After the Dead end 1(安室透/降谷零)

 

 

 

 オートロックに鍵を翳し自動ドアを潜った。まだ部屋にも入っていないのに胸を撫で下ろす。すれ違う住人に会釈して郵便受けを確認し、面白みのないチラシだけ共有のゴミ箱に突っ込む。エレベーターに乗り込み、目的の階を押す。箱の中は少し落ち着かない。扉が開ききるのを待って共有通路へ。一番奥まで進み辿り着いた先で鍵を回し、中から施錠が完了すれば、ようやく張り詰めた空気を剥がす事が出来る。誰に侵される心配のない、私のテリトリー。

 鞄を下ろしソファへと倒れ込んだ。食欲がないのは暑さの所為か疲れの所為か定かではない。どちらにせよ化粧も落とさず眠気に身を任せるわけにはいかなかった。明日は朝から予定がある。

 憂鬱だ。ひどく、憂鬱を感じた。予定そのものではない。向かう場所が問題だった。

 例えばハンカチを落としてみるとか目の前でふらついてみせるとか思い切って「知り合いに似てるんです」と声を掛けてみるとか、いやそもそもそんなことをしなくとも彼が居るのは喫茶店なのだから用事にかこつけて素知らぬ顔をして入り込めば良いのに、あの通りに出るだけで私は上手く呼吸が出来ない。

 初めて見たときは心臓が止まるかと思った。初めて、と言うのは語弊があるかもしれない。正しくは数年ぶりに、だ。私の願望が見せる白昼夢かもしれない、という可能性は、相手が同じように目を丸くしたことで幾分か薄くなり、階段から降りてきたコナンくんが彼と私を繋げた事で完全に打ち消された。

 尤も、耳に届いた声は知っているより柔らかく、告げられたのは初めて聞く名だったけれど。

 毛利先生のお知り合いですか。初めまして安室透と言います。私立探偵で毛利先生の弟子をしています。この喫茶店でウエイターも。時間があるときにはこちらにもお寄りください。何か困った事があれば僕も力になります。美味しいコーヒーを用意してお待ちしています。

 人好きのする笑顔は私の記憶にはない。それでも確かに彼だった。

 ええ。ぜひ。また今度。

 詮索好きの少年が訝しむ程度には顔が引き攣っていただろう。それでもあの場で取り乱さなかっただけ満点に近い対応だったと思う。誰か私を褒めてくれ、と旧友たちに返答を求めるも頭の中の彼らは誰も昔のように慰めてはくれない。それがひどく哀しかった。この哀しみを誰かと共有したかった。ずっと。苦笑いでも呆れるのでもいい、出来れば一緒に怒ってほしい、それから皆で笑いたい。二度と叶わない。

 溜息を吐いても状況が好転しない事は知っている。それでも溜め込むより吐き出した方が幾分か軽くなるだろうか。大きく深呼吸に代えて身体を伸ばした。

 明日は米花町に用がある。正しくは五丁目の毛利探偵事務所、つまりビルの二階。一階にある喫茶ポアロに用はない。けれど。

…………零」

 呟いて、またひとつ溜息を吐いた。お気に入りのクッションに拳を叩き込む。悠々自適な一人暮らしなのだから咎める者は居ない。 独り言を笑われることもない。

 会って話して、私の知っている貴方ですかと問い詰めてそれで何になる、どうすると言うのか。そうだよと言われても違いますと言われても哀しいことに変わりはないのに。事情があってもなくても知ったことか、と泣き縋るのはあまりにも弱い。かと言って、生きているならそれで良い、と思うだけで済ませられるほど強くもなかった。

 嘘が下手な人だと思っていた。思わされていたのかもしれない。彼はある日を最後に姿を消した。私は納得できなかった。彼が告げた言葉がどこまで真実でどこから虚実だったのか、今となっては分からない。私は、責める資格をもう持たない。

 

 

「ごめんなさい。おじさん、戻るまでもう少しかかるみたいなんだ」

 だからと言って待つ場所がここである必要はあるのだろうか。事務所でもいいし、何なら外で立っていたって構わないのに。

 携帯の通知を確認し申し訳なさそうにするコナンくんを無碍に扱うわけにはいかず、気にする事なんか何一つない風を装って笑顔を返す。

「ううん、大丈夫。後の予定は何もないから」
「そっか。良かった」

 ホッとした様子のコナンくんに不安を抱かせないよう、自分の感情は水と一緒に飲み込んでしまう。空になったグラスをテーブルに戻せば氷と氷がぶつかって音を鳴らした。冷静に考えれば家主の居ない子どもだけの部屋に上がり込むわけには行かず、炎天下の中で待つのも現実的でない。消去法で目の前の喫茶店。不可抗力で、何もおかしい事は無い。

