After the Dead end 2(安室透/降谷零)

 

 

 

初めに失くしたのが彼だった。

 返事の来ないメールを送る勇気はなくて電話帳の登録を消した。連絡の取れない連絡先なんて、あっても意味はないのだから。随分と昔のことだ。

 それでも送り続けりゃ生きてることは分かるしな、と伊達くんは笑ってたっけ。宛先不明にならず届いたことさえ分かればいい、なんて私はとてもそんな殊勝には考えられなかった。

 思い出が色褪せることはないなんて大嘘だ。ぼろぼろと崩れ落ちていき、今はもう形を成さない。メールも電話も、今は誰にも繋がらない。

 正しいことをしようと思った。大切なものを守るために。そうして警察官になったのに、失くす度に心は徐々に黒く染まり、気付けば憎しみと悲しみで覆われて沈んでしまった。それでもお前なら大丈夫だよ、と励ましてくれる仲間たちはもう居ない。みんな居なくなった。どうして誰もさよならさえ言わせてくれないんだろう。親の死に目にも会えないと言われる職業なのだからそれくらいは当然だと受け入れるべきものだ。仕方ない。仕方ない。分かってる。だけど。理解は出来ても、覚悟が足りていなかった。

 フロントガラスの向こう、遠くからサイレンの音が響いていた。沈潜することをやめて窓の外を見遣る。救急車とそれからパトカー、それも一台だけじゃない。消防車は居ないようだから火事ではないだろう。

……事故でしょうか、事件でしょうか」

 考えていたことを見越してか、隣の運転席からそんな言葉が送られる。あくまで『安室透』を崩さない彼は、私にとって『親しくもない知人』に過ぎない。

「さあ、どうでしょうね」
「やはり気になりますか?」

 何に掛かる『やはり』なのか。事故だろうが事件だろうが私ならば『やはり』気になるだろう、本来なら居てもたっても居られないのではないか、と?  ……過去の私ならそうだったかもしれない。だけど、今は到底、そんな気骨はどこにもない。何も知らないくせに。貴方が居なくなってから、私が何をどれだけ失ったのか、何も知らないくせに。

 紛れも無い苛立ちを自覚する。立場が何であれ、サイレンが聴こえたら誰だって気を取られるものだろう。

「そういうあなたはどうなんですか?」
「僕ですか? そうですね……事故なら僕の出る幕ではないですが巻き込まれた人が心配ですし、事件なら詳細が気になりますね。勿論、探偵として」
「私はどちらだろうが友人や知っている人が巻き込まれていないか、それだけが心配です。薄情ですけど」
「まあ、普通はそうですよね。でも意外でした」
「意外? 私の何を知ってるって言うんですか?」

 噛み付くように投げかけた。だけど答えがほしいわけじゃない。

 二人きりになれば何か違うかもしれない、と縋るように思っていた。そんな気があれば、今日までにとっくに何かしらのアクションがあったはずだ。ない、という事は私に話す事など何もない、という証だ。それでもこうして気に掛けるような真似をするのは嫌がらせか牽制かのどちらかだろう。『余計な事は口にするな』と。全てが、そう言いたいように聞こえる。何の目的があって、彼が偽名で毛利さんに近付いているのか、知った事ではない。言われなくとも、告げ口をするつもりはない。ただ苛立ちが募っていく。

「ここで、降ろしてください」
「毛利先生から聞いている場所からはまだ距離があるように思いますが……
「すぐそこが最寄駅ですから、もう十分です。ここからなら歩けます」
……なら、せめて近くまで後ろを付かせていただきます。貴女に何かあれば、毛利先生に説明できません」
……お好きにどうぞ!」

 クルマが路肩に停車するなり、シートベルトを外して車外へと飛び出した。これ以上、堪えられそうになかった。

 半分は八つ当たりのようなものだった。わざわざ送ってくれている相手に向ける態度じゃない。分かっていても、どうしようもなかった。彼のように割り切って接することは私には出来ない。愛想笑いもポーカーフェイスも、私の方がずっと得意だったはずなのに。

 

 

 家に人を招くとあって、早起きして念入りに掃除と片付けをした。片付けきれない荷物は最終的に寝室のクローゼットへと押し込んだ。そこまで見せるような事態にはならないことを祈りながらピカピカになった床に見惚れていると、やがてチャイムが鳴った。マンションのオートロックを開けて待っていると少しして再び部屋のチャイムが押される。

「おじゃましまーす!」
「あ、コラ!」

 扉を開けるなり部屋の探検を始めたコナンくんが微笑ましい。慌てて制止しようとする蘭ちゃんへ構わない旨を伝えて、飲み物を出す為にテーブルへと促した。

「私まですみません」
「いいえ、来てくれてありがとう」

 調査の為とはいえ、仮にも女の一人暮らしの部屋だ。男だけで押し掛けるのは良くないだろう、という毛利さんの心遣いで蘭ちゃんやコナンくんも連れ立ってくることは事前に了承していた。問題は、話になかった毛利さんの弟子の存在だ。後学の為、と銘打ち、今日も同席している安室透。何故、と思っても対外的には嫌がる理由がなく受け入れる他なかった。

 部屋を調べていたらしい男性陣が戻ってきたところで、彼らにも飲み物を提供する。尤も、一人暮らしの家具なので全員が座れるような椅子はない。客人を立たせたままでは心苦しく、せめて誰かと変わろうとするもそのままを促されてしまった。

「盗聴器の類はなさそうだな」
「今のところは、部屋の中でイヤな感じはしてません」
「最後の写真から今日で何日だ?」
「それが、今朝また新しいものが入っていて……
「何!? 見せてくれ!」

 会話が聞かれていない、と確証が取れたところで、ようやく新しく投函されていた写真をテーブルの上に出す。写真、と言っても、これまでと同じく自宅でプリントアウトしたようなもので、裏面は真っ白だ。古いフィルム写真のように分かりやすい日付が入ってるわけもない。

