健全で純粋な危険地帯(赤葦京治)

 

 

 

 

 

彼女が既に他人ひとのものである、と暫く信じて疑わなかったのは仕方のないことだと思う。なんせ初めてその人を認識したのは、木兎さんがその腕に抱き上げた姿だったのだから。それは俺が経験する初めてのインターハイを勝ち進んだ先、試合終了後の木兎さんが高らかに勝利の喜びを叫び、応援に来ていた人に駆け寄ったときだった。抱き上げたとは言っても優しく横抱きにしたのではなく、大人が子どもをその腕に座らせるような雑な形だったけれど。しかも彼女は綻ぶどころか激しい拒否反応を示し、その腕で暴れていたのだけれど。それでも、その関係が男女のソレだと思うのはごく自然なことだっただろう。木兎さんとその人の関係を知っていた、僅かなメンバーを除いて。 当時の木兎さんは長期に不調が続いていて、付き合いの長い先輩たちでさえ扱いに困るくらいメンタルが落ち込んでいた。
後に聞くところ、授業のある日中でさえその調子だったのを、木兎さんのクラスメイトである彼女がたった一言で持ち上げてしまったらしい。「これまでの木兎があれば大丈夫でしょ」と。その一言がどういう意味で発せられて一体どう木兎さんに響いたのかは未だに分からないけれど、彼女に注目するには十分な出来事だった。 とにかく、そこにスターを支える要因があるに違いない、と彼女を紹介してもらい、二人で話せるくらい親しくなるのに半年、その間にどんどんと彼女個人に惹かれ続けてセーブできなくなって、その人がまだ誰のものでもないと知るのにまた半年。やっと想いを伝えてこの腕に閉じ込められる権利を得た頃には、彼女が卒業してしまうまでもうあまり時間は残っていなかった。
それでも、卒業後も何とか繋ぎ止めて今まで付き合い続けてこられたのは単に運が良かっただけなんじゃないかと思うことさえある。特に、今みたいな瞬間には。

「勝ったぞ! 見てたかー!」
「ちょ、木兎! 降ろしてよ、バカ!」

プロになっても相変わらずな木兎さんにいっそ感心さえするところだった。その腕に抱きかかえられているのが、自分の恋人でさえなければ、の話であるが。通路の奥、目に入ってきた情報を処理してまず溜息を吐く。
それは観覧席から通路へと降りて、ほんの僅か彼女から離れた隙だった。流した汗もそのままにコートから駆け出てきたのだろう木兎さんは、あの頃と同じように勝利に歓喜し、試合終了後であるにも関わらず注目を集めていた。一般人も出入りできるスペースで騒いでいるものだから、当然、目撃している人間は自分以外にも多数。現に背後からはスマホのシャッター音や「ジャッカルの木兎選手じゃん!彼女かな?」なんて会話が聞こえてくる。

「見てた見てた、ちゃんと見てたから」
「ホントかよ! 何かテキトーじゃね?」

適当に流そうとする彼女を見抜いて、木兎さんは不満そうに口を尖らせている。彼女は普段と異なる視界の高さを怖がってか、木兎さんの首筋にしがみついていた。さらに、衆人環視のもととまではいかずとも少なからず向けられた人目から顔を背ければ自然と肩に顔を埋めることとなり、つまりは傍目から見れば二人は仲睦まじく抱き合っているようにしか見えなかった。俺の後ろにいるカップルが「ラブラブだね」なんて言いながら再びシャッターボタンを押すのも致し方ないというものだ。

別に、こんな光景は見慣れたものだった。まだ学生だったあの頃、試合中に送られた声援の数や自転車の相乗りで騒ぐ姿、木漏れ日の下で肩を寄せ合い居眠りをする二人、赤点補修を避ける為に彼女が付きっきりで木兎さんに勉強を教えたり、雨の日に傘を忘れた木兎さんの為に彼女が練習終わりまで待っていたり、そんなことは彼女と付き合う前も付き合ってからもごく普通の日常で、大きく変えたいと思ったことはない。そんな奔放な彼らだからこそ憧れた。そもそも両名のじゃれ合いは男女のソレとは思えないもので、例えば「実は血が繋がっていました」とある日突然に告げられても俺は驚かないだろう。それくらい、当たり前の姿だと認識していた。
とはいえ、腹で燻るお世辞にも綺麗とは言えないこの感情は、そういった理性とはまた別のところから沸き上がるものである。
落ち着け、赤葦京治。彼らは何も考えていない。犬猫か子どもがじゃれあっているようなものだ。そう考えて、一人頷くも、いつだったか世話焼きな先輩が呆れながら口にした『たまには怒った方がいいぜ、赤葦』なんて一言が何となく思い出される。そうだ、我慢ばかりは身体に良くない。 ギャラリーから抜け出て、二人に近付き、声をかける。

