Previous(降谷零)

 

 

 

 

「幸せ」とはまるでフィクションだ。愛しい人へおはようやおやすみのキスを送る生活をどうしたら今の立場で望めるだろう。街ですれ違う家族の笑顔に覗く物語は、御伽噺より遠い国の話だ。自分には似つかわしくない。
なのに、願ってしまった。触れたい、触れてほしい、温もりを知りたい。暗い夜に君を抱き締めて眠りたい、傍に居てほしい。他でもない君が受け入れてくれるなら他の誰に咎められても、もう止まるつもりはない。

「じょ、冗談はやめてください……っ」
「冗談だと思うのか?」

彼女は耳まで赤くして金魚みたいに口をぱくぱくさせている。そんな間抜け顔も可愛いよ。仮眠室の硬いマットレスに広がる彼女の髪を一房手に取り、口付けた。

「俺を好きだと言っていただろう」

見下ろす彼女に強い視線を送れば、逃げ道を探すように彼女の視線が動く。

「……言ってません。降谷さんには」

そう、卑怯にも彼女が零した想いを拾っただけだ。廊下の角の向こうから漏れ聞いた会話は聞こえないふりで、目が合ったとて当初の目的通り調書と報告を受け取れば良かったのに、出来なかった。腕を引っ掴んで連れ込んだ無機質な密室であろうことか部下を押し倒している。一時の感情で動くなんて決してあってはならないことなのに。けれど、一時じゃなかったら? 今だけじゃない、と確信があったなら。

「風見には言えて俺には言えないのか」
「伝えるつもりはありませんでした。出来れば、一生」

声を震わせて、彼女が口にしたそれははっきりとした拒絶だった。耳から入り身体に落ちる言葉は小さな針となって胸を刺す。

「仕事に戻らせてください」
「駄目だ。話はまだ終わっていない」
「話すことなんてありません」

誰が彼女をこんなに頑なにした。

「俺にはある。君が欲しい」
「答えはノーです。これ以上あなたを失望させたくない」
「これ以上? 誰がそんなことを言ったんだ」
「……覚えてないんですか」

警備企画課に新人が入ることは滅多にない。増して女性は尚更だ。ここに来れば誰もが健康で文化的な生活に別れを告げなければならないし、大義の為に個の犠牲を覚悟しなければならなかった。それが自分だけで済んでいたうちはまだ楽だったもので、部下となる人間に強いなければならず、その覚悟から育てるのは簡単な事じゃない。

ある日、これでやっと本当の事が家族に伝えられる、と零した上司はその言葉を最後に二度と帰らぬ人となった。彼は結果が分かっていてその日の任務に臨んだ。死んで初めて身元が明かされるのが公安だ。彼の元で育てられていたまだ配属一年にも満たない新人は自分の元で受け持つ事となる。彼女は、せめて彼の家族に謝りたいのに会う事も許されない、と泣いていた。いつまでも泣き腫らした顔で出勤してくる彼女を見るのは辛かった。それでも「彼の死には意味があった」「あれで事件も解決した」などと彼の死に理由を付けるのは違う気がして、慰めるような事は何も言えなかった。そもそも何が慰めになるのかも分からない。ただ、そんなにも涙が止まらないのであればこの仕事は向いていないだろう、と思い、そのままを口にした。

俺たちがやっているのはそういう仕事だ。家族に謝る、なんて本人が最もしたかっただろう。叶わないと分かっていて家族をつくった。彼の責任だ。覚悟していたはずだ。覚悟できないなら初めから大切なものなど作るべきではない。いざという時に躊躇するような理由はないに越したことはない。そういう立場なのだと自覚して決して忘れるな。出来ないのならこの仕事は辞めた方がいい。嘆くだけなら馬鹿にでも出来る。進む方向を選べないならこの道は諦めろ。

彼女は、嗚咽を漏らすでもなく耐えるように涙だけを零した。その表情を綺麗だ、と思った。ずっと寝られていないのか酷い隈で疲れた顔をして涙でぐしゃぐしゃであるにも関わらず、だ。何かを決意した人間の顔だ。あれが人前で泣く彼女を見た最後だったように思う。もう何年も前の事だ。女であるというだけで受けるやっかみもあっただろう。我武者羅に走り回るやり方は不恰好ではあったけれど、気付けば周りも認めざるを得ないまでに成っていた。長年見守る中で部下に想う以上の感情を持つようになったのはいつからだっただろう。

