After the Dead end 2(安室透/降谷零)

 

 

 

初めに失くしたのが彼だった。

 返事の来ないメールを送る勇気はなくて電話帳の登録を消した。連絡の取れない連絡先なんて、あっても意味はないのだから。随分と昔のことだ。

 それでも送り続けりゃ生きてることは分かるしな、と伊達くんは笑ってたっけ。宛先不明にならず届いたことさえ分かればいい、なんて私はとてもそんな殊勝には考えられなかった。

 思い出が色褪せることはないなんて大嘘だ。ぼろぼろと崩れ落ちていき、今はもう形を成さない。メールも電話も、今は誰にも繋がらない。

 正しいことをしようと思った。大切なものを守るために。そうして警察官になったのに、失くす度に心は徐々に黒く染まり、気付けば憎しみと悲しみで覆われて沈んでしまった。それでもお前なら大丈夫だよ、と励ましてくれる仲間たちはもう居ない。みんな居なくなった。どうして誰もさよならさえ言わせてくれないんだろう。親の死に目にも会えないと言われる職業なのだからそれくらいは当然だと受け入れるべきものだ。仕方ない。仕方ない。分かってる。だけど。理解は出来ても、覚悟が足りていなかった。

 フロントガラスの向こう、遠くからサイレンの音が響いていた。沈潜することをやめて窓の外を見遣る。救急車とそれからパトカー、それも一台だけじゃない。消防車は居ないようだから火事ではないだろう。

……事故でしょうか、事件でしょうか」

 考えていたことを見越してか、隣の運転席からそんな言葉が送られる。あくまで『安室透』を崩さない彼は、私にとって『親しくもない知人』に過ぎない。

「さあ、どうでしょうね」
「やはり気になりますか?」

 何に掛かる『やはり』なのか。事故だろうが事件だろうが私ならば『やはり』気になるだろう、本来なら居てもたっても居られないのではないか、と?  ……過去の私ならそうだったかもしれない。だけど、今は到底、そんな気骨はどこにもない。何も知らないくせに。貴方が居なくなってから、私が何をどれだけ失ったのか、何も知らないくせに。

 紛れも無い苛立ちを自覚する。立場が何であれ、サイレンが聴こえたら誰だって気を取られるものだろう。

「そういうあなたはどうなんですか?」
「僕ですか? そうですね……事故なら僕の出る幕ではないですが巻き込まれた人が心配ですし、事件なら詳細が気になりますね。勿論、探偵として」
「私はどちらだろうが友人や知っている人が巻き込まれていないか、それだけが心配です。薄情ですけど」
「まあ、普通はそうですよね。でも意外でした」
「意外? 私の何を知ってるって言うんですか?」

 噛み付くように投げかけた。だけど答えがほしいわけじゃない。

 二人きりになれば何か違うかもしれない、と縋るように思っていた。そんな気があれば、今日までにとっくに何かしらのアクションがあったはずだ。ない、という事は私に話す事など何もない、という証だ。それでもこうして気に掛けるような真似をするのは嫌がらせか牽制かのどちらかだろう。『余計な事は口にするな』と。全てが、そう言いたいように聞こえる。何の目的があって、彼が偽名で毛利さんに近付いているのか、知った事ではない。言われなくとも、告げ口をするつもりはない。ただ苛立ちが募っていく。

「ここで、降ろしてください」
「毛利先生から聞いている場所からはまだ距離があるように思いますが……
「すぐそこが最寄駅ですから、もう十分です。ここからなら歩けます」
……なら、せめて近くまで後ろを付かせていただきます。貴女に何かあれば、毛利先生に説明できません」
……お好きにどうぞ!」

 クルマが路肩に停車するなり、シートベルトを外して車外へと飛び出した。これ以上、堪えられそうになかった。

 半分は八つ当たりのようなものだった。わざわざ送ってくれている相手に向ける態度じゃない。分かっていても、どうしようもなかった。彼のように割り切って接することは私には出来ない。愛想笑いもポーカーフェイスも、私の方がずっと得意だったはずなのに。

 

 

 家に人を招くとあって、早起きして念入りに掃除と片付けをした。片付けきれない荷物は最終的に寝室のクローゼットへと押し込んだ。そこまで見せるような事態にはならないことを祈りながらピカピカになった床に見惚れていると、やがてチャイムが鳴った。マンションのオートロックを開けて待っていると少しして再び部屋のチャイムが押される。

「おじゃましまーす!」
「あ、コラ!」

 扉を開けるなり部屋の探検を始めたコナンくんが微笑ましい。慌てて制止しようとする蘭ちゃんへ構わない旨を伝えて、飲み物を出す為にテーブルへと促した。

「私まですみません」
「いいえ、来てくれてありがとう」

 調査の為とはいえ、仮にも女の一人暮らしの部屋だ。男だけで押し掛けるのは良くないだろう、という毛利さんの心遣いで蘭ちゃんやコナンくんも連れ立ってくることは事前に了承していた。問題は、話になかった毛利さんの弟子の存在だ。後学の為、と銘打ち、今日も同席している安室透。何故、と思っても対外的には嫌がる理由がなく受け入れる他なかった。

 部屋を調べていたらしい男性陣が戻ってきたところで、彼らにも飲み物を提供する。尤も、一人暮らしの家具なので全員が座れるような椅子はない。客人を立たせたままでは心苦しく、せめて誰かと変わろうとするもそのままを促されてしまった。