 そして、裏返したその写真は、ほとんどが黒と言っていいほど真っ暗だった。

「なんじゃ、こりゃ?」
「撮影に失敗した……というわけではなさそうですね」
「よく見ると、うっすら何か影が見えるね」
「あー……よく分からんな、こりゃ」

 まるで揶揄うように、弄ぶようにじわじわと近付いてくる。単なる悪戯目的なのか、危害を加える目的なのか、意図の分からない不気味さを漂わせていた。

「昨日も聞いたが、何か心当たりはないのか?」
「というより、正直ありすぎて……

 申し訳なくも告げると毛利さんは頭を抱えてしまった。心当たりと言われて、ぱっと思い浮かべるのは難しい。こういう場合、恋愛感情や好意を抱いて行動している相手ならば大抵それは別れた恋人であったり同じコミュニティに属す人間であったりと身近な人間である事が多い。そうは思いたくない、と考えるのは誰でもそうかもしれないが、そうでなく冷静に考えたところで周囲に明らかおかしい人間など簡単に思い浮かぶものではない。そもそも休職中の身なのだから人付き合い自体が限られている。但し、それ以外の感情での執着……つまり、逮捕に繋がる動きをした事で買った恨みというなら山程にある。

「刑事の頃に買った恨みから絞るとなると、数が多すぎるな……

 今もまだ警視庁に籍はあるんですよ、とわざわざ言う必要はあるまい。口にしたところで、それも時間の問題だろう、と笑われてしまうかもしれない。

「ただの悪戯ならいいが、なーんか嫌な予感がするんだよな……特にこの最後の写真、これには何かしらの悪意が臭う! 他に気付くことは?」
「ここ数日の二枚以外は、少し古い、です。少なくともここ半年じゃありません」
「そいつはつまり……
「はい」

 写る景色や人の服装から見るに、今とは季節が違う。つまり、最近出会った人間ではない可能性が高い。毛利さんの言うように警視庁時代に買った恨み、もしかしたら相手は前科持ちである可能性が高いということだ。

「ということは、少なくとも犯人は安室君じゃないってことだな!」
「え?」
「ぼ、僕ですか?」
「そーだよ! お前さん、彼女と出会ったのはつい先日だろう。今日だってお前タイミングよく現れてここまで着いてきやがって、怪し過ぎるんだよ!」

 毛利さんは訝しむ目を彼に向けた。一方、彼は疑われて見るからに戸惑っている。

「まさか彼女に一目惚れしたお前の犯行なんじゃ……
「違いますよ! 僕が来てるのはあくまで毛利先生の推理を学ぶ為で……

 毛利さんも本気で口にした言葉ではなかったのか、彼の弁明を聞いて「ならいいけどよ」とあっさり引いた。毛利さん以外の全員が苦笑する。その可能性は考えてなかった。しかし、確かに状況だけで推理すれば怪しいことこの上ない。蘭ちゃんでさえ、いつもなら父親を諫めるだろうところ、今は言葉に迷っているのか目が泳いでいる。不覚にもじわじわと面白くなって笑いを堪えていれば本人と目があってしまった。

……僕じゃありません」
「分かってます」

 咳払いして、笑いを打ち消した。コナンくんから送られる視線が痛い。変なところで聡い少年だから、目の前で下手な行動を取るわけにはいかない。

「だとすりゃ、やっぱり特定するには地道に張り込むしかねーな。長期戦になるかもしれないが、いつも通りに生活してくれ」
「はい。お願いします。といっても、休職中なのでそんなに外出することはないんですが……。写真の投函についても、もともと頻繁じゃないですし」
「だったら、何で一昨日の次は今朝だったんだろうね?」
「またガキが口を挟みやがって!」

 コナンくんの言う通りだ。投函されたのが昨夜か今朝かは分からないけれど、こんな短スパンの動きはこれまでなかった。

「そうね。もしかしたら、毛利探偵事務所へ行った事に気付かれてるのかも。だとすると、こっそり張り込んでも現れないかもしれませんね」
「長期戦どころの話じゃねーな……

 毛利さんは頭を抱えてしまった。こちらとて、いつ決着がつくか分からない依頼をするわけにもいかない。

「では、堂々と張り込むのはいかがでしょうか」

 暫しの沈黙を破ったのは安室透だった。意図が掴めず、続く言葉を待つ。

「堂々……と?」
「僕がなまえさんと一緒に過ごすんです。まるで恋人のように……ね」

 名案でしょう、とでも言いたげに微笑まれてぞっとしない。

 相手がこちらに対し抱いているのが好意でも悪意でも、ターゲットに何かしらの変化が出れば動くだろう、との推察からだろう。それは一つの選択として間違ってはいない。間違ってはいないが、この場合は悪手としか思えなかった。

「なるほど。それで犯人の反応を見る、あわよくば炙り出すってわけか。早期決着に持ち込むならその方がいいかもな」

 そんなご迷惑をかけるわけにはいきません、と口を開くより早く話が進められてしまう。

「幸いにもポアロのバイトは昼間だけですし、毎日でもありません。探偵の仕事も今は落ち着いています……。勿論、これは毛利先生への依頼で僕はただの弟子ですから、なまえさんから僕への報酬の支払いは必要ありません」
「いえ、あの」
「僕にも手助けさせてください……迷惑でなければ。なまえさんが心配なんです」
「他に良いアイデアもねーし、その手でいくかぁ……

 毛利さんがそう言ってしまっては、私にはどうすることも出来ない。他にこの曲面を乗り切る名案を持つ者が、私を含め他に誰にもなかった。

 安室透の言葉を受けてか、顔を赤くする蘭ちゃんに対して私の顔は青くなるばかりだった。またも反論する術を持たず、言われるがままに従うしかない現実に直面し、いっそ泣きたくなる。

「それじゃあ頼むぞ、我が弟子よ!」

 大人になるというのは、果たして諦めを覚えるということだっただろうか。投函されていた写真を預け、安室透とは近々連れ添って外出する予定を組んだ。勿論、毛利さんも遠くないところに待機する手筈だ。あれよあれよと固まるプランを黙って聞きながら、バレないように深い溜め息を吐いた。

 

 

 

 

To be continued……

 

 

After the Dead end 1(安室透/降谷零)

 

 

 

