ロマンチストには程遠い(降谷零)

 

 

 

覚えていない、なんて大嘘だ。

触れる素肌から伝わる体温、私を呼ぶ甘い声、頰を撫でる優しい手つきもいつもと違う余裕のない表情も、何もかも忘れられるわけがない。
……起き抜けの私の覚醒を促した、まいったな、という彼の呟きも含めて、全部、昨夜から今朝までの確かな記憶。それら全てを「無かった事」にしてしまえたのは、一重に臆病な自分だった。

昨夜は、どうかしていた。
同僚といえども、庁舎で降谷に出くわす事は滅多にない。軽く一杯どうだ、の誘いに迷う理由はなかった。久し振りに会えた事が嬉しくて、誘われた事に浮かれていたと思う。

『君と居ると落ち着く』

グラスを傾ける彼が横で笑うので、今夜こそ気持ちを伝えてしまおうか、と揺らいでしまった。けれど続けて発された『別の落ち着き方をしろ、とお偉方には言われるけど、そんな暇はないからな』に、せり上がった気持ちは一瞬で縮こまってしまった。同業である以上、そうだね私もだよ、と乾いた笑いで応じるしかなかった。
あまり飲みすぎるなよ、と諫める彼に対抗するように、いつもよりも早いペースでカクテルを煽った。

そこから、何がどうして二人でホテルへ縺れ込むような事になったのか。店を出たところで、案の定飲み過ぎて足元が覚束ず、ふらついて支えられて目が合えば次の瞬間には唇が重なっていた。言葉なんて何もないまま、降谷に手を引かれるまま歩を進めて、ついでに事も進めてしまった。
我に返ったのは、始発もそろそろ動くだろうか、という時間。背中から温もりが離れて、肌寒さで目が覚めた。
ベッドから身体を起こした彼の口が二言目を発する前に、背を向けたまま、無かったことにしてほしい、とお願いした。昨夜の事はあまり覚えていないのだ、と。
降谷は「分かった」とだけ呟き、徐にシャワールームへ向かった。その間に散らばった服を集めて、私は部屋を後にした。

朝の選択肢は幾つかあった。玉砕覚悟で気持ちを伝えるか、格好つけて身体だけの関係を望むのか、それとも。
私は、最も、自分が傷付かないと思う方法を選んだ。
腰を落ち着ける場所を作れない降谷が、後腐れなく過ごすのに丁度いい相手だったに過ぎない。疲れていて、飲みすぎて、たまたまそこに私が居た。事故のようなものだった。

同僚といえども、私の三人分は忙しいだろう降谷に出くわす事は滅多にない。その筈なのに、ここのところ、やけに庁舎で姿を見る。他の顔をする仕事に何かあったのだろうか、と気にしてしまうのに、目が合っても思わず逸らしてしまう。後頭部に刺さる視線に気付かないふりをして、仕事に集中する日々を送った。……あの日から、降谷とは一度も話していない。

「……あれ?」

デスクに積み上げられた資料を切り崩しても、引き出しをひっくり返しても見つからない。どうかしたか、と怪訝そうに見やる先輩に苦笑を返した。

「会議資料、さっきの部屋に忘れてきたみたいです。取ってきます」
「大丈夫か? 最近、ぼーっとしすぎじゃないか。俺はもう帰るけど、あまり遅くなるなよ」
「はい、すみません」

家に帰れば、時間を持て余せば、余計な事を考えてしまう。忙しいくらいが丁度よかった。かといって抱えすぎた仕事がデスクに書類を積み上げて、こうして失敗するのは間抜けが過ぎる。駆け足で会議室に向かい、溜息を吐きながらドアノブを回す。扉を開けた先、入口のすぐそこに佇む降谷が、静かにこちらを振り返った。どうして、ここに居るんだろう。動揺を隠すように拳を握る。部屋に入り扉を閉めた。鋭い瞳が、私を見据える。

「……これ、君のだろ」
「あ、うん。ありがと」

こちらへと近寄る彼に、引き攣る笑顔を送った。爆発的に早くなった鼓動は聞こえないふりをして、彼が差し出す書類に手を伸ばす。礼と共にそれを掴んだ筈なのに、降谷の手は書類から離れない。どうしたのだろうか。訝しみ、その顔を見上げた。一歩、またこちらへと近付く彼に気圧されて、後ろに下がる。また一歩。入ってきた扉が背中に当たる。

「ふる、や?」
「俺を避けてるだろ」
「いや、その……っ」
「無かった事にしろ、と言ったのはそっちなのに」

いきなり、核心をつくような直球すぎる言葉。降谷らしい。おかしいとは思った。幾ら注意力が散漫していたとしても、大事な書類を忘れるはずがない。忘れて、誰も気づかず会議室を後にするはずがない。

「……仕組んだの?」
「そうじゃなきゃ、話しも出来ない」

彼の見立ては正しい。話がある、と馬鹿正直に呼び出されたところで、私は理由を付けて行かなかっただろう。二人きりになる時間がこんなにも怖いだなんてこれまで考えた事はなかった。
顔を上げられない私に、降谷は真顔で追い打ちをかける。

「本当は口もききたくないなら、そうする。二度と仕事以外では話しかけない。これまで通りにしろ、と言うならそうする」
「ご、め……」
「謝らないでくれ。……なあ、覚えてないなんて嘘なんだろ」

言葉が、出てこない。口もききたくない、なんてそんなわけない。ただ、自分が分からなかった。これまで通りに出来ると思った。出来るわけなかった。いつからか、ずっと目で追っていた。同期の特権か近くに居る事を許されて、同じ痛みを共有してきた。彼が守りたいと思うものを私も守りたいと思うし、彼が傷付かないようにたすけたいと思う。国が恋人だ、なんて言う馬鹿な男を、それでもずっと好きだった。忘れようと思えば思うほど、あの夜の熱が浮かぶ。いつもの笑顔が浮かぶ。

