純度高き泡沫(赤葦京治)

 

 

 

 

 

 

 

授業を終えて、いつもなら部室へと急ぐところ、今日の放課後はまず図書室へと向かう。当番の為だった。
試合で公休、ちょうどその日に委員会を決めたらしい。居ない奴が悪いのだ、と容赦の無かったクラスメイトたちの手により決められた俺の役割は図書委員。司書がいるとはいえ、定められた時間には図書室でじっとしていなければならないアレだ。よりにもよって、放課後に影響する活動内容のものだった。今は少しの練習時間を失うのも惜しい。彼らと共にバレーを出来る時間は限られている。
本を読むのは好きだ。先輩たちが回し読みしている漫画雑誌も悪くないけど、それよりは細やかな文字に綴られた世界を追う方が好きだった。また、誰かがひっきりなしに訪れる場所で読書に没頭できるかといえばそうではなく、図書当番は読み手に適した時間とは言えない。それでも比較的人気のある委員だと認識していたけど、うちのクラスに限りそうではなかったらしい。文化祭や体育祭の実行委員にならなかっただけずっとマシだけど。放課後が奪われるとはいっても、一ヶ月に一度か二度のこと。適当にやり過ごせばいい。
そう思っていた、のに。その集まりに肩を落として向かったのは初日だけ。定例会議も、放課後の当番も、何ら苦にはならなかった。偏に彼女が居たからだ。
通常なら同学年同クラスの二人で組まれる昼と放課後の当番は、用事があれば生徒同士での交代を許されている。当番の順番について説明がなされた日、彼女は委員の中で数少ない顔見知りであろう俺に交代を依頼してきた。理由も聞かず、速やかに自分のペアにあたる女子を差し出して、彼女と俺が同じになるように設定した。
今はテスト期間でも何でもない普通の平日、つまり放課後に図書室を利用する生徒はそう多くない。渡り廊下を抜けて、校舎とは別棟にある図書室の扉を開けると、大きめのカウンターから期待通りの人が顔を上げた。

「赤葦くん。こんにちは」
「……こんにちは」

関係の出来ていない間柄特有の、ぎこちない挨拶を交わす。
カウンターの中、その手元には教科書とノートが広げられており、どうやら彼女は宿題をこなしていたらしい。その隣に鞄をおろし、席に着く。

「すみません。遅くなりました」
「大丈夫だよ。うちのHRが短いだけだから」

彼女のクラスのHRが早く終わった理由については「議題もないのに長引くと木兎がうるさいんだよね」ということらしい。

「早く終わって喜んでたけど、赤葦くん借りるよって言ったら、忘れてたらしくて拗ねてた」
「今日の放課後は当番で遅れるって、朝練のときにも言ったんですけどね」
「赤葦くん、愛されてるねえ」

彼女と俺の共通の話題といえば、この委員会と木兎さんたちのことくらいだった。木兎さんに限らず、三年の先輩たちは彼女と顔見知りらしい。

「愛されてるかどうかは分かりませんけど、欠かせないと思われてるなら嬉しいです」
「赤葦くんの名前、一日に何回も聞かされてるんだよ」
「そういうみょうじさんも木兎さんと仲良いですよね」
「そうかな。まあ、ずっと同じクラスだしね」

もっと聞きたいことがあるのに、返却を依頼する生徒が訪れ、会話はそこで途切れてしまった。彼女が対応している間に、自分が借りていた本の返却処理を行う。先程の生徒が返却したものと共に本棚へと戻すべく、立ち上がって目的の場所を探し歩く。区の図書館ほど広いわけではないけど、近隣の学校よりはずっと広いんじゃないだろうか。だというのに、今日の利用者はカウンターからは死角になったテーブルに一人二人散る程度だった。
カウンターへ戻ると、彼女は宿題を終えたらしく、広げていたノートを閉じて鞄にしまうところだった。

「今日、利用者少ないですね」
「そうだね。小さい声なら話してても問題なさそう」
「話したいことがあるんですか?」

俺はありますけど、とは言わずに意地の悪い聞き方をした。案の定、彼女は「え、や、そういうわけじゃないけど」と狼狽えてしまった。何かしら話題を探そうと目を泳がせたあと、思い付いた、とでも言うように視線をこちらへと向けた。すべてが表情に出ていてとても愛らしい。そんな彼女の口から飛び出た話題はとても予想していなかったもので、今度はこちらが狼狽える番だった。

