くに決まってるでしょ!」

早足で進めば、本気で置いていかれると思ったのか、慌てた様子の徹が着いてきた。

「話したいこと、いっぱいあるから毎日電話しても足りなさそう。そういえばこの間ね、リオで烏野のチビちゃんに会ったよ」
「知ってる。岩泉に聞いた」
「は? え、何で岩ちゃん? 二人そんな仲良かったっけ? え? 連絡取ってるの? まさか二人で会ったり? え?」
「徹うるさい。さむいから早く行こ」

そう言って、近付いたその手に触れた。掌を合わせてすこし力を込めれば、一瞬遅れて強く握り返される。「夢でも見てるのかな」と徹が呟いた。そうかもね、なんて嘯いた。

 

 

 

 

冬の次は春(及川徹)

 

 

 

 

 

 

「卒業後は、海外に行こうと思ってる」

言葉が耳に届いて一瞬、呼吸の仕方を忘れたみたいに世界が止まる。知らない単語にぶつかったみたいに反芻する。かいがい。口はその形に動くのに乾いて音にならない。それでも相手は意図を感じ取ったらしく「うん、そう。アルゼンチン」と話を続けるので今度は見えない地球儀がぐるぐると回った。卒業後って言った? 卒業旅行じゃなくて?

期末テストを終えて晴れ晴れとしたタイミング、珍しくも一緒に帰ろう、と誘われた下校途中。隣を歩く及川から突拍子もなく切り出された、ほんの少し未来の話。この冬を超えて春が来ればすぐそこなのに、及川が口にしたそれは今の私には想像もつかないくらい遠い世界に思えた。受験が控えているから、だけが理由じゃない。深呼吸してようやく吐き出した息は、何の変哲もなく、白かった。

「……ふぅん」
「あれ、やっぱり寂しい?」
「全然。もう毎日のように顔を見ないで済むかと思うと、寧ろ清々する」

取り繕って鼻で笑えば、ヒドイ! 及川くんは繊細なんだよ! と身振り手振りも加わって相も変わらず喧しい。

互いの将来の話なんてしたことはないけれど、何となく及川はバレーを続けるんだろう、とは思っていた。

もうすぐ、卒業だ。その先を決めて、進まなければならない。私だって地元の大学を受けるわけじゃない。この街を出るつもりでいる。いつまでも一緒では居られない。けれど、隣で過ごしてきたわけじゃないこの男の、ほんの少し近くに居ることに慣れ過ぎてしまったんだと思う。私に触れたことの無いこの男が、それでも傍に居る時間が、長過ぎた。

鞄の持ち手をぎゅっと握り込む。及川は何やら眉間に皺を寄せてぷんすかしていた。

「後で寂しがっても知らないからね。本当に会えなくなっちゃうんだからね!」
「近くに居たところで、卒業後も連絡取り合うような仲じゃないでしょ」

付き合っているわけでもあるまいし。その意味を込めて、睨めつけるように隣の顔を見上げれば、ほんのすこし目を丸めた及川が「そうだっけ」と呟いた。何を言ってるんだ、コイツ。

クラスが一緒だった。部活のない日は同じ車両で通学していた。ただ、それだけの関係だ。ただのクラスメイトで、それ以上でもそれ以下でもない。何年あっても変わることのない関係。会えば挨拶はするし、他のクラスメイトに誘われたら試合の応援だって行くし、教科書を忘れたら見せてと頼んだし、風邪で休んだらノートの貸し借りだってした。そういえば、一緒に授業をサボったこともあった。確かバレーの試合があったと言っていたっけ。珍しくも胡散臭い笑顔は消えていて、こんな顔もするんだな、と驚いたものだった。

わたしのともだち。クラスメイト。それは、大多数が学校という枠組みから外れてしまえば、たちまちSNSの中だけでライフイベントを知るような、そんなものだろうと思っていた。すこし寂しいけれど、でも、誰しもがそんなものでしょう?

