純度高き泡沫(赤葦京治)

 

 

 

 

 

 

 

授業を終えて、いつもなら部室へと急ぐところ、今日の放課後はまず図書室へと向かう。当番の為だった。
試合で公休、ちょうどその日に委員会を決めたらしい。居ない奴が悪いのだ、と容赦の無かったクラスメイトたちの手により決められた俺の役割は図書委員。司書がいるとはいえ、定められた時間には図書室でじっとしていなければならないアレだ。よりにもよって、放課後に影響する活動内容のものだった。今は少しの練習時間を失うのも惜しい。彼らと共にバレーを出来る時間は限られている。
本を読むのは好きだ。先輩たちが回し読みしている漫画雑誌も悪くないけど、それよりは細やかな文字に綴られた世界を追う方が好きだった。また、誰かがひっきりなしに訪れる場所で読書に没頭できるかといえばそうではなく、図書当番は読み手に適した時間とは言えない。それでも比較的人気のある委員だと認識していたけど、うちのクラスに限りそうではなかったらしい。文化祭や体育祭の実行委員にならなかっただけずっとマシだけど。放課後が奪われるとはいっても、一ヶ月に一度か二度のこと。適当にやり過ごせばいい。
そう思っていた、のに。その集まりに肩を落として向かったのは初日だけ。定例会議も、放課後の当番も、何ら苦にはならなかった。偏に彼女が居たからだ。
通常なら同学年同クラスの二人で組まれる昼と放課後の当番は、用事があれば生徒同士での交代を許されている。当番の順番について説明がなされた日、彼女は委員の中で数少ない顔見知りであろう俺に交代を依頼してきた。理由も聞かず、速やかに自分のペアにあたる女子を差し出して、彼女と俺が同じになるように設定した。
今はテスト期間でも何でもない普通の平日、つまり放課後に図書室を利用する生徒はそう多くない。渡り廊下を抜けて、校舎とは別棟にある図書室の扉を開けると、大きめのカウンターから期待通りの人が顔を上げた。

「赤葦くん。こんにちは」
「……こんにちは」

関係の出来ていない間柄特有の、ぎこちない挨拶を交わす。
カウンターの中、その手元には教科書とノートが広げられており、どうやら彼女は宿題をこなしていたらしい。その隣に鞄をおろし、席に着く。

「すみません。遅くなりました」
「大丈夫だよ。うちのHRが短いだけだから」

彼女のクラスのHRが早く終わった理由については「議題もないのに長引くと木兎がうるさいんだよね」ということらしい。

「早く終わって喜んでたけど、赤葦くん借りるよって言ったら、忘れてたらしくて拗ねてた」
「今日の放課後は当番で遅れるって、朝練のときにも言ったんですけどね」
「赤葦くん、愛されてるねえ」

彼女と俺の共通の話題といえば、この委員会と木兎さんたちのことくらいだった。木兎さんに限らず、三年の先輩たちは彼女と顔見知りらしい。

「愛されてるかどうかは分かりませんけど、欠かせないと思われてるなら嬉しいです」
「赤葦くんの名前、一日に何回も聞かされてるんだよ」
「そういうみょうじさんも木兎さんと仲良いですよね」
「そうかな。まあ、ずっと同じクラスだしね」

もっと聞きたいことがあるのに、返却を依頼する生徒が訪れ、会話はそこで途切れてしまった。彼女が対応している間に、自分が借りていた本の返却処理を行う。先程の生徒が返却したものと共に本棚へと戻すべく、立ち上がって目的の場所を探し歩く。区の図書館ほど広いわけではないけど、近隣の学校よりはずっと広いんじゃないだろうか。だというのに、今日の利用者はカウンターからは死角になったテーブルに一人二人散る程度だった。
カウンターへ戻ると、彼女は宿題を終えたらしく、広げていたノートを閉じて鞄にしまうところだった。

「今日、利用者少ないですね」
「そうだね。小さい声なら話してても問題なさそう」
「話したいことがあるんですか?」

俺はありますけど、とは言わずに意地の悪い聞き方をした。案の定、彼女は「え、や、そういうわけじゃないけど」と狼狽えてしまった。何かしら話題を探そうと目を泳がせたあと、思い付いた、とでも言うように視線をこちらへと向けた。すべてが表情に出ていてとても愛らしい。そんな彼女の口から飛び出た話題はとても予想していなかったもので、今度はこちらが狼狽える番だった。

「赤葦くん、彼女いるの?」
「……居ません、けど、何ですか急に」
「いや、赤葦くんモテるから彼女の一人や二人居るのかなって」
「一人も居ませんし、モテた覚えもないです」
「球技大会のとき、皆カッコイイって言ってたよ」
「……そういうのはモテるって言わないです」

そうなの? と首を傾げた彼女に苛立ちを覚える。どんな意図で投げられた質問なのか、と少しは期待したのに、好奇心以上の興味がある風でもない。
球技大会といえば、木兎さんが木兎さんらしく輝いていた一日だった。運動部は所属している部活と同じ種目に出られないルールだけど、そんなことは関係なくサッカーだろうとバスケだろうと木兎さんは今年も大活躍だった。選手としてだけでなく応援に回ってもその姿はとにかく目立つ。わざわざ来なくてもいいのに、俺が出る試合にも木兎さんは現れた。同じクラスである彼女もその隣に連れて。バレーならコートの外に誰が居ようが気にならないのに、あの時ばかりは少し集中を欠いたことを認める。

