ロマンチストには程遠い(降谷零)

 

 

 

覚えていない、なんて大嘘だ。

触れる素肌から伝わる体温、私を呼ぶ甘い声、頰を撫でる優しい手つきもいつもと違う余裕のない表情も、何もかも忘れられるわけがない。
……起き抜けの私の覚醒を促した、まいったな、という彼の呟きも含めて、全部、昨夜から今朝までの確かな記憶。それら全てを「無かった事」にしてしまえたのは、一重に臆病な自分だった。

昨夜は、どうかしていた。
同僚といえども、庁舎で降谷に出くわす事は滅多にない。軽く一杯どうだ、の誘いに迷う理由はなかった。久し振りに会えた事が嬉しくて、誘われた事に浮かれていたと思う。

『君と居ると落ち着く』

グラスを傾ける彼が横で笑うので、今夜こそ気持ちを伝えてしまおうか、と揺らいでしまった。けれど続けて発された『別の落ち着き方をしろ、とお偉方には言われるけど、そんな暇はないからな』に、せり上がった気持ちは一瞬で縮こまってしまった。同業である以上、そうだね私もだよ、と乾いた笑いで応じるしかなかった。
あまり飲みすぎるなよ、と諫める彼に対抗するように、いつもよりも早いペースでカクテルを煽った。

そこから、何がどうして二人でホテルへ縺れ込むような事になったのか。店を出たところで、案の定飲み過ぎて足元が覚束ず、ふらついて支えられて目が合えば次の瞬間には唇が重なっていた。言葉なんて何もないまま、降谷に手を引かれるまま歩を進めて、ついでに事も進めてしまった。
我に返ったのは、始発もそろそろ動くだろうか、という時間。背中から温もりが離れて、肌寒さで目が覚めた。
ベッドから身体を起こした彼の口が二言目を発する前に、背を向けたまま、無かったことにしてほしい、とお願いした。昨夜の事はあまり覚えていないのだ、と。
降谷は「分かった」とだけ呟き、徐にシャワールームへ向かった。その間に散らばった服を集めて、私は部屋を後にした。

朝の選択肢は幾つかあった。玉砕覚悟で気持ちを伝えるか、格好つけて身体だけの関係を望むのか、それとも。
私は、最も、自分が傷付かないと思う方法を選んだ。
腰を落ち着ける場所を作れない降谷が、後腐れなく過ごすのに丁度いい相手だったに過ぎない。疲れていて、飲みすぎて、たまたまそこに私が居た。事故のようなものだった。

同僚といえども、私の三人分は忙しいだろう降谷に出くわす事は滅多にない。その筈なのに、ここのところ、やけに庁舎で姿を見る。他の顔をする仕事に何かあったのだろうか、と気にしてしまうのに、目が合っても思わず逸らしてしまう。後頭部に刺さる視線に気付かないふりをして、仕事に集中する日々を送った。……あの日から、降谷とは一度も話していない。

「……あれ?」

デスクに積み上げられた資料を切り崩しても、引き出しをひっくり返しても見つからない。どうかしたか、と怪訝そうに見やる先輩に苦笑を返した。

「会議資料、さっきの部屋に忘れてきたみたいです。取ってきます」
「大丈夫か? 最近、ぼーっとしすぎじゃないか。俺はもう帰るけど、あまり遅くなるなよ」
「はい、すみません」

家に帰れば、時間を持て余せば、余計な事を考えてしまう。忙しいくらいが丁度よかった。かといって抱えすぎた仕事がデスクに書類を積み上げて、こうして失敗するのは間抜けが過ぎる。駆け足で会議室に向かい、溜息を吐きながらドアノブを回す。扉を開けた先、入口のすぐそこに佇む降谷が、静かにこちらを振り返った。どうして、ここに居るんだろう。動揺を隠すように拳を握る。部屋に入り扉を閉めた。鋭い瞳が、私を見据える。

「……これ、君のだろ」
「あ、うん。ありがと」

こちらへと近寄る彼に、引き攣る笑顔を送った。爆発的に早くなった鼓動は聞こえないふりをして、彼が差し出す書類に手を伸ばす。礼と共にそれを掴んだ筈なのに、降谷の手は書類から離れない。どうしたのだろうか。訝しみ、その顔を見上げた。一歩、またこちらへと近付く彼に気圧されて、後ろに下がる。また一歩。入ってきた扉が背中に当たる。

「ふる、や?」
「俺を避けてるだろ」
「いや、その……っ」
「無かった事にしろ、と言ったのはそっちなのに」

いきなり、核心をつくような直球すぎる言葉。降谷らしい。おかしいとは思った。幾ら注意力が散漫していたとしても、大事な書類を忘れるはずがない。忘れて、誰も気づかず会議室を後にするはずがない。