 オートロックに鍵を翳し自動ドアを潜った。まだ部屋にも入っていないのに胸を撫で下ろす。すれ違う住人に会釈して郵便受けを確認し、面白みのないチラシだけ共有のゴミ箱に突っ込む。エレベーターに乗り込み、目的の階を押す。箱の中は少し落ち着かない。扉が開ききるのを待って共有通路へ。一番奥まで進み辿り着いた先で鍵を回し、中から施錠が完了すれば、ようやく張り詰めた空気を剥がす事が出来る。誰に侵される心配のない、私のテリトリー。

 鞄を下ろしソファへと倒れ込んだ。食欲がないのは暑さの所為か疲れの所為か定かではない。どちらにせよ化粧も落とさず眠気に身を任せるわけにはいかなかった。明日は朝から予定がある。

 憂鬱だ。ひどく、憂鬱を感じた。予定そのものではない。向かう場所が問題だった。

 例えばハンカチを落としてみるとか目の前でふらついてみせるとか思い切って「知り合いに似てるんです」と声を掛けてみるとか、いやそもそもそんなことをしなくとも彼が居るのは喫茶店なのだから用事にかこつけて素知らぬ顔をして入り込めば良いのに、あの通りに出るだけで私は上手く呼吸が出来ない。

 初めて見たときは心臓が止まるかと思った。初めて、と言うのは語弊があるかもしれない。正しくは数年ぶりに、だ。私の願望が見せる白昼夢かもしれない、という可能性は、相手が同じように目を丸くしたことで幾分か薄くなり、階段から降りてきたコナンくんが彼と私を繋げた事で完全に打ち消された。

 尤も、耳に届いた声は知っているより柔らかく、告げられたのは初めて聞く名だったけれど。

 毛利先生のお知り合いですか。初めまして安室透と言います。私立探偵で毛利先生の弟子をしています。この喫茶店でウエイターも。時間があるときにはこちらにもお寄りください。何か困った事があれば僕も力になります。美味しいコーヒーを用意してお待ちしています。

 人好きのする笑顔は私の記憶にはない。それでも確かに彼だった。

 ええ。ぜひ。また今度。

 詮索好きの少年が訝しむ程度には顔が引き攣っていただろう。それでもあの場で取り乱さなかっただけ満点に近い対応だったと思う。誰か私を褒めてくれ、と旧友たちに返答を求めるも頭の中の彼らは誰も昔のように慰めてはくれない。それがひどく哀しかった。この哀しみを誰かと共有したかった。ずっと。苦笑いでも呆れるのでもいい、出来れば一緒に怒ってほしい、それから皆で笑いたい。二度と叶わない。

 溜息を吐いても状況が好転しない事は知っている。それでも溜め込むより吐き出した方が幾分か軽くなるだろうか。大きく深呼吸に代えて身体を伸ばした。

 明日は米花町に用がある。正しくは五丁目の毛利探偵事務所、つまりビルの二階。一階にある喫茶ポアロに用はない。けれど。

…………零」

 呟いて、またひとつ溜息を吐いた。お気に入りのクッションに拳を叩き込む。悠々自適な一人暮らしなのだから咎める者は居ない。 独り言を笑われることもない。

 会って話して、私の知っている貴方ですかと問い詰めてそれで何になる、どうすると言うのか。そうだよと言われても違いますと言われても哀しいことに変わりはないのに。事情があってもなくても知ったことか、と泣き縋るのはあまりにも弱い。かと言って、生きているならそれで良い、と思うだけで済ませられるほど強くもなかった。

 嘘が下手な人だと思っていた。思わされていたのかもしれない。彼はある日を最後に姿を消した。私は納得できなかった。彼が告げた言葉がどこまで真実でどこから虚実だったのか、今となっては分からない。私は、責める資格をもう持たない。

 

 

「ごめんなさい。おじさん、戻るまでもう少しかかるみたいなんだ」

 だからと言って待つ場所がここである必要はあるのだろうか。事務所でもいいし、何なら外で立っていたって構わないのに。

 携帯の通知を確認し申し訳なさそうにするコナンくんを無碍に扱うわけにはいかず、気にする事なんか何一つない風を装って笑顔を返す。

「ううん、大丈夫。後の予定は何もないから」
「そっか。良かった」

 ホッとした様子のコナンくんに不安を抱かせないよう、自分の感情は水と一緒に飲み込んでしまう。空になったグラスをテーブルに戻せば氷と氷がぶつかって音を鳴らした。冷静に考えれば家主の居ない子どもだけの部屋に上がり込むわけには行かず、炎天下の中で待つのも現実的でない。消去法で目の前の喫茶店。不可抗力で、何もおかしい事は無い。

「それよりなまえさん、怪我はもう平気なの?」
「この間も聞かれたね、ソレ。すっかり元気。大丈夫だよ」

 そう、傷は完治した。医師のお墨付きを得るまでもなく傷の治りは順調だったし、カウンセリングだって問題はなかったはずだ。怪我の要因となった犯人たちは勾留中で身の危険もない。事件は解決した。だから予定通りに退院した。

 なのに、病院の外へ一歩出ると嘘みたいに足が竦んで動けなくなった。自分でもわけが分からず呆然とした。心的外傷を負うような事件だったわけじゃない。いつも通りの仕事をした。たまたま傷を負った。別に珍しいことでもない。のに。動けなくなって座り込んで、そうしたら立ち上がれなくなってしまった。そうして、上の許すままいつまでも中途半端にふらふらと猶予期間を過ごしている。怪我で休職などよくあることで、わたしのこれも同じように処理されているのだと思う。

「お待たせしました」

 敢えて背を向けたカウンターから足音が近寄り頭上から声がしてアイスコーヒーが二つ、テーブルに並んだ。それからミルクピッチャー。ミルクを使うのは私だけで、コナンくんはブラックのまま喉を潤すらしい。その様子を眺めていると、続けて頼んだ覚えのないケーキが二つ提供された。