「アンタたち何やってんですか」
「け、京治……」
「よー、赤葦! 俺の活躍見たかー!」
「見てましたよ。さすがでした。ところで危ないんで、降ろしてあげてください」
「何か二人ともテキトーじゃね?」

あ、これ面倒くさいやつだ。そう察したときにはもう遅い。木兎さんは「今日調子よかったんだけどなー」などとぼやきながらその場でぐるぐると回り始めた。本当に何やってんだ、この人は。
さて、どうしたものか。と逡巡するより先に、その動きを止めるべきだった。
ゴン、と鈍い音がして、依然として木兎さんに抱えられたままの彼女が、呻きながら後頭部を抑えた。吊り下げタイプの看板に頭をぶつけたらしい。通常なら届かない高さにあるだろうソレは、運悪く修理中で装飾が重ねられ、幾分か低い位置にあったらしい。

「わ、悪ィ」
「痛い。自分のサイズ考えてよね……!」
「だから危ないって言ったでしょう……ほら」

はあ、と溜息を吐きながら、二人に向かって両手を拡げる。一瞬、間が空いたものの、木兎さんは腕の中の彼女と俺とを見比べると生気の消えた顔で「あ、ハイ……」とソレをこちらへと差し出した。よし、とそのまま受け取ろうとすれば、彼女は硬直を解き、さっきとは比較にならないくらい暴れてイヤイヤを始めた。

「え、いや、ちょっと待って。むりむりむり! 絶対ヤダ! 木兎はやく降ろして」
「ダメです。アンタが悪い」
「わ、暴れんなって危ねーから」
「いや、どう考えてもわたし被害者だよね!?」
「木兎さんは良くて俺はダメなんですか」
「木兎にだって許可した覚えはない!」
「ケンカすんなよ、お前らー」

アンタのせいだよ。とは大人げないので口にしない。意地でもイヤだ、と威嚇までしてきた彼女を無理やり抱えるわけにもいかず、諦めて身体を引いた。何も本気だったわけじゃない。それにしても、そこまで強く拒否しなくてもいいんじゃないだろうか。ようやく木兎さんから解放された彼女は、立ち上がると顔を赤くしながら俺と距離を取った。あろうことか、木兎さんの身体に隠れてこちらの様子を窺っている。 羞恥からくる照れ隠しと分かってはいても、傷付かないわけじゃないんだけど。

「……何もしませんから、こっちへ来てください」
「ほんと?」
「本当です」
「なー、試合終わったのにまだ人多いな! 何でだ?」
「アンタのせいですよ」

今度は言った。言ったところで、木兎さんの頭上には「?」が浮かんだままだった。 そうこうしているうち、木兎さんはチームメイトに呼ばれ、何やら怒られながら控え室の方へと引き摺られていった。どうやら自由行動していい時間ではなかったらしい。本当に相変わらずだ、と呆れながらも懐かしさに思わず綻ぶ。首根っこを掴まれているのに快活に「またなー!」と笑顔で去っていく。いつもながら大人しく出来ない人だ。そのうち試合間のエンターテイメントにも飛び出していきそうで恐ろしい。見送り終える頃には、集まっていたギャラリーもすっかり居なくなっていた。俺と彼女の残った二人、同時に溜息を吐き出した。

「……帰ろっか。何か疲れた」
「観戦、はしゃいでましたもんね。声ちょっと枯れてる」
「試合よりその後がね……」
「まあ、そうでしょうね」

言葉は普通でも、少し棘のある声になったのは否めない。返答を受けて、恐る恐るといった様子でこちらを見上げた彼女の視線を捕まえる。

「……京治、怒ってる?」
「すこしだけ」
「少しって雰囲気じゃないんだけど。知ってるんだよ、怒ったときだけ敬語に戻っちゃうの」
「そう思うなら、宥めてもらえますか」