「盗聴器の類はなさそうだな」
「今のところは、部屋の中でイヤな感じはしてません」
「最後の写真から今日で何日だ?」
「それが、今朝また新しいものが入っていて……
「何!? 見せてくれ!」

 会話が聞かれていない、と確証が取れたところで、ようやく新しく投函されていた写真をテーブルの上に出す。写真、と言っても、これまでと同じく自宅でプリントアウトしたようなもので、裏面は真っ白だ。古いフィルム写真のように分かりやすい日付が入ってるわけもない。

 そして、裏返したその写真は、ほとんどが黒と言っていいほど真っ暗だった。

「なんじゃ、こりゃ?」
「撮影に失敗した……というわけではなさそうですね」
「よく見ると、うっすら何か影が見えるね」
「あー……よく分からんな、こりゃ」

 まるで揶揄うように、弄ぶようにじわじわと近付いてくる。単なる悪戯目的なのか、危害を加える目的なのか、意図の分からない不気味さを漂わせていた。

「昨日も聞いたが、何か心当たりはないのか?」
「というより、正直ありすぎて……

 申し訳なくも告げると毛利さんは頭を抱えてしまった。心当たりと言われて、ぱっと思い浮かべるのは難しい。こういう場合、恋愛感情や好意を抱いて行動している相手ならば大抵それは別れた恋人であったり同じコミュニティに属す人間であったりと身近な人間である事が多い。そうは思いたくない、と考えるのは誰でもそうかもしれないが、そうでなく冷静に考えたところで周囲に明らかおかしい人間など簡単に思い浮かぶものではない。そもそも休職中の身なのだから人付き合い自体が限られている。但し、それ以外の感情での執着……つまり、逮捕に繋がる動きをした事で買った恨みというなら山程にある。

「刑事の頃に買った恨みから絞るとなると、数が多すぎるな……

 今もまだ警視庁に籍はあるんですよ、とわざわざ言う必要はあるまい。口にしたところで、それも時間の問題だろう、と笑われてしまうかもしれない。

「ただの悪戯ならいいが、なーんか嫌な予感がするんだよな……特にこの最後の写真、これには何かしらの悪意が臭う! 他に気付くことは?」
「ここ数日の二枚以外は、少し古い、です。少なくともここ半年じゃありません」
「そいつはつまり……
「はい」

 写る景色や人の服装から見るに、今とは季節が違う。つまり、最近出会った人間ではない可能性が高い。毛利さんの言うように警視庁時代に買った恨み、もしかしたら相手は前科持ちである可能性が高いということだ。

「ということは、少なくとも犯人は安室君じゃないってことだな!」
「え?」
「ぼ、僕ですか?」
「そーだよ! お前さん、彼女と出会ったのはつい先日だろう。今日だってお前タイミングよく現れてここまで着いてきやがって、怪し過ぎるんだよ!」

 毛利さんは訝しむ目を彼に向けた。一方、彼は疑われて見るからに戸惑っている。

「まさか彼女に一目惚れしたお前の犯行なんじゃ……
「違いますよ! 僕が来てるのはあくまで毛利先生の推理を学ぶ為で……

 毛利さんも本気で口にした言葉ではなかったのか、彼の弁明を聞いて「ならいいけどよ」とあっさり引いた。毛利さん以外の全員が苦笑する。その可能性は考えてなかった。しかし、確かに状況だけで推理すれば怪しいことこの上ない。蘭ちゃんでさえ、いつもなら父親を諫めるだろうところ、今は言葉に迷っているのか目が泳いでいる。不覚にもじわじわと面白くなって笑いを堪えていれば本人と目があってしまった。

……僕じゃありません」
「分かってます」

 咳払いして、笑いを打ち消した。コナンくんから送られる視線が痛い。変なところで聡い少年だから、目の前で下手な行動を取るわけにはいかない。

「だとすりゃ、やっぱり特定するには地道に張り込むしかねーな。長期戦になるかもしれないが、いつも通りに生活してくれ」
「はい。お願いします。といっても、休職中なのでそんなに外出することはないんですが……。写真の投函についても、もともと頻繁じゃないですし」
「だったら、何で一昨日の次は今朝だったんだろうね?」
「またガキが口を挟みやがって!」

 コナンくんの言う通りだ。投函されたのが昨夜か今朝かは分からないけれど、こんな短スパンの動きはこれまでなかった。

「そうね。もしかしたら、毛利探偵事務所へ行った事に気付かれてるのかも。だとすると、こっそり張り込んでも現れないかもしれませんね」
「長期戦どころの話じゃねーな……

 毛利さんは頭を抱えてしまった。こちらとて、いつ決着がつくか分からない依頼をするわけにもいかない。

「では、堂々と張り込むのはいかがでしょうか」

 暫しの沈黙を破ったのは安室透だった。意図が掴めず、続く言葉を待つ。

「堂々……と?」
「僕がなまえさんと一緒に過ごすんです。まるで恋人のように……ね」

 名案でしょう、とでも言いたげに微笑まれてぞっとしない。

 相手がこちらに対し抱いているのが好意でも悪意でも、ターゲットに何かしらの変化が出れば動くだろう、との推察からだろう。それは一つの選択として間違ってはいない。間違ってはいないが、この場合は悪手としか思えなかった。