「あれ?」
「あの……ケーキは、頼んでません」

 思わず振り返り、呼び止めざるを得ない。彼は、ああ忘れていました、と朗らかに笑った。その態とらしさに微かな苛立ちを覚える。

「サービスです。正規のメニューじゃなくて試作品なんですけど、良ければ食べてくれませんか」
「ありがとー、安室さん!」

 再びコナンくんへ視線を戻せば、既にフォークを口に運んだところだった。断る理由もなく、諦めて正面を向いて座り直しコーヒーにミルクを入れた。

「あれ、お砂糖がないね。貰おうか」
「ほんとだね。いいよ、甘いものがある時はミルクだけにしてる、から……

 そこまで口にして、お砂糖がないのは忘れられたからじゃない、と気が付いた。

朝はブラックコーヒー、それ以降は飲みすぎてしまって胃が荒れるからミルクを入れる。何となく一緒にお砂糖を入れるけどスイーツがあるなら必要なくてミルクだけ。それは昔からの習慣だった。

 ……ひどいことをする。他人の空似でも記憶喪失でもない事を明確にされてしまった。ならば、何だと言うのだろう。他人のふりをするなら一から百まで通してほしい。他人のふりが出来ないなら、近付くような真似をして揺らさないでほしい。考えたところでブーメラン。それはお前だ、と私が私を非難する。漏れそうな自嘲を誤魔化すように曖昧に笑い、ケーキを口に運ぶ。柔らかな甘さがふわり、と広がって消えた。

 

 

 応接机に幾つかの写真と郵便物を並べる。封筒はどれも開けられているけれど私が開けたわけじゃない。私宛のものではある。写真については紛れも無く私が写っている。けれど私が知るものではない。

 迎えられた事務所にて、机の向こうの毛利さんは険しい表情で机上を見つめ、蘭ちゃんはその後ろで静かに蒼褪めている。ガキはどっか行ってろ、と一度追い出されたはずのコナンくんは気付けば机の端から静かに広げられた物を観察していた。子どもに見せるようなものではない、という程の事はないけれど、これからの話は決して聞かせたい内容ではない。それでも、今は小さくても問題が起こってるなら毛利さんに相談を……、と促してくれたのは他でもないコナンくんだったから、彼には聞く権利があるとも言えた。

「やっぱり、気持ち悪いですよね」
……いつからだ?」

「初めて写真が投函されていたのは二ヶ月前です。何か無くなってるわけじゃないけど、郵便物は全て開封されてます」
「警察には?」
「届けてません。相手も特定出来てませんし、これくらいじゃ動かないのは知っていますから」
「そんな……!」

 ショックを受けた様子の蘭ちゃんに苦笑いで返す。実害のない状況では警察に届けたところでとりあえず周囲のパトロールでも増やしますねと軽くあしらわれる程度が関の山。加えて、万が一にも顔を知る人間に情報が流れるのは嫌だ、とちっぽけなプライドが邪魔をした。まして今の自分が置かれた状況で今度は個人的に被害を受けています……なんて届けたところで信じてもらえるかどうかすら分からない。それでも一人で解決に動くような気概はなくてここに居る。情けない、と思う。

 初めは何を写したのかも分からない雑踏の広域写真だった。ポストに見つけて気味が悪いな、と思いながらもすぐに忘れた。何日か後に、次は駅のホームの俯瞰写真。自分が写っている、とすぐに気が付いた。対処に悩む間にランチをしたカフェ、よく立ち寄っていたコンビニ、帰路に着く後ろ姿、一番新しいものは昨夜投函されていたもので、遂に自宅マンションの入り口になった。とっ捕まえられたらと思うのに、実際に迫る気配は感じた事がない。

「これくらい、一人で何とか出来たらと思うんですけど……
「バカを言っちゃいけねぇ! 君がどういう立場の人間だろうが、悪意に一人で立ち向かわなきゃならねぇなんてことは無いんだ! 俺にも手伝わせてくれ」

 真っ直ぐな言葉に、目を見張る。……この人を慕う人が多い理由が分かる。深々と頭を下げた。

「ありがとう、ございます……。よろしくお願いします」
「行動は早い方が良い。今夜から早速張り込みだ!────って誰だよ、こんな時に!」

 何だ高木かよ、と告げられた、聞き覚えのある名前。思わず身構えてしまう。この忙しい時に何の用だ、と悪態を吐きながら電話に出る毛利さんの通話を盗み聞くに、どうやら急用の呼び出しらしい。

「あぁ!? 今からだと!? バカ野郎、生きてる人間が優先だ! こっちにだって都合があるんだよ! 大体いつも『何でまた居るんですか』とか何とか煙たそうにするくせによ!何なら先にこっちを手伝ってくれりゃぁ……ん?」

 口の前に人差し指を出し、危うく強力な人手を集めてしまいそうな毛利さんを身振り手振りで阻止する。

 私のことは言わないでください、お願いします。

 青いのか赤いのか分からない顔になっているだろう私を見て察してくれたのか、毛利さんは考えるような素振りで「また連絡する」とだけ言って通話を終了した。一先ず安心する。

「大丈夫ですよ、毛利さん。私の話は今度でも」
「とは言ってもなぁ、心配だろ」
「毎日何かあるわけじゃないですから」
「そりゃそうだけどよ」
「お急ぎなんでしょう?」
「なら明日改めることにして、今日はせめて高木にクルマで送らせるか……
「それは出来れば遠慮したいです」
「なら、僕がお送りしましょうか?」

 事務所の入口から、想定していない人物の声。驚きその方向を見遣れば、喫茶ポアロのエプロンを身に着け、トレーを携え、にこりと笑う彼が立っていた。トレーには軽食が乗せられている。差し入れだろうか。そういえば弟子だの何だの言っていた気がする。それにしても何故このタイミングで。どこから聞かれていたのか。警視庁の面々より何より、誰よりも知られたくない相手なのに。

「店はもう良いのか?」
「はい、ちょうど閉めたところです。話は分かりませんがクルマが必要なんですよね?」
「だっ、大丈夫です!!」
「遠慮しねぇで送ってもらっといてくれ。お前さん、頼んだぞ」
「でも」
「そうですよ! 一人で帰るなんて危ないですよ!」
「蘭ちゃんまで……