「答えないなら、もういい」
「……降谷」
「忘れたいなら、それでもいい。もう一回、何度でも刻むだけだ」
「え……」

顔を上げると同時、首筋に痛みが走った。噛みつかれたのだ、と把握した次には、同じところを舌の熱が這う。思わず上擦った声が出て、咄嗟に口を手で覆う。覆ったのに、その手を取られて顔の横に縫い付けられた。指が重絡められて、ぴくりとも動かせない。その間に首過ぎに埋められた唇が上へ上へと上がり、耳へ吐息が送り込まれて、身体が跳ねる。

「ふるや、待っ……!」
「待たない」
「やだ、やめて」

縋るように懇願しても、止まることはない。髪をかき分けて唇が耳に、額に、触れる。向けられた事のない怒気に触れて、身体が震える。こわい。どうして怒っているのか、分からない。こんな風になりたかったわけじゃない。ただ、変わらないままで居られたら、と。出来る筈もないのに考えた愚かさが彼を怒らせた。それなりに鍛えている筈の身体は、降谷に取り押さえられて少しも動く事が出来ない。思考がまともに働かない。
お願い、と再び絞り出すように零した声に促され、漸く顔を上げてくれた降谷は、大きく目を見開いた。手の力が、少しだけ緩む。

「……泣かないでくれ」
「泣いてない」
「君は、俺には嘘ばかりだな」

浸食は止まっても、絡められた指が解けることはなく、扉に押し付けられた身体は身じろぎ程度しか出来ないままだ。目尻に溜まった水滴を吸われ、恥ずかしくて目を瞑った。その間に、小さく、唇に触れる熱。

「俺が嫌いか?」
「……嫌いになれたら、苦労してない」
「なら、これから好きになれるか」
「え?」
「いや、好きにさせる。嫌わないでくれ」

頭はずっと、パニックを起こしていた。降谷が吐いた言葉を脳が処理するまで随分と時間がかかる。彼は何を、どういうつもりで言っているのだろうか。固まったままぐるぐるとしている私を覗き込んで、降谷は大きく息を吐いた。その顎を私の頭上に乗せて、髪を撫で始める。

「あの日、あんな勢いで事に及ぶ予定じゃなかったんだ。なのに、君が……」
「私が、何?」
「……覚えてないなんて嘘だろうと思ってたけど、本当に忘れてる事があるみたいだな」
「え、え? 何なの」
「いや、いいよ。鈍いのは知ってる」

片眉を上げた降谷が私の両肩を掴み、また溜息を吐いた。やっぱり、訳が分からない。全部、覚えている筈だ。記憶のない時間帯などない。その筈なのに、項垂れる降谷を見ると、知らないうちに何かしでかしたのだろうか、と考え込んでしまう。考えても分からないので、よく擦り合わせて話し合わないといけない。これからどうするのか、選択肢は幾つかある。コマンド『逃げる』は選ばず、『ガンガンいこうぜ』に作戦変更を決め込んだ。覚悟を決めて、深呼吸をする。

「降谷のこと、これから好きにはなれないよ」
「……そうか」
「だって、もうとっくに惚れてる」
「は?」

綺麗な顔が間抜け面でぽかんと口を開けている。その顔が面白くて私は泣きながら笑った。

 

 

 

 

by your side(安室透/降谷零)

by your side

 

「ボク、なまえさんが安室さんの彼女だと思ってた」

突然切り出された話題に、思わずカップを取り落としそうになった。悟られないよう平静を装うが、訝しむ視線が身に刺さる。

「私が? まさか」
「だって、なまえさんが来た日の安室さんって何だかソワソワしてない? それに今も凄くこっち気にしてるよ」
「探偵さんって、ホント観察好きよね」

とある事件で知り合った、小学生らしからぬ聡い少年。侮れない、と瞠目していたのは警視庁の風見さんだっただろうか。毛利小五郎の家に預けられているらしい彼は、娘の蘭ちゃん共々、安室透と面識があるらしい。予想外の繋がりに、初めは不味いかと思ったけれど、ついつい茶飲み友達になってしまった。自分の同僚とどこか似た面のある、秘密の多そうな探り屋だ。

「職場に知人が来てたら、無意識に気になるものなんじゃない?」
「そうかなあ」
「……私たちは、そんなものにはなれないよ」

彼氏とか彼女とか、そんなものは簡単に望めない立場にある。守りたいものの為に、時には互いを切り捨てなければならない。何があってもどちらかが生き残らなければならない、共に死にたいと願ってはいけない相手。いざという時に判断を鈍らせるような存在は、極力作らない方がいい。取捨選択はシンプルであるほどベストだ。

「……なまえさん?」

首を傾げるコナンくんに笑顔だけを返し、二人分の伝票を持って立ち上がる。

「そろそろ行くね。しばらく仕事で海外だから、今日は顔を見られて良かった」
「海外、って」

毛利さんや蘭ちゃんが不在だったのは残念だけれど、仕方ない。そろそろ戻って、残った仕事を片付ける必要がある。やる事はいつだって山積みだ。

「……顔を見たかったの、ボクじゃないんでしょ」
「君はホントに疑り深いなぁ」

じゃあね、と会計へ向かえばちょうど身体の空いたらしい安室透が、それは綺麗な笑顔をくれる。ありがとうございますもうお帰りですか、と丁寧に応えながらも、背後にはどういうことだ 聞いてないぞ、と文句が浮いているように見えた。
ベルが鳴り、新たに入ってきたお客さんと入れ替わる形で外へ出れば、わざわざ見送りに出てきた安室さんに強い力で腕を引かれる。