「なるほど。それで犯人の反応を見る、あわよくば炙り出すってわけか。早期決着に持ち込むならその方がいいかもな」

 そんなご迷惑をかけるわけにはいきません、と口を開くより早く話が進められてしまう。

「幸いにもポアロのバイトは昼間だけですし、毎日でもありません。探偵の仕事も今は落ち着いています……。勿論、これは毛利先生への依頼で僕はただの弟子ですから、なまえさんから僕への報酬の支払いは必要ありません」
「いえ、あの」
「僕にも手助けさせてください……迷惑でなければ。なまえさんが心配なんです」
「他に良いアイデアもねーし、その手でいくかぁ……

 毛利さんがそう言ってしまっては、私にはどうすることも出来ない。他にこの曲面を乗り切る名案を持つ者が、私を含め他に誰にもなかった。

 安室透の言葉を受けてか、顔を赤くする蘭ちゃんに対して私の顔は青くなるばかりだった。またも反論する術を持たず、言われるがままに従うしかない現実に直面し、いっそ泣きたくなる。

「それじゃあ頼むぞ、我が弟子よ!」

 大人になるというのは、果たして諦めを覚えるということだっただろうか。投函されていた写真を預け、安室透とは近々連れ添って外出する予定を組んだ。勿論、毛利さんも遠くないところに待機する手筈だ。あれよあれよと固まるプランを黙って聞きながら、バレないように深い溜め息を吐いた。

 

 

 

 

To be continued……

 

 

After the Dead end 1(安室透/降谷零)

 

 

 

 オートロックに鍵を翳し自動ドアを潜った。まだ部屋にも入っていないのに胸を撫で下ろす。すれ違う住人に会釈して郵便受けを確認し、面白みのないチラシだけ共有のゴミ箱に突っ込む。エレベーターに乗り込み、目的の階を押す。箱の中は少し落ち着かない。扉が開ききるのを待って共有通路へ。一番奥まで進み辿り着いた先で鍵を回し、中から施錠が完了すれば、ようやく張り詰めた空気を剥がす事が出来る。誰に侵される心配のない、私のテリトリー。

 鞄を下ろしソファへと倒れ込んだ。食欲がないのは暑さの所為か疲れの所為か定かではない。どちらにせよ化粧も落とさず眠気に身を任せるわけにはいかなかった。明日は朝から予定がある。

 憂鬱だ。ひどく、憂鬱を感じた。予定そのものではない。向かう場所が問題だった。

 例えばハンカチを落としてみるとか目の前でふらついてみせるとか思い切って「知り合いに似てるんです」と声を掛けてみるとか、いやそもそもそんなことをしなくとも彼が居るのは喫茶店なのだから用事にかこつけて素知らぬ顔をして入り込めば良いのに、あの通りに出るだけで私は上手く呼吸が出来ない。

 初めて見たときは心臓が止まるかと思った。初めて、と言うのは語弊があるかもしれない。正しくは数年ぶりに、だ。私の願望が見せる白昼夢かもしれない、という可能性は、相手が同じように目を丸くしたことで幾分か薄くなり、階段から降りてきたコナンくんが彼と私を繋げた事で完全に打ち消された。

 尤も、耳に届いた声は知っているより柔らかく、告げられたのは初めて聞く名だったけれど。

 毛利先生のお知り合いですか。初めまして安室透と言います。私立探偵で毛利先生の弟子をしています。この喫茶店でウエイターも。時間があるときにはこちらにもお寄りください。何か困った事があれば僕も力になります。美味しいコーヒーを用意してお待ちしています。

 人好きのする笑顔は私の記憶にはない。それでも確かに彼だった。

 ええ。ぜひ。また今度。

 詮索好きの少年が訝しむ程度には顔が引き攣っていただろう。それでもあの場で取り乱さなかっただけ満点に近い対応だったと思う。誰か私を褒めてくれ、と旧友たちに返答を求めるも頭の中の彼らは誰も昔のように慰めてはくれない。それがひどく哀しかった。この哀しみを誰かと共有したかった。ずっと。苦笑いでも呆れるのでもいい、出来れば一緒に怒ってほしい、それから皆で笑いたい。二度と叶わない。

 溜息を吐いても状況が好転しない事は知っている。それでも溜め込むより吐き出した方が幾分か軽くなるだろうか。大きく深呼吸に代えて身体を伸ばした。

 明日は米花町に用がある。正しくは五丁目の毛利探偵事務所、つまりビルの二階。一階にある喫茶ポアロに用はない。けれど。

…………零」

 呟いて、またひとつ溜息を吐いた。お気に入りのクッションに拳を叩き込む。悠々自適な一人暮らしなのだから咎める者は居ない。 独り言を笑われることもない。

 会って話して、私の知っている貴方ですかと問い詰めてそれで何になる、どうすると言うのか。そうだよと言われても違いますと言われても哀しいことに変わりはないのに。事情があってもなくても知ったことか、と泣き縋るのはあまりにも弱い。かと言って、生きているならそれで良い、と思うだけで済ませられるほど強くもなかった。

 嘘が下手な人だと思っていた。思わされていたのかもしれない。彼はある日を最後に姿を消した。私は納得できなかった。彼が告げた言葉がどこまで真実でどこから虚実だったのか、今となっては分からない。私は、責める資格をもう持たない。

 

 