距離の近い彼らを見ていつだったか、妬かないわけじゃないんですよ、とストレートに伝えたときの彼女の反応の可愛さたるや。だって赤葦くんは意識しちゃうから、と落とすように呟いて蒸気した顔は、目に焼き付けただけあっていつでも鮮明に思い起こせる。
だから、本当は別に怒ってなんていない。
けれど、バツの悪そうな顔でこちらを窺う彼女を見て、悪戯心がむくりと鎌首をもたげたのを認めよう。たとえ木兎さんと彼女が仲睦まじくじゃれ合おうとも、彼女の核心に触れていいのは自分だけ。

「……どうしたらいいの」
「考えてください。俺のこと」
「うう」

言葉を詰まらせながら眉尻を下げた彼女を追い詰める。今日はこの後も予定がある。試合の日に合わせて出掛けてきたとはいえ、二人会うのは久し振りだった。まずは腹拵えをしてそれから何処へ行こうか、と昨夜までに相談した予定はまた次の機会。

「帰ろうか」

たまには我が侭を聞いてもらっても許されるだろう。真っ直ぐ家に帰って、それから。

 

 

 

春まで待てない(及川徹)

 

 

 

 

 

 

「それじゃ、別れよっか」

卒業式の後、泣きじゃくる友人を宥めていたその時、駆け寄ってきた彼はさも何でもないことのように二人の関係の終わりを告げた。私はといえば、友人たちが驚きのあまり涙を引っ込めたのも気にせず、とても穏やかに、笑顔すら浮かべて返事をした。

「……そうだね。バイバイ」

バレー部員たちの元へ戻っていく後ろ姿を見送る。その向こう、こちらを見遣る岩泉が『これで良いのか』と言っている気がして無理やり視線を逸らした。良いんだよ、初めからそういう約束だったから。卒業までしか一緒には居られない、期間限定の恋だった。

どういうこと、と詰め寄る友人たちに、まあ色々ね、なんて曖昧な返事をする。今はそれ以上聞いてくれるなという願いは通じたらしく、誰かの鼻を啜る音だけが残った。

私も先に泣いておけば良かった。今から涙を流せば別の理由がついてしまう。胃から迫り上がってくる感情をぐっと押し留め、空を仰ぎ、深く息を吸った。

ただのクラスメイトのままで居ればこんな想いはせずに済んだだろう。やっぱり初めからやめとけば良かったとか、泣き縋れば何か変わっただろうかとか、そんなことは何度だって考えた。たらればを言い出せばキリが無いし、今となってはどうしようもない。わたしたちは始まって、終わった。それだけのことだった。

長いようで短い春休みを終えた後は、第一志望だった大学に進学し、東京で一人暮らしを始めた。

合否発表の封書を開けた玄関先で叫びを上げたら次は誰かに報告したくなったけれど、親の次に受験を応援してくれた人はその時にはもう他人で、遠い海の向こうだと思い出した。家族と共にひとしきり騒いだ後にさりげなくSNSへ進路のことを書き込めば、大勢の反応に混じって彼からのイイネも追加された。それだけで嬉しくなって、でも、それだけ。

引越しだの何だので忙しくすれば春休みはあっという間に終わり、新生活が始まった。親しい友人はほとんどが宮城に残り、逆にあまり深く付き合いのなかった同郷メンバーと連絡を取り合うようになったりして、環境はそれはもう大きく変わった。お酒が飲めるようになって大人になったと思っても、出来ないことは依然多いままだ。コドモとオトナの境界線で浮遊するような時間は進みが早く、勉強にバイトにと明け暮れて、あっという間に三年が経った。

一週間のスケジュールをこなし、さて週末は部屋の掃除でもしてのんびり過ごそうか、なんて考えるだけで良かったはずの穏やかな休日前夜は、一通のメッセージ通知によって脆くも崩れ去った。電子音を鳴らした携帯を手に取って思わず目を見開く。

『明日、そっちへ行くね』

三年間、ひとつの音沙汰もなかった相手から突然の通知。は? 明日? そっちってどっち? 何の話?いや、待て。送り間違えたんじゃないだろうか。きっとそうだ、そうに違いない。

