春まで待てない(及川徹)

 

 

 

 

 

 

「それじゃ、別れよっか」

卒業式の後、泣きじゃくる友人を宥めていたその時、駆け寄ってきた彼はさも何でもないことのように二人の関係の終わりを告げた。私はといえば、友人たちが驚きのあまり涙を引っ込めたのも気にせず、とても穏やかに、笑顔すら浮かべて返事をした。

「……そうだね。バイバイ」

バレー部員たちの元へ戻っていく後ろ姿を見送る。その向こう、こちらを見遣る岩泉が『これで良いのか』と言っている気がして無理やり視線を逸らした。良いんだよ、初めからそういう約束だったから。卒業までしか一緒には居られない、期間限定の恋だった。

どういうこと、と詰め寄る友人たちに、まあ色々ね、なんて曖昧な返事をする。今はそれ以上聞いてくれるなという願いは通じたらしく、誰かの鼻を啜る音だけが残った。

私も先に泣いておけば良かった。今から涙を流せば別の理由がついてしまう。胃から迫り上がってくる感情をぐっと押し留め、空を仰ぎ、深く息を吸った。

ただのクラスメイトのままで居ればこんな想いはせずに済んだだろう。やっぱり初めからやめとけば良かったとか、泣き縋れば何か変わっただろうかとか、そんなことは何度だって考えた。たらればを言い出せばキリが無いし、今となってはどうしようもない。わたしたちは始まって、終わった。それだけのことだった。

長いようで短い春休みを終えた後は、第一志望だった大学に進学し、東京で一人暮らしを始めた。

合否発表の封書を開けた玄関先で叫びを上げたら次は誰かに報告したくなったけれど、親の次に受験を応援してくれた人はその時にはもう他人で、遠い海の向こうだと思い出した。家族と共にひとしきり騒いだ後にさりげなくSNSへ進路のことを書き込めば、大勢の反応に混じって彼からのイイネも追加された。それだけで嬉しくなって、でも、それだけ。

引越しだの何だので忙しくすれば春休みはあっという間に終わり、新生活が始まった。親しい友人はほとんどが宮城に残り、逆にあまり深く付き合いのなかった同郷メンバーと連絡を取り合うようになったりして、環境はそれはもう大きく変わった。お酒が飲めるようになって大人になったと思っても、出来ないことは依然多いままだ。コドモとオトナの境界線で浮遊するような時間は進みが早く、勉強にバイトにと明け暮れて、あっという間に三年が経った。

一週間のスケジュールをこなし、さて週末は部屋の掃除でもしてのんびり過ごそうか、なんて考えるだけで良かったはずの穏やかな休日前夜は、一通のメッセージ通知によって脆くも崩れ去った。電子音を鳴らした携帯を手に取って思わず目を見開く。

『明日、そっちへ行くね』

三年間、ひとつの音沙汰もなかった相手から突然の通知。は? 明日? そっちってどっち? 何の話?いや、待て。送り間違えたんじゃないだろうか。きっとそうだ、そうに違いない。

浮かんだ答えは誤送信という結論。そりゃそうだ。相手とは、繋がったままのSNSでたまにイイネだけを送り合う関係。

誰か、他の人に送るはずだったんだろう。指摘されるのは恥ずかしいだろうから気付かなかったふりをしてあげよう。そう結論付けて、ベッドへと潜り込んだ。もう日付も変わる時刻だから、向こうはちょうど昼食時だろうか。ほんの数年前まで自分には何の縁も無いと思っていた地球の反対側。時差なんていつの間に覚えてしまったんだろう。

翌日、家に籠もるはずだった休日は何となく落ち着かなくて、何となく街へと繰り出した。とはいえ当てもなく一人ぶらぶらとして、余計なことばかり考えてしまう。それは家族のことだったり故郷のことだったり、まるでホームシック。いつもなら衝動買いしてしまうだろうかわいい服にも今日はときめくことが無い。まるで癖みたいに、小さな溜息を何度も吐き出した。もう帰ろうか、と時間を確認する為に取り出した、そのタイミングで携帯が震え始める。

