by your side(安室透/降谷零)

by your side

 

「ボク、なまえさんが安室さんの彼女だと思ってた」

突然切り出された話題に、思わずカップを取り落としそうになった。悟られないよう平静を装うが、訝しむ視線が身に刺さる。

「私が? まさか」
「だって、なまえさんが来た日の安室さんって何だかソワソワしてない? それに今も凄くこっち気にしてるよ」
「探偵さんって、ホント観察好きよね」

とある事件で知り合った、小学生らしからぬ聡い少年。侮れない、と瞠目していたのは警視庁の風見さんだっただろうか。毛利小五郎の家に預けられているらしい彼は、娘の蘭ちゃん共々、安室透と面識があるらしい。予想外の繋がりに、初めは不味いかと思ったけれど、ついつい茶飲み友達になってしまった。自分の同僚とどこか似た面のある、秘密の多そうな探り屋だ。

「職場に知人が来てたら、無意識に気になるものなんじゃない?」
「そうかなあ」
「……私たちは、そんなものにはなれないよ」

彼氏とか彼女とか、そんなものは簡単に望めない立場にある。守りたいものの為に、時には互いを切り捨てなければならない。何があってもどちらかが生き残らなければならない、共に死にたいと願ってはいけない相手。いざという時に判断を鈍らせるような存在は、極力作らない方がいい。取捨選択はシンプルであるほどベストだ。

「……なまえさん?」

首を傾げるコナンくんに笑顔だけを返し、二人分の伝票を持って立ち上がる。

「そろそろ行くね。しばらく仕事で海外だから、今日は顔を見られて良かった」
「海外、って」

毛利さんや蘭ちゃんが不在だったのは残念だけれど、仕方ない。そろそろ戻って、残った仕事を片付ける必要がある。やる事はいつだって山積みだ。

「……顔を見たかったの、ボクじゃないんでしょ」
「君はホントに疑り深いなぁ」

じゃあね、と会計へ向かえばちょうど身体の空いたらしい安室透が、それは綺麗な笑顔をくれる。ありがとうございますもうお帰りですか、と丁寧に応えながらも、背後にはどういうことだ 聞いてないぞ、と文句が浮いているように見えた。
ベルが鳴り、新たに入ってきたお客さんと入れ替わる形で外へ出れば、わざわざ見送りに出てきた安室さんに強い力で腕を引かれる。

「痛い、です」
「すみません」

口では謝罪を述べても、その手を離す気はないらしい。振り払おうにも力で敵う相手ではない、が、追って出てきたコナンくんに気を取られてくれたのか、再び鳴った瞬間に意外にもあっさりと逃れることができた。

「さようなら、安室さん」

笑ってそう告げ去っても、追いかけてくる様子はない。当たり前だ、寧ろ引き止められたことがおかしいのだ。安室透は私の彼氏でも何度もない。彼のことを好きですらない。だけど、守りたいと思っている。おこがましいと叱られるだろうか。「安室さん」にではなく、あの人に。

出立まではあっという間だった。向こうでの動き、部下たちに残していく仕事、どれだけ確認してもまだ足りないように感じた。それでも遂に明日だ。ポアロにはあれ以来行っていないし、元より登庁してくる事が稀である降谷と顔を合わすことは滅多にない。会おうと思わなければ会えない相手だった。
ところが家に帰ると、もう当分見ることはないと思っていた彼が、不思議にも我が家のソファに落ち着いていた。片膝に頬杖をついてこちらを睨んでいる。

「……何で居るの、降谷」

当然だが招いた覚えはなければ、ただの同僚に合鍵を渡している筈もない。部屋に入れるのが初めてというわけでもないけれど、いまいち状況が掴めずにいる。

「NYでの捜査が他の奴に変更になったから、荷造りの必要はないと伝えに来たんだ」
「え……?」

ずっと追っているテロ組織の、主となるメンバーが国内に入ろうとしているという情報を入手し、活発化する前に頭を抑える為の渡米予定だった。行けば数年は帰れないかもしれない仕事だが、手前数年間ずっと調査してきた相手だ。覚悟を決めていたのに、他の人間が、代わりに行く?

「一体なにを言ってるの。明日のフライトだって抑えてるのに」
「キャンセルだな。どうしてもNYへ行きたいなら有休を取って行けばいい」

本当は熱海が良いけど、と続ける降谷と話しが噛み合う気がしない。有休なんて都市伝説だ。ツッコミどころが多すぎて眩暈がする。落ち着こう、まずは深呼吸だ、と彼の座るソファへ腰を下ろした。一人暮らしには少し大きい、お気に入りのソファ。長く部屋を空けることになっても、帰る場所を失うわけにはいかない。部屋は契約したまま、最低限のモノを残していくつもりだった。

「……降谷が横暴なのは今に始まったことじゃないけど、最近は度が過ぎる」
「サミットでのことを言ってるなら、怪我人を外すのは当然の判断だ」

自分だって怪我してたでしょう、とは散々言い合ったことだった。それでも私はあのとき、現場から外され、後方支援に回るどころか全てが終わるまで病院に缶詰にされた。生きていて良かった、と何人もがそう言ってくれたけど、それは確かだと思うけど、欲しいのは自分だけの安全じゃない。何も出来ない不甲斐なさに頭を抱えた。

