ノンシュガー(安室透)

 

 

ミルクも砂糖も要らない。濃く苦みのある味が好きだ、と言っていたのは初めて会った時だっただろうか。提供してから少しの間立ち上る湯気を眺めている事から猫舌なのだろう、と予測を付け、今は彼女専用に通常より低めの温度で抽出している。苦味を作るには高温が適しているのは確かだけれどすぐに口にしてもらえないのでは意味がないので深煎りの豆に85度程度の湯を乗せる。しっかりと蒸らされ膨らむ豆が薫れば、自然と口角が上がる。

「お待たせしました」
「ありがとうございます」

本を閉じてにこやかに笑う彼女にこちらも自然と笑みが零れる。一口目が口に運ばれると同時に出入口のベルが鳴り、駆け込んできた少年が慌ただしくランドセルを下ろし彼女の横に座った。

「コナンくん、こんにちは」
「こんにちは! ねえ、新刊は読んだ!?」
「ええ、約束通り第三章までだけ」

犯人は誰だと思う、トリックはどうだ、と話に花を咲かせている。客の少ない穏やかな午後。自分が働き始める前からポアロの常連であるらしい彼女はいつも本を携えていて、それが推理小説であるときは決まって二階からシャーロキアンが訪れる。楽しそうに弾む声が心地よくて自然と笑みが零れた。

「安室さんならどうしますか?」
「え?僕ですか?」

話を振られて狼狽する。聞いていなかったわけではないが、同じ本を読んでいるわけではない自分に意見を求められる事は予想していなかった。物語の犯人は恐らくあの人だろう、と2人の意見は一致しているのに、動機がいまいちはっきりしないらしい。けれど、頭を抱えるコナンに反し、彼女の表情は朗らかだ。

「私は、”好きだから”意思を持って去られる前に自分から失くしてしまおう、なんて考えて犯行に至ったんだと思うけど」
「わっかんねーよ、そんな自分勝手じゃ筋が通らねー……通らないと思うなぁ!ねえ安室さん!」
「人の感情は自分勝手なものだからね。自分のものにならないなら壊したい、と考えても不思議はないかな」

コナンくんには少し難しいかな、と告げれば分かりやすく不貞腐れている。時に大人顔負けの閃きを見せる彼だけれど恋愛の機微には年相応に疎いらしい。どうやら物語の中で犯人と思われる男性は相手の女性を心から愛していると言葉にはすれどその素振りを誰も見たことがなく、女性が亡くなってからもそれは変わらないらしい。
それがおかしい、と少年は言う。分かりやすく実はサイコパスでした、なんて結論付けでは推理が面白くないのも頷けるが、狂気は自分たちが思うよりもずっと身近にある。

「誰かの気持ちを全て理解するのは難しいよ。トリックはどうなの? 彼はどうやって現場を後にしたのか」
「ああ、それは多分────」

話題が犯人の動機から使われたトリックに移り、初めに投げかけられた質問は搔き消えた。
どきり、とした。推理に対してどう思いますか、ではなくどうしますか、と彼女は言ったのだ。愛しい人の心が自分に向くことがなかったら自分ならどうするか、と。一般論として答えたのはただ自分自身の本心だった。見守るだけで構わない、とケリを付けたはずの想いの向こう、いっそ壊してしまいたいと考える浅ましい自分もいる。触れずに遠くから見守りたいと思うのに、時折こうして揺らぎが大きくなる。彼女が関わるとうまくいかない、その理由をなるべく考えないようにしている。

「コナンくん。携帯、鳴ってない?」
「げっ、やべ……」
「ランドセルも置かずに駆け込んできたもんね。蘭ちゃんに此処にいること言ってないの?」
「う、うん。ボクちょっと上 行ってくる」

すぐ戻るから!と行って荷物を引っ掴み、訪れたときと同じように慌ただしく扉を開けて走り去っていった。残された店内に揺れるベルの音が響く。気付けば日暮れも近い。

「……コーヒー、もう一杯いかがですか?」
「そうですね、頂こうかな」

カップを温め、蒸気が立ち昇る頃に視線を感じていた客席へ顔を向ければ他の誰でもない彼女と目が合い、しかし一瞬で逸らされてしまった。気付かないふりをすれば良いのに、出来なかった。もう一度こちらを見てほしくて口を開く。