「それよりなまえさん、怪我はもう平気なの?」
「この間も聞かれたね、ソレ。すっかり元気。大丈夫だよ」

 そう、傷は完治した。医師のお墨付きを得るまでもなく傷の治りは順調だったし、カウンセリングだって問題はなかったはずだ。怪我の要因となった犯人たちは勾留中で身の危険もない。事件は解決した。だから予定通りに退院した。

 なのに、病院の外へ一歩出ると嘘みたいに足が竦んで動けなくなった。自分でもわけが分からず呆然とした。心的外傷を負うような事件だったわけじゃない。いつも通りの仕事をした。たまたま傷を負った。別に珍しいことでもない。のに。動けなくなって座り込んで、そうしたら立ち上がれなくなってしまった。そうして、上の許すままいつまでも中途半端にふらふらと猶予期間を過ごしている。怪我で休職などよくあることで、わたしのこれも同じように処理されているのだと思う。

「お待たせしました」

 敢えて背を向けたカウンターから足音が近寄り頭上から声がしてアイスコーヒーが二つ、テーブルに並んだ。それからミルクピッチャー。ミルクを使うのは私だけで、コナンくんはブラックのまま喉を潤すらしい。その様子を眺めていると、続けて頼んだ覚えのないケーキが二つ提供された。

「あれ?」
「あの……ケーキは、頼んでません」

 思わず振り返り、呼び止めざるを得ない。彼は、ああ忘れていました、と朗らかに笑った。その態とらしさに微かな苛立ちを覚える。

「サービスです。正規のメニューじゃなくて試作品なんですけど、良ければ食べてくれませんか」
「ありがとー、安室さん!」

 再びコナンくんへ視線を戻せば、既にフォークを口に運んだところだった。断る理由もなく、諦めて正面を向いて座り直しコーヒーにミルクを入れた。

「あれ、お砂糖がないね。貰おうか」
「ほんとだね。いいよ、甘いものがある時はミルクだけにしてる、から……

 そこまで口にして、お砂糖がないのは忘れられたからじゃない、と気が付いた。

朝はブラックコーヒー、それ以降は飲みすぎてしまって胃が荒れるからミルクを入れる。何となく一緒にお砂糖を入れるけどスイーツがあるなら必要なくてミルクだけ。それは昔からの習慣だった。

 ……ひどいことをする。他人の空似でも記憶喪失でもない事を明確にされてしまった。ならば、何だと言うのだろう。他人のふりをするなら一から百まで通してほしい。他人のふりが出来ないなら、近付くような真似をして揺らさないでほしい。考えたところでブーメラン。それはお前だ、と私が私を非難する。漏れそうな自嘲を誤魔化すように曖昧に笑い、ケーキを口に運ぶ。柔らかな甘さがふわり、と広がって消えた。

 

 

 応接机に幾つかの写真と郵便物を並べる。封筒はどれも開けられているけれど私が開けたわけじゃない。私宛のものではある。写真については紛れも無く私が写っている。けれど私が知るものではない。

 迎えられた事務所にて、机の向こうの毛利さんは険しい表情で机上を見つめ、蘭ちゃんはその後ろで静かに蒼褪めている。ガキはどっか行ってろ、と一度追い出されたはずのコナンくんは気付けば机の端から静かに広げられた物を観察していた。子どもに見せるようなものではない、という程の事はないけれど、これからの話は決して聞かせたい内容ではない。それでも、今は小さくても問題が起こってるなら毛利さんに相談を……、と促してくれたのは他でもないコナンくんだったから、彼には聞く権利があるとも言えた。

「やっぱり、気持ち悪いですよね」
……いつからだ?」

「初めて写真が投函されていたのは二ヶ月前です。何か無くなってるわけじゃないけど、郵便物は全て開封されてます」
「警察には?」
「届けてません。相手も特定出来てませんし、これくらいじゃ動かないのは知っていますから」
「そんな……!」