「ごめんなさい。おじさん、戻るまでもう少しかかるみたいなんだ」

 だからと言って待つ場所がここである必要はあるのだろうか。事務所でもいいし、何なら外で立っていたって構わないのに。

 携帯の通知を確認し申し訳なさそうにするコナンくんを無碍に扱うわけにはいかず、気にする事なんか何一つない風を装って笑顔を返す。

「ううん、大丈夫。後の予定は何もないから」
「そっか。良かった」

 ホッとした様子のコナンくんに不安を抱かせないよう、自分の感情は水と一緒に飲み込んでしまう。空になったグラスをテーブルに戻せば氷と氷がぶつかって音を鳴らした。冷静に考えれば家主の居ない子どもだけの部屋に上がり込むわけには行かず、炎天下の中で待つのも現実的でない。消去法で目の前の喫茶店。不可抗力で、何もおかしい事は無い。

「それよりなまえさん、怪我はもう平気なの?」
「この間も聞かれたね、ソレ。すっかり元気。大丈夫だよ」

 そう、傷は完治した。医師のお墨付きを得るまでもなく傷の治りは順調だったし、カウンセリングだって問題はなかったはずだ。怪我の要因となった犯人たちは勾留中で身の危険もない。事件は解決した。だから予定通りに退院した。

 なのに、病院の外へ一歩出ると嘘みたいに足が竦んで動けなくなった。自分でもわけが分からず呆然とした。心的外傷を負うような事件だったわけじゃない。いつも通りの仕事をした。たまたま傷を負った。別に珍しいことでもない。のに。動けなくなって座り込んで、そうしたら立ち上がれなくなってしまった。そうして、上の許すままいつまでも中途半端にふらふらと猶予期間を過ごしている。怪我で休職などよくあることで、わたしのこれも同じように処理されているのだと思う。

「お待たせしました」

 敢えて背を向けたカウンターから足音が近寄り頭上から声がしてアイスコーヒーが二つ、テーブルに並んだ。それからミルクピッチャー。ミルクを使うのは私だけで、コナンくんはブラックのまま喉を潤すらしい。その様子を眺めていると、続けて頼んだ覚えのないケーキが二つ提供された。

「あれ?」
「あの……ケーキは、頼んでません」

 思わず振り返り、呼び止めざるを得ない。彼は、ああ忘れていました、と朗らかに笑った。その態とらしさに微かな苛立ちを覚える。

「サービスです。正規のメニューじゃなくて試作品なんですけど、良ければ食べてくれませんか」
「ありがとー、安室さん!」

 再びコナンくんへ視線を戻せば、既にフォークを口に運んだところだった。断る理由もなく、諦めて正面を向いて座り直しコーヒーにミルクを入れた。

「あれ、お砂糖がないね。貰おうか」
「ほんとだね。いいよ、甘いものがある時はミルクだけにしてる、から……

 そこまで口にして、お砂糖がないのは忘れられたからじゃない、と気が付いた。

朝はブラックコーヒー、それ以降は飲みすぎてしまって胃が荒れるからミルクを入れる。何となく一緒にお砂糖を入れるけどスイーツがあるなら必要なくてミルクだけ。それは昔からの習慣だった。

 ……ひどいことをする。他人の空似でも記憶喪失でもない事を明確にされてしまった。ならば、何だと言うのだろう。他人のふりをするなら一から百まで通してほしい。他人のふりが出来ないなら、近付くような真似をして揺らさないでほしい。考えたところでブーメラン。それはお前だ、と私が私を非難する。漏れそうな自嘲を誤魔化すように曖昧に笑い、ケーキを口に運ぶ。柔らかな甘さがふわり、と広がって消えた。

 

 

 応接机に幾つかの写真と郵便物を並べる。封筒はどれも開けられているけれど私が開けたわけじゃない。私宛のものではある。写真については紛れも無く私が写っている。けれど私が知るものではない。

 迎えられた事務所にて、机の向こうの毛利さんは険しい表情で机上を見つめ、蘭ちゃんはその後ろで静かに蒼褪めている。ガキはどっか行ってろ、と一度追い出されたはずのコナンくんは気付けば机の端から静かに広げられた物を観察していた。子どもに見せるようなものではない、という程の事はないけれど、これからの話は決して聞かせたい内容ではない。それでも、今は小さくても問題が起こってるなら毛利さんに相談を……、と促してくれたのは他でもないコナンくんだったから、彼には聞く権利があるとも言えた。

「やっぱり、気持ち悪いですよね」
……いつからだ?」

「初めて写真が投函されていたのは二ヶ月前です。何か無くなってるわけじゃないけど、郵便物は全て開封されてます」
「警察には?」
「届けてません。相手も特定出来てませんし、これくらいじゃ動かないのは知っていますから」
「そんな……!」

 ショックを受けた様子の蘭ちゃんに苦笑いで返す。実害のない状況では警察に届けたところでとりあえず周囲のパトロールでも増やしますねと軽くあしらわれる程度が関の山。加えて、万が一にも顔を知る人間に情報が流れるのは嫌だ、とちっぽけなプライドが邪魔をした。まして今の自分が置かれた状況で今度は個人的に被害を受けています……なんて届けたところで信じてもらえるかどうかすら分からない。それでも一人で解決に動くような気概はなくてここに居る。情けない、と思う。

 初めは何を写したのかも分からない雑踏の広域写真だった。ポストに見つけて気味が悪いな、と思いながらもすぐに忘れた。何日か後に、次は駅のホームの俯瞰写真。自分が写っている、とすぐに気が付いた。対処に悩む間にランチをしたカフェ、よく立ち寄っていたコンビニ、帰路に着く後ろ姿、一番新しいものは昨夜投函されていたもので、遂に自宅マンションの入り口になった。とっ捕まえられたらと思うのに、実際に迫る気配は感じた事がない。