「痛い、です」
「すみません」

口では謝罪を述べても、その手を離す気はないらしい。振り払おうにも力で敵う相手ではない、が、追って出てきたコナンくんに気を取られてくれたのか、再び鳴った瞬間に意外にもあっさりと逃れることができた。

「さようなら、安室さん」

笑ってそう告げ去っても、追いかけてくる様子はない。当たり前だ、寧ろ引き止められたことがおかしいのだ。安室透は私の彼氏でも何度もない。彼のことを好きですらない。だけど、守りたいと思っている。おこがましいと叱られるだろうか。「安室さん」にではなく、あの人に。

出立まではあっという間だった。向こうでの動き、部下たちに残していく仕事、どれだけ確認してもまだ足りないように感じた。それでも遂に明日だ。ポアロにはあれ以来行っていないし、元より登庁してくる事が稀である降谷と顔を合わすことは滅多にない。会おうと思わなければ会えない相手だった。
ところが家に帰ると、もう当分見ることはないと思っていた彼が、不思議にも我が家のソファに落ち着いていた。片膝に頬杖をついてこちらを睨んでいる。

「……何で居るの、降谷」

当然だが招いた覚えはなければ、ただの同僚に合鍵を渡している筈もない。部屋に入れるのが初めてというわけでもないけれど、いまいち状況が掴めずにいる。

「NYでの捜査が他の奴に変更になったから、荷造りの必要はないと伝えに来たんだ」
「え……?」

ずっと追っているテロ組織の、主となるメンバーが国内に入ろうとしているという情報を入手し、活発化する前に頭を抑える為の渡米予定だった。行けば数年は帰れないかもしれない仕事だが、手前数年間ずっと調査してきた相手だ。覚悟を決めていたのに、他の人間が、代わりに行く?

「一体なにを言ってるの。明日のフライトだって抑えてるのに」
「キャンセルだな。どうしてもNYへ行きたいなら有休を取って行けばいい」

本当は熱海が良いけど、と続ける降谷と話しが噛み合う気がしない。有休なんて都市伝説だ。ツッコミどころが多すぎて眩暈がする。落ち着こう、まずは深呼吸だ、と彼の座るソファへ腰を下ろした。一人暮らしには少し大きい、お気に入りのソファ。長く部屋を空けることになっても、帰る場所を失うわけにはいかない。部屋は契約したまま、最低限のモノを残していくつもりだった。

「……降谷が横暴なのは今に始まったことじゃないけど、最近は度が過ぎる」
「サミットでのことを言ってるなら、怪我人を外すのは当然の判断だ」

自分だって怪我してたでしょう、とは散々言い合ったことだった。それでも私はあのとき、現場から外され、後方支援に回るどころか全てが終わるまで病院に缶詰にされた。生きていて良かった、と何人もがそう言ってくれたけど、それは確かだと思うけど、欲しいのは自分だけの安全じゃない。何も出来ない不甲斐なさに頭を抱えた。

「今の私は足手纏いの怪我人じゃない。そんなに信用できない程、私は頼りない?」
「違う」
「だったら今回は何?」
「俺が嫌なんだ」

座面に置いた手が触れる。降谷の手が、重ねられる。

「行かせたくない」

そうやって、いつも私の心を揺さぶる。確信に迫る言葉は何もくれないくせに。それでも良かった。対等で居られるなら。そんな風に考えて、惚れた腫れたをする暇も余裕もなく、ひた走ってきた。なのに心が揺らぐのは、ひとえに歳の所為だ。いいひと居ないの、紹介しようか、うちの息子はどうだ、なんてどれもこれも馬耳東風。同じようにうんざりした降谷と顔を見合わせて笑っていたけれど、先に耐えられなくなるのは、私が確かに女だからだった。
このまま燻っていても上には行けない。功を焦っている、と笑われても構わない。国外へ出るのは本意ではないけれど、立ち止まって手遅れになるのは御免だ。追っているテロ組織のことも、自分の昇級も、恋愛も何もかも全部。逃げ出すわけじゃない、と言い聞かせた結果の決断だ。

「どうしても、っていうなら俺も行く」
「正気? 降谷の嫌いなUSAだよ」
「行く。それで、すぐに終わらせて、二人で帰ってこよう」

包まれた手から熱が伝わる。縋るように覗き込む瞳には間抜け面をした自分が映っていた。
“降谷零”である彼のこんなに下がった眉を見るのは初めてかもしれない。

「ちょっと、本当にどうしたの?」
「……サミットでの爆発の時、君を失ったらどうしようかと気が気じゃなかった」

また、俺は失うのか、と。
ポツリと小さく呟かれた言葉に、はっとする。背に回った降谷の腕が身体を引き寄せて、鼻先がその肩に埋まった。抱きしめられているのだ、と理解するのに数秒を要した。

「……頼む、もう俺を置いていくな」

置いていくな、なんて言ったっていつも先を行くのは降谷じゃないか。そう返そうと思って、やめた。置いていかれたのは私たち二人だ。
守られるだけのか弱い存在で居たくないと、いつだって意地を張ってきた。だけど、強くても弱くても、明日を失う可能性は誰にて等しくどこにだって潜んでいて、私たちは幾つも自分たち以外の誰かを見送ってきた。いつか失くす事に慣れてしまう日が来るのだろうかと恐れたけれど、きっとそんな日は永遠に来ない。時間が心に空いた穴を少しずつ修復してくれるけれど完全に無くなることはなくて、小さな穴を抱えて生きていくしかなかった。これ以上、増やしたくない。

