Previous(降谷零)

 

 

 

 

「幸せ」とはまるでフィクションだ。愛しい人へおはようやおやすみのキスを送る生活をどうしたら今の立場で望めるだろう。街ですれ違う家族の笑顔に覗く物語は、御伽噺より遠い国の話だ。自分には似つかわしくない。
なのに、願ってしまった。触れたい、触れてほしい、温もりを知りたい。暗い夜に君を抱き締めて眠りたい、傍に居てほしい。他でもない君が受け入れてくれるなら他の誰に咎められても、もう止まるつもりはない。

「じょ、冗談はやめてください……っ」
「冗談だと思うのか?」

彼女は耳まで赤くして金魚みたいに口をぱくぱくさせている。そんな間抜け顔も可愛いよ。仮眠室の硬いマットレスに広がる彼女の髪を一房手に取り、口付けた。

「俺を好きだと言っていただろう」

見下ろす彼女に強い視線を送れば、逃げ道を探すように彼女の視線が動く。

「……言ってません。降谷さんには」

そう、卑怯にも彼女が零した想いを拾っただけだ。廊下の角の向こうから漏れ聞いた会話は聞こえないふりで、目が合ったとて当初の目的通り調書と報告を受け取れば良かったのに、出来なかった。腕を引っ掴んで連れ込んだ無機質な密室であろうことか部下を押し倒している。一時の感情で動くなんて決してあってはならないことなのに。けれど、一時じゃなかったら? 今だけじゃない、と確信があったなら。

「風見には言えて俺には言えないのか」
「伝えるつもりはありませんでした。出来れば、一生」

声を震わせて、彼女が口にしたそれははっきりとした拒絶だった。耳から入り身体に落ちる言葉は小さな針となって胸を刺す。

「仕事に戻らせてください」
「駄目だ。話はまだ終わっていない」
「話すことなんてありません」

誰が彼女をこんなに頑なにした。

「俺にはある。君が欲しい」
「答えはノーです。これ以上あなたを失望させたくない」
「これ以上? 誰がそんなことを言ったんだ」
「……覚えてないんですか」

警備企画課に新人が入ることは滅多にない。増して女性は尚更だ。ここに来れば誰もが健康で文化的な生活に別れを告げなければならないし、大義の為に個の犠牲を覚悟しなければならなかった。それが自分だけで済んでいたうちはまだ楽だったもので、部下となる人間に強いなければならず、その覚悟から育てるのは簡単な事じゃない。

ある日、これでやっと本当の事が家族に伝えられる、と零した上司はその言葉を最後に二度と帰らぬ人となった。彼は結果が分かっていてその日の任務に臨んだ。死んで初めて身元が明かされるのが公安だ。彼の元で育てられていたまだ配属一年にも満たない新人は自分の元で受け持つ事となる。彼女は、せめて彼の家族に謝りたいのに会う事も許されない、と泣いていた。いつまでも泣き腫らした顔で出勤してくる彼女を見るのは辛かった。それでも「彼の死には意味があった」「あれで事件も解決した」などと彼の死に理由を付けるのは違う気がして、慰めるような事は何も言えなかった。そもそも何が慰めになるのかも分からない。ただ、そんなにも涙が止まらないのであればこの仕事は向いていないだろう、と思い、そのままを口にした。

俺たちがやっているのはそういう仕事だ。家族に謝る、なんて本人が最もしたかっただろう。叶わないと分かっていて家族をつくった。彼の責任だ。覚悟していたはずだ。覚悟できないなら初めから大切なものなど作るべきではない。いざという時に躊躇するような理由はないに越したことはない。そういう立場なのだと自覚して決して忘れるな。出来ないのならこの仕事は辞めた方がいい。嘆くだけなら馬鹿にでも出来る。進む方向を選べないならこの道は諦めろ。

彼女は、嗚咽を漏らすでもなく耐えるように涙だけを零した。その表情を綺麗だ、と思った。ずっと寝られていないのか酷い隈で疲れた顔をして涙でぐしゃぐしゃであるにも関わらず、だ。何かを決意した人間の顔だ。あれが人前で泣く彼女を見た最後だったように思う。もう何年も前の事だ。女であるというだけで受けるやっかみもあっただろう。我武者羅に走り回るやり方は不恰好ではあったけれど、気付けば周りも認めざるを得ないまでに成っていた。長年見守る中で部下に想う以上の感情を持つようになったのはいつからだっただろう。

「……誰が諦める覚悟をしろ、と言ったんだ。選んだなら諦めるな、って事だ馬鹿」
「なっ!馬鹿って言う方が馬鹿なんですからね!」

わざと雰囲気を壊したいのかそれとも素か、きゃんきゃんと騒ぎ始めるので思わず溜め息が漏れる。

「言い訳はそれだけか?」

空耳だ勘違いだ、とでも言ってくれればまだ逃げ場はあったものを。彼女が素直になれない原因が俺だと言うのならその呪いは今すぐに解いてしまおう。
かぶりを振り視線を外す彼女の頭をこちらを向けて固定する。頰を一筋の涙が伝った。ああ、泣かせてしまったな。

「すぐに泣く」
「泣いてません……。すぐに、って何ですか」
「あのなぁ。目の前で鼻すすってなくても分かるんだよ。この間は風見が止めるのも聞かずに現場へ飛び込んで」
「あれは誰も怪我がなくて良かった、っていう嬉し泣きです」
「ノックリストが奪われた時なんか血相変えて走り回ってた割に最後は腰抜かして使い物にならないし」
「観覧車が目の前まで転がってきたら誰だってそうなります」
「先週は山積みの報告書に埋もれて泣き言漏らしてた」
「もう!全部、降谷さんの所為じゃないですか!」
「そうだな。責任は取るよ」

言葉は呪いだ。口にすれば形を成し大きく膨れ上がる。呟くだけでも恐ろしいのに伝えてしまえばその力はあまりに強大になりすぎた。好きだ、と一言を送ればもう後には引けない、きっと。
目の前の身体を抱き起こして腕に閉じ込めた。そう動くとは思っていなかったのか、彼女はされるがまま目だけを泳がせていた。その肩に顎を乗せて息を吐き出した。鍛えているとはいえ力を込めたら折れるんじゃないかという程に華奢な線。この細腕で銃を握り警棒を振り回し時に大の男も投げ飛ばすというのだから驚きだ。顔に触れる髪から香る柔らかな色が心地よくて、深呼吸するふりをして肺いっぱいに吸い込んだ。身体を離し、揺れる瞳を覗き込む。

「せ、責任って」
「そのままの意味だよ」
「降谷さんはずるいです……私ばっかりあたふたして、馬鹿みたい」
「そうでもないさ」

この国で生きる者の為に、この国で生きた者の為に命を懸けると誓った。それはいつになっても色褪せない。
それでも事あるごとにに訪れる選択には、いつだって、何度でも自分に問い掛けてしまう。それで本当に良いのか、と。良かったのか、と。たらればを挙げ連ねればキリがない。それでも後悔のないように精一杯大切にするよ。俺は君が好きだ。

だから頼む。

「好きだって言ってくれ」