Engagement(降谷零)

Engagement

 

 

顔に当たる夜風が火照りをゆっくりと下げていく。深呼吸と共に身体を伸ばし、凝った筋を無理やりに解す。軽い足取りで進めば後ろから「こけるぞ」と酔っ払いへの咎めが聞こえる。同期なのに、時に兄どころか母のように小うるさいこの男────降谷は、その端整な顔を歪ませて、ふらつく私の腕を引く。触れた箇所に熱が集中する気がしたけれど、それはほんの一瞬の事で手が離れると同時にすっと冷えていった。自分があまりに分かりやすくて自嘲する。動揺が伝わらないように、離れた事を喜ぶように軽い足取りで踏み出せば後ろから溜め息が送られた。

「飲み過ぎだ」
「知ってるよ」

冷えた空気もこの時期特有の街の陽気も、私の高揚を奪い去る事は出来ない。忘年会などある筈もなく忙殺される師走の夜、互いに消えない目の隈を視認し、今日はもうやってられるか、と終わらない報告書を放り出して二人で食事を取りに来た。世間は三連休中日で、クリスマスモードで、仕事納めもすぐそこで、浮き足立った街を恨めしく思う。だけど、本当は私も少しだけ浮かれていた。根を詰めて働き帰って独りで泥のように眠るだけ今夜だと思っていたのに、惚れた男に誘われて、美味しいご飯を食べて、ほんの少しだけドキドキする夜になった。最後の良い思い出になる。

「ちゃんと一人で帰れるのか?」
「だいじょーぶ、大丈夫。何年お一人様してると思ってるの」
「それは関係ないだろ」

それが関係あるんだよ、降谷クン。お一人様の休日もクリスマスも誕生日も、ワンナイトで終わる愛に縋る若さは何処かに忘れた。いい歳して未だ仕事が恋人で、切羽詰まってきたからこそ下手な駆け引きで心を消費しないように、寄り道はせず真っ直ぐ家へ帰るんだ。ぽっと出の男に身体だけでも温めて、なんて可愛い事を言える女だったら良かったのにね────そんな戯言を貴方に聞かせはしないけれど。

「危険認識が甘すぎる。俺が送り狼にならないとも限らない」
「別にいいよ。今、気分良いから」
「はあ?」
「って、降谷はそんな事しないから言えるんだけど」

ぽっと出の男は嫌でも降谷がいいんです、とは言えず軽口を笑い声で覆った。
少しはペースを乱されてくれたらいいのに、呆れただけだろう溜息が零される。出来ればその表情までは見たくなくて、胸に込み上げる何かを誤魔化すように笑いながら、素早く捕まえたタクシーに一人乗り込んだ。乾いた笑いが引き攣るのは寒さのせいにしてしまおう。
これでおしまい。今日が節目だ。今夜で、警察学校時代からずるずると抱えてきたこの気持ちと決別すると決めていた。そろそろ潮時だ。踏み出す気のない片想いを続けていても仕方ない。最後にずっと好きだった、と伝えてしまおうかとも思ったけれど、今はまだ過去形で話せる自信がない。長い付き合いの中で「ただの同僚」よりは近しいポジションを陣取れていると思う。けれど、そんな小さ優越感だけで生きていけるほど、もう若くはない。

「おい、」

続けられるだろうお説教は出来れば今夜は聞きたくない。忙しい降谷と連続して顔を合わせる事は滅多にないから暫く顔を合わせずに済むだろう。それに明日は滅多にない非番だ。無理やり取った休みは、失恋記念日ということで家でゆっくりと過ごそう。口を開きかけた降谷を制したのは行き先を催促する運転手のせいにして、重なった視線を逸らしてしまう。