「降谷」
「嫌だ、行かせない」
「降谷。私、ちゃんと帰ってくるから」

まるで小さな子どものような我侭を言う。言うだけでなく、実現できる手段を持っているという点で非常に質が悪いけれど。あやすように背中を一定のリズムで叩けば、顔を上げた降谷と目が合った。

「だから降谷も、あまり無茶しないでね」

無理をするな、と言っても聞かないだろうから、せめて風見さんが胃を痛めるような破天荒はなるべく慎んでほしい。

「約束しよ?」
「そうだな……。善処する」
「ん?」
「お互いに無茶は控えよう。それと、NYには行かせない」
「だからぁ」

今更、無理言わないでよ。続けようとした言葉は、鳴り響くコール音によって遮られてしまった。私の携帯ではないから、降谷のだ。音の発生源をポケットから取り出し画面を確かめると、数秒前の情けない表情なんてまるで無かったことみたいに真剣な顔つきで通話を開始した。

「風見か? ……ああ。…………そうか。分かった」
「大丈夫?」
「ああ。誰もNYに行かなくて良くなった」
「は!?」

鏡にうつせば、さぞ間抜けな顔をした自分がそこに居ることだろう。先程とは一転して見慣れた得意げな表情に変わった降谷が、一体何を言っているのか理解出来そうもなかった。

「こっちで追っていた武器商団体の取引先が、例のテロ組織だったんだ。無事に現場を抑えたらしい。取り調べで目ぼしいところは殆ど抑えられそうだ、と報告の電話だ。海外に散っている全てというわけにはいかないけど、少なくとも日本ではもう好き勝手は出来ないだろうな」
「嘘でしょ……」

あまりに予想外の展開に、もう一度 冗談でしょ?と問いかけるも虚しく、冗談は言わない飛行機はキャンセルだ、と淡々と返される。どうやら本気らしい。とはいえ、又聞きを鵜呑みにするわけにもいかないので、こちらもすぐにチームへ連絡を入れようと携帯を取り出せば、既に幾つかの着信履歴が残っていた。サイレントにしていて気付かなかった。慌てて折り返せば、先程聞いたより仔細に顛末が語られ、終いには移動予定だった明日は午後からの登庁で構わない、と言う。事態が急転したから、やる事は山積みだけれど合同で動く分、人手が足りている。たまには休んでください、と気を遣われてしまった。大きな溜息を吐いてソファに突っぷす。結果は嬉しくても、悔しいやらムカつくやらで震えてしまい顔を上げられない。

「良かったな、今夜はゆっくり眠れそうで」
「馬鹿にしてる……」
「してないよ」

ぽん、と頭に手が乗せられた。さっきまで慰めていたのは私の筈だったのに。

「多少、強引に動いた自覚はある。でも、良かった」
「……NYに行くつもりなんて無かったんじゃない」
「そうでもないよ。最終手段だけど」

飄々と宣う降谷の言葉を聞いて、溜息とも深呼吸ともつかぬ大きな息を吐きながら、ゆっくりと上体を起こした。驚きと悔しさで滲んだ涙を降谷の指が拭う。

「傍に居て欲しい。嫌だって言っても離すつもりないけど」
「今回は私の完敗ね……」

見上げれば、また打って変わって余裕の無い顔。見られたくはなかったのか、再びその胸に包まれる。観念して、こちらも背中に腕を回した。
全く、敵わない。いつだってそうだった。涼しい顔を見せていても水面下では何をしているか分からない。ずるい男。けれど、その仮面の下の努力をほんの少しだけ知っている。長い付き合いだから。
秒針を意識するくらい長い抱擁を終えて、口を開いたのは降谷だった。

「そろそろ帰るよ。明日、午後からの出勤ならポアロでモーニングはどうだろう」
「勿論、奢りよね?」

仕方ないな、との答えに小さくガッツポーズした。立ち上がった彼を見送るために玄関へ向かう。コートを羽織る彼を見つめながら、靴べらを渡すために右手へスタンバイする。

「それにしても、降谷も少しは同期離れしてもらわないと。今回は結果オーライだけど、いつもそうとは限らないんだし」
「ん?」
「次は降谷がブラジルに飛ぶかもしれない。目の届くところに居なくたって、ちゃんと生きて帰るから、友人なら少しは信頼してほしいよ」
「……ただの同期にここまですると本気で思ってるのか?」
「ん?」
「…………」

二拍も三拍も置いて、降谷が大袈裟な溜息を吐いた。何なんだ。

「いいさ。想定内だ。元から長期戦で動いてる」
「何、今度は何の話し!?」
「明日の朝、絶対に寝坊するな、って話しだよ」
「降谷、会話を自己完結するくせ直した方がいいよ」

ああそうだ、降谷と話が噛み合わないのは割といつもの事だった。こういう時は尋ねても求める答えは得られない。何を考えているのか聞き出すのは諦めよう。
靴を履き終えた彼から差し出された靴べらを受け取るために手を伸ばせば、それを持った方とは反対の手に触れられて、そのまま手のひらにリップ音が乗せられた。

「へ」
「おやすみ。また明日」

靴べらは降谷によってフックに戻される。固まっているうちに玄関は開き、降谷が背を向ける。夜だからか勢いを殺してゆっくりと閉まり行く扉の向こう、悪い笑顔が浮かんで、消えた。
ハグはまだ良い。友人だってそれくらいする。だけど最後のは、何、だろう。そろそろ開いた口が塞がらなくなって、顎が外れてしまうんじゃないだろうか。

思いっきりストロングなコーヒーを注文した。そうでもないと目が覚めそうにない。ひと口目が喉を通ったところで鳴らされたポアロのベルは、毛利父娘とコナンくんが発したものだった。おはようございます、と挨拶をすれば、こっちで食べてもいいか、とコナンくんが駆け寄ってきた。