「……誰が諦める覚悟をしろ、と言ったんだ。選んだなら諦めるな、って事だ馬鹿」
「なっ!馬鹿って言う方が馬鹿なんですからね!」

わざと雰囲気を壊したいのかそれとも素か、きゃんきゃんと騒ぎ始めるので思わず溜め息が漏れる。

「言い訳はそれだけか?」

空耳だ勘違いだ、とでも言ってくれればまだ逃げ場はあったものを。彼女が素直になれない原因が俺だと言うのならその呪いは今すぐに解いてしまおう。
かぶりを振り視線を外す彼女の頭をこちらを向けて固定する。頰を一筋の涙が伝った。ああ、泣かせてしまったな。

「すぐに泣く」
「泣いてません……。すぐに、って何ですか」
「あのなぁ。目の前で鼻すすってなくても分かるんだよ。この間は風見が止めるのも聞かずに現場へ飛び込んで」
「あれは誰も怪我がなくて良かった、っていう嬉し泣きです」
「ノックリストが奪われた時なんか血相変えて走り回ってた割に最後は腰抜かして使い物にならないし」
「観覧車が目の前まで転がってきたら誰だってそうなります」
「先週は山積みの報告書に埋もれて泣き言漏らしてた」
「もう!全部、降谷さんの所為じゃないですか!」
「そうだな。責任は取るよ」

言葉は呪いだ。口にすれば形を成し大きく膨れ上がる。呟くだけでも恐ろしいのに伝えてしまえばその力はあまりに強大になりすぎた。好きだ、と一言を送ればもう後には引けない、きっと。
目の前の身体を抱き起こして腕に閉じ込めた。そう動くとは思っていなかったのか、彼女はされるがまま目だけを泳がせていた。その肩に顎を乗せて息を吐き出した。鍛えているとはいえ力を込めたら折れるんじゃないかという程に華奢な線。この細腕で銃を握り警棒を振り回し時に大の男も投げ飛ばすというのだから驚きだ。顔に触れる髪から香る柔らかな色が心地よくて、深呼吸するふりをして肺いっぱいに吸い込んだ。身体を離し、揺れる瞳を覗き込む。

「せ、責任って」
「そのままの意味だよ」
「降谷さんはずるいです……私ばっかりあたふたして、馬鹿みたい」
「そうでもないさ」

この国で生きる者の為に、この国で生きた者の為に命を懸けると誓った。それはいつになっても色褪せない。
それでも事あるごとにに訪れる選択には、いつだって、何度でも自分に問い掛けてしまう。それで本当に良いのか、と。良かったのか、と。たらればを挙げ連ねればキリがない。それでも後悔のないように精一杯大切にするよ。俺は君が好きだ。

だから頼む。

「好きだって言ってくれ」

 

 

 

 

僕の彼女になってください(黒尾鉄朗)

 

 

 

 