「僕の顔、何か付いてますか」
「いいえ……あの、安室さんならどうしますか。好きな人の気持ちが、自分に向いていなかったら」
「僕ですか?」

突然と思われる恋愛相談は、推理小説の考察の続き、というわけではないだろう。真剣な瞳で尋ねる彼女から視線を外し、手元の抽出を確認する。

「僕は臆病なので、好きな人が幸せならそれが幸せです」
「……模範解答ですけど、それは臆病じゃなくて強さですよ」
「そう言っていただけて何よりです。貴女なら?どう動くんですか、恋が叶わないなら」

会話の流れで、そう尋ねる事に何ら不自然はないだろう。ちゃんと、興味本意に聞こえただろうか。

「……私は、もっと近いところに行きたいです。相手を知る事は叶わなくても、自分を知ってほしい。結論を出すのはそれからでも遅くない、と思ってます」

もう一度重なった視線を、今度はどちらも逸らさなかった。給仕の為にカウンターから出て客席へ進む。席へ届ければいつもと変わらぬ謝礼が返された。

「……知ってもらう事は、怖くはないですか」
「怖いです。でも、始まってもいないのに終わらせたくない」

手を伸ばせばすぐに触れられる距離に彼女が居る。触れて温もりを感じたとしても、きっといつか失ってしまう。いつもそうだ。綺麗な貝殻を拾って走っても手のひらを開いたときにはもうそこにない。全てが零れ落ちていく。そんな手では誰かを抱き締める事も出来ない。守るものがあれば強くなる事は知っていても、その中に自分自身は含まれない。命を賭ける場面で躊躇する理由は少しでも潰しておかなければならない。

「安室さん、また怪我してるでしょう」

まさか、気付かれるとは思わなかった。顔に傷を作ればいつものように転んだんです、と笑えばいいだけだけれど引き摺る程でもない軽度の足の痛み。笑顔を作って店に立つなど造作もない。

「どうして分かったのか、って顔ですね」
「はい。良ければ今後の参考に教えてもらえますか」
「ダメですよ。秘密です。それ以上隠すのが上手になったら困ります」
「秘密、ですか」

そうです、と悪戯っぽく笑う。本当は秘密のんて好きじゃない。彼女の全てを知りたいと思うし、知らない姿がある事は我慢ならない。釦を外して袖を抜いて、その全てを暴いてしまいたい。裸足になって触れ合いたい。

「自分の事は話せないのに貴女の事を知りたいと思うのは、卑怯でしょうか」
「いいえ。そうしたい、と言ったのは私ですから」
「……すみません」

強いひとだな、と落とした視線の先、彼女の指先が震えている事に気が付く。瞳を覗き込めば少しだけ潤んでいるように見えるのは希望的観測だろうか。そんな風に勇気を出して歩み寄ってくれた彼女を突き放さなければならないのが今の自分の立場だ。けれど愛しいと想う人から好意を寄せられて、どうしていつまでも気のない振りを出来るだろうか。もう何度となく考えてきた事だ。間に引いてきた一線を彼女はいとも簡単に越えてきてしまう。好いひと居ないんですか、なら僕が立候補しようかな。なんて軽口、他の人には幾らでも言えるのに彼女にはそれが出来ない。

「……安室さんは、いつも謝ってばかりですね」
「すみません」
「少しでも罪悪感を抱いてもらえるなら、私はそれを利用するだけです」

見上げる瞳が熱っぽく揺らぎ、こちらを捉えて離さない。

「まいったな……僕の負けだ」

貴女に触れたい。
すみません、と態とらしく同じ謝罪を重ねて、机に置かれた彼女の手に触れる。肩が分かりやすく跳ねた。すっかり冷めてしまった珈琲から湯気はもう立ち上がらない。このまま提供する事は店員としての矜持に関わる。淹れ直そうか、けれど今はそんな時間すら惜しい。指の背をそっとなぞる。空いた手で肩を引き寄せれば次は赤く染まった頰に触れたくなって、いとも簡単に崩れていく箍に自嘲する。早く誰かに職務中ですよ、と叱ってほしい。勿論、喫茶店アルバイトとしての、だ。直に小さな足音が階段を駆け下りてきて空気を壊してくれるはず、そうすればもう一度ポットを火にかけ、彼女の為にコーヒーを淹れ直す事が出来るだろう。それまで、ほんの少しの時間、我儘に触れる事を許してほしい。