「なまえさん、海外に行ったんじゃなかったの?」
「大人には色々あるの……」
「へー」

ハムサンドを待つ間に、一杯目のコーヒーを飲み干してしまいそうだ。

「やぁ、コナンくん。おはよう。いらっしゃい」
「おはよう、安室さん。何だか安室さん、今日はすごく機嫌が良いね」
「分かるかい?」

私からそれ以上は聞き出せないと判断して、即座にターゲットを切り替えたらしい。相変わらず好奇心旺盛な少年だ。

「ねえ安室さん、お姉さんの海外行きがどうして無くなったか知ってる?」
「さぁ……僕の気持ちが通じたのかな」
「常連が減ったら困りますもんね!」

ヤメロ。少年とはまた違う好奇心を覗かせた女子高生が、きらきらとした瞳でこちらを見つめるので、軽率な発言はお控えください。そんな気持ちを込めて、安室さんへと視線を送る。

「延期になったのかな?」
「そうね。また行くことになるかもしれない」
「それは困りましたね」
「ボクも嫌だな〜。何とかならないの?」
「こればっかりは、私には何とも」
「そうですか……。なら、居なくならないように、ちゃんと掴まえておかないと」

そう言って、肩に手を置かれると同時、頭に唇が落とされた。顔を真っ赤にした蘭ちゃんと目が合って、気まずいことこの上ない。顔に昇る熱を自覚して、原因を睨むことも出来ない。負け続きは御免だというのに、敵わない。心臓が幾つあっても足りそうもなかった。

 

 

Engagement(降谷零)

Engagement

 

 

顔に当たる夜風が火照りをゆっくりと下げていく。深呼吸と共に身体を伸ばし、凝った筋を無理やりに解す。軽い足取りで進めば後ろから「こけるぞ」と酔っ払いへの咎めが聞こえる。同期なのに、時に兄どころか母のように小うるさいこの男────降谷は、その端整な顔を歪ませて、ふらつく私の腕を引く。触れた箇所に熱が集中する気がしたけれど、それはほんの一瞬の事で手が離れると同時にすっと冷えていった。自分があまりに分かりやすくて自嘲する。動揺が伝わらないように、離れた事を喜ぶように軽い足取りで踏み出せば後ろから溜め息が送られた。

「飲み過ぎだ」
「知ってるよ」

冷えた空気もこの時期特有の街の陽気も、私の高揚を奪い去る事は出来ない。忘年会などある筈もなく忙殺される師走の夜、互いに消えない目の隈を視認し、今日はもうやってられるか、と終わらない報告書を放り出して二人で食事を取りに来た。世間は三連休中日で、クリスマスモードで、仕事納めもすぐそこで、浮き足立った街を恨めしく思う。だけど、本当は私も少しだけ浮かれていた。根を詰めて働き帰って独りで泥のように眠るだけ今夜だと思っていたのに、惚れた男に誘われて、美味しいご飯を食べて、ほんの少しだけドキドキする夜になった。最後の良い思い出になる。

「ちゃんと一人で帰れるのか?」
「だいじょーぶ、大丈夫。何年お一人様してると思ってるの」
「それは関係ないだろ」

それが関係あるんだよ、降谷クン。お一人様の休日もクリスマスも誕生日も、ワンナイトで終わる愛に縋る若さは何処かに忘れた。いい歳して未だ仕事が恋人で、切羽詰まってきたからこそ下手な駆け引きで心を消費しないように、寄り道はせず真っ直ぐ家へ帰るんだ。ぽっと出の男に身体だけでも温めて、なんて可愛い事を言える女だったら良かったのにね────そんな戯言を貴方に聞かせはしないけれど。

「危険認識が甘すぎる。俺が送り狼にならないとも限らない」
「別にいいよ。今、気分良いから」
「はあ?」
「って、降谷はそんな事しないから言えるんだけど」

ぽっと出の男は嫌でも降谷がいいんです、とは言えず軽口を笑い声で覆った。
少しはペースを乱されてくれたらいいのに、呆れただけだろう溜息が零される。出来ればその表情までは見たくなくて、胸に込み上げる何かを誤魔化すように笑いながら、素早く捕まえたタクシーに一人乗り込んだ。乾いた笑いが引き攣るのは寒さのせいにしてしまおう。
これでおしまい。今日が節目だ。今夜で、警察学校時代からずるずると抱えてきたこの気持ちと決別すると決めていた。そろそろ潮時だ。踏み出す気のない片想いを続けていても仕方ない。最後にずっと好きだった、と伝えてしまおうかとも思ったけれど、今はまだ過去形で話せる自信がない。長い付き合いの中で「ただの同僚」よりは近しいポジションを陣取れていると思う。けれど、そんな小さ優越感だけで生きていけるほど、もう若くはない。

「おい、」

続けられるだろうお説教は出来れば今夜は聞きたくない。忙しい降谷と連続して顔を合わせる事は滅多にないから暫く顔を合わせずに済むだろう。それに明日は滅多にない非番だ。無理やり取った休みは、失恋記念日ということで家でゆっくりと過ごそう。口を開きかけた降谷を制したのは行き先を催促する運転手のせいにして、重なった視線を逸らしてしまう。