浮かんだ答えは誤送信という結論。そりゃそうだ。相手とは、繋がったままのSNSでたまにイイネだけを送り合う関係。

誰か、他の人に送るはずだったんだろう。指摘されるのは恥ずかしいだろうから気付かなかったふりをしてあげよう。そう結論付けて、ベッドへと潜り込んだ。もう日付も変わる時刻だから、向こうはちょうど昼食時だろうか。ほんの数年前まで自分には何の縁も無いと思っていた地球の反対側。時差なんていつの間に覚えてしまったんだろう。

翌日、家に籠もるはずだった休日は何となく落ち着かなくて、何となく街へと繰り出した。とはいえ当てもなく一人ぶらぶらとして、余計なことばかり考えてしまう。それは家族のことだったり故郷のことだったり、まるでホームシック。いつもなら衝動買いしてしまうだろうかわいい服にも今日はときめくことが無い。まるで癖みたいに、小さな溜息を何度も吐き出した。もう帰ろうか、と時間を確認する為に取り出した、そのタイミングで携帯が震え始める。

────及川徹。携帯ディスプレイは、確かにその登録からの着信を知らせていた。

「……え」

何で。どうして。……どうしよう。思わず漏れ出た心の声はそれ以上でもそれ以下でもない。回らない頭のまま通話ボタンに触れた。

「は、はい」
『さすがに未読無視はヒドくない? ねえ、今どこにいるの』
「どこって、東京」
『それは知ってる。そうじゃなくて何してるの』
「え? 買い物だけど……」
『はあ? 行くって言ったのに何で出掛けちゃうの?』
「いや、行くって言って本当に来ると思わないし、誰かと間違えたんだろうと思ってたし……って、え? 徹、日本に帰ってきてるの?」
『だから、そう言ってるでしょ。ねえ、それどこ? 最寄駅は?』

────分かった。あまり動かないでね。

強引に居場所を聞き出され、通話は一方的に切られてしまった。

予定は大丈夫かとか、誰かと一緒じゃないかとか、そう言ったことは何も聞かずに。今から? 本当に? 何の為に? ふらふらと入った駅前のチェーン店で甘さたっぷりのラテを注文した。疲れているときは糖分に限る。

落ち着いたら腹が立ってきた。何で怒られないといけないの。まるでわたしが約束をすっぽかしたみたいに。まだ、まるで今が、制服着てたあの頃と同じみたいに。

小一時間ほど経った頃だろうか。コンコン、と目の前のガラスを軽く叩く音がして、顔を上げた。三年前と変わらぬ胡散臭い笑顔の、少し精悍な顔付きになったその男が、確かに目の前に立っていた。携帯を耳に当てている。もしかして、と自分の携帯を確認すると、ガラスの向こうからの着信。

『来たよ。出ておいで』

店の外に出ると、冷たい風が吹き付けた。思わず身をすぼめて、巻き直したマフラーへと顔を埋める。「とおる」と零れ落ちるみたいにその名を呼べば、相手は何の緊張感もなく「やっほー。ゲンキ?」と宣った。

「……そっちこそ。見るからに変わらず元気そうだけど」
「元気だけど。変わってないことはないでしょ! 背だってまた伸びたし筋肉だって付いたし格好よくなったもん」

自分で言うなよ。っていうか、まだ身長伸びるのか。恐ろしい。視線を合わせると首が痛いんだよなあ、と見上げれば、にこりと笑う徹。

三年だよ、三年。誰も変わらないはずがない。なのに、電話でも、顔を合わせても、何でこんなにも普通で居られるの。忘れてたはずの想いが込み上げる。こんなにも鮮やかに。

ねえ、何で連絡くれたの。何で会いに来てくれたの。

「……いつ帰ってきたの」
「さっき。短期間だから実家にも帰れないんだけどね。あ、東京じゃん、って思ったら顔が見たくなって連絡しちゃった」
「……ふぅん」
「寂しかった?」