 心配してくれるのは有り難いが、こればかりは簡単に了承するわけにはいかない。

「護身できるくらいには鍛えてるし、本当に大丈夫」
「そうでもやっぱり、危ないですよ!」
「では、すぐに用意してきますね。少し待っていてください」
「いや、あの、ちょっと……!」
「まぁ送り狼にはならんようにな!」
「もう、お父さん!!」

 毛利さんは豪快に笑うけれど、こちらの顔は引き攣ったままだ。笑えない。まったく、笑えない。

 しかし、断りは受け入れてもらえそうにない。彼はともかく毛利さんや蘭ちゃんを無碍に出来ず、言われるがままクルマへ乗り込まされてしまった。

 

 

 

 

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by your side(安室透/降谷零)

by your side

 

「ボク、なまえさんが安室さんの彼女だと思ってた」

突然切り出された話題に、思わずカップを取り落としそうになった。悟られないよう平静を装うが、訝しむ視線が身に刺さる。

「私が? まさか」
「だって、なまえさんが来た日の安室さんって何だかソワソワしてない? それに今も凄くこっち気にしてるよ」
「探偵さんって、ホント観察好きよね」

とある事件で知り合った、小学生らしからぬ聡い少年。侮れない、と瞠目していたのは警視庁の風見さんだっただろうか。毛利小五郎の家に預けられているらしい彼は、娘の蘭ちゃん共々、安室透と面識があるらしい。予想外の繋がりに、初めは不味いかと思ったけれど、ついつい茶飲み友達になってしまった。自分の同僚とどこか似た面のある、秘密の多そうな探り屋だ。

「職場に知人が来てたら、無意識に気になるものなんじゃない?」
「そうかなあ」
「……私たちは、そんなものにはなれないよ」

彼氏とか彼女とか、そんなものは簡単に望めない立場にある。守りたいものの為に、時には互いを切り捨てなければならない。何があってもどちらかが生き残らなければならない、共に死にたいと願ってはいけない相手。いざという時に判断を鈍らせるような存在は、極力作らない方がいい。取捨選択はシンプルであるほどベストだ。

「……なまえさん?」

首を傾げるコナンくんに笑顔だけを返し、二人分の伝票を持って立ち上がる。

「そろそろ行くね。しばらく仕事で海外だから、今日は顔を見られて良かった」
「海外、って」

毛利さんや蘭ちゃんが不在だったのは残念だけれど、仕方ない。そろそろ戻って、残った仕事を片付ける必要がある。やる事はいつだって山積みだ。

「……顔を見たかったの、ボクじゃないんでしょ」
「君はホントに疑り深いなぁ」

じゃあね、と会計へ向かえばちょうど身体の空いたらしい安室透が、それは綺麗な笑顔をくれる。ありがとうございますもうお帰りですか、と丁寧に応えながらも、背後にはどういうことだ 聞いてないぞ、と文句が浮いているように見えた。
ベルが鳴り、新たに入ってきたお客さんと入れ替わる形で外へ出れば、わざわざ見送りに出てきた安室さんに強い力で腕を引かれる。

「痛い、です」
「すみません」

口では謝罪を述べても、その手を離す気はないらしい。振り払おうにも力で敵う相手ではない、が、追って出てきたコナンくんに気を取られてくれたのか、再び鳴った瞬間に意外にもあっさりと逃れることができた。

「さようなら、安室さん」

笑ってそう告げ去っても、追いかけてくる様子はない。当たり前だ、寧ろ引き止められたことがおかしいのだ。安室透は私の彼氏でも何度もない。彼のことを好きですらない。だけど、守りたいと思っている。おこがましいと叱られるだろうか。「安室さん」にではなく、あの人に。

出立まではあっという間だった。向こうでの動き、部下たちに残していく仕事、どれだけ確認してもまだ足りないように感じた。それでも遂に明日だ。ポアロにはあれ以来行っていないし、元より登庁してくる事が稀である降谷と顔を合わすことは滅多にない。会おうと思わなければ会えない相手だった。
ところが家に帰ると、もう当分見ることはないと思っていた彼が、不思議にも我が家のソファに落ち着いていた。片膝に頬杖をついてこちらを睨んでいる。

「……何で居るの、降谷」

当然だが招いた覚えはなければ、ただの同僚に合鍵を渡している筈もない。部屋に入れるのが初めてというわけでもないけれど、いまいち状況が掴めずにいる。

「NYでの捜査が他の奴に変更になったから、荷造りの必要はないと伝えに来たんだ」
「え……?」

ずっと追っているテロ組織の、主となるメンバーが国内に入ろうとしているという情報を入手し、活発化する前に頭を抑える為の渡米予定だった。行けば数年は帰れないかもしれない仕事だが、手前数年間ずっと調査してきた相手だ。覚悟を決めていたのに、他の人間が、代わりに行く?

「一体なにを言ってるの。明日のフライトだって抑えてるのに」
「キャンセルだな。どうしてもNYへ行きたいなら有休を取って行けばいい」

本当は熱海が良いけど、と続ける降谷と話しが噛み合う気がしない。有休なんて都市伝説だ。ツッコミどころが多すぎて眩暈がする。落ち着こう、まずは深呼吸だ、と彼の座るソファへ腰を下ろした。一人暮らしには少し大きい、お気に入りのソファ。長く部屋を空けることになっても、帰る場所を失うわけにはいかない。部屋は契約したまま、最低限のモノを残していくつもりだった。

「……降谷が横暴なのは今に始まったことじゃないけど、最近は度が過ぎる」
「サミットでのことを言ってるなら、怪我人を外すのは当然の判断だ」

自分だって怪我してたでしょう、とは散々言い合ったことだった。それでも私はあのとき、現場から外され、後方支援に回るどころか全てが終わるまで病院に缶詰にされた。生きていて良かった、と何人もがそう言ってくれたけど、それは確かだと思うけど、欲しいのは自分だけの安全じゃない。何も出来ない不甲斐なさに頭を抱えた。