「赤葦くん、彼女いるの?」
「……居ません、けど、何ですか急に」
「いや、赤葦くんモテるから彼女の一人や二人居るのかなって」
「一人も居ませんし、モテた覚えもないです」
「球技大会のとき、皆カッコイイって言ってたよ」
「……そういうのはモテるって言わないです」

そうなの? と首を傾げた彼女に苛立ちを覚える。どんな意図で投げられた質問なのか、と少しは期待したのに、好奇心以上の興味がある風でもない。
球技大会といえば、木兎さんが木兎さんらしく輝いていた一日だった。運動部は所属している部活と同じ種目に出られないルールだけど、そんなことは関係なくサッカーだろうとバスケだろうと木兎さんは今年も大活躍だった。選手としてだけでなく応援に回ってもその姿はとにかく目立つ。わざわざ来なくてもいいのに、俺が出る試合にも木兎さんは現れた。同じクラスである彼女もその隣に連れて。バレーならコートの外に誰が居ようが気にならないのに、あの時ばかりは少し集中を欠いたことを認める。

「その”皆”の中にみょうじさんは入ってないんですか」
「へ、ああ、うん。赤葦くんカッコよかったよ!」
「完全に言わされてるじゃないですか」
「そんなことないって」
「バレーだと木兎コール凄いけど。赤葦くん、バスケ大活躍だったもん! 赤葦くんのクラスのコたちも声援すごかったし、やっぱり人気者なんだなぁって」
「やっぱり、の意味が分からない」
「赤葦くんこっそりモテるタイプなんだよ、きっと。普段から分かりやすくキャーキャー騒ぐんじゃなくて、想い募らせてるファンが多いんじゃない?」

ますます意味が分からない。こっそりモテるって何だ。それに、こっそりだろうが堂々だろうが、モテたところで。

「……好きな相手からじゃないと、意味無いでしょう」
「え、好きなコ居るんだ!?」

彼女は少し声が大きくなったことを自覚したのか、しまった、と開いた口を手で覆う。心配せずとも、さっき出て行った生徒が恐らく今日最後の利用者で、後はもう誰も訪れないだろう。彼女もそれに気付き、辺りを見回して照れ笑いをした後、輝いた目でこちらを見上げる。
それはどうせ女子特有の、恋話好きが見せる好奇心なんだろうけど。気に食わない。

「居ますよ、好きな人。全然脈なさそうですけどね。男として見られてないというか」
「意識させるところからってことかー」
「意識……ですか?」
「うん。そんな風に言うってことは、知らない人ではないんでしょ。男として見てもらうところから勝負スタート?」

初手からペースを崩される。もっと、相手は誰だとかどんな人だとか、好奇心でも切り込んでくれたら、それはアンタだよと言わんばかりに、少しでも自分かもしれないと考えてくれるように攻め返すのに。変化球を使うつもりだったわけでもないが、よほど正攻法じゃないと通じないらしい。

「……どんなときに意識しますか?」
「え、わたし?」
「参考にするんで」
「参考になるようなこと言えるかな。うーん…………」

腕を組んで考え込み始めた。何となく、緊張して、彼女に見つからないように深呼吸する。やがて、何やら思い出したように鞄に手を入れ「返すの忘れるところだった」と一冊の本を取り出し、壁際の本棚へと歩いていった。
……溜め息を零してもいいだろうか。

「あ、さっきのことだけど。意識っていうか、ドキッとするとき」

次に借りる本を選んでいるのか、新刊コーナーを眺めながら、彼女は話題を戻した。一応、考えてくれていたのか。

「赤葦くん背が高いから、高いところにあるもの取ってあげるとか! それとも壁ドン顎クイ? キャラじゃないか。やっぱり、視線合わせる回数増やしたり……あとは手を握ったり抱き締めたり! どう?」
「最後ちょっと直接的過ぎませんか」
「えー、でも手っ取り早いじゃん」
「怖がられたり嫌われたりしたらどうするんです」
「そしたらすっぱり諦められるじゃん。何も起こらないまま終わるよりいいでしょ」