「その”皆”の中にみょうじさんは入ってないんですか」
「へ、ああ、うん。赤葦くんカッコよかったよ!」
「完全に言わされてるじゃないですか」
「そんなことないって」
「バレーだと木兎コール凄いけど。赤葦くん、バスケ大活躍だったもん! 赤葦くんのクラスのコたちも声援すごかったし、やっぱり人気者なんだなぁって」
「やっぱり、の意味が分からない」
「赤葦くんこっそりモテるタイプなんだよ、きっと。普段から分かりやすくキャーキャー騒ぐんじゃなくて、想い募らせてるファンが多いんじゃない?」

ますます意味が分からない。こっそりモテるって何だ。それに、こっそりだろうが堂々だろうが、モテたところで。

「……好きな相手からじゃないと、意味無いでしょう」
「え、好きなコ居るんだ!?」

彼女は少し声が大きくなったことを自覚したのか、しまった、と開いた口を手で覆う。心配せずとも、さっき出て行った生徒が恐らく今日最後の利用者で、後はもう誰も訪れないだろう。彼女もそれに気付き、辺りを見回して照れ笑いをした後、輝いた目でこちらを見上げる。
それはどうせ女子特有の、恋話好きが見せる好奇心なんだろうけど。気に食わない。

「居ますよ、好きな人。全然脈なさそうですけどね。男として見られてないというか」
「意識させるところからってことかー」
「意識……ですか?」
「うん。そんな風に言うってことは、知らない人ではないんでしょ。男として見てもらうところから勝負スタート?」

初手からペースを崩される。もっと、相手は誰だとかどんな人だとか、好奇心でも切り込んでくれたら、それはアンタだよと言わんばかりに、少しでも自分かもしれないと考えてくれるように攻め返すのに。変化球を使うつもりだったわけでもないが、よほど正攻法じゃないと通じないらしい。

「……どんなときに意識しますか?」
「え、わたし?」
「参考にするんで」
「参考になるようなこと言えるかな。うーん…………」

腕を組んで考え込み始めた。何となく、緊張して、彼女に見つからないように深呼吸する。やがて、何やら思い出したように鞄に手を入れ「返すの忘れるところだった」と一冊の本を取り出し、壁際の本棚へと歩いていった。
……溜め息を零してもいいだろうか。

「あ、さっきのことだけど。意識っていうか、ドキッとするとき」

次に借りる本を選んでいるのか、新刊コーナーを眺めながら、彼女は話題を戻した。一応、考えてくれていたのか。

「赤葦くん背が高いから、高いところにあるもの取ってあげるとか! それとも壁ドン顎クイ? キャラじゃないか。やっぱり、視線合わせる回数増やしたり……あとは手を握ったり抱き締めたり! どう?」
「最後ちょっと直接的過ぎませんか」
「えー、でも手っ取り早いじゃん」
「怖がられたり嫌われたりしたらどうするんです」
「そしたらすっぱり諦められるじゃん。何も起こらないまま終わるよりいいでしょ」

他人事と思ってるだからだろう、無邪気な笑顔で無責任な返答をくれた。残念ながら、全く以て他人事ではないんだけど。
目を合わせる? 同じクラスならそうやって詰まる距離があるかもしれないけどそもそも絶対数が少ない。毎日顔を合わせられるわけじゃない。こうやって月に一回程度の委員会ごと、朝練後の昇降口、購買……ほとんど俺か彼女のどちらかが木兎さんと一緒だ。
怖がられたり嫌われたりして、すっぱり諦める、なんてことが出来るだろうか。少なくとも当分は引きずる自信がある。バレーに少しも影響しない自信はないし、泡になって消えてしまいたくなるかもしれない。
それでも何もしなければ何も変わらない、とは尤もな指摘だった。
どうにでもなれ、と少しばかり自棄になった。立ち上がり、カウンターを出て彼女の元へと歩み寄る。

「まぁ……それもそうですね」

どうだ良いアイデアだっただろう、とばかりに胸を張る彼女を至近距離から見下ろすと、その耳にかけられた髪がぱらりと落ちた。その一房をすくって再び耳にかけてやる。彼女はきょとん、とこちらを見上げている。その口が何かを発する前に、身体の横にあった手に、触れる。驚きで強張るのが分かったけど、気付かないふりをして指を絡めた。

「あ、かあしくん……?」
「何ですか」
「なにしてるの」
「意識させようとしてます」
「いやいや、わたしにしてどうするの。好きなコにしてよ」
「だから、そうしてますよ。好きな相手じゃないと意味ないんで」

目を見開いて。やがて微かに朱の刺す頬、泳ぐ瞳。すぐには泡にならなくてもいいだろうか。
あからさまに狼狽える彼女が一歩、また一歩と後退るので、その背中が本棚に当たるまで追い詰めた。

「視線を合わせて、手を握って、壁ドンでしたっけ。あ、届かない本があれば取りましょうか。それから……何でしたっけ?」
「ああああかあしくん」
「何ですか」
「ちょっと状況が読めないんだけど」
「みょうじさんのことが好きなので、意識してもらえるように、行動してます」
「ひぇ……」
「嫌だったら、そう言ってください。すっぱり諦めるんで」

視線を逸らすように俯くので、空いている方の手でその顔に触れて上を向かせた。

「い、イヤとかじゃ」
「良かった。なら……続けてもいいですか?」
「続けるって、何を」
「どうしたら意識してくれるのか。もっと、教えてください」

彼女は金魚みたいに口の開閉を繰り返した。その様子が面白くて可愛らしくて、緊張で凝り固まっていた表情が思わず綻んでしまう。彼女は別に俺のこと好きでも何でもなくて、でも今は少し意識してる。手放しで喜べる事態じゃないけど悲観もしない。ここがスタート地点だと言ったのは彼女自身だ。

「俺のこと、意識してください」

絡めた指を少しだけ離し、中指を手のひらに這わす。熱を持った瞳が、俺の幻想じゃありませんように。