「今の私は足手纏いの怪我人じゃない。そんなに信用できない程、私は頼りない?」
「違う」
「だったら今回は何?」
「俺が嫌なんだ」

座面に置いた手が触れる。降谷の手が、重ねられる。

「行かせたくない」

そうやって、いつも私の心を揺さぶる。確信に迫る言葉は何もくれないくせに。それでも良かった。対等で居られるなら。そんな風に考えて、惚れた腫れたをする暇も余裕もなく、ひた走ってきた。なのに心が揺らぐのは、ひとえに歳の所為だ。いいひと居ないの、紹介しようか、うちの息子はどうだ、なんてどれもこれも馬耳東風。同じようにうんざりした降谷と顔を見合わせて笑っていたけれど、先に耐えられなくなるのは、私が確かに女だからだった。
このまま燻っていても上には行けない。功を焦っている、と笑われても構わない。国外へ出るのは本意ではないけれど、立ち止まって手遅れになるのは御免だ。追っているテロ組織のことも、自分の昇級も、恋愛も何もかも全部。逃げ出すわけじゃない、と言い聞かせた結果の決断だ。

「どうしても、っていうなら俺も行く」
「正気? 降谷の嫌いなUSAだよ」
「行く。それで、すぐに終わらせて、二人で帰ってこよう」

包まれた手から熱が伝わる。縋るように覗き込む瞳には間抜け面をした自分が映っていた。
“降谷零”である彼のこんなに下がった眉を見るのは初めてかもしれない。

「ちょっと、本当にどうしたの?」
「……サミットでの爆発の時、君を失ったらどうしようかと気が気じゃなかった」

また、俺は失うのか、と。
ポツリと小さく呟かれた言葉に、はっとする。背に回った降谷の腕が身体を引き寄せて、鼻先がその肩に埋まった。抱きしめられているのだ、と理解するのに数秒を要した。

「……頼む、もう俺を置いていくな」

置いていくな、なんて言ったっていつも先を行くのは降谷じゃないか。そう返そうと思って、やめた。置いていかれたのは私たち二人だ。
守られるだけのか弱い存在で居たくないと、いつだって意地を張ってきた。だけど、強くても弱くても、明日を失う可能性は誰にて等しくどこにだって潜んでいて、私たちは幾つも自分たち以外の誰かを見送ってきた。いつか失くす事に慣れてしまう日が来るのだろうかと恐れたけれど、きっとそんな日は永遠に来ない。時間が心に空いた穴を少しずつ修復してくれるけれど完全に無くなることはなくて、小さな穴を抱えて生きていくしかなかった。これ以上、増やしたくない。

「降谷」
「嫌だ、行かせない」
「降谷。私、ちゃんと帰ってくるから」

まるで小さな子どものような我侭を言う。言うだけでなく、実現できる手段を持っているという点で非常に質が悪いけれど。あやすように背中を一定のリズムで叩けば、顔を上げた降谷と目が合った。

「だから降谷も、あまり無茶しないでね」

無理をするな、と言っても聞かないだろうから、せめて風見さんが胃を痛めるような破天荒はなるべく慎んでほしい。

「約束しよ?」
「そうだな……。善処する」
「ん?」
「お互いに無茶は控えよう。それと、NYには行かせない」
「だからぁ」

今更、無理言わないでよ。続けようとした言葉は、鳴り響くコール音によって遮られてしまった。私の携帯ではないから、降谷のだ。音の発生源をポケットから取り出し画面を確かめると、数秒前の情けない表情なんてまるで無かったことみたいに真剣な顔つきで通話を開始した。

「風見か? ……ああ。…………そうか。分かった」
「大丈夫?」
「ああ。誰もNYに行かなくて良くなった」
「は!?」

鏡にうつせば、さぞ間抜けな顔をした自分がそこに居ることだろう。先程とは一転して見慣れた得意げな表情に変わった降谷が、一体何を言っているのか理解出来そうもなかった。

「こっちで追っていた武器商団体の取引先が、例のテロ組織だったんだ。無事に現場を抑えたらしい。取り調べで目ぼしいところは殆ど抑えられそうだ、と報告の電話だ。海外に散っている全てというわけにはいかないけど、少なくとも日本ではもう好き勝手は出来ないだろうな」
「嘘でしょ……」

あまりに予想外の展開に、もう一度 冗談でしょ?と問いかけるも虚しく、冗談は言わない飛行機はキャンセルだ、と淡々と返される。どうやら本気らしい。とはいえ、又聞きを鵜呑みにするわけにもいかないので、こちらもすぐにチームへ連絡を入れようと携帯を取り出せば、既に幾つかの着信履歴が残っていた。サイレントにしていて気付かなかった。慌てて折り返せば、先程聞いたより仔細に顛末が語られ、終いには移動予定だった明日は午後からの登庁で構わない、と言う。事態が急転したから、やる事は山積みだけれど合同で動く分、人手が足りている。たまには休んでください、と気を遣われてしまった。大きな溜息を吐いてソファに突っぷす。結果は嬉しくても、悔しいやらムカつくやらで震えてしまい顔を上げられない。

「良かったな、今夜はゆっくり眠れそうで」
「馬鹿にしてる……」
「してないよ」

ぽん、と頭に手が乗せられた。さっきまで慰めていたのは私の筈だったのに。

「多少、強引に動いた自覚はある。でも、良かった」
「……NYに行くつもりなんて無かったんじゃない」
「そうでもないよ。最終手段だけど」

飄々と宣う降谷の言葉を聞いて、溜息とも深呼吸ともつかぬ大きな息を吐きながら、ゆっくりと上体を起こした。驚きと悔しさで滲んだ涙を降谷の指が拭う。

「傍に居て欲しい。嫌だって言っても離すつもりないけど」
「今回は私の完敗ね……」

見上げれば、また打って変わって余裕の無い顔。見られたくはなかったのか、再びその胸に包まれる。観念して、こちらも背中に腕を回した。
全く、敵わない。いつだってそうだった。涼しい顔を見せていても水面下では何をしているか分からない。ずるい男。けれど、その仮面の下の努力をほんの少しだけ知っている。長い付き合いだから。
秒針を意識するくらい長い抱擁を終えて、口を開いたのは降谷だった。