たまには部活のない日だってある。補修作業で体育館が使えない日だったり、学校行事の当日だったり、テスト期間だったり、理由は様々。それは紛れもない休息日だけど身体を全く動かさないのは何となく居心地が悪い。オーバーワークは禁物だけど、適度な運動は生活の一部だ。少なくとも、黒尾はそう考えていた。
今日はテスト前日ということもあって、寄り道せずに真っ直ぐ帰宅した。一度は勉強机に向かったものの、夕飯まで机に齧り付き続ける……ような集中力はなく、日課であるロードワークのため家を出た。幼馴染は誘ったところで眉間に皺寄せて拒否するだろうから、いつも通り一人で走り込む。住宅地を抜けて河川敷を通り、少し離れた何もない公園へ。昔はたくさんの遊具があったのに、全て撤去されてしまっている。今は幾つかのベンチが残るだけだ。日の暮れかけたこんな時間ではボール遊びをする子どもも居ない。それどころか変質者が現れてもおかしくない夕暮れだ。
そこまで考えて、黒尾は過去同じようにロードワークに出ていた際に職務質問を受けてしまったときのことを思い出して気が重くなった。身長190cm近い男がフードを被りうろうろしていたら怪しまれるのは客観的に見れば致し方ない。学校ジャージでなく、家用の黒いジャージだったことも悪かったと思う。それでも、いたいけな男子高校生を捕まえてそりゃあないんじゃないか、と言いたかった。その翌日は酷いものだった。たまたま研磨に目撃されていたらしく部活メンバーに大爆笑されたのだ。つーか見てたなら助けろよ、と黒尾が訴えれば研磨は「やだよめんどくさい」と返した。彼の幼馴染はそういうやつだった。
幸いだったのは見られたのが一応は後輩である研磨だったことで、風評被害は部内に留まった……とはいかなかった。部活メンバーにはクラスメイトである夜久が居たからである。言うなよ言うなよ誰にも言うなよ、と念を押したにも関わらず、夜久が翌日の教室で真っ先に口を滑らせたのは黒尾が好きな女のコだったのだから酷いとしか言いようがない。けれど、それをきっかけにその日彼女との会話が弾んだので1mmくらいは夜久に感謝してもいい、と黒尾は考えていた。
公園のベンチでそんなどうでもいい回想に浸り時間を費やした。どうにも、すぐに帰ってまた机に向かう気になれない。それでもいつまでも休憩しているわけにはいかないだろう、と黒尾は重い腰を上げる。
さて行くか、と屈伸したところで、背中に予想外の衝撃を受けて地面に手を着いた。

「うぉっ!?」

目を輝かせた、荒い息遣いの黒い犬。持ち主の居ないリードをずるずると引き摺っている。どうやら、こいつに飛びかかられたらしい。

「お前、どこから……」

土を払いながら立ち上がれば、犬は何が嬉しいのか黒尾の周りをぐるぐると回った。

「────クロ!」

黒尾が名を呼ばれた方向へ視線を向けると、息を切らして走って来たのは、みょうじなまえだった。先ほど考えていたばかりのクラスメイトだ。いつも結い上げている髪を下ろし、制服じゃなくて私服。それだけでこうも雰囲気が変わるものか。それでも黒尾はすぐに彼女だと気が付いた。なまえは黒尾を認識すると目を丸くした。そして、その足元についた土汚れを見て顔を真っ青にしてしまった。

「くっ、黒尾くん!? ……クロ!?」

なまえは黒尾と犬を交互に見て、まさかまさかと狼狽えている。彼女の想像する通り、この犬に飛びかかられたのだけれど黒尾にとってそれは大したことではなかった。頭を下げる彼女に気にするな、大丈夫だ、と伝える。

「本ッ当、ごめん!」
「良いって」
「クロ、こら! 大人しくして。……ごめん、まだ躾中なの」

犬は叱られて分かりやすく落ち込んだ顔を見せた。かと思えば、離せばすぐにでもまた走り出しそうである。全く落ち着きがない。リードを掴まれて手繰り寄せられ、自由に走り回れないよう抑えられている。聞けば、犬が家族になってからまだ日が浅いらしく、散歩に出るようになったのも最近らしい。道理で遭遇したことがないはずだ。最寄駅が同じであることには気が付いていたけれど、こうして放課後や休日に出くわしたことはこれまでない。

「でも、相手が黒尾くんで良かったぁ。小さい子どもだったら大事になってた」
「そーそー。大きい黒尾クンは大丈夫ですよ」

黒尾がおどけて見せるとなまえはおかしそうに笑った。その笑顔に心臓が高鳴る。相変わらずよく笑う。いつもにこにことしているので、つられて頬が緩むのだった。そして、くるくると表情が変わるのだ。クラスメイトのたわいない冗談で笑い、悪戯をされて頬を膨らませ、授業で教師に問題回答役を指名されたときは焦って面白い形の眉をつくっていた。自習ビデオ代わりの古い映画で泣いていたこともあった。その日書かされた感想用紙に、黒尾は『面白かった。泣いた』みたいな小学生の作文より酷い感想を書いて提出したので教師から後日やり直しを言い渡された。夜久からはどーせ寝てたんだろ、と笑われたが何のことはない、映画なんて全く頭に入らず彼女の横顔ばかり見ていたからだ。面白かったのに観てなかったの?と話しかけてくれた彼女に映画のストーリーを教えてほしいと乞うた。どんな物語に、どう感じて、どうして泣いたのか知りたかった。
この犬は、自分より多くの彼女を見ているのだろうか。少し羨ましい、と黒尾はそう思った。