「それじゃ、おやすみ」
「……ああ。おやすみ」

『今どこに居る?』

ロックの掛かった携帯に通知が上がる。近所のコンビニへ出掛ける身支度の最中だった。だらだらと過ごした休日は、夜になってそういえば一日食べていないのに食料が何もない事に気が付いた。せっかくの非番を寝て過ごすなんて何て勿体ない、とは思うも同時に何て贅沢で豊かな休日だろうか、とも思う。どうせ街には出掛けたくなかった。連休最終日がクリスマス・イヴだなんて、街の浮かれ様は見なくても想像がつく。堪えられる装甲は身につけていない。とはいえ、せっかくのクリスマス・イヴだ。コンビニの値下げされたケーキでも買ってみようか、と企んでいたところだ。
通知を確認すれば降谷からで、まさか仕事じゃないだろうな、と怯んだけれど電話じゃないのだから緊急の案件ではないだろう。ならば返信も急ぐまい、と後回しを決めた。
ところが大した間を空けず鳴る音は今度は電話で、どうか登庁しろとは言われませんように、と祈りながら通話ボタンをタップした。電波の向こう、聴こえてくる音から運転中かと予測する。

「はい」
『今どこに居る』
「どこ、って非番だから家だけど」
『非番? ……まぁ良い。今から行く』
「いや、え? ちょっと待って。どうしたの?何かあったの?」
『時間が惜しい。着いてから説明する』
「ちょっ」

言いたい事だけ言って電話を切るのは、いい加減やめた方が良い、と何度伝えても直らない。あの調子では折り返しても出ないだろう。深く深く溜息を吐いて、ソファに頭から突っ込んだ。

呼び鈴が鳴って、再び溜息を吐きながら重い腰を上げる。よりにもよって今日、何故顔を合わせなくてはならないのか。何の為に非番としたのか。降谷に会いたくなかったからに他ならない、のに。何の用かとあれから考えたけれど見当も付かない。今、共に動いている案件は無いはずだし、別で追っている問題が重なったとかだろうか。分からない。
マンション下のオートロックを超えて、再び鳴った音は玄関だろう。モニターに映る降谷を確認し『開いてるよ』と声を送った。ダイニングへ入ってくる音で、座したまま弄っていた携帯から顔を上げれば、目で認識する前に肺いっぱいに届く香りで、花がある、と認識した。

「え? 本当にどうしたの?」

今日は登庁じゃなく喫茶店の方だったのだろう。ラフな格好で、嫌味に似合う綺麗な花束をその肩に置いて、しかし眉間に皺寄せて立っている。喫茶店のお客さんに貰ったけど花瓶がなくて困っている、とかだろうか。

「生憎、うちにも花瓶は無いよ」
「違う」

何が、とは言わずともこちらの言いたい事は伝わったがどうやら違うらしい。だったら何だろうか、と首を傾げていると、降谷はあからさまな溜息を零し、花束をこちらに差し出した。立ち上がり、目の前にある花を贈られる意図が分からず暫し無言で見つめる。

「プロポーズだよ」
「ああ、なるほど。プロポーズ……は?」

プロポーズ。なるほどプロポーズ。ええと、誰が、誰に? 降谷が誰かにプロポーズされて結婚する事になったからその報告?うわ、だったら最悪だ。確かにもうたった二人の同期だけれど、よりにもよって今日来ることないじゃないか。どこまで惨めにしてくれたら気が済むんだ。

「また変な顔して的外れを考えてるんだろう。言っとくけど、俺が、君に伝えに来たんだ」

ほら、と差し出されるままに花束を受け取ってしまう。降谷が、私にプロポーズ。それにしては渡し方が雑じゃないか? 何の冗談だ?
プロポーズっていうのは、恋人である二人が夫婦という次のステップに進む為に行うもので、つまり付き合っていない恋人ではない私たちとは無縁のイベントだ。降谷は一体、何を言っているのだろうか。未だに飲み込めなくて、混乱を極めている。

「何の冗談?」
「冗談は言わない。今日が、約束の日だろう」
「え」

約束。約束と言えるほど確かな話しではなく、もっと拙いものだった。友を失って仕事に明け暮れて恋に現を抜かす暇なんてこれっぽっちもなくて、このままじゃ互いに独りで死んじゃうね、残す人の事を考えればそれも悪くないかもね、なんて自嘲した後に、冗談のように誤魔化しながら笑ったあの日から、ちょうど今日で五年が経った。

「『ずっと互いに独りで居るより、独りが二人なら良いかもしれない。俺たちならそれが出来る。もし五年経っても』」
「『独り身だったら、結婚でもするか』、って……あんなの、約束なんて言えるものじゃ」
「それでも」
「断られるとは思わないの?」
「断るのか?」

口角を上げて、ずい、とこちらへ詰め寄る彼に言葉を詰まらせる。そのまま正面から腰に腕を回されて、身体を固定される。押し返そうにも花束を抱えたままで、潰れないように間に挟まったソレだけが上半身の距離を作っていた。

「待って、待ってよ。降谷、私のこと好きなの?」
「君の視線が俺を追いかけ始めるより前からね」
「うえっ」

好きだと自覚したのは、いつからだっただろうか。自然と目で追ってしまうようになったのは。それを見抜かれていただなんて恥ずかし過ぎる。

「なのに君は、事あるごとに恋愛する暇はないと宣うし」
「それは、降谷だって国が恋人だって」
「誰でも良いよう事を言うかと思えば、俺が君に手を出さないと間違った信頼を寄せてる。ふらつく身体を掻き抱いて連れ帰って押し倒してやろうかといつも思ってる事も知らずに」

至極、真面目な顔でとんでもないことをべらべらと話し出す。遅れて意味を理解して、顔に熱が昇る。

「俺はこんな状況で普通の生活とは程遠いし、君に恋人が出来て、幸せになってくれるならそれが良いと本気で思ってたんだ。でも全然その様子はないし」
「悪かったですね、いつまでも仕事が恋人で」
「恋人になれば相手の全てを掌握できると勘違いしそうになる。醜い嫉妬を見せるくらいならこれまでの距離がちょうど良くて心地良かった。けどそれ以上に最近、離したくなくなった」