他人事と思ってるだからだろう、無邪気な笑顔で無責任な返答をくれた。残念ながら、全く以て他人事ではないんだけど。
目を合わせる? 同じクラスならそうやって詰まる距離があるかもしれないけどそもそも絶対数が少ない。毎日顔を合わせられるわけじゃない。こうやって月に一回程度の委員会ごと、朝練後の昇降口、購買……ほとんど俺か彼女のどちらかが木兎さんと一緒だ。
怖がられたり嫌われたりして、すっぱり諦める、なんてことが出来るだろうか。少なくとも当分は引きずる自信がある。バレーに少しも影響しない自信はないし、泡になって消えてしまいたくなるかもしれない。
それでも何もしなければ何も変わらない、とは尤もな指摘だった。
どうにでもなれ、と少しばかり自棄になった。立ち上がり、カウンターを出て彼女の元へと歩み寄る。

「まぁ……それもそうですね」

どうだ良いアイデアだっただろう、とばかりに胸を張る彼女を至近距離から見下ろすと、その耳にかけられた髪がぱらりと落ちた。その一房をすくって再び耳にかけてやる。彼女はきょとん、とこちらを見上げている。その口が何かを発する前に、身体の横にあった手に、触れる。驚きで強張るのが分かったけど、気付かないふりをして指を絡めた。

「あ、かあしくん……?」
「何ですか」
「なにしてるの」
「意識させようとしてます」
「いやいや、わたしにしてどうするの。好きなコにしてよ」
「だから、そうしてますよ。好きな相手じゃないと意味ないんで」

目を見開いて。やがて微かに朱の刺す頬、泳ぐ瞳。すぐには泡にならなくてもいいだろうか。
あからさまに狼狽える彼女が一歩、また一歩と後退るので、その背中が本棚に当たるまで追い詰めた。

「視線を合わせて、手を握って、壁ドンでしたっけ。あ、届かない本があれば取りましょうか。それから……何でしたっけ?」
「ああああかあしくん」
「何ですか」
「ちょっと状況が読めないんだけど」
「みょうじさんのことが好きなので、意識してもらえるように、行動してます」
「ひぇ……」
「嫌だったら、そう言ってください。すっぱり諦めるんで」

視線を逸らすように俯くので、空いている方の手でその顔に触れて上を向かせた。

「い、イヤとかじゃ」
「良かった。なら……続けてもいいですか?」
「続けるって、何を」
「どうしたら意識してくれるのか。もっと、教えてください」

彼女は金魚みたいに口の開閉を繰り返した。その様子が面白くて可愛らしくて、緊張で凝り固まっていた表情が思わず綻んでしまう。彼女は別に俺のこと好きでも何でもなくて、でも今は少し意識してる。手放しで喜べる事態じゃないけど悲観もしない。ここがスタート地点だと言ったのは彼女自身だ。

「俺のこと、意識してください」

絡めた指を少しだけ離し、中指を手のひらに這わす。熱を持った瞳が、俺の幻想じゃありませんように。

 

盲目なのです(赤葦京治)

 

 

体育館の補修作業があるから、と今日の部活はミーティングだけになった。少し待たせてしまうかもしれないけど今日みたいなチャンスは逃したくない。一緒に帰れますか、と彼女へメッセージを送れば『日直だから同じくらいに終わるかも』と嬉しい返事が送られてきた。

放課後、時間が空くのは俺の方が早かったらしい。終わった旨のメッセージを送ったけれどすぐに返事は来なかった。このまま大人しく待つかどうか悩んで、三年の教室へと続く階段を見上げる。待っていても仕方がない。昇降口から真っ直ぐ上がれば彼女とすれ違うことはないだろう、と階段を登った。

彼女の教室を訪ねるのは別に初めてのことじゃなかった。二人きりになることを気軽に誘えるような関係になる前から、そこには何度も足を運んだ。それは主将である木兎さんを訪ねて、であったけれど、彼女に会えるだろうか、という下心を抱いていたのは事実だ。
三年一組の教室を覗くと、他に誰も居ない教室で机に向かう目的の姿を見つけることができた。彼女はすぐにこちらに気付き、顔を上げた。手招きに従って教室へと足を踏み入れる。少しだけ緊張する。

「赤葦くん。早かったんだね。あと日誌書くだけだから、もう少し待って」
「一人ですか?」
「ペアの子にはごみ捨てをお願いしたの。そのまま部活に行ってもらった」

見知らぬ男の部活など興味もないのに、反射で「部活?」と反復すると「うん。サッカー部」とさらにどうでもいい情報が返ってきた。そのまま伝えてしまえば自分から聞いたくせに何だ、と叱られてしまうので顔に出したりはしない。本当のところ、同じクラスの男の話など聞きたくもない。アンタと同じ学年で同じクラスで、それだけで嫉妬の対象だと言えば、子どもっぽいと笑われるだろうか。