「……その犬、クロって言うんだ?」
「う、うん。黒尾くんとお揃いだね」
「ソーデスネ」
「何で敬語なの」
「そいつが叱られてると自分が叱られてるみてぇ」
「えっ、ああ、そっか!」

なまえは小さく笑った。ごめん、と謝られてしまったけれど、彼女が謝る必要は別にない。
黒犬もといクロは主人を待つことに飽きたのか、なまえが手に提げている小さい荷物を引っ張り何やら訴えている。

「なぁに、クロ。あ、ボール?」

もう仕方ないな、と言ってなまえが野球サイズのボールを取り出すと、クロは分かりやすく目を輝かせて一声鳴いた。そして彼女が「行くよ、ほら!」と掛け声と共にボールを放ると嬉しそうに走り、落ちていったソレを上手にキャッチして戻ってくる。クロからボールを受け取ったなまえがまた同じように投げる。それを何度か繰り返した。

「よしよし、いいこだねクロ……ふふ」

戻ってきたクロの前に蹲み込み、その頭を撫でる姿を見つめていると、視線が刺さったのか、ふいに顔を上げたなまえと目があった。羨ましそうに見ていたことを見透かされたか。誤魔化すように、口を開く。

「あー……クロ、って紛らわしいから呼び方変えまセン?」
「そんな簡単に名前変えられないよ」
「そーじゃなくて。俺の呼び方」

きょとん、とした顔をつくり、ゆっくり立ち上がったものの顎に手をあてて何やら考え込んでしまった。

「黒尾くん、じゃなくて……黒尾? まさか黒尾さま!?」
「わざとかよ。 ……俺の名前、鉄朗クンって言うんですケド」

ばっと見上げられて、思わず顔を逸らす。視界の端、「え」の形に口を開けて固まってしまったなまえが映る。やっぱり早まった発言だったかもしれない。当たり前だ。クラスメイトの誰もが名前で呼んでいるというならともかく、幼馴染ですらあだ名で呼ぶのだ。
じわじわと羞恥が込み上げる。頼む、なんでもいいから何か言ってくれ。いや、何でもよくはない。出来れば良い返事がほしい。無理なら冗談にしてほしい。いっそ待たずに冗談だよ、と言ってしまおうか。ちらり彼女を見るとまだ固まっている。
黒尾が耐えきれなくなる寸前、彼女はようやくその硬直を解いた。

「呼べないでしょ……。か、彼女みたいじゃん」
「彼女になれば良くねえ?」
「え」

黒尾の言葉が冗談か本気か測り兼ねたのだろう、なまえもどちらともつかぬ探るような返しを選んだ。けれど間髪入れず黒尾がやり返したものだからもう逃げられはしない。再び返答に困るようなことを言って申し訳ない、とは黒尾も自覚していた。
顔を赤くしてこちらを見上げる姿があまりに可愛かったから、もしかしてを期待してくれてるんじゃないかと思わず口を滑らせた。そんな風に潤んだ視線を向けるからだ、と責任転嫁する。けれどこの場で明確な答えを求めるのは得策ではない気もしてきた。当然のように再び沈黙が訪れていたからだ。悪くてフラれる、良くて考えてみますパターンなら、ここは彼女が結論を出す前に「考えてみてほしい」と今日のところは話しを切るのが賢い選択じゃないだろうか。そんなことを悶々と考えた。童貞じゃあるまいし、まだるっこしい。そう思うのに、口は上手く開かない。