「それじゃ、おやすみ」
「……ああ。おやすみ」

『今どこに居る?』

ロックの掛かった携帯に通知が上がる。近所のコンビニへ出掛ける身支度の最中だった。だらだらと過ごした休日は、夜になってそういえば一日食べていないのに食料が何もない事に気が付いた。せっかくの非番を寝て過ごすなんて何て勿体ない、とは思うも同時に何て贅沢で豊かな休日だろうか、とも思う。どうせ街には出掛けたくなかった。連休最終日がクリスマス・イヴだなんて、街の浮かれ様は見なくても想像がつく。堪えられる装甲は身につけていない。とはいえ、せっかくのクリスマス・イヴだ。コンビニの値下げされたケーキでも買ってみようか、と企んでいたところだ。
通知を確認すれば降谷からで、まさか仕事じゃないだろうな、と怯んだけれど電話じゃないのだから緊急の案件ではないだろう。ならば返信も急ぐまい、と後回しを決めた。
ところが大した間を空けず鳴る音は今度は電話で、どうか登庁しろとは言われませんように、と祈りながら通話ボタンをタップした。電波の向こう、聴こえてくる音から運転中かと予測する。

「はい」
『今どこに居る』
「どこ、って非番だから家だけど」
『非番? ……まぁ良い。今から行く』
「いや、え? ちょっと待って。どうしたの?何かあったの?」
『時間が惜しい。着いてから説明する』
「ちょっ」

言いたい事だけ言って電話を切るのは、いい加減やめた方が良い、と何度伝えても直らない。あの調子では折り返しても出ないだろう。深く深く溜息を吐いて、ソファに頭から突っ込んだ。

呼び鈴が鳴って、再び溜息を吐きながら重い腰を上げる。よりにもよって今日、何故顔を合わせなくてはならないのか。何の為に非番としたのか。降谷に会いたくなかったからに他ならない、のに。何の用かとあれから考えたけれど見当も付かない。今、共に動いている案件は無いはずだし、別で追っている問題が重なったとかだろうか。分からない。
マンション下のオートロックを超えて、再び鳴った音は玄関だろう。モニターに映る降谷を確認し『開いてるよ』と声を送った。ダイニングへ入ってくる音で、座したまま弄っていた携帯から顔を上げれば、目で認識する前に肺いっぱいに届く香りで、花がある、と認識した。

「え? 本当にどうしたの?」

今日は登庁じゃなく喫茶店の方だったのだろう。ラフな格好で、嫌味に似合う綺麗な花束をその肩に置いて、しかし眉間に皺寄せて立っている。喫茶店のお客さんに貰ったけど花瓶がなくて困っている、とかだろうか。

「生憎、うちにも花瓶は無いよ」
「違う」

何が、とは言わずともこちらの言いたい事は伝わったがどうやら違うらしい。だったら何だろうか、と首を傾げていると、降谷はあからさまな溜息を零し、花束をこちらに差し出した。立ち上がり、目の前にある花を贈られる意図が分からず暫し無言で見つめる。

「プロポーズだよ」
「ああ、なるほど。プロポーズ……は?」

プロポーズ。なるほどプロポーズ。ええと、誰が、誰に? 降谷が誰かにプロポーズされて結婚する事になったからその報告?うわ、だったら最悪だ。確かにもうたった二人の同期だけれど、よりにもよって今日来ることないじゃないか。どこまで惨めにしてくれたら気が済むんだ。

「また変な顔して的外れを考えてるんだろう。言っとくけど、俺が、君に伝えに来たんだ」

ほら、と差し出されるままに花束を受け取ってしまう。降谷が、私にプロポーズ。それにしては渡し方が雑じゃないか? 何の冗談だ?
プロポーズっていうのは、恋人である二人が夫婦という次のステップに進む為に行うもので、つまり付き合っていない恋人ではない私たちとは無縁のイベントだ。降谷は一体、何を言っているのだろうか。未だに飲み込めなくて、混乱を極めている。

「何の冗談?」
「冗談は言わない。今日が、約束の日だろう」
「え」

約束。約束と言えるほど確かな話しではなく、もっと拙いものだった。友を失って仕事に明け暮れて恋に現を抜かす暇なんてこれっぽっちもなくて、このままじゃ互いに独りで死んじゃうね、残す人の事を考えればそれも悪くないかもね、なんて自嘲した後に、冗談のように誤魔化しながら笑ったあの日から、ちょうど今日で五年が経った。

「『ずっと互いに独りで居るより、独りが二人なら良いかもしれない。俺たちならそれが出来る。もし五年経っても』」
「『独り身だったら、結婚でもするか』、って……あんなの、約束なんて言えるものじゃ」
「それでも」
「断られるとは思わないの?」
「断るのか?」