「これくらい、一人で何とか出来たらと思うんですけど……
「バカを言っちゃいけねぇ! 君がどういう立場の人間だろうが、悪意に一人で立ち向かわなきゃならねぇなんてことは無いんだ! 俺にも手伝わせてくれ」

 真っ直ぐな言葉に、目を見張る。……この人を慕う人が多い理由が分かる。深々と頭を下げた。

「ありがとう、ございます……。よろしくお願いします」
「行動は早い方が良い。今夜から早速張り込みだ!────って誰だよ、こんな時に!」

 何だ高木かよ、と告げられた、聞き覚えのある名前。思わず身構えてしまう。この忙しい時に何の用だ、と悪態を吐きながら電話に出る毛利さんの通話を盗み聞くに、どうやら急用の呼び出しらしい。

「あぁ!? 今からだと!? バカ野郎、生きてる人間が優先だ! こっちにだって都合があるんだよ! 大体いつも『何でまた居るんですか』とか何とか煙たそうにするくせによ!何なら先にこっちを手伝ってくれりゃぁ……ん?」

 口の前に人差し指を出し、危うく強力な人手を集めてしまいそうな毛利さんを身振り手振りで阻止する。

 私のことは言わないでください、お願いします。

 青いのか赤いのか分からない顔になっているだろう私を見て察してくれたのか、毛利さんは考えるような素振りで「また連絡する」とだけ言って通話を終了した。一先ず安心する。

「大丈夫ですよ、毛利さん。私の話は今度でも」
「とは言ってもなぁ、心配だろ」
「毎日何かあるわけじゃないですから」
「そりゃそうだけどよ」
「お急ぎなんでしょう?」
「なら明日改めることにして、今日はせめて高木にクルマで送らせるか……
「それは出来れば遠慮したいです」
「なら、僕がお送りしましょうか?」

 事務所の入口から、想定していない人物の声。驚きその方向を見遣れば、喫茶ポアロのエプロンを身に着け、トレーを携え、にこりと笑う彼が立っていた。トレーには軽食が乗せられている。差し入れだろうか。そういえば弟子だの何だの言っていた気がする。それにしても何故このタイミングで。どこから聞かれていたのか。警視庁の面々より何より、誰よりも知られたくない相手なのに。

「店はもう良いのか?」
「はい、ちょうど閉めたところです。話は分かりませんがクルマが必要なんですよね?」
「だっ、大丈夫です!!」
「遠慮しねぇで送ってもらっといてくれ。お前さん、頼んだぞ」
「でも」
「そうですよ! 一人で帰るなんて危ないですよ!」
「蘭ちゃんまで……

 心配してくれるのは有り難いが、こればかりは簡単に了承するわけにはいかない。

「護身できるくらいには鍛えてるし、本当に大丈夫」
「そうでもやっぱり、危ないですよ!」
「では、すぐに用意してきますね。少し待っていてください」
「いや、あの、ちょっと……!」
「まぁ送り狼にはならんようにな!」
「もう、お父さん!!」

 毛利さんは豪快に笑うけれど、こちらの顔は引き攣ったままだ。笑えない。まったく、笑えない。

 しかし、断りは受け入れてもらえそうにない。彼はともかく毛利さんや蘭ちゃんを無碍に出来ず、言われるがままクルマへ乗り込まされてしまった。

 

 

 

 

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愛し焦がれる(降谷零)

 

 

 

彼はいつだって降谷零だった。それ以外の顔を向けられた事はない。例えば、ポアロで常連客や同僚に向けられるような優しい微笑みや、潜入先の組織で使う取り込まれそうな甘い毒を含んだ瞳は、どんな色をしているのだろうか。私の知る降谷零は、ストイックで真面目で自信家で割と横暴。それから時折、心配になるくらい自責的。尤も、心配なんてさせてくれないのが彼だけれど。もう、いつから顔を見ていないだろう。さみしい、と口にしてしまうのは、とても難しいことだった。独り言すら、口を通って耳に入れば押し留めている感情が全身に巡ってしまいそうで。

ふう、と大きく息を吐き出す。
デスクのある部屋を出て、エントランスへと降りるためにエレベーターのボタンを押した。同僚たちは既に帰ってしまいフロアには誰も残ってはいない。それでも電車に乗れる時間に終わったのだから、今日は上々と言えるだろう。明日は非番だから部屋の掃除でもしよう。果たして早く起きられるだろうか。本当はモーニングしたいけど、いつもより少しだけゆっくり眠るのもいい。目が覚めたら洗濯して掃除機をかけて、それから干したての布団で昼寝が出来たら最高だ。モーニングは諦めてランチで構わない。誰か付き合ってくれる友人は居るだろうか。集まりにいつも顔を出せなくて、グループトークは会話が終わった頃に既読を付けるばかりだ。都合が付けば連絡しろと言われていた気がする。久しぶりに逢いたい。久しく顔を合わせていない何人かが頭に浮かぶ。そして、誰よりも会いたい人の顔を思い出して、だけど打ち消した。忙しさは私の軽く3倍は超えるだろう彼。最後に話したのはいつだっただろう。次に非番が重なるのはいつのことだっただろう。