教室を見渡す。まだそこまで遅い時間でもないのにここは静かだ。開け放たれた窓の外から、運動部の掛け声や吹奏楽部の音が流れてくる。いつもならその喧騒に自分も紛れているのだから、こうやって外から見るのは不思議な気持ちだ。開かれたままの窓から風が送られて、教室のカーテンが揺れる。

「座ったら?」と促されるも何となく躊躇っていれば「木兎の席だから気にしなくて大丈夫だよ」と続けるので、椅子を引いて彼女の前の席に腰を下ろした。再び机上の日誌に向かった彼女の顔を見つめる。今日の出来事トピックスに悩んでいるらしい。そんなもの、適当に埋めてしまえばいいのに。

「変なところ真面目ですよね」
「うーん。今日も木兎がうるさかった以外に浮かばない……」
「そのまま書いてしまえばいいのに」

思わず零れ出た本音を口の中に戻すことはできず、しまった、を表情にすれば日誌から顔を上げた彼女が「共犯だね」といたずらな子どものように笑った。
そうと決まれば、とペンを走らせ仕事を終えた彼女は、最後に窓を閉めるため窓際へと向かう。手伝えばいいのに、立ち上がりもせずにその後ろ姿を眺めていた。
学年が違うのに、同じ教室に二人きり。当たり前ではないこの時間が、とても大切なもののように思えた。同じクラスの人は、いつもこの距離で彼女を見ることができる。

「……羨ましい」
「え、何が?」

また考えが口に出ていたらしい。それが、近くに戻ってきた彼女の耳に届いてしまったらしい。すこし逡巡して、正直に言葉の意図を白状することにした。

「みょうじさんと同じクラスの人が羨ましい、ってそう言ったんですよ」
「意外。赤葦くんもそんなこと考えるんだね」
「みょうじさんは考えたことないんですか」
「わたしは、今のままがいいな」

少し傷付いた。同じクラスどころか同じ学年ですらないし、別に本気で発言したわけじゃないけど、それにしてもそんな綺麗にぶった切ることはないだろう。

「そう、ですか」
「だって、赤葦くんがずっと教室に居るんでしょ? 気になって授業なんて集中できないと思う……」

顔を赤らめ、視線を逸らして告げられた言葉。今度は違う方向に予想外のボールが返ってきて面食らった。平静を保つために手で顔を覆って深く深呼吸する。

「ど、どうしたの赤葦くん」
「何でもないです。……帰りましょう」

立ち上がり、床に置いていた鞄を引っ掴んで教室から出る。日誌と鞄を手に追ってきた彼女は怪訝にこちらの顔を覗き込んできた。何でもないです、ともう一度繰り返す。今は顔を見られたくないし、かといってこちらの視界に居れるのも憚られた。見たら触れたくなる。その手に、口に。
初めてじゃあるまいし、してもいい関係ではあるけれど、いつ誰が通るか分からない。ここで手を出したら彼女は怒るだろうか。いや、きっと、顔を赤くして照れ隠しに文句を言う程度。なら、少しくらい色惚けたって許されるんじゃないか?

 

 

 

健全で純粋な危険地帯(赤葦京治)

 

 

 

 

 

彼女が既に他人ひとのものである、と暫く信じて疑わなかったのは仕方のないことだと思う。なんせ初めてその人を認識したのは、木兎さんがその腕に抱き上げた姿だったのだから。それは俺が経験する初めてのインターハイを勝ち進んだ先、試合終了後の木兎さんが高らかに勝利の喜びを叫び、応援に来ていた人に駆け寄ったときだった。抱き上げたとは言っても優しく横抱きにしたのではなく、大人が子どもをその腕に座らせるような雑な形だったけれど。しかも彼女は綻ぶどころか激しい拒否反応を示し、その腕で暴れていたのだけれど。それでも、その関係が男女のソレだと思うのはごく自然なことだっただろう。木兎さんとその人の関係を知っていた、僅かなメンバーを除いて。 当時の木兎さんは長期に不調が続いていて、付き合いの長い先輩たちでさえ扱いに困るくらいメンタルが落ち込んでいた。
後に聞くところ、授業のある日中でさえその調子だったのを、木兎さんのクラスメイトである彼女がたった一言で持ち上げてしまったらしい。「これまでの木兎があれば大丈夫でしょ」と。その一言がどういう意味で発せられて一体どう木兎さんに響いたのかは未だに分からないけれど、彼女に注目するには十分な出来事だった。 とにかく、そこにスターを支える要因があるに違いない、と彼女を紹介してもらい、二人で話せるくらい親しくなるのに半年、その間にどんどんと彼女個人に惹かれ続けてセーブできなくなって、その人がまだ誰のものでもないと知るのにまた半年。やっと想いを伝えてこの腕に閉じ込められる権利を得た頃には、彼女が卒業してしまうまでもうあまり時間は残っていなかった。
それでも、卒業後も何とか繋ぎ止めて今まで付き合い続けてこられたのは単に運が良かっただけなんじゃないかと思うことさえある。特に、今みたいな瞬間には。