────全然。そう口にするつもりが、音にならなくて。表情を覗き込もうとする顔を手振りで押し退ける。

「俺は寂しかったよ」
「……何なの。何しに来たの」
「いま答えたじゃん。ねえ、少し歩こうか」
「何なの、暇なの。バレー馬鹿」

馬鹿呼ばわりされたのに徹は嬉しそうに笑っていた。何だか腹が立つ。いつだって、そうだ。人の気なんて知らずに。

駅から繁華街へと進む徹の横に並んだ。

「それ、久しぶりに聞いたなぁ。向こうじゃバカばっかりだから。忙しいに決まってるじゃん。まあ想像の通りバレーばかりしてるよ。俺の試合、見てくれてる?」
「見てない」
「何で! スポーツチャンネル契約してない? してよ! って言っても、この間も負けたけど。うん、負けるのも慣れたよ」
「……そんなこと言うキャラだっけ」
「えー? 慣れるよ。今いるチームは、強いけど全勝なんてわけにはいかないし。続ける限り、負けのないチームなんてないんだからさ。悔しさに慣れるわけじゃない。……でも、勝っても負けても、バレーだ」

変わらない、真っ直ぐな瞳を隣から見つめた。

バレーの話をする徹は、こちらを見ない。目線とかそういうことじゃなくて、他のことなんて全部わすれたみたいに、そこにバレーしかないみたいに。それは少し寂しいのと同時に、どこか憧れる姿だった。いつだったか、正直に言うとバレーに妬いたことがある、と岩泉に伝えたら心底残念なものを見る顔をされたっけ。

試合を観ていない、なんて大嘘だ。大きな試合はスマホひとつあれば観戦することができるし、国内で配信されていない試合だってネットで探しては勝敗を確認して、届かないのなんて分かりきっていても、がんばれ、がんばれって祈らずには居られない。離れて、その道がもう交わることはなくても、徹もがんばってるからわたしもがんばるんだ、って。ずっと変わらない。背筋を正す理由。

「……徹、わたしね」
「うん?」
「寂しかったし、会いたかったよ」

え、って顔のまま足を止めた間抜け面を振り返る。徹は固まったまま動かなくなった。かと思えば、顔を覆ってそれはそれは深い溜め息を吐き出した。

「……俺いまちょっとヘコんでてさ。顔見るだけ、って思ってたんだけど……会って、顔見たら、やっぱり無理」
「ちょっと、なに」
「今日だけじゃ足りない」

鋭い瞳に射抜かれ、思わず怯み後退りした。空いていた距離はたった一歩で詰められる。腕を掴もうとしたんだろう手は暫し空を彷徨った後、服の端だけ捕まえることにしたらしい。そんなことしなくても逃げないよ、の意味を込めて見上げれば、思ってたよりずっと必死な顔をした徹と視線が重なった。

「俺待っててとか言えないしでも遠恋なんて無理だって言うから別れるしかなかったけどすごく嫌だったんだよ大学で変な男に絡まれてないかなとか彼氏できたのかなとかまあ俺以上に良い男なんているわけないと思うけど心配で仕方なくて今どうしてるのかなって考えちゃうけど会ったら我慢できないの分かってるしでももう限界で連絡したら未読無視するしなのに会いたかったってなに!?」

一息で全部吐き出して、それでも問題のなさそうな肺活量にちょっと引いた。叫ぶというほどではないけれど大きな声で発せられた訴えに、行き交う人の視線が刺さる。

「俺、もう、我慢しなくていい?」

互いの吐き出した白い吐息が混ざり合う。

初めからやめておけば良かったとか他に何か出来たら違う結果になっただろうか、とかそんなことは何度でも考えた。でも出会いがあれば別れはあるものと自分に言い聞かせ、告白してくれたよく知りもしない人と付き合ってみてもすぐにダメになって、それは何でだって考えないようにして。理由なんて明白だったのに。

まだ、好きなんだ。

「……徹、向こうにはいつ戻るの?」
「明後日だけど、って今それ?」
「電話、してもいい?」

いつだったか、用もないのに電話するような仲じゃないと一蹴したのはわたし自身だった。今もそんな関係じゃない。でも。

まんまるになった徹の目。段々と俯いていくのでそっと覗き込めば、今度は勢いよく顔を上げた。

「どうしたの何でそんな素直なの、どうしようかわいい! 俺どうしたらいいの!」
「ああもう、うるさい! 良いのダメなのどっち!」
「良いに決まってるじゃん! どうしよう俺、感動で涙でそう……今すぐ抱き締めたい」
「絶対やめて。そんなことしたら二度と口聞かないから」
「うん、分かってる。あー、今この気持ちだけでゴハン三杯はいけそう……」
「そう。わたしはお腹空いた。食べて帰るから、じゃあね」
「ちょ、待ってよ何で置いてくの! 一緒に行くに決まってるでしょ!」