やがてポン、と音がして、エレベーターの箱がこの階に到着した事を報せてくれた。溜め息を重ねるようなことは何もない。つま先を見つめながら、肩にかけた鞄を持ち直した。扉が開き、顔を上げれば、そこには予想だにしなかった先客が居た。

「……ふるや」

驚いて立ち尽くしていると、同じように目を丸くした彼が、次の瞬間、強引にエレベーターの中へ私を引き込んだ。視界の端に映った行き先階ボタンは、地上ではなく、駐車場のある地下のみが光っている。彼も帰るところだろうか。登庁していただなんて知らなかった。
扉が閉まると同時、押し付けられた胸板に両手を小さく突っ張って彼を見上げれば、その端正な顔が目を細めて笑った。いつでも格好いい、私の恋人。

「遅くまでお疲れさま」
「降谷こそ」
「ああ、今日はポアロの後にこっちに来たから。……いつもみたいに、名前で呼んでくれないのか?」
「ここは家じゃないのよ」
「でも、他に誰もいない」

それでも職場です、と身を捩れば腰を引き寄せられ、より身体が密着する。拘束を解く気はないらしい。回された腕の片方が下に降りて、お尻を撫で回し始めた。誰かに見られたらどうする気だ。

「ちょっと、もう」
「ん?」

彼の手が意識的に際どいところに触れるので、どうしようもなく背筋がぞわぞわとしてしまう。エレベーターはまだ止まらない。

「降谷、離して」
「いやだ」

顔を見れば、アイスグレーに映る自分の顔が分かりやすく動揺していて恥ずかしさが増した。大きく開いた私の瞳には自信ありげな彼が映っているだろう。そう、こういうとき、私が簡単に折れる事を彼は知っている。

「なまえ」
「……零」
「うん」

唇が重なる。舌の侵入を拒む隙はなく、呼吸は奪われてしまう。反射的に引っ込めた舌はあっさりと絡み取られてしまい、身体を離すどころかゼロ距離からマイナスへ。鼻から抜ける声が狭い箱の中に響く。恥ずかしくて、でも触れ合える事が嬉しくて、自制心と恋心が頭の上で闘ってる。散々味わうように口内で遊ばれて、最後に唇へリップ音。そしてようやく解放されたのに、身体を預けたままなのは足元が覚束ない所為だ、と自分に言い訳をする。呼吸を整える私の頭上で、降谷は小さく笑った。

「かわいい」
「何なの」
「久しぶりに愛しい恋人に会えたんだから、少しくらい浮かれたっていいだろ」

言葉がストレートなのは、どの姿でも同じだろうか。降谷は顔を逸らす私を更に笑って、宥めるようにぽすぽすと私の背中を叩いた。
寂しかった、なんて言う暇もないくらい、気持ちを向けられている。

「会えると思ってなかったから、顔を見たら我慢できなくなった」
「わ、たしも……会えて嬉しい」
「うん」

やがて、つい先程聴いたのと同じ音が聴こえてエレベーターが地下への到着を報せてくれた。それじゃ私は地上に戻って駅へ向かいますね……なんて事は、とてもできない。扉が開いた途端に身を離し、箱を出てクルマへと向かう降谷を追って、その背に声をかける。

「……ねえ、まっすぐ帰る?」
「ラーメンか牛丼かファミレスだな」
「ごはん食べてないの?」
「食べてない」

そういう意味で発した言葉ではなかったのだけれど。かく言う私も昼から何も食べておらず、お腹は空いている。帰って何か作る気力などあるはずもない。けれど、こんな時間では開いている店は限られている。降谷の申し出は至極妥当だった。

「軽く食べて、それからなまえのところ」
「……明日の予定は?」
「ポアロでバイト。モーニング、奢るよ」

いつもは無駄に顔を出すな、と怒るくせに珍しい。彼も、会いたいと思ってくれていたのだと、自惚れていいだろうか。
どうやら先ほど企てた明日の予定は変更になるらしい。掃除洗濯は午後に移動。

「早起きしてモーニングなんて、素敵な休日」
「そう思うよ」

降谷は草臥れたネクタイを緩めながら、こちらを振り向いて柔らかく笑った。その顔には疲れが覗いている。私も同じように疲れた顔をしているだろうか。疲れていて、けれど頰の弛みを抑えきれない、彼の前でしか出来ない顔を。

 

 

 

 

朝だから眠れないね(降谷零)

 

 

 

捕り物を終え、やっと庁舎に戻って来られたのは季節が季節なら空も白む時分だった。何も珍しい事じゃない。お肌のゴールデンタイムなんて都市伝説だよ、とは言われても、どの時間にも安眠を取れていないのでは肌どころか身体に悪いのは明白だ。ゆったりとした休息が取れないならば、せめて心に癒しがほしい、とは考えても詮無い事だった。

冷えた静けさが、溜息すら飲み込んでいく。先に戻っていい、と言ってくれた部下たちに感謝したい。お腹が空いた、だけどベッドへ飛び込みたい。仮眠室の固いスプリングですら今は雲のベッドのように魅力的に感じるだろう。だけど、せめてシャワーを浴びたい。基本欲求しか考えられない重い足取りでようやく辿り着いた先の扉を開ければ、予想に反し、室内には先客の存在があった。そこだけ灯りの残る奥の区画、ミルクティー色の頭がきらきらと光を反射している。