「勝ったぞ! 見てたかー!」
「ちょ、木兎! 降ろしてよ、バカ!」

プロになっても相変わらずな木兎さんにいっそ感心さえするところだった。その腕に抱きかかえられているのが、自分の恋人でさえなければ、の話であるが。通路の奥、目に入ってきた情報を処理してまず溜息を吐く。
それは観覧席から通路へと降りて、ほんの僅か彼女から離れた隙だった。流した汗もそのままにコートから駆け出てきたのだろう木兎さんは、あの頃と同じように勝利に歓喜し、試合終了後であるにも関わらず注目を集めていた。一般人も出入りできるスペースで騒いでいるものだから、当然、目撃している人間は自分以外にも多数。現に背後からはスマホのシャッター音や「ジャッカルの木兎選手じゃん!彼女かな?」なんて会話が聞こえてくる。

「見てた見てた、ちゃんと見てたから」
「ホントかよ! 何かテキトーじゃね?」

適当に流そうとする彼女を見抜いて、木兎さんは不満そうに口を尖らせている。彼女は普段と異なる視界の高さを怖がってか、木兎さんの首筋にしがみついていた。さらに、衆人環視のもととまではいかずとも少なからず向けられた人目から顔を背ければ自然と肩に顔を埋めることとなり、つまりは傍目から見れば二人は仲睦まじく抱き合っているようにしか見えなかった。俺の後ろにいるカップルが「ラブラブだね」なんて言いながら再びシャッターボタンを押すのも致し方ないというものだ。

別に、こんな光景は見慣れたものだった。まだ学生だったあの頃、試合中に送られた声援の数や自転車の相乗りで騒ぐ姿、木漏れ日の下で肩を寄せ合い居眠りをする二人、赤点補修を避ける為に彼女が付きっきりで木兎さんに勉強を教えたり、雨の日に傘を忘れた木兎さんの為に彼女が練習終わりまで待っていたり、そんなことは彼女と付き合う前も付き合ってからもごく普通の日常で、大きく変えたいと思ったことはない。そんな奔放な彼らだからこそ憧れた。そもそも両名のじゃれ合いは男女のソレとは思えないもので、例えば「実は血が繋がっていました」とある日突然に告げられても俺は驚かないだろう。それくらい、当たり前の姿だと認識していた。
とはいえ、腹で燻るお世辞にも綺麗とは言えないこの感情は、そういった理性とはまた別のところから沸き上がるものである。
落ち着け、赤葦京治。彼らは何も考えていない。犬猫か子どもがじゃれあっているようなものだ。そう考えて、一人頷くも、いつだったか世話焼きな先輩が呆れながら口にした『たまには怒った方がいいぜ、赤葦』なんて一言が何となく思い出される。そうだ、我慢ばかりは身体に良くない。 ギャラリーから抜け出て、二人に近付き、声をかける。

「アンタたち何やってんですか」
「け、京治……」
「よー、赤葦! 俺の活躍見たかー!」
「見てましたよ。さすがでした。ところで危ないんで、降ろしてあげてください」
「何か二人ともテキトーじゃね?」

あ、これ面倒くさいやつだ。そう察したときにはもう遅い。木兎さんは「今日調子よかったんだけどなー」などとぼやきながらその場でぐるぐると回り始めた。本当に何やってんだ、この人は。
さて、どうしたものか。と逡巡するより先に、その動きを止めるべきだった。
ゴン、と鈍い音がして、依然として木兎さんに抱えられたままの彼女が、呻きながら後頭部を抑えた。吊り下げタイプの看板に頭をぶつけたらしい。通常なら届かない高さにあるだろうソレは、運悪く修理中で装飾が重ねられ、幾分か低い位置にあったらしい。