早足で進めば、本気で置いていかれると思ったのか、慌てた様子の徹が着いてきた。

「話したいこと、いっぱいあるから毎日電話しても足りなさそう。そういえばこの間ね、リオで烏野のチビちゃんに会ったよ」
「知ってる。岩泉に聞いた」
「は? え、何で岩ちゃん? 二人そんな仲良かったっけ? え? 連絡取ってるの? まさか二人で会ったり? え?」
「徹うるさい。さむいから早く行こ」

そう言って、近付いたその手に触れた。掌を合わせてすこし力を込めれば、一瞬遅れて強く握り返される。「夢でも見てるのかな」と徹が呟いた。そうかもね、なんて嘯いた。

 

 

 

 

冬の次は春(及川徹)

 

 

 

 

 

 

「卒業後は、海外に行こうと思ってる」

言葉が耳に届いて一瞬、呼吸の仕方を忘れたみたいに世界が止まる。知らない単語にぶつかったみたいに反芻する。かいがい。口はその形に動くのに乾いて音にならない。それでも相手は意図を感じ取ったらしく「うん、そう。アルゼンチン」と話を続けるので今度は見えない地球儀がぐるぐると回った。卒業後って言った? 卒業旅行じゃなくて?

期末テストを終えて晴れ晴れとしたタイミング、珍しくも一緒に帰ろう、と誘われた下校途中。隣を歩く及川から突拍子もなく切り出された、ほんの少し未来の話。この冬を超えて春が来ればすぐそこなのに、及川が口にしたそれは今の私には想像もつかないくらい遠い世界に思えた。受験が控えているから、だけが理由じゃない。深呼吸してようやく吐き出した息は、何の変哲もなく、白かった。

「……ふぅん」
「あれ、やっぱり寂しい?」
「全然。もう毎日のように顔を見ないで済むかと思うと、寧ろ清々する」

取り繕って鼻で笑えば、ヒドイ! 及川くんは繊細なんだよ! と身振り手振りも加わって相も変わらず喧しい。

互いの将来の話なんてしたことはないけれど、何となく及川はバレーを続けるんだろう、とは思っていた。

もうすぐ、卒業だ。その先を決めて、進まなければならない。私だって地元の大学を受けるわけじゃない。この街を出るつもりでいる。いつまでも一緒では居られない。けれど、隣で過ごしてきたわけじゃないこの男の、ほんの少し近くに居ることに慣れ過ぎてしまったんだと思う。私に触れたことの無いこの男が、それでも傍に居る時間が、長過ぎた。

鞄の持ち手をぎゅっと握り込む。及川は何やら眉間に皺を寄せてぷんすかしていた。

「後で寂しがっても知らないからね。本当に会えなくなっちゃうんだからね!」
「近くに居たところで、卒業後も連絡取り合うような仲じゃないでしょ」

付き合っているわけでもあるまいし。その意味を込めて、睨めつけるように隣の顔を見上げれば、ほんのすこし目を丸めた及川が「そうだっけ」と呟いた。何を言ってるんだ、コイツ。

クラスが一緒だった。部活のない日は同じ車両で通学していた。ただ、それだけの関係だ。ただのクラスメイトで、それ以上でもそれ以下でもない。何年あっても変わることのない関係。会えば挨拶はするし、他のクラスメイトに誘われたら試合の応援だって行くし、教科書を忘れたら見せてと頼んだし、風邪で休んだらノートの貸し借りだってした。そういえば、一緒に授業をサボったこともあった。確かバレーの試合があったと言っていたっけ。珍しくも胡散臭い笑顔は消えていて、こんな顔もするんだな、と驚いたものだった。

わたしのともだち。クラスメイト。それは、大多数が学校という枠組みから外れてしまえば、たちまちSNSの中だけでライフイベントを知るような、そんなものだろうと思っていた。すこし寂しいけれど、でも、誰しもがそんなものでしょう?