「……せめて仮眠室で寝ればいいのに」

呟きは届くことなく、独り言で終わる。熟睡するつもりなど毛頭なかったのだろう。腕と足を組んで座ったまま、俯いた首が落ちてしまいそうだ。けれど忍び足でもなく訪れた気配に反応しないのでは、随分と深く眠っている。このまま寝かせてあげるべきか、起こすのが優しさか。逡巡してはみるものの、傍らに積まれた未処理だろう書類を見るに、放置すれば恨まれそうだ。
仕方ない、起こすか。
荷物を肩から下ろし、彼のデスクへ歩み寄った。

「降谷、起きて」
「……んん……起きてるだろ」
「起きてないよ。夢の中でも処理したかもしれないけど、残念ながらまだ仕事は残ってる」
「いやだ……」

嫌だ、と言われても困る。こめかみを抑えながら、のっそりと顔を上げた男は焦点の合わない目でこちらを見上げた。眉間の皺は深い。剣先がポケットに突っ込まれたネクタイから草臥れが見える。椅子を引いて身体を伸ばしてはいるものの、覚醒には程遠そうだ。

「人が来ても起きないなんて珍しい」
「君じゃなかったらとっくに目覚めてるよ」
「うわっ」

不意打ちで身体を引かれ、目の前の肩で体勢を立て直すも、胸元にぐりぐりと頭を押し付けられ身動きが取れない。「ちょっと、セクハラ」頭をぺし、と叩くも、離すつもりはないらしく恨みがましい目を向けられる。

「誰も居ないんだから良いだろう」
「そのうち誰か戻ってくるし、っていうか汗かいてるから離れてほしい」
「少しくらい触らせてくれ。最後に顔を見たのはいつだと思ってる」

二週間ぶりくらいだろうか。目の前にある寝癖を手櫛で整えながら適当に答えれば、二十日間だよ、と不満そうな声が返ってきた。
私だって会いたかったよ。でも二日寝ていない、シャワーも浴びていない今の状況じゃなく、出来れば別のシチュエーションが良い。

「ほら、シャワールーム行くんだから離して。降谷もソレ片付けるか、仮眠室行くか、どっちかにしなよ」
「……シャワー室いく。一緒に」
「まあ、目が覚めるだろうしね」
「一緒に入ろう」
「うん?」

話しているうちに頭がはっきりしてきたのか、にっこりと笑顔を浮かべているが、発した言葉はまだ寝惚けている、と評する他なかった。ここは職場だ。起こしてやるのが優しさだろう。

「あのね、一緒には入れません」
「どうして」
「いや、どうしてって……、っ!?」

シャツの裾から潜り込んだ手の冷たさに、思わず飛び上がった。

「つめたいっ!」
「ほら、温まらないと」

こちらの抵抗を受けてあっさりと手を引いた彼は何事もなかったかのように立ち上がった。毛を逆立てる気持ちで睨み上げれば、宥めるように、額にキスを落とされる。

「行こう」
「~~~~ッもう、降谷!」
「冗談。何もしないよ」
「当たり前でしょ!」

何度も言うけれど、ここは職場だ。他に誰が居なくてもそれが事実だ。咎める視線を向けても、折れてくれる様子はない。手を取られて歩き出す。「だって、やっと君に会えた」と小さく呟かれ、らしからぬ柔らかい笑顔に心臓を持っていかれた。……やっぱり、まだ寝惚けているんじゃないだろうか。子どもの我侭のようなことを言う。逆の立場なら今頃ハリセンで三発は叩かれているだろうに、この甘さは何だ。けれど、ここで騙されてはいけない。身体はもう限界を迎えている。明日に備え、当初の目的を果たす必要がある。シャワーを浴びて、すぐ仮眠。出来ればその前に小腹を満たしたい。今の基本欲求は、たったそれだけ。それだけなのに機嫌よく前を行く降谷の手を振り払う事が出来ない。きっと、疲れているからだ。

 

 

Previous(降谷零)

 

 

 

 

「幸せ」とはまるでフィクションだ。愛しい人へおはようやおやすみのキスを送る生活をどうしたら今の立場で望めるだろう。街ですれ違う家族の笑顔に覗く物語は、御伽噺より遠い国の話だ。自分には似つかわしくない。
なのに、願ってしまった。触れたい、触れてほしい、温もりを知りたい。暗い夜に君を抱き締めて眠りたい、傍に居てほしい。他でもない君が受け入れてくれるなら他の誰に咎められても、もう止まるつもりはない。

「じょ、冗談はやめてください……っ」
「冗談だと思うのか?」

彼女は耳まで赤くして金魚みたいに口をぱくぱくさせている。そんな間抜け顔も可愛いよ。仮眠室の硬いマットレスに広がる彼女の髪を一房手に取り、口付けた。

「俺を好きだと言っていただろう」

見下ろす彼女に強い視線を送れば、逃げ道を探すように彼女の視線が動く。

「……言ってません。降谷さんには」

そう、卑怯にも彼女が零した想いを拾っただけだ。廊下の角の向こうから漏れ聞いた会話は聞こえないふりで、目が合ったとて当初の目的通り調書と報告を受け取れば良かったのに、出来なかった。腕を引っ掴んで連れ込んだ無機質な密室であろうことか部下を押し倒している。一時の感情で動くなんて決してあってはならないことなのに。けれど、一時じゃなかったら? 今だけじゃない、と確信があったなら。