「今の私は足手纏いの怪我人じゃない。そんなに信用できない程、私は頼りない?」
「違う」
「だったら今回は何?」
「俺が嫌なんだ」

座面に置いた手が触れる。降谷の手が、重ねられる。

「行かせたくない」

そうやって、いつも私の心を揺さぶる。確信に迫る言葉は何もくれないくせに。それでも良かった。対等で居られるなら。そんな風に考えて、惚れた腫れたをする暇も余裕もなく、ひた走ってきた。なのに心が揺らぐのは、ひとえに歳の所為だ。いいひと居ないの、紹介しようか、うちの息子はどうだ、なんてどれもこれも馬耳東風。同じようにうんざりした降谷と顔を見合わせて笑っていたけれど、先に耐えられなくなるのは、私が確かに女だからだった。
このまま燻っていても上には行けない。功を焦っている、と笑われても構わない。国外へ出るのは本意ではないけれど、立ち止まって手遅れになるのは御免だ。追っているテロ組織のことも、自分の昇級も、恋愛も何もかも全部。逃げ出すわけじゃない、と言い聞かせた結果の決断だ。

「どうしても、っていうなら俺も行く」
「正気? 降谷の嫌いなUSAだよ」
「行く。それで、すぐに終わらせて、二人で帰ってこよう」

包まれた手から熱が伝わる。縋るように覗き込む瞳には間抜け面をした自分が映っていた。
“降谷零”である彼のこんなに下がった眉を見るのは初めてかもしれない。

「ちょっと、本当にどうしたの?」
「……サミットでの爆発の時、君を失ったらどうしようかと気が気じゃなかった」

また、俺は失うのか、と。
ポツリと小さく呟かれた言葉に、はっとする。背に回った降谷の腕が身体を引き寄せて、鼻先がその肩に埋まった。抱きしめられているのだ、と理解するのに数秒を要した。

「……頼む、もう俺を置いていくな」

置いていくな、なんて言ったっていつも先を行くのは降谷じゃないか。そう返そうと思って、やめた。置いていかれたのは私たち二人だ。
守られるだけのか弱い存在で居たくないと、いつだって意地を張ってきた。だけど、強くても弱くても、明日を失う可能性は誰にて等しくどこにだって潜んでいて、私たちは幾つも自分たち以外の誰かを見送ってきた。いつか失くす事に慣れてしまう日が来るのだろうかと恐れたけれど、きっとそんな日は永遠に来ない。時間が心に空いた穴を少しずつ修復してくれるけれど完全に無くなることはなくて、小さな穴を抱えて生きていくしかなかった。これ以上、増やしたくない。

「降谷」
「嫌だ、行かせない」
「降谷。私、ちゃんと帰ってくるから」

まるで小さな子どものような我侭を言う。言うだけでなく、実現できる手段を持っているという点で非常に質が悪いけれど。あやすように背中を一定のリズムで叩けば、顔を上げた降谷と目が合った。

「だから降谷も、あまり無茶しないでね」

無理をするな、と言っても聞かないだろうから、せめて風見さんが胃を痛めるような破天荒はなるべく慎んでほしい。

「約束しよ?」
「そうだな……。善処する」
「ん?」
「お互いに無茶は控えよう。それと、NYには行かせない」
「だからぁ」

今更、無理言わないでよ。続けようとした言葉は、鳴り響くコール音によって遮られてしまった。私の携帯ではないから、降谷のだ。音の発生源をポケットから取り出し画面を確かめると、数秒前の情けない表情なんてまるで無かったことみたいに真剣な顔つきで通話を開始した。

「風見か? ……ああ。…………そうか。分かった」
「大丈夫?」
「ああ。誰もNYに行かなくて良くなった」
「は!?」

鏡にうつせば、さぞ間抜けな顔をした自分がそこに居ることだろう。先程とは一転して見慣れた得意げな表情に変わった降谷が、一体何を言っているのか理解出来そうもなかった。

「こっちで追っていた武器商団体の取引先が、例のテロ組織だったんだ。無事に現場を抑えたらしい。取り調べで目ぼしいところは殆ど抑えられそうだ、と報告の電話だ。海外に散っている全てというわけにはいかないけど、少なくとも日本ではもう好き勝手は出来ないだろうな」
「嘘でしょ……」

あまりに予想外の展開に、もう一度 冗談でしょ?と問いかけるも虚しく、冗談は言わない飛行機はキャンセルだ、と淡々と返される。どうやら本気らしい。とはいえ、又聞きを鵜呑みにするわけにもいかないので、こちらもすぐにチームへ連絡を入れようと携帯を取り出せば、既に幾つかの着信履歴が残っていた。サイレントにしていて気付かなかった。慌てて折り返せば、先程聞いたより仔細に顛末が語られ、終いには移動予定だった明日は午後からの登庁で構わない、と言う。事態が急転したから、やる事は山積みだけれど合同で動く分、人手が足りている。たまには休んでください、と気を遣われてしまった。大きな溜息を吐いてソファに突っぷす。結果は嬉しくても、悔しいやらムカつくやらで震えてしまい顔を上げられない。