「て、鉄朗くん」
「なに」

ハイ、何ですか鉄朗くんですよ。そんな風にいつも通りの軽口で返したかったのに、口下手にも程がある。まさか本当に呼ばれるとは思っていなかったのだから仕方あるまい。俯く彼女が続ける言葉を待った。
暫く大人しくしていたクロが再びそわそわと動き出し、なまえの手からボールを奪い取ったので、良いところなんだから邪魔をするんじゃない、とばかりにそのボールをなまえが投げるより遥か遠くへ放った。俯いたままの彼女へ再び視線を向ける。なまえはおずおずと顔を上げた。本人に自覚はないのだろうけど、身長さがあるので絶妙な上目遣いになる。その小さな口が紡ぐ言葉を聞き逃すまい、と少しだけ顔を寄せた。

「………か、彼女にしてくれますか」

彼女にしてくれますか。
それが一体、どういった意味を持つ日本語だったのか理解するのに数十秒を要した。コートの中では一瞬のうちに状況を把握して何手も先を考えて手足を動かすことが出来るのに、外ではどうにも上手く動かせない。時折、脳への酸素の送り方が分からなくなる。たっぷり考え込んで、ようやく事態を理解し始めた。息を吐き出して、吸い込む。全身に回っていた緊張が両手分だけ溶けて、とりあえず顔を覆った。勢いに任せた僥倖か、日頃の努力の成果か、すぐには判断がつかない。それでも、どうやら幸運な結果を得られたらしいことは分かった。

「あー……よろしくお願いします」

見合わせた顔は同じくらい赤かった。次に口を開くのはどちらか、と探っているところ、ゆっくりしてくればいいのにクロは早々に戻ってきた。もっと遊べ、とばかりに一鳴きしてぐるぐると回っている。仕方ねえな、とひっくり返して腹を撫でる。照れくささを誤魔化すためにクロを利用した。彼女も同じ気持ちだったのか隣に蹲み込んでクロに話しかけている。そんなことをしている場合ではない、もっと二人で話すべきことがあるだろう、と思うのにぎこちなく過ごすばかりだった。そうこうしている内に傾いていた夕陽は完全に沈み、夜が訪れていた。
そろそろ彼女を帰さなくてはならない。せめて家まで送るくらいは許されるだろうか。道中に話すくらいは。さて何から話そうか。どこか遊びにでも誘おうか。
そんなことで頭がいっぱいの黒尾は、明日からテストであるという現実をすっかり忘れていた。デートに誘ったところで「テストが終わったらね」と返されて、果たして今から帰って勉強が手につくだろうか、と頭を悩ませる羽目となる。

 

 

 

[SS] わたしと彼の失恋(降谷零)

わたしと彼の失恋


 

 

「わたし、失恋したみたい」

脈絡もなく切り出した。隣の男の視線が痛いけれど、そう仕向けたのはわたしだった。次の言葉を口にする事なく、手元の缶コーヒーへ手を伸ばせば、やがて降谷も同じようにそうした。

「……そうか」

そうか、って。分かってはいたけれど、それだけか。根掘り葉掘り尋ねてくるような性格の男ではないにせよ、長い付き合いなのだからもう少し興味を持ってくれてもいいだろうに、とは思う。

ずっと好きだったんだよ、貴方の事が。ねえ、知ってた?

聡いはずなのに、自分の事になると嘘みたいに靄がかかるらしい。わたしが周囲にどれだけ揶揄われても本人が気付く事はなくて、わたしもはっきりと伝える勇気はなくて、今日まで来てしまった。
見合い

「君が恋をしていただなんて、知らなかったな」
「言った事ないもの」
「傷付けられたなら、代わりに殴ってこようか」
「ありがとう。でも、彼は悪くないの」

そうか、と降谷は先程と同じように呟いた。
ありがとう。その言葉だけで、わたしは他の人より貴方の近くに在るのだと思える。近くに居ても、伝えない出来事など山ほどにある。最近、ひとつ大きな仕事が終わって肩の荷が少しだけ降りた事、それを機に引っ越しをした事、そこそこ大きな怪我をしたけどもうほとんど完治した事。降谷に会わなかった間にも、時間は当たり前のように進んだ。それは彼も同じだろう。その間に起こった、わたしの知らない彼の出来事はどれほどあるだろう。後から知る、出来事や、ずっと知らないままの事もあるだろう。例えば、見合いをした、という事を知らなかった。そして、それが上手く進んでいるらしい、という事も、今日知ったばかりだ。そんな日に、数ヶ月振りに、顔を合わせるなんて誰が想像しただろう。上手く笑顔を作れなくても、仕方がない。失恋の傷と、長い付き合いなのに他人から聞かされた事で出来た傷のどちらが大きいのか、自分でもよく分からない。けれど、考えても詮無い事だ。長い付き合いでも、他の人より少しばかり近くても、所詮、他人なのだから。彼にも、わたしにも、それがプライベートである限り報告の義務はない。
仕事とは違い、結果だけが全てじゃない、と思えるのが恋のいいところだ。この想いを大切にしまって、もう先へ進もう、と決めた。