「絶対、寂しいよ。離れても電話するし、連絡するし。だから無視しないでよね」

軽くあしらう程度で引き下がる男じゃないのは知っていた。そして口うるさい。やると言ったら本当にやる。決して良い意味だけじゃなく。今どこに居るの誰と何してるのちゃんと食べてるの無理してないよね風邪引いちゃダメだよ───なんて、アンタは私のお母さんか。と思うような口出しをする割烹着姿の及川を想像して、不覚にも噴き出してしまった。

「ちょっと、ナニ笑ってるの」
「何でもない。仕方ないから、十回に一回くらいは相手しようかな」
「ヤダ。ちゃんと全部応えて」

そうは言っても、新しい生活が始まればきっと忙しくてすぐに忘れるよ。バレーと過ごした高校生活を忘れなくても、心配する親の顔は忘れなくても、通りすがりの私のことなんか、きっとすぐに忘れるよ。だから、心配しなくても大丈夫。連絡が来なくなっても、傷付いたりへこんだりしないから、大丈夫。SNSとか、もしかしたらいつかテレビの向こうで、ああ元気にしてるんだな、と時折生存確認だけ出来たらそれで良いよ。……ああ、考えたら、やっぱりすこし寂しい。及川のことだけじゃなく、今まで当たり前にあったことが当たり前じゃなくなるんだから。

「……卒業後のことは分かんないけど、まあ、卒業までよろしく」
「何でそんな達観しちゃってるの? もっと惜しんでくれても良くない?」
「何なの、もう。例えば、わたしが泣いて『サミシイ行かないでー』って言ったらやめるの?」
「やめないよ。決めたことだし」
「でしょうね」
「冷たい! いいよ、分かってたよ! ふんだ」

引き留めてほしいわけじゃないけれど寂しがれと言う。全く、自分勝手な男だ。呆れた溜息を向けると、及川は急に立ち止まった。数歩先から振り返る。「どうしたの」と問い掛けるも及川は応えず、いつもの不敵な笑みのままに口を開いた。

「待っててほしいとは言わないけどさ。……攫いに行くとは思うから、覚悟しといてね」
「は?」
「だから、さ。別に誰と付き合っても良いけど、結婚はしちゃダメだよ。俺が迎えに行くまで」

そう言って、一段と胡散臭い笑顔を形づくる。文字通り開いた口が塞がらない。頭が痛い。どこまで本気でどこまで冗談なのか分からないから質が悪い。けれど、それを聞いたところで当人は全部本気だよ、と答えるだけだと分かっていた。

「……何それ。結局、待ってろってコトじゃん」
「ああ。そうかも」
「っていうか、意味わかんないし」
「何で? 分かってよ」
「わかんない。早く帰ろ。さむい」

じわじわと、顔に熱が昇る。赤くなった顔を見られないよう、足早に先へと進んだ。もう置いて行ってやろうか、と思ったのに、離したはずの距離はたったの数歩で追い付かれてしまう。コンパスの差が憎い。一方的に話を切り上げたというのに、及川は機嫌を崩すこともなく、また隣を歩き始める。顔を覗き込もうとするので、こっちを見るな、とその頭を押し退けた。

「顔、赤いよ」
「言わなくていい!」

コートの裾を引かれて、再び立ち止まる。赤くなった顔はマフラーに埋めても隠せそうにない。視線がぶつかる。

「ねえ、今日、帰ってから電話してもいい?」
「ダメ」
「なんでさ」
「……用もないのに、連絡取り合うような仲じゃないでしょ」
「うん。そうかもね。でも、声が聴きたい。だから、ねえ、ちゃんと応えてよ」

声は温和なのにはっきりとした鋭い瞳。こちらを見透かすような、わたしの及び腰を捕まえてしまう目だった。掴まれた腕が熱い。

こんな会話は不毛だ。意味がない。気まずくなってイイネすら押せなくなったらどうするんだ、及川のバカ。あとすこし、何も無くこれまで通りに、ともだちで居られたら。そう思うのに。

「…………考えとく……」
「考えとくって何、絶対だよ。ゼッタイ!」
「ああ、もう、わかったってば!」

根負けても素直になれない自分が恥ずかし過ぎて視線を逸らした。ああ、もう、何でこんなことに。頭の中はぐるぐるぐちゃぐちゃで、冷静じゃない。自らを逃げ場をなくしたことを後で後悔するかもしれない。それでも、嬉しそうに笑う及川の姿を見ると、ぐちぐち悩んでいることがバカみたいに思えた。

卒業まで、あとすこし。