「わ、悪ィ」
「痛い。自分のサイズ考えてよね……!」
「だから危ないって言ったでしょう……ほら」

はあ、と溜息を吐きながら、二人に向かって両手を拡げる。一瞬、間が空いたものの、木兎さんは腕の中の彼女と俺とを見比べると生気の消えた顔で「あ、ハイ……」とソレをこちらへと差し出した。よし、とそのまま受け取ろうとすれば、彼女は硬直を解き、さっきとは比較にならないくらい暴れてイヤイヤを始めた。

「え、いや、ちょっと待って。むりむりむり! 絶対ヤダ! 木兎はやく降ろして」
「ダメです。アンタが悪い」
「わ、暴れんなって危ねーから」
「いや、どう考えてもわたし被害者だよね!?」
「木兎さんは良くて俺はダメなんですか」
「木兎にだって許可した覚えはない!」
「ケンカすんなよ、お前らー」

アンタのせいだよ。とは大人げないので口にしない。意地でもイヤだ、と威嚇までしてきた彼女を無理やり抱えるわけにもいかず、諦めて身体を引いた。何も本気だったわけじゃない。それにしても、そこまで強く拒否しなくてもいいんじゃないだろうか。ようやく木兎さんから解放された彼女は、立ち上がると顔を赤くしながら俺と距離を取った。あろうことか、木兎さんの身体に隠れてこちらの様子を窺っている。 羞恥からくる照れ隠しと分かってはいても、傷付かないわけじゃないんだけど。

「……何もしませんから、こっちへ来てください」
「ほんと?」
「本当です」
「なー、試合終わったのにまだ人多いな! 何でだ?」
「アンタのせいですよ」

今度は言った。言ったところで、木兎さんの頭上には「?」が浮かんだままだった。 そうこうしているうち、木兎さんはチームメイトに呼ばれ、何やら怒られながら控え室の方へと引き摺られていった。どうやら自由行動していい時間ではなかったらしい。本当に相変わらずだ、と呆れながらも懐かしさに思わず綻ぶ。首根っこを掴まれているのに快活に「またなー!」と笑顔で去っていく。いつもながら大人しく出来ない人だ。そのうち試合間のエンターテイメントにも飛び出していきそうで恐ろしい。見送り終える頃には、集まっていたギャラリーもすっかり居なくなっていた。俺と彼女の残った二人、同時に溜息を吐き出した。

「……帰ろっか。何か疲れた」
「観戦、はしゃいでましたもんね。声ちょっと枯れてる」
「試合よりその後がね……」
「まあ、そうでしょうね」

言葉は普通でも、少し棘のある声になったのは否めない。返答を受けて、恐る恐るといった様子でこちらを見上げた彼女の視線を捕まえる。

「……京治、怒ってる?」
「すこしだけ」
「少しって雰囲気じゃないんだけど。知ってるんだよ、怒ったときだけ敬語に戻っちゃうの」
「そう思うなら、宥めてもらえますか」

距離の近い彼らを見ていつだったか、妬かないわけじゃないんですよ、とストレートに伝えたときの彼女の反応の可愛さたるや。だって赤葦くんは意識しちゃうから、と落とすように呟いて蒸気した顔は、目に焼き付けただけあっていつでも鮮明に思い起こせる。
だから、本当は別に怒ってなんていない。
けれど、バツの悪そうな顔でこちらを窺う彼女を見て、悪戯心がむくりと鎌首をもたげたのを認めよう。たとえ木兎さんと彼女が仲睦まじくじゃれ合おうとも、彼女の核心に触れていいのは自分だけ。

「……どうしたらいいの」
「考えてください。俺のこと」
「うう」

言葉を詰まらせながら眉尻を下げた彼女を追い詰める。今日はこの後も予定がある。試合の日に合わせて出掛けてきたとはいえ、二人会うのは久し振りだった。まずは腹拵えをしてそれから何処へ行こうか、と昨夜までに相談した予定はまた次の機会。

「帰ろうか」

たまには我が侭を聞いてもらっても許されるだろう。真っ直ぐ家に帰って、それから。