「そろそろ帰るよ。明日、午後からの出勤ならポアロでモーニングはどうだろう」
「勿論、奢りよね?」

仕方ないな、との答えに小さくガッツポーズした。立ち上がった彼を見送るために玄関へ向かう。コートを羽織る彼を見つめながら、靴べらを渡すために右手へスタンバイする。

「それにしても、降谷も少しは同期離れしてもらわないと。今回は結果オーライだけど、いつもそうとは限らないんだし」
「ん?」
「次は降谷がブラジルに飛ぶかもしれない。目の届くところに居なくたって、ちゃんと生きて帰るから、友人なら少しは信頼してほしいよ」
「……ただの同期にここまですると本気で思ってるのか?」
「ん?」
「…………」

二拍も三拍も置いて、降谷が大袈裟な溜息を吐いた。何なんだ。

「いいさ。想定内だ。元から長期戦で動いてる」
「何、今度は何の話し!?」
「明日の朝、絶対に寝坊するな、って話しだよ」
「降谷、会話を自己完結するくせ直した方がいいよ」

ああそうだ、降谷と話が噛み合わないのは割といつもの事だった。こういう時は尋ねても求める答えは得られない。何を考えているのか聞き出すのは諦めよう。
靴を履き終えた彼から差し出された靴べらを受け取るために手を伸ばせば、それを持った方とは反対の手に触れられて、そのまま手のひらにリップ音が乗せられた。

「へ」
「おやすみ。また明日」

靴べらは降谷によってフックに戻される。固まっているうちに玄関は開き、降谷が背を向ける。夜だからか勢いを殺してゆっくりと閉まり行く扉の向こう、悪い笑顔が浮かんで、消えた。
ハグはまだ良い。友人だってそれくらいする。だけど最後のは、何、だろう。そろそろ開いた口が塞がらなくなって、顎が外れてしまうんじゃないだろうか。

思いっきりストロングなコーヒーを注文した。そうでもないと目が覚めそうにない。ひと口目が喉を通ったところで鳴らされたポアロのベルは、毛利父娘とコナンくんが発したものだった。おはようございます、と挨拶をすれば、こっちで食べてもいいか、とコナンくんが駆け寄ってきた。

「なまえさん、海外に行ったんじゃなかったの?」
「大人には色々あるの……」
「へー」

ハムサンドを待つ間に、一杯目のコーヒーを飲み干してしまいそうだ。

「やぁ、コナンくん。おはよう。いらっしゃい」
「おはよう、安室さん。何だか安室さん、今日はすごく機嫌が良いね」
「分かるかい?」

私からそれ以上は聞き出せないと判断して、即座にターゲットを切り替えたらしい。相変わらず好奇心旺盛な少年だ。

「ねえ安室さん、お姉さんの海外行きがどうして無くなったか知ってる?」
「さぁ……僕の気持ちが通じたのかな」
「常連が減ったら困りますもんね!」

ヤメロ。少年とはまた違う好奇心を覗かせた女子高生が、きらきらとした瞳でこちらを見つめるので、軽率な発言はお控えください。そんな気持ちを込めて、安室さんへと視線を送る。

「延期になったのかな?」
「そうね。また行くことになるかもしれない」
「それは困りましたね」
「ボクも嫌だな〜。何とかならないの?」
「こればっかりは、私には何とも」
「そうですか……。なら、居なくならないように、ちゃんと掴まえておかないと」

そう言って、肩に手を置かれると同時、頭に唇が落とされた。顔を真っ赤にした蘭ちゃんと目が合って、気まずいことこの上ない。顔に昇る熱を自覚して、原因を睨むことも出来ない。負け続きは御免だというのに、敵わない。心臓が幾つあっても足りそうもなかった。

 

 

ノンシュガー(安室透)

 

 

ミルクも砂糖も要らない。濃く苦みのある味が好きだ、と言っていたのは初めて会った時だっただろうか。提供してから少しの間立ち上る湯気を眺めている事から猫舌なのだろう、と予測を付け、今は彼女専用に通常より低めの温度で抽出している。苦味を作るには高温が適しているのは確かだけれどすぐに口にしてもらえないのでは意味がないので深煎りの豆に85度程度の湯を乗せる。しっかりと蒸らされ膨らむ豆が薫れば、自然と口角が上がる。

「お待たせしました」
「ありがとうございます」

本を閉じてにこやかに笑う彼女にこちらも自然と笑みが零れる。一口目が口に運ばれると同時に出入口のベルが鳴り、駆け込んできた少年が慌ただしくランドセルを下ろし彼女の横に座った。

「コナンくん、こんにちは」
「こんにちは! ねえ、新刊は読んだ!?」
「ええ、約束通り第三章までだけ」

犯人は誰だと思う、トリックはどうだ、と話に花を咲かせている。客の少ない穏やかな午後。自分が働き始める前からポアロの常連であるらしい彼女はいつも本を携えていて、それが推理小説であるときは決まって二階からシャーロキアンが訪れる。楽しそうに弾む声が心地よくて自然と笑みが零れた。

「安室さんならどうしますか?」
「え?僕ですか?」

話を振られて狼狽する。聞いていなかったわけではないが、同じ本を読んでいるわけではない自分に意見を求められる事は予想していなかった。物語の犯人は恐らくあの人だろう、と2人の意見は一致しているのに、動機がいまいちはっきりしないらしい。けれど、頭を抱えるコナンに反し、彼女の表情は朗らかだ。

「私は、”好きだから”意思を持って去られる前に自分から失くしてしまおう、なんて考えて犯行に至ったんだと思うけど」
「わっかんねーよ、そんな自分勝手じゃ筋が通らねー……通らないと思うなぁ!ねえ安室さん!」
「人の感情は自分勝手なものだからね。自分のものにならないなら壊したい、と考えても不思議はないかな」

コナンくんには少し難しいかな、と告げれば分かりやすく不貞腐れている。時に大人顔負けの閃きを見せる彼だけれど恋愛の機微には年相応に疎いらしい。どうやら物語の中で犯人と思われる男性は相手の女性を心から愛していると言葉にはすれどその素振りを誰も見たことがなく、女性が亡くなってからもそれは変わらないらしい。
それがおかしい、と少年は言う。分かりやすく実はサイコパスでした、なんて結論付けでは推理が面白くないのも頷けるが、狂気は自分たちが思うよりもずっと身近にある。

