愛し焦がれる(降谷零)

 

 

 

彼はいつだって降谷零だった。それ以外の顔を向けられた事はない。例えば、ポアロで常連客や同僚に向けられるような優しい微笑みや、潜入先の組織で使う取り込まれそうな甘い毒を含んだ瞳は、どんな色をしているのだろうか。私の知る降谷零は、ストイックで真面目で自信家で割と横暴。それから時折、心配になるくらい自責的。尤も、心配なんてさせてくれないのが彼だけれど。もう、いつから顔を見ていないだろう。さみしい、と口にしてしまうのは、とても難しいことだった。独り言すら、口を通って耳に入れば押し留めている感情が全身に巡ってしまいそうで。

ふう、と大きく息を吐き出す。
デスクのある部屋を出て、エントランスへと降りるためにエレベーターのボタンを押した。同僚たちは既に帰ってしまいフロアには誰も残ってはいない。それでも電車に乗れる時間に終わったのだから、今日は上々と言えるだろう。明日は非番だから部屋の掃除でもしよう。果たして早く起きられるだろうか。本当はモーニングしたいけど、いつもより少しだけゆっくり眠るのもいい。目が覚めたら洗濯して掃除機をかけて、それから干したての布団で昼寝が出来たら最高だ。モーニングは諦めてランチで構わない。誰か付き合ってくれる友人は居るだろうか。集まりにいつも顔を出せなくて、グループトークは会話が終わった頃に既読を付けるばかりだ。都合が付けば連絡しろと言われていた気がする。久しぶりに逢いたい。久しく顔を合わせていない何人かが頭に浮かぶ。そして、誰よりも会いたい人の顔を思い出して、だけど打ち消した。忙しさは私の軽く3倍は超えるだろう彼。最後に話したのはいつだっただろう。次に非番が重なるのはいつのことだっただろう。

やがてポン、と音がして、エレベーターの箱がこの階に到着した事を報せてくれた。溜め息を重ねるようなことは何もない。つま先を見つめながら、肩にかけた鞄を持ち直した。扉が開き、顔を上げれば、そこには予想だにしなかった先客が居た。

「……ふるや」

驚いて立ち尽くしていると、同じように目を丸くした彼が、次の瞬間、強引にエレベーターの中へ私を引き込んだ。視界の端に映った行き先階ボタンは、地上ではなく、駐車場のある地下のみが光っている。彼も帰るところだろうか。登庁していただなんて知らなかった。
扉が閉まると同時、押し付けられた胸板に両手を小さく突っ張って彼を見上げれば、その端正な顔が目を細めて笑った。いつでも格好いい、私の恋人。

「遅くまでお疲れさま」
「降谷こそ」
「ああ、今日はポアロの後にこっちに来たから。……いつもみたいに、名前で呼んでくれないのか?」
「ここは家じゃないのよ」
「でも、他に誰もいない」

それでも職場です、と身を捩れば腰を引き寄せられ、より身体が密着する。拘束を解く気はないらしい。回された腕の片方が下に降りて、お尻を撫で回し始めた。誰かに見られたらどうする気だ。

「ちょっと、もう」
「ん?」

彼の手が意識的に際どいところに触れるので、どうしようもなく背筋がぞわぞわとしてしまう。エレベーターはまだ止まらない。

「降谷、離して」
「いやだ」

顔を見れば、アイスグレーに映る自分の顔が分かりやすく動揺していて恥ずかしさが増した。大きく開いた私の瞳には自信ありげな彼が映っているだろう。そう、こういうとき、私が簡単に折れる事を彼は知っている。

「なまえ」
「……零」
「うん」

唇が重なる。舌の侵入を拒む隙はなく、呼吸は奪われてしまう。反射的に引っ込めた舌はあっさりと絡み取られてしまい、身体を離すどころかゼロ距離からマイナスへ。鼻から抜ける声が狭い箱の中に響く。恥ずかしくて、でも触れ合える事が嬉しくて、自制心と恋心が頭の上で闘ってる。散々味わうように口内で遊ばれて、最後に唇へリップ音。そしてようやく解放されたのに、身体を預けたままなのは足元が覚束ない所為だ、と自分に言い訳をする。呼吸を整える私の頭上で、降谷は小さく笑った。

「かわいい」
「何なの」
「久しぶりに愛しい恋人に会えたんだから、少しくらい浮かれたっていいだろ」

言葉がストレートなのは、どの姿でも同じだろうか。降谷は顔を逸らす私を更に笑って、宥めるようにぽすぽすと私の背中を叩いた。
寂しかった、なんて言う暇もないくらい、気持ちを向けられている。

「会えると思ってなかったから、顔を見たら我慢できなくなった」
「わ、たしも……会えて嬉しい」
「うん」

やがて、つい先程聴いたのと同じ音が聴こえてエレベーターが地下への到着を報せてくれた。それじゃ私は地上に戻って駅へ向かいますね……なんて事は、とてもできない。扉が開いた途端に身を離し、箱を出てクルマへと向かう降谷を追って、その背に声をかける。

「……ねえ、まっすぐ帰る?」
「ラーメンか牛丼かファミレスだな」
「ごはん食べてないの?」
「食べてない」

そういう意味で発した言葉ではなかったのだけれど。かく言う私も昼から何も食べておらず、お腹は空いている。帰って何か作る気力などあるはずもない。けれど、こんな時間では開いている店は限られている。降谷の申し出は至極妥当だった。

「軽く食べて、それからなまえのところ」
「……明日の予定は?」
「ポアロでバイト。モーニング、奢るよ」

いつもは無駄に顔を出すな、と怒るくせに珍しい。彼も、会いたいと思ってくれていたのだと、自惚れていいだろうか。
どうやら先ほど企てた明日の予定は変更になるらしい。掃除洗濯は午後に移動。

「早起きしてモーニングなんて、素敵な休日」
「そう思うよ」

降谷は草臥れたネクタイを緩めながら、こちらを振り向いて柔らかく笑った。その顔には疲れが覗いている。私も同じように疲れた顔をしているだろうか。疲れていて、けれど頰の弛みを抑えきれない、彼の前でしか出来ない顔を。