────及川徹。携帯ディスプレイは、確かにその登録からの着信を知らせていた。

「……え」

何で。どうして。……どうしよう。思わず漏れ出た心の声はそれ以上でもそれ以下でもない。回らない頭のまま通話ボタンに触れた。

「は、はい」
『さすがに未読無視はヒドくない? ねえ、今どこにいるの』
「どこって、東京」
『それは知ってる。そうじゃなくて何してるの』
「え? 買い物だけど……」
『はあ? 行くって言ったのに何で出掛けちゃうの?』
「いや、行くって言って本当に来ると思わないし、誰かと間違えたんだろうと思ってたし……って、え? 徹、日本に帰ってきてるの?」
『だから、そう言ってるでしょ。ねえ、それどこ? 最寄駅は?』

────分かった。あまり動かないでね。

強引に居場所を聞き出され、通話は一方的に切られてしまった。

予定は大丈夫かとか、誰かと一緒じゃないかとか、そう言ったことは何も聞かずに。今から? 本当に? 何の為に? ふらふらと入った駅前のチェーン店で甘さたっぷりのラテを注文した。疲れているときは糖分に限る。

落ち着いたら腹が立ってきた。何で怒られないといけないの。まるでわたしが約束をすっぽかしたみたいに。まだ、まるで今が、制服着てたあの頃と同じみたいに。

小一時間ほど経った頃だろうか。コンコン、と目の前のガラスを軽く叩く音がして、顔を上げた。三年前と変わらぬ胡散臭い笑顔の、少し精悍な顔付きになったその男が、確かに目の前に立っていた。携帯を耳に当てている。もしかして、と自分の携帯を確認すると、ガラスの向こうからの着信。

『来たよ。出ておいで』

店の外に出ると、冷たい風が吹き付けた。思わず身をすぼめて、巻き直したマフラーへと顔を埋める。「とおる」と零れ落ちるみたいにその名を呼べば、相手は何の緊張感もなく「やっほー。ゲンキ?」と宣った。

「……そっちこそ。見るからに変わらず元気そうだけど」
「元気だけど。変わってないことはないでしょ! 背だってまた伸びたし筋肉だって付いたし格好よくなったもん」

自分で言うなよ。っていうか、まだ身長伸びるのか。恐ろしい。視線を合わせると首が痛いんだよなあ、と見上げれば、にこりと笑う徹。

三年だよ、三年。誰も変わらないはずがない。なのに、電話でも、顔を合わせても、何でこんなにも普通で居られるの。忘れてたはずの想いが込み上げる。こんなにも鮮やかに。

ねえ、何で連絡くれたの。何で会いに来てくれたの。

「……いつ帰ってきたの」
「さっき。短期間だから実家にも帰れないんだけどね。あ、東京じゃん、って思ったら顔が見たくなって連絡しちゃった」
「……ふぅん」
「寂しかった?」

────全然。そう口にするつもりが、音にならなくて。表情を覗き込もうとする顔を手振りで押し退ける。

「俺は寂しかったよ」
「……何なの。何しに来たの」
「いま答えたじゃん。ねえ、少し歩こうか」
「何なの、暇なの。バレー馬鹿」

馬鹿呼ばわりされたのに徹は嬉しそうに笑っていた。何だか腹が立つ。いつだって、そうだ。人の気なんて知らずに。

駅から繁華街へと進む徹の横に並んだ。

「それ、久しぶりに聞いたなぁ。向こうじゃバカばっかりだから。忙しいに決まってるじゃん。まあ想像の通りバレーばかりしてるよ。俺の試合、見てくれてる?」
「見てない」
「何で! スポーツチャンネル契約してない? してよ! って言っても、この間も負けたけど。うん、負けるのも慣れたよ」
「……そんなこと言うキャラだっけ」
「えー? 慣れるよ。今いるチームは、強いけど全勝なんてわけにはいかないし。続ける限り、負けのないチームなんてないんだからさ。悔しさに慣れるわけじゃない。……でも、勝っても負けても、バレーだ」

変わらない、真っ直ぐな瞳を隣から見つめた。

バレーの話をする徹は、こちらを見ない。目線とかそういうことじゃなくて、他のことなんて全部わすれたみたいに、そこにバレーしかないみたいに。それは少し寂しいのと同時に、どこか憧れる姿だった。いつだったか、正直に言うとバレーに妬いたことがある、と岩泉に伝えたら心底残念なものを見る顔をされたっけ。