「誰かの気持ちを全て理解するのは難しいよ。トリックはどうなの? 彼はどうやって現場を後にしたのか」
「ああ、それは多分────」

話題が犯人の動機から使われたトリックに移り、初めに投げかけられた質問は搔き消えた。
どきり、とした。推理に対してどう思いますか、ではなくどうしますか、と彼女は言ったのだ。愛しい人の心が自分に向くことがなかったら自分ならどうするか、と。一般論として答えたのはただ自分自身の本心だった。見守るだけで構わない、とケリを付けたはずの想いの向こう、いっそ壊してしまいたいと考える浅ましい自分もいる。触れずに遠くから見守りたいと思うのに、時折こうして揺らぎが大きくなる。彼女が関わるとうまくいかない、その理由をなるべく考えないようにしている。

「コナンくん。携帯、鳴ってない?」
「げっ、やべ……」
「ランドセルも置かずに駆け込んできたもんね。蘭ちゃんに此処にいること言ってないの?」
「う、うん。ボクちょっと上 行ってくる」

すぐ戻るから!と行って荷物を引っ掴み、訪れたときと同じように慌ただしく扉を開けて走り去っていった。残された店内に揺れるベルの音が響く。気付けば日暮れも近い。

「……コーヒー、もう一杯いかがですか?」
「そうですね、頂こうかな」

カップを温め、蒸気が立ち昇る頃に視線を感じていた客席へ顔を向ければ他の誰でもない彼女と目が合い、しかし一瞬で逸らされてしまった。気付かないふりをすれば良いのに、出来なかった。もう一度こちらを見てほしくて口を開く。

「僕の顔、何か付いてますか」
「いいえ……あの、安室さんならどうしますか。好きな人の気持ちが、自分に向いていなかったら」
「僕ですか?」

突然と思われる恋愛相談は、推理小説の考察の続き、というわけではないだろう。真剣な瞳で尋ねる彼女から視線を外し、手元の抽出を確認する。

「僕は臆病なので、好きな人が幸せならそれが幸せです」
「……模範解答ですけど、それは臆病じゃなくて強さですよ」
「そう言っていただけて何よりです。貴女なら?どう動くんですか、恋が叶わないなら」

会話の流れで、そう尋ねる事に何ら不自然はないだろう。ちゃんと、興味本意に聞こえただろうか。

「……私は、もっと近いところに行きたいです。相手を知る事は叶わなくても、自分を知ってほしい。結論を出すのはそれからでも遅くない、と思ってます」

もう一度重なった視線を、今度はどちらも逸らさなかった。給仕の為にカウンターから出て客席へ進む。席へ届ければいつもと変わらぬ謝礼が返された。

「……知ってもらう事は、怖くはないですか」
「怖いです。でも、始まってもいないのに終わらせたくない」

手を伸ばせばすぐに触れられる距離に彼女が居る。触れて温もりを感じたとしても、きっといつか失ってしまう。いつもそうだ。綺麗な貝殻を拾って走っても手のひらを開いたときにはもうそこにない。全てが零れ落ちていく。そんな手では誰かを抱き締める事も出来ない。守るものがあれば強くなる事は知っていても、その中に自分自身は含まれない。命を賭ける場面で躊躇する理由は少しでも潰しておかなければならない。

「安室さん、また怪我してるでしょう」

まさか、気付かれるとは思わなかった。顔に傷を作ればいつものように転んだんです、と笑えばいいだけだけれど引き摺る程でもない軽度の足の痛み。笑顔を作って店に立つなど造作もない。

「どうして分かったのか、って顔ですね」
「はい。良ければ今後の参考に教えてもらえますか」
「ダメですよ。秘密です。それ以上隠すのが上手になったら困ります」
「秘密、ですか」

そうです、と悪戯っぽく笑う。本当は秘密のんて好きじゃない。彼女の全てを知りたいと思うし、知らない姿がある事は我慢ならない。釦を外して袖を抜いて、その全てを暴いてしまいたい。裸足になって触れ合いたい。

「自分の事は話せないのに貴女の事を知りたいと思うのは、卑怯でしょうか」
「いいえ。そうしたい、と言ったのは私ですから」
「……すみません」

強いひとだな、と落とした視線の先、彼女の指先が震えている事に気が付く。瞳を覗き込めば少しだけ潤んでいるように見えるのは希望的観測だろうか。そんな風に勇気を出して歩み寄ってくれた彼女を突き放さなければならないのが今の自分の立場だ。けれど愛しいと想う人から好意を寄せられて、どうしていつまでも気のない振りを出来るだろうか。もう何度となく考えてきた事だ。間に引いてきた一線を彼女はいとも簡単に越えてきてしまう。好いひと居ないんですか、なら僕が立候補しようかな。なんて軽口、他の人には幾らでも言えるのに彼女にはそれが出来ない。

「……安室さんは、いつも謝ってばかりですね」
「すみません」
「少しでも罪悪感を抱いてもらえるなら、私はそれを利用するだけです」

見上げる瞳が熱っぽく揺らぎ、こちらを捉えて離さない。

「まいったな……僕の負けだ」

貴女に触れたい。
すみません、と態とらしく同じ謝罪を重ねて、机に置かれた彼女の手に触れる。肩が分かりやすく跳ねた。すっかり冷めてしまった珈琲から湯気はもう立ち上がらない。このまま提供する事は店員としての矜持に関わる。淹れ直そうか、けれど今はそんな時間すら惜しい。指の背をそっとなぞる。空いた手で肩を引き寄せれば次は赤く染まった頰に触れたくなって、いとも簡単に崩れていく箍に自嘲する。早く誰かに職務中ですよ、と叱ってほしい。勿論、喫茶店アルバイトとしての、だ。直に小さな足音が階段を駆け下りてきて空気を壊してくれるはず、そうすればもう一度ポットを火にかけ、彼女の為にコーヒーを淹れ直す事が出来るだろう。それまで、ほんの少しの時間、我儘に触れる事を許してほしい。