「……仕組んだの?」
「そうじゃなきゃ、話しも出来ない」

彼の見立ては正しい。話がある、と馬鹿正直に呼び出されたところで、私は理由を付けて行かなかっただろう。二人きりになる時間がこんなにも怖いだなんてこれまで考えた事はなかった。
顔を上げられない私に、降谷は真顔で追い打ちをかける。

「本当は口もききたくないなら、そうする。二度と仕事以外では話しかけない。これまで通りにしろ、と言うならそうする」
「ご、め……」
「謝らないでくれ。……なあ、覚えてないなんて嘘なんだろ」

言葉が、出てこない。口もききたくない、なんてそんなわけない。ただ、自分が分からなかった。これまで通りに出来ると思った。出来るわけなかった。いつからか、ずっと目で追っていた。同期の特権か近くに居る事を許されて、同じ痛みを共有してきた。彼が守りたいと思うものを私も守りたいと思うし、彼が傷付かないようにたすけたいと思う。国が恋人だ、なんて言う馬鹿な男を、それでもずっと好きだった。忘れようと思えば思うほど、あの夜の熱が浮かぶ。いつもの笑顔が浮かぶ。

「答えないなら、もういい」
「……降谷」
「忘れたいなら、それでもいい。もう一回、何度でも刻むだけだ」
「え……」

顔を上げると同時、首筋に痛みが走った。噛みつかれたのだ、と把握した次には、同じところを舌の熱が這う。思わず上擦った声が出て、咄嗟に口を手で覆う。覆ったのに、その手を取られて顔の横に縫い付けられた。指が重絡められて、ぴくりとも動かせない。その間に首過ぎに埋められた唇が上へ上へと上がり、耳へ吐息が送り込まれて、身体が跳ねる。

「ふるや、待っ……!」
「待たない」
「やだ、やめて」

縋るように懇願しても、止まることはない。髪をかき分けて唇が耳に、額に、触れる。向けられた事のない怒気に触れて、身体が震える。こわい。どうして怒っているのか、分からない。こんな風になりたかったわけじゃない。ただ、変わらないままで居られたら、と。出来る筈もないのに考えた愚かさが彼を怒らせた。それなりに鍛えている筈の身体は、降谷に取り押さえられて少しも動く事が出来ない。思考がまともに働かない。
お願い、と再び絞り出すように零した声に促され、漸く顔を上げてくれた降谷は、大きく目を見開いた。手の力が、少しだけ緩む。

「……泣かないでくれ」
「泣いてない」
「君は、俺には嘘ばかりだな」

浸食は止まっても、絡められた指が解けることはなく、扉に押し付けられた身体は身じろぎ程度しか出来ないままだ。目尻に溜まった水滴を吸われ、恥ずかしくて目を瞑った。その間に、小さく、唇に触れる熱。

「俺が嫌いか?」
「……嫌いになれたら、苦労してない」
「なら、これから好きになれるか」
「え?」
「いや、好きにさせる。嫌わないでくれ」

頭はずっと、パニックを起こしていた。降谷が吐いた言葉を脳が処理するまで随分と時間がかかる。彼は何を、どういうつもりで言っているのだろうか。固まったままぐるぐるとしている私を覗き込んで、降谷は大きく息を吐いた。その顎を私の頭上に乗せて、髪を撫で始める。

「あの日、あんな勢いで事に及ぶ予定じゃなかったんだ。なのに、君が……」
「私が、何?」
「……覚えてないなんて嘘だろうと思ってたけど、本当に忘れてる事があるみたいだな」
「え、え? 何なの」
「いや、いいよ。鈍いのは知ってる」

片眉を上げた降谷が私の両肩を掴み、また溜息を吐いた。やっぱり、訳が分からない。全部、覚えている筈だ。記憶のない時間帯などない。その筈なのに、項垂れる降谷を見ると、知らないうちに何かしでかしたのだろうか、と考え込んでしまう。考えても分からないので、よく擦り合わせて話し合わないといけない。これからどうするのか、選択肢は幾つかある。コマンド『逃げる』は選ばず、『ガンガンいこうぜ』に作戦変更を決め込んだ。覚悟を決めて、深呼吸をする。

「降谷のこと、これから好きにはなれないよ」
「……そうか」
「だって、もうとっくに惚れてる」
「は?」

綺麗な顔が間抜け面でぽかんと口を開けている。その顔が面白くて私は泣きながら笑った。