「絶対、寂しいよ。離れても電話するし、連絡するし。だから無視しないでよね」

軽くあしらう程度で引き下がる男じゃないのは知っていた。そして口うるさい。やると言ったら本当にやる。決して良い意味だけじゃなく。今どこに居るの誰と何してるのちゃんと食べてるの無理してないよね風邪引いちゃダメだよ───なんて、アンタは私のお母さんか。と思うような口出しをする割烹着姿の及川を想像して、不覚にも噴き出してしまった。

「ちょっと、ナニ笑ってるの」
「何でもない。仕方ないから、十回に一回くらいは相手しようかな」
「ヤダ。ちゃんと全部応えて」

そうは言っても、新しい生活が始まればきっと忙しくてすぐに忘れるよ。バレーと過ごした高校生活を忘れなくても、心配する親の顔は忘れなくても、通りすがりの私のことなんか、きっとすぐに忘れるよ。だから、心配しなくても大丈夫。連絡が来なくなっても、傷付いたりへこんだりしないから、大丈夫。SNSとか、もしかしたらいつかテレビの向こうで、ああ元気にしてるんだな、と時折生存確認だけ出来たらそれで良いよ。……ああ、考えたら、やっぱりすこし寂しい。及川のことだけじゃなく、今まで当たり前にあったことが当たり前じゃなくなるんだから。

「……卒業後のことは分かんないけど、まあ、卒業までよろしく」
「何でそんな達観しちゃってるの? もっと惜しんでくれても良くない?」
「何なの、もう。例えば、わたしが泣いて『サミシイ行かないでー』って言ったらやめるの?」
「やめないよ。決めたことだし」
「でしょうね」
「冷たい! いいよ、分かってたよ! ふんだ」

引き留めてほしいわけじゃないけれど寂しがれと言う。全く、自分勝手な男だ。呆れた溜息を向けると、及川は急に立ち止まった。数歩先から振り返る。「どうしたの」と問い掛けるも及川は応えず、いつもの不敵な笑みのままに口を開いた。

「待っててほしいとは言わないけどさ。……攫いに行くとは思うから、覚悟しといてね」
「は?」
「だから、さ。別に誰と付き合っても良いけど、結婚はしちゃダメだよ。俺が迎えに行くまで」

そう言って、一段と胡散臭い笑顔を形づくる。文字通り開いた口が塞がらない。頭が痛い。どこまで本気でどこまで冗談なのか分からないから質が悪い。けれど、それを聞いたところで当人は全部本気だよ、と答えるだけだと分かっていた。

「……何それ。結局、待ってろってコトじゃん」
「ああ。そうかも」
「っていうか、意味わかんないし」
「何で? 分かってよ」
「わかんない。早く帰ろ。さむい」

じわじわと、顔に熱が昇る。赤くなった顔を見られないよう、足早に先へと進んだ。もう置いて行ってやろうか、と思ったのに、離したはずの距離はたったの数歩で追い付かれてしまう。コンパスの差が憎い。一方的に話を切り上げたというのに、及川は機嫌を崩すこともなく、また隣を歩き始める。顔を覗き込もうとするので、こっちを見るな、とその頭を押し退けた。

「顔、赤いよ」
「言わなくていい!」

コートの裾を引かれて、再び立ち止まる。赤くなった顔はマフラーに埋めても隠せそうにない。視線がぶつかる。

「ねえ、今日、帰ってから電話してもいい?」
「ダメ」
「なんでさ」
「……用もないのに、連絡取り合うような仲じゃないでしょ」
「うん。そうかもね。でも、声が聴きたい。だから、ねえ、ちゃんと応えてよ」

声は温和なのにはっきりとした鋭い瞳。こちらを見透かすような、わたしの及び腰を捕まえてしまう目だった。掴まれた腕が熱い。

こんな会話は不毛だ。意味がない。気まずくなってイイネすら押せなくなったらどうするんだ、及川のバカ。あとすこし、何も無くこれまで通りに、ともだちで居られたら。そう思うのに。

「…………考えとく……」
「考えとくって何、絶対だよ。ゼッタイ!」
「ああ、もう、わかったってば!」

根負けても素直になれない自分が恥ずかし過ぎて視線を逸らした。ああ、もう、何でこんなことに。頭の中はぐるぐるぐちゃぐちゃで、冷静じゃない。自らを逃げ場をなくしたことを後で後悔するかもしれない。それでも、嬉しそうに笑う及川の姿を見ると、ぐちぐち悩んでいることがバカみたいに思えた。

卒業まで、あとすこし。