口角を上げて、ずい、とこちらへ詰め寄る彼に言葉を詰まらせる。そのまま正面から腰に腕を回されて、身体を固定される。押し返そうにも花束を抱えたままで、潰れないように間に挟まったソレだけが上半身の距離を作っていた。

「待って、待ってよ。降谷、私のこと好きなの?」
「君の視線が俺を追いかけ始めるより前からね」
「うえっ」

好きだと自覚したのは、いつからだっただろうか。自然と目で追ってしまうようになったのは。それを見抜かれていただなんて恥ずかし過ぎる。

「なのに君は、事あるごとに恋愛する暇はないと宣うし」
「それは、降谷だって国が恋人だって」
「誰でも良いよう事を言うかと思えば、俺が君に手を出さないと間違った信頼を寄せてる。ふらつく身体を掻き抱いて連れ帰って押し倒してやろうかといつも思ってる事も知らずに」

至極、真面目な顔でとんでもないことをべらべらと話し出す。遅れて意味を理解して、顔に熱が昇る。

「俺はこんな状況で普通の生活とは程遠いし、君に恋人が出来て、幸せになってくれるならそれが良いと本気で思ってたんだ。でも全然その様子はないし」
「悪かったですね、いつまでも仕事が恋人で」
「恋人になれば相手の全てを掌握できると勘違いしそうになる。醜い嫉妬を見せるくらいならこれまでの距離がちょうど良くて心地良かった。けどそれ以上に最近、離したくなくなった」

俺も歳かな、なんて眉を下げる降谷に鋭い視線を送る。どういう意味だ。

「何で素直に好きって言えないの」
「好きだよ」

ストレートなのは、それはそれで困る。至近距離で交わる視線の先、瞳に映る自分は口を開けた間抜け顔。これまでではない距離感に堪えられそうもない。意地はもう張れない。頭が爆発しそうだ。

「ぜったい、あんな話し忘れてると思ってた」
「うん」
「もう、諦めようと思ってたのに」
「知ってる。だから少し焦った」
「覚えてるなんて」
「うん」

片想いが報われる事なんて絶対にないと思っていたのに。

「僕の妻になってほしい。返事は? ダメも保留も聞かないけど」
「自信過剰ぉ……」
「ん?」
「うう、はい。私も好き、です」

抱えた花に顔を埋める。きっと茹でダコみたいだ、と評される程に赤くなっているだろう。見られたくなくて隠したのに、与えられたばかりの花はあっさりと離されて、テーブルへ除けられてしまった。隔てるものがなくなって、数十センチの距離も無くされてしまう。吐く息が額にかかる。

「……よかった」

心底安心した、とでも言うように大きく息を吐き出し、私を包む腕に力が込められた。少し苦しい。加減を考えてくれ。

「守りたいものがある。君を一番には出来ない。それでも隣に居てほしい」
「そんなの、私もだよ」
「……だから君が良いんだ」

腕の力が緩くなり、再び降谷を見上げる。顔がいい男の破顔というのは、こうも破壊力があるものなのか。愛しそうに見つめられているのが自分であることが気恥ずかし過ぎる。

「煽らないでくれ」
「あおっ、てない!」
「昨日も言ったけど危険認識が低すぎる。昨夜は余程、連れて帰るか付いて行こうか迷ったけど、手を出さない自信がなかった」
「今は違うの?」
「……今もない、けど」
「けど?」
「まだ夫婦じゃない」

先程まで自信満々に詰め寄ってきていた降谷が、そう言うなり、ふい、と顔を逸らしてしまった。ぴょこんと跳ねた髪の下に覗く耳が赤い。不器用にも程がある、間抜けな二人だ。二人して茹でダコだ。まだ話し半分、現実味を帯びないけれど、どうやら夢ではないらしい。

「俺も余裕がないな」
「いつも飄々としてる降谷が私で余裕がなくなるの? 何だか気分良い」
「そういうこと言うと、男は何されても良いんだと解釈するから発言には気をつけて」
「いいよ。夫婦の前に、恋人になろうよ」

鼻をすすりながらイタズラに笑えば、降谷は目を丸くした後に困ったのように笑った。

「煽るな、と言ってるのに……どうなっても知らないぞ」