 ショックを受けた様子の蘭ちゃんに苦笑いで返す。実害のない状況では警察に届けたところでとりあえず周囲のパトロールでも増やしますねと軽くあしらわれる程度が関の山。加えて、万が一にも顔を知る人間に情報が流れるのは嫌だ、とちっぽけなプライドが邪魔をした。まして今の自分が置かれた状況で今度は個人的に被害を受けています……なんて届けたところで信じてもらえるかどうかすら分からない。それでも一人で解決に動くような気概はなくてここに居る。情けない、と思う。

 初めは何を写したのかも分からない雑踏の広域写真だった。ポストに見つけて気味が悪いな、と思いながらもすぐに忘れた。何日か後に、次は駅のホームの俯瞰写真。自分が写っている、とすぐに気が付いた。対処に悩む間にランチをしたカフェ、よく立ち寄っていたコンビニ、帰路に着く後ろ姿、一番新しいものは昨夜投函されていたもので、遂に自宅マンションの入り口になった。とっ捕まえられたらと思うのに、実際に迫る気配は感じた事がない。

「これくらい、一人で何とか出来たらと思うんですけど……
「バカを言っちゃいけねぇ! 君がどういう立場の人間だろうが、悪意に一人で立ち向かわなきゃならねぇなんてことは無いんだ! 俺にも手伝わせてくれ」

 真っ直ぐな言葉に、目を見張る。……この人を慕う人が多い理由が分かる。深々と頭を下げた。

「ありがとう、ございます……。よろしくお願いします」
「行動は早い方が良い。今夜から早速張り込みだ!────って誰だよ、こんな時に!」

 何だ高木かよ、と告げられた、聞き覚えのある名前。思わず身構えてしまう。この忙しい時に何の用だ、と悪態を吐きながら電話に出る毛利さんの通話を盗み聞くに、どうやら急用の呼び出しらしい。

「あぁ!? 今からだと!? バカ野郎、生きてる人間が優先だ! こっちにだって都合があるんだよ! 大体いつも『何でまた居るんですか』とか何とか煙たそうにするくせによ!何なら先にこっちを手伝ってくれりゃぁ……ん?」

 口の前に人差し指を出し、危うく強力な人手を集めてしまいそうな毛利さんを身振り手振りで阻止する。

 私のことは言わないでください、お願いします。

 青いのか赤いのか分からない顔になっているだろう私を見て察してくれたのか、毛利さんは考えるような素振りで「また連絡する」とだけ言って通話を終了した。一先ず安心する。

「大丈夫ですよ、毛利さん。私の話は今度でも」
「とは言ってもなぁ、心配だろ」
「毎日何かあるわけじゃないですから」
「そりゃそうだけどよ」
「お急ぎなんでしょう?」
「なら明日改めることにして、今日はせめて高木にクルマで送らせるか……
「それは出来れば遠慮したいです」
「なら、僕がお送りしましょうか?」

 事務所の入口から、想定していない人物の声。驚きその方向を見遣れば、喫茶ポアロのエプロンを身に着け、トレーを携え、にこりと笑う彼が立っていた。トレーには軽食が乗せられている。差し入れだろうか。そういえば弟子だの何だの言っていた気がする。それにしても何故このタイミングで。どこから聞かれていたのか。警視庁の面々より何より、誰よりも知られたくない相手なのに。

「店はもう良いのか?」
「はい、ちょうど閉めたところです。話は分かりませんがクルマが必要なんですよね?」
「だっ、大丈夫です!!」
「遠慮しねぇで送ってもらっといてくれ。お前さん、頼んだぞ」
「でも」
「そうですよ! 一人で帰るなんて危ないですよ!」
「蘭ちゃんまで……

 心配してくれるのは有り難いが、こればかりは簡単に了承するわけにはいかない。

「護身できるくらいには鍛えてるし、本当に大丈夫」
「そうでもやっぱり、危ないですよ!」
「では、すぐに用意してきますね。少し待っていてください」
「いや、あの、ちょっと……!」
「まぁ送り狼にはならんようにな!」
「もう、お父さん!!」

 毛利さんは豪快に笑うけれど、こちらの顔は引き攣ったままだ。笑えない。まったく、笑えない。

 しかし、断りは受け入れてもらえそうにない。彼はともかく毛利さんや蘭ちゃんを無碍に出来ず、言われるがままクルマへ乗り込まされてしまった。

 

 

 

 

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