「風見には言えて俺には言えないのか」
「伝えるつもりはありませんでした。出来れば、一生」

声を震わせて、彼女が口にしたそれははっきりとした拒絶だった。耳から入り身体に落ちる言葉は小さな針となって胸を刺す。

「仕事に戻らせてください」
「駄目だ。話はまだ終わっていない」
「話すことなんてありません」

誰が彼女をこんなに頑なにした。

「俺にはある。君が欲しい」
「答えはノーです。これ以上あなたを失望させたくない」
「これ以上? 誰がそんなことを言ったんだ」
「……覚えてないんですか」

警備企画課に新人が入ることは滅多にない。増して女性は尚更だ。ここに来れば誰もが健康で文化的な生活に別れを告げなければならないし、大義の為に個の犠牲を覚悟しなければならなかった。それが自分だけで済んでいたうちはまだ楽だったもので、部下となる人間に強いなければならず、その覚悟から育てるのは簡単な事じゃない。

ある日、これでやっと本当の事が家族に伝えられる、と零した上司はその言葉を最後に二度と帰らぬ人となった。彼は結果が分かっていてその日の任務に臨んだ。死んで初めて身元が明かされるのが公安だ。彼の元で育てられていたまだ配属一年にも満たない新人は自分の元で受け持つ事となる。彼女は、せめて彼の家族に謝りたいのに会う事も許されない、と泣いていた。いつまでも泣き腫らした顔で出勤してくる彼女を見るのは辛かった。それでも「彼の死には意味があった」「あれで事件も解決した」などと彼の死に理由を付けるのは違う気がして、慰めるような事は何も言えなかった。そもそも何が慰めになるのかも分からない。ただ、そんなにも涙が止まらないのであればこの仕事は向いていないだろう、と思い、そのままを口にした。

俺たちがやっているのはそういう仕事だ。家族に謝る、なんて本人が最もしたかっただろう。叶わないと分かっていて家族をつくった。彼の責任だ。覚悟していたはずだ。覚悟できないなら初めから大切なものなど作るべきではない。いざという時に躊躇するような理由はないに越したことはない。そういう立場なのだと自覚して決して忘れるな。出来ないのならこの仕事は辞めた方がいい。嘆くだけなら馬鹿にでも出来る。進む方向を選べないならこの道は諦めろ。

彼女は、嗚咽を漏らすでもなく耐えるように涙だけを零した。その表情を綺麗だ、と思った。ずっと寝られていないのか酷い隈で疲れた顔をして涙でぐしゃぐしゃであるにも関わらず、だ。何かを決意した人間の顔だ。あれが人前で泣く彼女を見た最後だったように思う。もう何年も前の事だ。女であるというだけで受けるやっかみもあっただろう。我武者羅に走り回るやり方は不恰好ではあったけれど、気付けば周りも認めざるを得ないまでに成っていた。長年見守る中で部下に想う以上の感情を持つようになったのはいつからだっただろう。

「……誰が諦める覚悟をしろ、と言ったんだ。選んだなら諦めるな、って事だ馬鹿」
「なっ!馬鹿って言う方が馬鹿なんですからね!」

わざと雰囲気を壊したいのかそれとも素か、きゃんきゃんと騒ぎ始めるので思わず溜め息が漏れる。

「言い訳はそれだけか?」

空耳だ勘違いだ、とでも言ってくれればまだ逃げ場はあったものを。彼女が素直になれない原因が俺だと言うのならその呪いは今すぐに解いてしまおう。
かぶりを振り視線を外す彼女の頭をこちらを向けて固定する。頰を一筋の涙が伝った。ああ、泣かせてしまったな。

「すぐに泣く」
「泣いてません……。すぐに、って何ですか」
「あのなぁ。目の前で鼻すすってなくても分かるんだよ。この間は風見が止めるのも聞かずに現場へ飛び込んで」
「あれは誰も怪我がなくて良かった、っていう嬉し泣きです」
「ノックリストが奪われた時なんか血相変えて走り回ってた割に最後は腰抜かして使い物にならないし」
「観覧車が目の前まで転がってきたら誰だってそうなります」
「先週は山積みの報告書に埋もれて泣き言漏らしてた」
「もう!全部、降谷さんの所為じゃないですか!」
「そうだな。責任は取るよ」

言葉は呪いだ。口にすれば形を成し大きく膨れ上がる。呟くだけでも恐ろしいのに伝えてしまえばその力はあまりに強大になりすぎた。好きだ、と一言を送ればもう後には引けない、きっと。
目の前の身体を抱き起こして腕に閉じ込めた。そう動くとは思っていなかったのか、彼女はされるがまま目だけを泳がせていた。その肩に顎を乗せて息を吐き出した。鍛えているとはいえ力を込めたら折れるんじゃないかという程に華奢な線。この細腕で銃を握り警棒を振り回し時に大の男も投げ飛ばすというのだから驚きだ。顔に触れる髪から香る柔らかな色が心地よくて、深呼吸するふりをして肺いっぱいに吸い込んだ。身体を離し、揺れる瞳を覗き込む。

「せ、責任って」
「そのままの意味だよ」
「降谷さんはずるいです……私ばっかりあたふたして、馬鹿みたい」
「そうでもないさ」

この国で生きる者の為に、この国で生きた者の為に命を懸けると誓った。それはいつになっても色褪せない。
それでも事あるごとにに訪れる選択には、いつだって、何度でも自分に問い掛けてしまう。それで本当に良いのか、と。良かったのか、と。たらればを挙げ連ねればキリがない。それでも後悔のないように精一杯大切にするよ。俺は君が好きだ。

だから頼む。

「好きだって言ってくれ」