俺も歳かな、なんて眉を下げる降谷に鋭い視線を送る。どういう意味だ。

「何で素直に好きって言えないの」
「好きだよ」

ストレートなのは、それはそれで困る。至近距離で交わる視線の先、瞳に映る自分は口を開けた間抜け顔。これまでではない距離感に堪えられそうもない。意地はもう張れない。頭が爆発しそうだ。

「ぜったい、あんな話し忘れてると思ってた」
「うん」
「もう、諦めようと思ってたのに」
「知ってる。だから少し焦った」
「覚えてるなんて」
「うん」

片想いが報われる事なんて絶対にないと思っていたのに。

「僕の妻になってほしい。返事は? ダメも保留も聞かないけど」
「自信過剰ぉ……」
「ん?」
「うう、はい。私も好き、です」

抱えた花に顔を埋める。きっと茹でダコみたいだ、と評される程に赤くなっているだろう。見られたくなくて隠したのに、与えられたばかりの花はあっさりと離されて、テーブルへ除けられてしまった。隔てるものがなくなって、数十センチの距離も無くされてしまう。吐く息が額にかかる。

「……よかった」

心底安心した、とでも言うように大きく息を吐き出し、私を包む腕に力が込められた。少し苦しい。加減を考えてくれ。

「守りたいものがある。君を一番には出来ない。それでも隣に居てほしい」
「そんなの、私もだよ」
「……だから君が良いんだ」

腕の力が緩くなり、再び降谷を見上げる。顔がいい男の破顔というのは、こうも破壊力があるものなのか。愛しそうに見つめられているのが自分であることが気恥ずかし過ぎる。

「煽らないでくれ」
「あおっ、てない!」
「昨日も言ったけど危険認識が低すぎる。昨夜は余程、連れて帰るか付いて行こうか迷ったけど、手を出さない自信がなかった」
「今は違うの?」
「……今もない、けど」
「けど?」
「まだ夫婦じゃない」

先程まで自信満々に詰め寄ってきていた降谷が、そう言うなり、ふい、と顔を逸らしてしまった。ぴょこんと跳ねた髪の下に覗く耳が赤い。不器用にも程がある、間抜けな二人だ。二人して茹でダコだ。まだ話し半分、現実味を帯びないけれど、どうやら夢ではないらしい。

「俺も余裕がないな」
「いつも飄々としてる降谷が私で余裕がなくなるの? 何だか気分良い」
「そういうこと言うと、男は何されても良いんだと解釈するから発言には気をつけて」
「いいよ。夫婦の前に、恋人になろうよ」

鼻をすすりながらイタズラに笑えば、降谷は目を丸くした後に困ったのように笑った。

「煽るな、と言ってるのに……どうなっても知らないぞ」

 

 

 

 

ノンシュガー(安室透)

 

 

ミルクも砂糖も要らない。濃く苦みのある味が好きだ、と言っていたのは初めて会った時だっただろうか。提供してから少しの間立ち上る湯気を眺めている事から猫舌なのだろう、と予測を付け、今は彼女専用に通常より低めの温度で抽出している。苦味を作るには高温が適しているのは確かだけれどすぐに口にしてもらえないのでは意味がないので深煎りの豆に85度程度の湯を乗せる。しっかりと蒸らされ膨らむ豆が薫れば、自然と口角が上がる。

「お待たせしました」
「ありがとうございます」

本を閉じてにこやかに笑う彼女にこちらも自然と笑みが零れる。一口目が口に運ばれると同時に出入口のベルが鳴り、駆け込んできた少年が慌ただしくランドセルを下ろし彼女の横に座った。

「コナンくん、こんにちは」
「こんにちは! ねえ、新刊は読んだ!?」
「ええ、約束通り第三章までだけ」

犯人は誰だと思う、トリックはどうだ、と話に花を咲かせている。客の少ない穏やかな午後。自分が働き始める前からポアロの常連であるらしい彼女はいつも本を携えていて、それが推理小説であるときは決まって二階からシャーロキアンが訪れる。楽しそうに弾む声が心地よくて自然と笑みが零れた。

「安室さんならどうしますか?」
「え?僕ですか?」

話を振られて狼狽する。聞いていなかったわけではないが、同じ本を読んでいるわけではない自分に意見を求められる事は予想していなかった。物語の犯人は恐らくあの人だろう、と2人の意見は一致しているのに、動機がいまいちはっきりしないらしい。けれど、頭を抱えるコナンに反し、彼女の表情は朗らかだ。

「私は、”好きだから”意思を持って去られる前に自分から失くしてしまおう、なんて考えて犯行に至ったんだと思うけど」
「わっかんねーよ、そんな自分勝手じゃ筋が通らねー……通らないと思うなぁ!ねえ安室さん!」
「人の感情は自分勝手なものだからね。自分のものにならないなら壊したい、と考えても不思議はないかな」

コナンくんには少し難しいかな、と告げれば分かりやすく不貞腐れている。時に大人顔負けの閃きを見せる彼だけれど恋愛の機微には年相応に疎いらしい。どうやら物語の中で犯人と思われる男性は相手の女性を心から愛していると言葉にはすれどその素振りを誰も見たことがなく、女性が亡くなってからもそれは変わらないらしい。
それがおかしい、と少年は言う。分かりやすく実はサイコパスでした、なんて結論付けでは推理が面白くないのも頷けるが、狂気は自分たちが思うよりもずっと身近にある。

