好きになったから負け(及川徹)

好きになったから負け

 

 

 

好きだ、って気付いたのは、失恋と同時でした。

 

 

 

その男が告白されるなんて別に珍しいことでもないだろう。とはいえ、実際そのシーンに遭遇して他人の告白の一部始終を聞いてしまう、なんてそうあることではない。
だけど、わたしは2回目だった。

昼休み、中庭にある自販機のいちごオレが売り切れていた。だから校舎の端にある自販機まで探しにくるしかなかった。だって、どうしても飲みたかったんだもん、いちごオレ。無事に買えたことに満足して機嫌よくパックを手にした、その瞬間だった。校舎の角を曲がった向こうから聞こえてきたのは、少し震えた女のコの声で「好きなんです」の一言。出来ることなら続きを聞くことなくこの場を立ち去ってあげたいけれど、何せここは行き止まりで教室に戻るには植木に突っ込むか彼らの横を通るかしかない。葉っぱだらけになったところで物音で気付かれてしまうのは必須。ならば何も知らない聞いてないふりで横切るか、事が終わるまで空気になるか……。そうして逡巡している間に会話は進み、彼女がどうして彼を好きになったのか、それは彼女が音楽室に忘れた楽譜を彼、及川徹が、優しくも教室まで届けたのがきっかけでした────なんてストーリー展開が始まってしまった。
失敗した。もたもたしてるうち完全にタイミングを失い、出るに出られなくなった。いちごオレはここで飲むしかない。諦めて、手元のパックにストローを突き刺した。

校舎の角から見えてしまったその姿、「告白されている側」は同じクラスの及川徹、その人だった。「している側」の女のコに見覚えはなく、及川に敬語を使っているので1年か2年か、とにかく後輩なんだろう。相変わらず他学年にはモテる男だ。ちらり、と覗いてまた校舎の陰でなるべく小さくなる。聞いちゃってごめんね、の気持ちとこんなところで告白するなよ、の気持ちが拮抗する。どちらにせよ、それが終わるまでわたしに出来ることは気配を消すくらいだった。

及川のことが好き。そう自覚したのは、どう考えても失恋の瞬間だった。彼にカノジョが出来たとき。だからってどうするわけでも別になくて。だってそうでしょう、仲のいいクラスメイトというポジションに甘んじて3年になるまで過ごしてきて、彼女が居るのに今更「好きみたいです」なんて言えるわけがない。負けると分かってる勝負なんてしたくない。けれど、あのコは違うらしい。気持ちを伝えたいだけなのかそれとも勝算があってのことかは分からないけれど、見てるだけのわたしより勝率はあるだろう。

「かっこわる……」

壁に背を預けたまま呟いて、ずるずるとその場にしゃがみ込んだ。

「及川先輩、彼女と別れたって聞きました」

 

 

 

────別れた。

震えた声の女のコは、確かにそう言った。
つまり、それはあのときの、1回目の遭遇のときの彼女か。

 

 

そんなに昔でもない。あのときも今と同じように校舎の陰に隠れて、及川が告白されるのを聞く羽目になった。但し、隠れるのが下手すぎて盗み聞きしてることはあっさりバレてしまっていたんだけど。
あのときは好きです、と言うだけ言って答えも聞かず女のコが走り去ったその後、一人になった及川に見つかり、あからさまに動揺した。狼狽えた。ただ盗み聞きしてしまったのが気まずかったから、だけじゃない。不可抗力のようなものとはいえ及川が告白を断らなかったことに対して、密かに、確かに、平手打ちされたような衝撃を覚えていたのだ。
それが何なのか、なんて考える間もなく元凶だろう男と対峙する羽目になったのだから、普段通りに振る舞えなくても仕方なかったと思う。
わたしを見つけた及川は、いけ好かないいつもの笑顔を打ち消してこちらを見下ろしていた。わたしはその口から言葉が飛び出す前に『相変わらずモテますね』なんて軽口を叩いた。そうしたら及川は『そうだね。どうすればいいと思う? 付き合ってみようかな』と宣った。
どう思う? なんて聞かれて。うまく頭の回らないわたしは、口の中がカラカラに乾いているのを自覚しながら、それでも動揺を悟られないよう精一杯の虚勢を張って、いいんじゃない、なんて答えていた。かわいいコだったじゃん、付き合ってみれば。なんて。思ってもない言葉を。

及川くんまた告白されたらしいよ、とは女子の間でよく上がる噂ネタのひとつだった。最も、その対象が及川でなくても、誰が誰を好きらしい、誰と誰が付き合って今度は別れた、告白した告白された、なんて思春期の学生には大好物の話題。かく言うわたしも例外ではなく、少女マンガやドラマの感想を話すのとは違う身近な恋の話題をドキドキしながら聞いたり話したりした。

