冬の次は春(及川徹)

 

 

 

 

 

 

「卒業後は、海外に行こうと思ってる」

言葉が耳に届いて一瞬、呼吸の仕方を忘れたみたいに世界が止まる。知らない単語にぶつかったみたいに反芻する。かいがい。口はその形に動くのに乾いて音にならない。それでも相手は意図を感じ取ったらしく「うん、そう。アルゼンチン」と話を続けるので今度は見えない地球儀がぐるぐると回った。卒業後って言った? 卒業旅行じゃなくて?

期末テストを終えて晴れ晴れとしたタイミング、珍しくも一緒に帰ろう、と誘われた下校途中。隣を歩く及川から突拍子もなく切り出された、ほんの少し未来の話。この冬を超えて春が来ればすぐそこなのに、及川が口にしたそれは今の私には想像もつかないくらい遠い世界に思えた。受験が控えているから、だけが理由じゃない。深呼吸してようやく吐き出した息は、何の変哲もなく、白かった。

「……ふぅん」
「あれ、やっぱり寂しい?」
「全然。もう毎日のように顔を見ないで済むかと思うと、寧ろ清々する」

取り繕って鼻で笑えば、ヒドイ! 及川くんは繊細なんだよ! と身振り手振りも加わって相も変わらず喧しい。

互いの将来の話なんてしたことはないけれど、何となく及川はバレーを続けるんだろう、とは思っていた。

もうすぐ、卒業だ。その先を決めて、進まなければならない。私だって地元の大学を受けるわけじゃない。この街を出るつもりでいる。いつまでも一緒では居られない。けれど、隣で過ごしてきたわけじゃないこの男の、ほんの少し近くに居ることに慣れ過ぎてしまったんだと思う。私に触れたことの無いこの男が、それでも傍に居る時間が、長過ぎた。

鞄の持ち手をぎゅっと握り込む。及川は何やら眉間に皺を寄せてぷんすかしていた。

「後で寂しがっても知らないからね。本当に会えなくなっちゃうんだからね!」
「近くに居たところで、卒業後も連絡取り合うような仲じゃないでしょ」

付き合っているわけでもあるまいし。その意味を込めて、睨めつけるように隣の顔を見上げれば、ほんのすこし目を丸めた及川が「そうだっけ」と呟いた。何を言ってるんだ、コイツ。

クラスが一緒だった。部活のない日は同じ車両で通学していた。ただ、それだけの関係だ。ただのクラスメイトで、それ以上でもそれ以下でもない。何年あっても変わることのない関係。会えば挨拶はするし、他のクラスメイトに誘われたら試合の応援だって行くし、教科書を忘れたら見せてと頼んだし、風邪で休んだらノートの貸し借りだってした。そういえば、一緒に授業をサボったこともあった。確かバレーの試合があったと言っていたっけ。珍しくも胡散臭い笑顔は消えていて、こんな顔もするんだな、と驚いたものだった。

わたしのともだち。クラスメイト。それは、大多数が学校という枠組みから外れてしまえば、たちまちSNSの中だけでライフイベントを知るような、そんなものだろうと思っていた。すこし寂しいけれど、でも、誰しもがそんなものでしょう?

「絶対、寂しいよ。離れても電話するし、連絡するし。だから無視しないでよね」

軽くあしらう程度で引き下がる男じゃないのは知っていた。そして口うるさい。やると言ったら本当にやる。決して良い意味だけじゃなく。今どこに居るの誰と何してるのちゃんと食べてるの無理してないよね風邪引いちゃダメだよ───なんて、アンタは私のお母さんか。と思うような口出しをする割烹着姿の及川を想像して、不覚にも噴き出してしまった。

「ちょっと、ナニ笑ってるの」
「何でもない。仕方ないから、十回に一回くらいは相手しようかな」
「ヤダ。ちゃんと全部応えて」

そうは言っても、新しい生活が始まればきっと忙しくてすぐに忘れるよ。バレーと過ごした高校生活を忘れなくても、心配する親の顔は忘れなくても、通りすがりの私のことなんか、きっとすぐに忘れるよ。だから、心配しなくても大丈夫。連絡が来なくなっても、傷付いたりへこんだりしないから、大丈夫。SNSとか、もしかしたらいつかテレビの向こうで、ああ元気にしてるんだな、と時折生存確認だけ出来たらそれで良いよ。……ああ、考えたら、やっぱりすこし寂しい。及川のことだけじゃなく、今まで当たり前にあったことが当たり前じゃなくなるんだから。

「……卒業後のことは分かんないけど、まあ、卒業までよろしく」
「何でそんな達観しちゃってるの? もっと惜しんでくれても良くない?」
「何なの、もう。例えば、わたしが泣いて『サミシイ行かないでー』って言ったらやめるの?」
「やめないよ。決めたことだし」
「でしょうね」
「冷たい! いいよ、分かってたよ! ふんだ」

引き留めてほしいわけじゃないけれど寂しがれと言う。全く、自分勝手な男だ。呆れた溜息を向けると、及川は急に立ち止まった。数歩先から振り返る。「どうしたの」と問い掛けるも及川は応えず、いつもの不敵な笑みのままに口を開いた。

「待っててほしいとは言わないけどさ。……攫いに行くとは思うから、覚悟しといてね」
「は?」
「だから、さ。別に誰と付き合っても良いけど、結婚はしちゃダメだよ。俺が迎えに行くまで」

そう言って、一段と胡散臭い笑顔を形づくる。文字通り開いた口が塞がらない。頭が痛い。どこまで本気でどこまで冗談なのか分からないから質が悪い。けれど、それを聞いたところで当人は全部本気だよ、と答えるだけだと分かっていた。

「……何それ。結局、待ってろってコトじゃん」
「ああ。そうかも」
「っていうか、意味わかんないし」
「何で? 分かってよ」
「わかんない。早く帰ろ。さむい」

じわじわと、顔に熱が昇る。赤くなった顔を見られないよう、足早に先へと進んだ。もう置いて行ってやろうか、と思ったのに、離したはずの距離はたったの数歩で追い付かれてしまう。コンパスの差が憎い。一方的に話を切り上げたというのに、及川は機嫌を崩すこともなく、また隣を歩き始める。顔を覗き込もうとするので、こっちを見るな、とその頭を押し退けた。

「顔、赤いよ」
「言わなくていい!」

コートの裾を引かれて、再び立ち止まる。赤くなった顔はマフラーに埋めても隠せそうにない。視線がぶつかる。

「ねえ、今日、帰ってから電話してもいい?」
「ダメ」
「なんでさ」
「……用もないのに、連絡取り合うような仲じゃないでしょ」
「うん。そうかもね。でも、声が聴きたい。だから、ねえ、ちゃんと応えてよ」

声は温和なのにはっきりとした鋭い瞳。こちらを見透かすような、わたしの及び腰を捕まえてしまう目だった。掴まれた腕が熱い。

こんな会話は不毛だ。意味がない。気まずくなってイイネすら押せなくなったらどうするんだ、及川のバカ。あとすこし、何も無くこれまで通りに、ともだちで居られたら。そう思うのに。

「…………考えとく……」
「考えとくって何、絶対だよ。ゼッタイ!」
「ああ、もう、わかったってば!」

根負けても素直になれない自分が恥ずかし過ぎて視線を逸らした。ああ、もう、何でこんなことに。頭の中はぐるぐるぐちゃぐちゃで、冷静じゃない。自らを逃げ場をなくしたことを後で後悔するかもしれない。それでも、嬉しそうに笑う及川の姿を見ると、ぐちぐち悩んでいることがバカみたいに思えた。

卒業まで、あとすこし。