月が見ている(バーボン)

 

 

 

 

 

 

 

 

「仕事してよ、バーボン」
「パートナーを気遣うのも、今夜の僕の立派な仕事だと思いますけど」

半分は皮肉で、半分は心配でそう返せば、彼女は不服そうに眉根を寄せた。
男なんて幾らでも手玉に取れそうな顔をしているのに、ドレスにハイヒールは履き慣れていないらしい。得たかった情報はもう手に入れているのだからこれ以上この会場に居る必要はない。なのに、彼女の考えはそうではなく、もう一押しで得られるものがあると思っているようだけれど、急いては事を仕損じるし、何より普段は外に出ない彼女にこれ以上こんな役目をやらせたくはない。ふらついた彼女を支える役目を他に譲りたくはなかった。

「どうぞ、こちらへ」

観念したのか、彼女は大人しく差し伸べた手を取った。会場の喧騒を離れて、庭園へと繋がる階段を降りる。触れる手で引き寄せてその身体に指を這わせたい衝動に駆られるけれど、そんな事をすれば彼女は二度とこの手を取ってはくれないだろう。

「だからベルモットを連れてくればよかったのに」
「あのひとは面が割れているんです。言ったでしょう」
「……分かってる」

噴水の影、会場を背にした淵に彼女を座らせる。正面にしゃがみ込み、その左足を裸にした。案の定、踵は擦り切れて血が滲んでいる。残念ながら絆創膏を携帯しておらず、さてリップクリームはあっただろうか、と思案するも、それを塗り込む事を彼女は嫌がるかもしれない。結局のところ、彼女を連れ出したところで、自分に出来る事は何もないのだ。
傷をなぞれば、彼女は痛みに顔を歪めた。

「……ッ、ちょっと。今の、わざとでしょう」
「すみません、つい」

傷が本当かどうか確かめたくなったので。
笑いながらそう告げれば、彼女は怒り、その足を振り上げる。避けるために立ち上がって後ろに下がった。彼女の装備は手にしたまま。彼女に僕を追う事は出来ない。

「慣れない靴を履いて、間抜け過ぎる。やっぱり貴女NOCなんじゃないですか?」
「……そういう貴方こそ、バカな女を気にかけるなんて、NOCだと疑われても仕方ない」
「なら、裏切り者同士でお似合いですね。手を組みますか?」
「遠慮するわ。命が幾つあっても足りない」

誘いはあっさりと断られた。もとより、本気でかけた言葉ではない。けれど、NOCではないか、と疑っているのは本当だった。分かりやすい理由を掲げて組織に居る人間など居ないけれど、彼女に関しては特別、謎が多すぎる。
彼女は、普段は飼い殺されて(本人の怠慢もあるだろうけれど)滅多に外へ出ない。デスクに向かってさえいれば優秀な人間である事は確かだけれど、ジンが執着する程の人材であるとも思えなかった。男女の関係としての執着であれば、簡単だった。彼女が一人で外を歩かせてもらえない理由がそれであれば、ジンを笑うだけで済む。
けれど、そうではなく、シェリーが消えた理由について彼女が何らかの鍵を握っているからではないか……というのが、これまで彼女を見て導き出される推測だった。証拠なんて何もなく、推理と言える根拠もない。それでも、ジンがそう疑っているのは確かだ。彼女が組織に打ち込む楔のひとつであるのなら、暴いてこちら側へ引き込みたい。それには相応のリスクが伴うだろう。自分を曝け出さずに暴ける相手ではない。

「ねえ。もう靴を返して」
「こんなところ、貴女には似合わない」
「そうね。こんなドレスまで着て、私の仕事じゃないと思う」
「ドレスはよく似合っていますよ。今日の為に選んだんですか?」
「知らない。ジンが用意してくれたの」
「……へえ」

ウォッカならともかく、あの男がそんな事をするだろうか。いや、しないだろう。他の人間にならば。ならば何故、の答えは明確だった。彼女だからだ。
酷く、濁った感情に覆われるのを自覚した。こんな些細な事で血を流す彼女は組織に向いていない、きっとNOCに違いない、なんて全て馬鹿げた妄執に過ぎない。そうだったらいいのに、なんて、確かな証拠も見つけられないのは、事実がないからに他ならないのに、僅かな希望に縋っている。もうずっと、執着しているのは、誰だろうか。

「……バーボン?」
「いえ、すみません。こちらはお返しします」

少し休んだだけでも楽になった、と彼女は苦笑する。痛々しい傷口にまた原因をあてるのは忍びないけれど、抱き上げて会場に戻るわけにもいかない。話をしたくて庭園に連れ出したけれど、さっさと退場すべきだった。早く彼女を帰そう。
再び彼女の前に跪き、その足に靴を嵌める。月に照らされる白い脚。触れてはいけないものに触れている気がした。自然と、その足首に唇を寄せる。

「ちょ……っ! バーボン!?」
「……戻りましょうか」

何事もなかったかのように立ち上がり、手を差し伸べる。彼女は顔を赤くし、口をはくはくさせている。そんなに簡単に感情を出すのに、よくこんな仕事を回されたものだ。本当に、向いていない。
やっぱりNOCに違いない、絶対に証拠を見つけて、暴いて、彼女を守ろう、と盲目にもそんな事を思う。スコッチが聞けば、呆れ顔で頭を抱えるに違いない。