朝だから眠れないね(降谷零)

 

 

 

捕り物を終え、やっと庁舎に戻って来られたのは季節が季節なら空も白む時分だった。何も珍しい事じゃない。お肌のゴールデンタイムなんて都市伝説だよ、とは言われても、どの時間にも安眠を取れていないのでは肌どころか身体に悪いのは明白だ。ゆったりとした休息が取れないならば、せめて心に癒しがほしい、とは考えても詮無い事だった。

冷えた静けさが、溜息すら飲み込んでいく。先に戻っていい、と言ってくれた部下たちに感謝したい。お腹が空いた、だけどベッドへ飛び込みたい。仮眠室の固いスプリングですら今は雲のベッドのように魅力的に感じるだろう。だけど、せめてシャワーを浴びたい。基本欲求しか考えられない重い足取りでようやく辿り着いた先の扉を開ければ、予想に反し、室内には先客の存在があった。そこだけ灯りの残る奥の区画、ミルクティー色の頭がきらきらと光を反射している。

「……せめて仮眠室で寝ればいいのに」

呟きは届くことなく、独り言で終わる。熟睡するつもりなど毛頭なかったのだろう。腕と足を組んで座ったまま、俯いた首が落ちてしまいそうだ。けれど忍び足でもなく訪れた気配に反応しないのでは、随分と深く眠っている。このまま寝かせてあげるべきか、起こすのが優しさか。逡巡してはみるものの、傍らに積まれた未処理だろう書類を見るに、放置すれば恨まれそうだ。
仕方ない、起こすか。
荷物を肩から下ろし、彼のデスクへ歩み寄った。

「降谷、起きて」
「……んん……起きてるだろ」
「起きてないよ。夢の中でも処理したかもしれないけど、残念ながらまだ仕事は残ってる」
「いやだ……」

嫌だ、と言われても困る。こめかみを抑えながら、のっそりと顔を上げた男は焦点の合わない目でこちらを見上げた。眉間の皺は深い。剣先がポケットに突っ込まれたネクタイから草臥れが見える。椅子を引いて身体を伸ばしてはいるものの、覚醒には程遠そうだ。

「人が来ても起きないなんて珍しい」
「君じゃなかったらとっくに目覚めてるよ」
「うわっ」

不意打ちで身体を引かれ、目の前の肩で体勢を立て直すも、胸元にぐりぐりと頭を押し付けられ身動きが取れない。「ちょっと、セクハラ」頭をぺし、と叩くも、離すつもりはないらしく恨みがましい目を向けられる。

「誰も居ないんだから良いだろう」
「そのうち誰か戻ってくるし、っていうか汗かいてるから離れてほしい」
「少しくらい触らせてくれ。最後に顔を見たのはいつだと思ってる」

二週間ぶりくらいだろうか。目の前にある寝癖を手櫛で整えながら適当に答えれば、二十日間だよ、と不満そうな声が返ってきた。
私だって会いたかったよ。でも二日寝ていない、シャワーも浴びていない今の状況じゃなく、出来れば別のシチュエーションが良い。

「ほら、シャワールーム行くんだから離して。降谷もソレ片付けるか、仮眠室行くか、どっちかにしなよ」
「……シャワー室いく。一緒に」
「まあ、目が覚めるだろうしね」
「一緒に入ろう」
「うん?」

話しているうちに頭がはっきりしてきたのか、にっこりと笑顔を浮かべているが、発した言葉はまだ寝惚けている、と評する他なかった。ここは職場だ。起こしてやるのが優しさだろう。

「あのね、一緒には入れません」
「どうして」
「いや、どうしてって……、っ!?」

シャツの裾から潜り込んだ手の冷たさに、思わず飛び上がった。

「つめたいっ!」
「ほら、温まらないと」

こちらの抵抗を受けてあっさりと手を引いた彼は何事もなかったかのように立ち上がった。毛を逆立てる気持ちで睨み上げれば、宥めるように、額にキスを落とされる。

「行こう」
「~~~~ッもう、降谷!」
「冗談。何もしないよ」
「当たり前でしょ!」

何度も言うけれど、ここは職場だ。他に誰が居なくてもそれが事実だ。咎める視線を向けても、折れてくれる様子はない。手を取られて歩き出す。「だって、やっと君に会えた」と小さく呟かれ、らしからぬ柔らかい笑顔に心臓を持っていかれた。……やっぱり、まだ寝惚けているんじゃないだろうか。子どもの我侭のようなことを言う。逆の立場なら今頃ハリセンで三発は叩かれているだろうに、この甘さは何だ。けれど、ここで騙されてはいけない。身体はもう限界を迎えている。明日に備え、当初の目的を果たす必要がある。シャワーを浴びて、すぐ仮眠。出来ればその前に小腹を満たしたい。今の基本欲求は、たったそれだけ。それだけなのに機嫌よく前を行く降谷の手を振り払う事が出来ない。きっと、疲れているからだ。