「誰かの気持ちを全て理解するのは難しいよ。トリックはどうなの? 彼はどうやって現場を後にしたのか」
「ああ、それは多分────」

話題が犯人の動機から使われたトリックに移り、初めに投げかけられた質問は搔き消えた。
どきり、とした。推理に対してどう思いますか、ではなくどうしますか、と彼女は言ったのだ。愛しい人の心が自分に向くことがなかったら自分ならどうするか、と。一般論として答えたのはただ自分自身の本心だった。見守るだけで構わない、とケリを付けたはずの想いの向こう、いっそ壊してしまいたいと考える浅ましい自分もいる。触れずに遠くから見守りたいと思うのに、時折こうして揺らぎが大きくなる。彼女が関わるとうまくいかない、その理由をなるべく考えないようにしている。

「コナンくん。携帯、鳴ってない?」
「げっ、やべ……」
「ランドセルも置かずに駆け込んできたもんね。蘭ちゃんに此処にいること言ってないの?」
「う、うん。ボクちょっと上 行ってくる」

すぐ戻るから!と行って荷物を引っ掴み、訪れたときと同じように慌ただしく扉を開けて走り去っていった。残された店内に揺れるベルの音が響く。気付けば日暮れも近い。

「……コーヒー、もう一杯いかがですか?」
「そうですね、頂こうかな」

カップを温め、蒸気が立ち昇る頃に視線を感じていた客席へ顔を向ければ他の誰でもない彼女と目が合い、しかし一瞬で逸らされてしまった。気付かないふりをすれば良いのに、出来なかった。もう一度こちらを見てほしくて口を開く。

「僕の顔、何か付いてますか」
「いいえ……あの、安室さんならどうしますか。好きな人の気持ちが、自分に向いていなかったら」
「僕ですか?」

突然と思われる恋愛相談は、推理小説の考察の続き、というわけではないだろう。真剣な瞳で尋ねる彼女から視線を外し、手元の抽出を確認する。

「僕は臆病なので、好きな人が幸せならそれが幸せです」
「……模範解答ですけど、それは臆病じゃなくて強さですよ」
「そう言っていただけて何よりです。貴女なら?どう動くんですか、恋が叶わないなら」

会話の流れで、そう尋ねる事に何ら不自然はないだろう。ちゃんと、興味本意に聞こえただろうか。

「……私は、もっと近いところに行きたいです。相手を知る事は叶わなくても、自分を知ってほしい。結論を出すのはそれからでも遅くない、と思ってます」

もう一度重なった視線を、今度はどちらも逸らさなかった。給仕の為にカウンターから出て客席へ進む。席へ届ければいつもと変わらぬ謝礼が返された。

「……知ってもらう事は、怖くはないですか」
「怖いです。でも、始まってもいないのに終わらせたくない」

手を伸ばせばすぐに触れられる距離に彼女が居る。触れて温もりを感じたとしても、きっといつか失ってしまう。いつもそうだ。綺麗な貝殻を拾って走っても手のひらを開いたときにはもうそこにない。全てが零れ落ちていく。そんな手では誰かを抱き締める事も出来ない。守るものがあれば強くなる事は知っていても、その中に自分自身は含まれない。命を賭ける場面で躊躇する理由は少しでも潰しておかなければならない。

「安室さん、また怪我してるでしょう」

まさか、気付かれるとは思わなかった。顔に傷を作ればいつものように転んだんです、と笑えばいいだけだけれど引き摺る程でもない軽度の足の痛み。笑顔を作って店に立つなど造作もない。

「どうして分かったのか、って顔ですね」
「はい。良ければ今後の参考に教えてもらえますか」
「ダメですよ。秘密です。それ以上隠すのが上手になったら困ります」
「秘密、ですか」

そうです、と悪戯っぽく笑う。本当は秘密のんて好きじゃない。彼女の全てを知りたいと思うし、知らない姿がある事は我慢ならない。釦を外して袖を抜いて、その全てを暴いてしまいたい。裸足になって触れ合いたい。

「自分の事は話せないのに貴女の事を知りたいと思うのは、卑怯でしょうか」
「いいえ。そうしたい、と言ったのは私ですから」
「……すみません」

強いひとだな、と落とした視線の先、彼女の指先が震えている事に気が付く。瞳を覗き込めば少しだけ潤んでいるように見えるのは希望的観測だろうか。そんな風に勇気を出して歩み寄ってくれた彼女を突き放さなければならないのが今の自分の立場だ。けれど愛しいと想う人から好意を寄せられて、どうしていつまでも気のない振りを出来るだろうか。もう何度となく考えてきた事だ。間に引いてきた一線を彼女はいとも簡単に越えてきてしまう。好いひと居ないんですか、なら僕が立候補しようかな。なんて軽口、他の人には幾らでも言えるのに彼女にはそれが出来ない。

「……安室さんは、いつも謝ってばかりですね」
「すみません」
「少しでも罪悪感を抱いてもらえるなら、私はそれを利用するだけです」

見上げる瞳が熱っぽく揺らぎ、こちらを捉えて離さない。

「まいったな……僕の負けだ」

貴女に触れたい。
すみません、と態とらしく同じ謝罪を重ねて、机に置かれた彼女の手に触れる。肩が分かりやすく跳ねた。すっかり冷めてしまった珈琲から湯気はもう立ち上がらない。このまま提供する事は店員としての矜持に関わる。淹れ直そうか、けれど今はそんな時間すら惜しい。指の背をそっとなぞる。空いた手で肩を引き寄せれば次は赤く染まった頰に触れたくなって、いとも簡単に崩れていく箍に自嘲する。早く誰かに職務中ですよ、と叱ってほしい。勿論、喫茶店アルバイトとしての、だ。直に小さな足音が階段を駆け下りてきて空気を壊してくれるはず、そうすればもう一度ポットを火にかけ、彼女の為にコーヒーを淹れ直す事が出来るだろう。それまで、ほんの少しの時間、我儘に触れる事を許してほしい。