健全で純粋な危険地帯(赤葦京治)

 

 

 

 

 

彼女が既に他人ひとのものである、と暫く信じて疑わなかったのは仕方のないことだと思う。なんせ初めてその人を認識したのは、木兎さんがその腕に抱き上げた姿だったのだから。それは俺が経験する初めてのインターハイを勝ち進んだ先、試合終了後の木兎さんが高らかに勝利の喜びを叫び、応援に来ていた人に駆け寄ったときだった。抱き上げたとは言っても優しく横抱きにしたのではなく、大人が子どもをその腕に座らせるような雑な形だったけれど。しかも彼女は綻ぶどころか激しい拒否反応を示し、その腕で暴れていたのだけれど。それでも、その関係が男女のソレだと思うのはごく自然なことだっただろう。木兎さんとその人の関係を知っていた、僅かなメンバーを除いて。 当時の木兎さんは長期に不調が続いていて、付き合いの長い先輩たちでさえ扱いに困るくらいメンタルが落ち込んでいた。
後に聞くところ、授業のある日中でさえその調子だったのを、木兎さんのクラスメイトである彼女がたった一言で持ち上げてしまったらしい。「これまでの木兎があれば大丈夫でしょ」と。その一言がどういう意味で発せられて一体どう木兎さんに響いたのかは未だに分からないけれど、彼女に注目するには十分な出来事だった。 とにかく、そこにスターを支える要因があるに違いない、と彼女を紹介してもらい、二人で話せるくらい親しくなるのに半年、その間にどんどんと彼女個人に惹かれ続けてセーブできなくなって、その人がまだ誰のものでもないと知るのにまた半年。やっと想いを伝えてこの腕に閉じ込められる権利を得た頃には、彼女が卒業してしまうまでもうあまり時間は残っていなかった。
それでも、卒業後も何とか繋ぎ止めて今まで付き合い続けてこられたのは単に運が良かっただけなんじゃないかと思うことさえある。特に、今みたいな瞬間には。

「勝ったぞ! 見てたかー!」
「ちょ、木兎! 降ろしてよ、バカ!」

プロになっても相変わらずな木兎さんにいっそ感心さえするところだった。その腕に抱きかかえられているのが、自分の恋人でさえなければ、の話であるが。通路の奥、目に入ってきた情報を処理してまず溜息を吐く。
それは観覧席から通路へと降りて、ほんの僅か彼女から離れた隙だった。流した汗もそのままにコートから駆け出てきたのだろう木兎さんは、あの頃と同じように勝利に歓喜し、試合終了後であるにも関わらず注目を集めていた。一般人も出入りできるスペースで騒いでいるものだから、当然、目撃している人間は自分以外にも多数。現に背後からはスマホのシャッター音や「ジャッカルの木兎選手じゃん!彼女かな?」なんて会話が聞こえてくる。

「見てた見てた、ちゃんと見てたから」
「ホントかよ! 何かテキトーじゃね?」

適当に流そうとする彼女を見抜いて、木兎さんは不満そうに口を尖らせている。彼女は普段と異なる視界の高さを怖がってか、木兎さんの首筋にしがみついていた。さらに、衆人環視のもととまではいかずとも少なからず向けられた人目から顔を背ければ自然と肩に顔を埋めることとなり、つまりは傍目から見れば二人は仲睦まじく抱き合っているようにしか見えなかった。俺の後ろにいるカップルが「ラブラブだね」なんて言いながら再びシャッターボタンを押すのも致し方ないというものだ。

別に、こんな光景は見慣れたものだった。まだ学生だったあの頃、試合中に送られた声援の数や自転車の相乗りで騒ぐ姿、木漏れ日の下で肩を寄せ合い居眠りをする二人、赤点補修を避ける為に彼女が付きっきりで木兎さんに勉強を教えたり、雨の日に傘を忘れた木兎さんの為に彼女が練習終わりまで待っていたり、そんなことは彼女と付き合う前も付き合ってからもごく普通の日常で、大きく変えたいと思ったことはない。そんな奔放な彼らだからこそ憧れた。そもそも両名のじゃれ合いは男女のソレとは思えないもので、例えば「実は血が繋がっていました」とある日突然に告げられても俺は驚かないだろう。それくらい、当たり前の姿だと認識していた。
とはいえ、腹で燻るお世辞にも綺麗とは言えないこの感情は、そういった理性とはまた別のところから沸き上がるものである。
落ち着け、赤葦京治。彼らは何も考えていない。犬猫か子どもがじゃれあっているようなものだ。そう考えて、一人頷くも、いつだったか世話焼きな先輩が呆れながら口にした『たまには怒った方がいいぜ、赤葦』なんて一言が何となく思い出される。そうだ、我慢ばかりは身体に良くない。 ギャラリーから抜け出て、二人に近付き、声をかける。