及川徹という男は、軽薄なようでいてその実、向かい合ったものに対しては酷く真面目だった。オンオフの切り替えがはっきりしている。些か、はっきりしすぎている、とも感じるくらいに。
全部見透かしたようなその目が、はっきり言って苦手だ。

 

 

物思いに耽けるうち、告白は失敗に終わったらしい。よく聞いてなかったけど女のコが走り去ったのが足音で分かった。
はあ、これでやっと教室に戻れる。そう安心して、ゆっくりと立ち上がった。

「盗み聞きなんて随分と悪趣味だね」
「ひっ」

驚きに悲鳴を上げて、原因となる声がした方を振り返れば、角の向こうに居たはずの男が穏やかじゃない顔をこちらへ向けていた。

「また覗き見してたの」
「ひ、人聞き悪いこと言わないで。そっちが後から来たんでしょ。こんなところで話してる方が悪い」
「俺が場所決めたわけじゃないしー」
「だったら、わたしが不可抗力ってのも分かるでしょ」
「まあね。あーあ、相変わらずツイてない」

それは完全に、わたしが言いたい。
及川はもう一度「本当にツイてない」と呟いた。頭の後ろで手を組み、曲げた背中でやるせなさを物語っている。告白してる姿を見られたわけじゃあるまいし、そんなに嫌がらなくてもいいと思う。わたしだったらどっちも見られたくないけど。

「で、どう思ったの」
「は?」
「聞いてたんでしょ」
「どうすればいいと思う、って? 知らないよ、そんなの。今カノジョ居ないんでしょ。好きにすればいいじゃない」

相も変わらず可愛げのない返ししか出てこない。だけど他に何て答えろっていうんだ。彼女なら中途半端にせずにちゃんと断ってよと怒れるだろうし、親友と呼べるくらい親しければもっと良い相手が居るよなんて嘯くことも出来たかもしれない。そのどちらでもないから、わたしに言えるのはやっぱり、及川の好きにすればいい、の一言だけ。
逡巡しても至極真っ当な返答だと思えたのに、及川は片眉を吊り上げて不服そうにした。

「全部 聞いてたわけじゃないの」
「たまたま居合わせただけで、わざわざ聞き耳立てないよ。また新しい彼女できるんだなー、って思っただけ」
「あのねえ……別に来るもの拒まず、ってわけじゃないんだよ。誰でも良いわけでもない」
「なら、好きなコとしか付き合わないの?」
「それは……まあ、後から付いてくるかなって思うときもあるケド」

そうでしょうね。そうだろうね。
男ってやつは、なんて括るつもりじゃない。男女関係なく、そういうことに潔癖では世の中こんなに彼氏彼女に溢れていないだろう。

「ふーん」
「何その反応」
「別に。愛するより愛される方が幸せってこともあるよね、と思って」
「みょうじは好きじゃない奴とは付き合えない?」
「え」

好きな人だろうが好きじゃない人だろうが、そもそも誰かと付き合ったことがない。好きな人に告白する勇気もない。告白されたこと、は、あるけど学年が同じなだけで知らない人だったし、付き合うとか考えられなくてその場でゴメンナサイをした。

「わたしは、無理かなあ……何か、付き合ってみても虚しくなりそう」
「……ふーん」
「聞いといて何なの」
「別に。そりゃそうだよね、って思っただけ。何もないよ。もう教室戻ろう」

無駄話を始めたのは自分のくせに、背中を向けてさっさと行ってしまう。わたしは慌てて追い掛けた。

「付き合ってから好きになるかも、なんてのはさ、好きな相手がいないときにしか言えないんだよね」

後ろ頭を掻きながら、及川はそんなことを呟いた。その表情は見えない。
思わず顔をこわばらせた。及川のその理論で行くなら、好きな人とじゃなきゃ付き合えないと答えたわたしは好きな人がいます、と言ったようなものじゃないか。その相手が及川だ、ということまでは分からないとしても、好きな人がいるなんて及川にバレたいネタではない。相手が誰か聞き出そうとして、からかってくるに決まってる。
そう思って構えたのに、及川は予想に反して静かに言葉を続けた。

「もう懲りたからしないよ」
「え?」
「好きじゃないコとは付き合わない」
「そう、なんだ」

よく分からないけど、わたしの話じゃなかったらしい。よかった。拍子抜けしてついでに肩の力も抜けた。
そうこうしているうち、とっくに予鈴が鳴り終わっていることに気付き、わたしたちは慌てて教室へ駆け込んだ。