「良かったな、今夜はゆっくり眠れそうで」
「馬鹿にしてる……」
「してないよ」

ぽん、と頭に手が乗せられた。さっきまで慰めていたのは私の筈だったのに。

「多少、強引に動いた自覚はある。でも、良かった」
「……NYに行くつもりなんて無かったんじゃない」
「そうでもないよ。最終手段だけど」

飄々と宣う降谷の言葉を聞いて、溜息とも深呼吸ともつかぬ大きな息を吐きながら、ゆっくりと上体を起こした。驚きと悔しさで滲んだ涙を降谷の指が拭う。

「傍に居て欲しい。嫌だって言っても離すつもりないけど」
「今回は私の完敗ね……」

見上げれば、また打って変わって余裕の無い顔。見られたくはなかったのか、再びその胸に包まれる。観念して、こちらも背中に腕を回した。
全く、敵わない。いつだってそうだった。涼しい顔を見せていても水面下では何をしているか分からない。ずるい男。けれど、その仮面の下の努力をほんの少しだけ知っている。長い付き合いだから。
秒針を意識するくらい長い抱擁を終えて、口を開いたのは降谷だった。

「そろそろ帰るよ。明日、午後からの出勤ならポアロでモーニングはどうだろう」
「勿論、奢りよね?」

仕方ないな、との答えに小さくガッツポーズした。立ち上がった彼を見送るために玄関へ向かう。コートを羽織る彼を見つめながら、靴べらを渡すために右手へスタンバイする。

「それにしても、降谷も少しは同期離れしてもらわないと。今回は結果オーライだけど、いつもそうとは限らないんだし」
「ん?」
「次は降谷がブラジルに飛ぶかもしれない。目の届くところに居なくたって、ちゃんと生きて帰るから、友人なら少しは信頼してほしいよ」
「……ただの同期にここまですると本気で思ってるのか?」
「ん?」
「…………」

二拍も三拍も置いて、降谷が大袈裟な溜息を吐いた。何なんだ。

「いいさ。想定内だ。元から長期戦で動いてる」
「何、今度は何の話し!?」
「明日の朝、絶対に寝坊するな、って話しだよ」
「降谷、会話を自己完結するくせ直した方がいいよ」

ああそうだ、降谷と話が噛み合わないのは割といつもの事だった。こういう時は尋ねても求める答えは得られない。何を考えているのか聞き出すのは諦めよう。
靴を履き終えた彼から差し出された靴べらを受け取るために手を伸ばせば、それを持った方とは反対の手に触れられて、そのまま手のひらにリップ音が乗せられた。

「へ」
「おやすみ。また明日」

靴べらは降谷によってフックに戻される。固まっているうちに玄関は開き、降谷が背を向ける。夜だからか勢いを殺してゆっくりと閉まり行く扉の向こう、悪い笑顔が浮かんで、消えた。
ハグはまだ良い。友人だってそれくらいする。だけど最後のは、何、だろう。そろそろ開いた口が塞がらなくなって、顎が外れてしまうんじゃないだろうか。

思いっきりストロングなコーヒーを注文した。そうでもないと目が覚めそうにない。ひと口目が喉を通ったところで鳴らされたポアロのベルは、毛利父娘とコナンくんが発したものだった。おはようございます、と挨拶をすれば、こっちで食べてもいいか、とコナンくんが駆け寄ってきた。

「なまえさん、海外に行ったんじゃなかったの?」
「大人には色々あるの……」
「へー」

ハムサンドを待つ間に、一杯目のコーヒーを飲み干してしまいそうだ。

「やぁ、コナンくん。おはよう。いらっしゃい」
「おはよう、安室さん。何だか安室さん、今日はすごく機嫌が良いね」
「分かるかい?」

私からそれ以上は聞き出せないと判断して、即座にターゲットを切り替えたらしい。相変わらず好奇心旺盛な少年だ。

「ねえ安室さん、お姉さんの海外行きがどうして無くなったか知ってる?」
「さぁ……僕の気持ちが通じたのかな」
「常連が減ったら困りますもんね!」

ヤメロ。少年とはまた違う好奇心を覗かせた女子高生が、きらきらとした瞳でこちらを見つめるので、軽率な発言はお控えください。そんな気持ちを込めて、安室さんへと視線を送る。

「延期になったのかな?」
「そうね。また行くことになるかもしれない」
「それは困りましたね」
「ボクも嫌だな〜。何とかならないの?」
「こればっかりは、私には何とも」
「そうですか……。なら、居なくならないように、ちゃんと掴まえておかないと」

そう言って、肩に手を置かれると同時、頭に唇が落とされた。顔を真っ赤にした蘭ちゃんと目が合って、気まずいことこの上ない。顔に昇る熱を自覚して、原因を睨むことも出来ない。負け続きは御免だというのに、敵わない。心臓が幾つあっても足りそうもなかった。