試合を観ていない、なんて大嘘だ。大きな試合はスマホひとつあれば観戦することができるし、国内で配信されていない試合だってネットで探しては勝敗を確認して、届かないのなんて分かりきっていても、がんばれ、がんばれって祈らずには居られない。離れて、その道がもう交わることはなくても、徹もがんばってるからわたしもがんばるんだ、って。ずっと変わらない。背筋を正す理由。

「……徹、わたしね」
「うん?」
「寂しかったし、会いたかったよ」

え、って顔のまま足を止めた間抜け面を振り返る。徹は固まったまま動かなくなった。かと思えば、顔を覆ってそれはそれは深い溜め息を吐き出した。

「……俺いまちょっとヘコんでてさ。顔見るだけ、って思ってたんだけど……会って、顔見たら、やっぱり無理」
「ちょっと、なに」
「今日だけじゃ足りない」

鋭い瞳に射抜かれ、思わず怯み後退りした。空いていた距離はたった一歩で詰められる。腕を掴もうとしたんだろう手は暫し空を彷徨った後、服の端だけ捕まえることにしたらしい。そんなことしなくても逃げないよ、の意味を込めて見上げれば、思ってたよりずっと必死な顔をした徹と視線が重なった。

「俺待っててとか言えないしでも遠恋なんて無理だって言うから別れるしかなかったけどすごく嫌だったんだよ大学で変な男に絡まれてないかなとか彼氏できたのかなとかまあ俺以上に良い男なんているわけないと思うけど心配で仕方なくて今どうしてるのかなって考えちゃうけど会ったら我慢できないの分かってるしでももう限界で連絡したら未読無視するしなのに会いたかったってなに!?」

一息で全部吐き出して、それでも問題のなさそうな肺活量にちょっと引いた。叫ぶというほどではないけれど大きな声で発せられた訴えに、行き交う人の視線が刺さる。

「俺、もう、我慢しなくていい?」

互いの吐き出した白い吐息が混ざり合う。

初めからやめておけば良かったとか他に何か出来たら違う結果になっただろうか、とかそんなことは何度でも考えた。でも出会いがあれば別れはあるものと自分に言い聞かせ、告白してくれたよく知りもしない人と付き合ってみてもすぐにダメになって、それは何でだって考えないようにして。理由なんて明白だったのに。

まだ、好きなんだ。

「……徹、向こうにはいつ戻るの?」
「明後日だけど、って今それ?」
「電話、してもいい?」

いつだったか、用もないのに電話するような仲じゃないと一蹴したのはわたし自身だった。今もそんな関係じゃない。でも。

まんまるになった徹の目。段々と俯いていくのでそっと覗き込めば、今度は勢いよく顔を上げた。

「どうしたの何でそんな素直なの、どうしようかわいい! 俺どうしたらいいの!」
「ああもう、うるさい! 良いのダメなのどっち!」
「良いに決まってるじゃん! どうしよう俺、感動で涙でそう……今すぐ抱き締めたい」
「絶対やめて。そんなことしたら二度と口聞かないから」
「うん、分かってる。あー、今この気持ちだけでゴハン三杯はいけそう……」
「そう。わたしはお腹空いた。食べて帰るから、じゃあね」
「ちょ、待ってよ何で置いてくの! 一緒に行くに決まってるでしょ!」

早足で進めば、本気で置いていかれると思ったのか、慌てた様子の徹が着いてきた。

「話したいこと、いっぱいあるから毎日電話しても足りなさそう。そういえばこの間ね、リオで烏野のチビちゃんに会ったよ」
「知ってる。岩泉に聞いた」
「は? え、何で岩ちゃん? 二人そんな仲良かったっけ? え? 連絡取ってるの? まさか二人で会ったり? え?」
「徹うるさい。さむいから早く行こ」

そう言って、近付いたその手に触れた。掌を合わせてすこし力を込めれば、一瞬遅れて強く握り返される。「夢でも見てるのかな」と徹が呟いた。そうかもね、なんて嘯いた。