「アンタたち何やってんですか」
「け、京治……」
「よー、赤葦! 俺の活躍見たかー!」
「見てましたよ。さすがでした。ところで危ないんで、降ろしてあげてください」
「何か二人ともテキトーじゃね?」

あ、これ面倒くさいやつだ。そう察したときにはもう遅い。木兎さんは「今日調子よかったんだけどなー」などとぼやきながらその場でぐるぐると回り始めた。本当に何やってんだ、この人は。
さて、どうしたものか。と逡巡するより先に、その動きを止めるべきだった。
ゴン、と鈍い音がして、依然として木兎さんに抱えられたままの彼女が、呻きながら後頭部を抑えた。吊り下げタイプの看板に頭をぶつけたらしい。通常なら届かない高さにあるだろうソレは、運悪く修理中で装飾が重ねられ、幾分か低い位置にあったらしい。

「わ、悪ィ」
「痛い。自分のサイズ考えてよね……!」
「だから危ないって言ったでしょう……ほら」

はあ、と溜息を吐きながら、二人に向かって両手を拡げる。一瞬、間が空いたものの、木兎さんは腕の中の彼女と俺とを見比べると生気の消えた顔で「あ、ハイ……」とソレをこちらへと差し出した。よし、とそのまま受け取ろうとすれば、彼女は硬直を解き、さっきとは比較にならないくらい暴れてイヤイヤを始めた。

「え、いや、ちょっと待って。むりむりむり! 絶対ヤダ! 木兎はやく降ろして」
「ダメです。アンタが悪い」
「わ、暴れんなって危ねーから」
「いや、どう考えてもわたし被害者だよね!?」
「木兎さんは良くて俺はダメなんですか」
「木兎にだって許可した覚えはない!」
「ケンカすんなよ、お前らー」

アンタのせいだよ。とは大人げないので口にしない。意地でもイヤだ、と威嚇までしてきた彼女を無理やり抱えるわけにもいかず、諦めて身体を引いた。何も本気だったわけじゃない。それにしても、そこまで強く拒否しなくてもいいんじゃないだろうか。ようやく木兎さんから解放された彼女は、立ち上がると顔を赤くしながら俺と距離を取った。あろうことか、木兎さんの身体に隠れてこちらの様子を窺っている。 羞恥からくる照れ隠しと分かってはいても、傷付かないわけじゃないんだけど。

「……何もしませんから、こっちへ来てください」
「ほんと?」
「本当です」
「なー、試合終わったのにまだ人多いな! 何でだ?」
「アンタのせいですよ」

今度は言った。言ったところで、木兎さんの頭上には「?」が浮かんだままだった。 そうこうしているうち、木兎さんはチームメイトに呼ばれ、何やら怒られながら控え室の方へと引き摺られていった。どうやら自由行動していい時間ではなかったらしい。本当に相変わらずだ、と呆れながらも懐かしさに思わず綻ぶ。首根っこを掴まれているのに快活に「またなー!」と笑顔で去っていく。いつもながら大人しく出来ない人だ。そのうち試合間のエンターテイメントにも飛び出していきそうで恐ろしい。見送り終える頃には、集まっていたギャラリーもすっかり居なくなっていた。俺と彼女の残った二人、同時に溜息を吐き出した。

「……帰ろっか。何か疲れた」
「観戦、はしゃいでましたもんね。声ちょっと枯れてる」
「試合よりその後がね……」
「まあ、そうでしょうね」

言葉は普通でも、少し棘のある声になったのは否めない。返答を受けて、恐る恐るといった様子でこちらを見上げた彼女の視線を捕まえる。

「……京治、怒ってる?」
「すこしだけ」
「少しって雰囲気じゃないんだけど。知ってるんだよ、怒ったときだけ敬語に戻っちゃうの」
「そう思うなら、宥めてもらえますか」

距離の近い彼らを見ていつだったか、妬かないわけじゃないんですよ、とストレートに伝えたときの彼女の反応の可愛さたるや。だって赤葦くんは意識しちゃうから、と落とすように呟いて蒸気した顔は、目に焼き付けただけあっていつでも鮮明に思い起こせる。
だから、本当は別に怒ってなんていない。
けれど、バツの悪そうな顔でこちらを窺う彼女を見て、悪戯心がむくりと鎌首をもたげたのを認めよう。たとえ木兎さんと彼女が仲睦まじくじゃれ合おうとも、彼女の核心に触れていいのは自分だけ。

「……どうしたらいいの」
「考えてください。俺のこと」
「うう」

言葉を詰まらせながら眉尻を下げた彼女を追い詰める。今日はこの後も予定がある。試合の日に合わせて出掛けてきたとはいえ、二人会うのは久し振りだった。まずは腹拵えをしてそれから何処へ行こうか、と昨夜までに相談した予定はまた次の機会。

「帰ろうか」

たまには我が侭を聞いてもらっても許されるだろう。真っ直ぐ家に帰って、それから。