「困ったな」
「大丈夫。仕事に支障をきたすほど弱くはないから」
「そういう事じゃないんだ」

そういう事じゃないんだよ、と彼はもう一度繰り返した。その双眸がわたしを捉える。鋭い眼差しに心を掴まれて、ああやっぱりまだ好きだな、と思った。すぐには、心を離せそうになかった。

「……どうして、そんなこわい顔をしてるの」
「すこし、焦ってる」
「降谷が? 何に?」
「どうやら、俺も失恋したらしい。同時に、チャンスでもあると知ったから」


 

 

 

君じゃなきゃダメなんてことはない(宮侑)

 

 

 

今日の日直は誰だ。先生はそれを確認しないままわたしに目を止めた。運が悪かったとしか言いようがない。諦めて集めたクラス全員分のノートを職員室まで届け、戻った教室にはもう誰もいなかった。
次の授業は移動教室だということをすっかり忘れていた。何で誰も教えてくれんかったんや、と薄情な友人たちへの文句を考えながら自分の机へ駆け寄ると、机に突っ伏していたらしい誰かが身じろぐのが目に留まった。自分以外にも取り残されている人間がいたらしい。

誰にも起こしてもらえんかったんやろうか。かわいそうに。

哀れみと親近感を込めて視線を送ると、その誰かは眠そうな目を擦りながらその大きい身体を起こして、ゆっくりと伸びをした。まだぼんやりとした様子で瞬きをしている。寝る子は育つ、というけれど、授業が終わっても気付かないなんて、よっぽどだ。去年同じクラスだった彼の片割れは睡眠より食事の方を大切にしているようだったから、双子でもやっぱり違いがあるんだろう。机から教科書と筆記用具を揃い終えた頃、ようやく現状を飲み込んだらしい宮くんは教室をぐるりと見まわして、最後にこちらに視線を止めた。ぱちり、と目が合った。まだ覚醒できていないのか、他に誰もいない教室を見ても焦る様子はない。無視して置いていくわけにもいかず机3つ分向こうに届く声を出す。

「次、移動やで。早よ行かんと」
「……みょうじさん戻ってくるん待っとってん」
「へ」

間抜けな声が漏れた。
待ってた? わたしを? 聞き違いだろうか。いつも一緒にいるグループのコたちならともかく、挨拶以上に関わったことのないわたしを待つ理由は思い当たらない。それとも知らないうちに何かやらかしたんだろうか。この間のバレー部の試合、サーブのタイミングで声を上げたのはわたしじゃない。誤解なら誤解、と言えばいいだけだけど他に何かあっただろうか。

「なかなか話す隙ないから困ったわ」
「なに、わたし、何かした?」
「そんなんちゃうけど」

動揺して声の上ずったわたしを宮くんは鼻で笑った。感じ悪い。人を小ばかにしたように斜めに見た態度があまり好きじゃない。まともに話したこともないから、これは完全に外から見たイメージの話だったけれど、やっぱり間違っていないと思う。

「話そうと思って、待っててん。みょうじさん、俺と付きおうてくれへん?」
「はあ?」

今度は意思を持って、間の抜けた返答をした。へらり、と笑う宮くんは、発した言葉を「どこに」とも「何に」とも補ってくれない。なら、付き合って、の真意は思い浮かぶソレで合っているんだろうか。

「イヤやけど」
「即答かい。もうちょい考えてもバチ当たらんで」
「だって宮くん、わたしのこと好きとちゃうやろ」

世の中には、一言も話したことがなくても相手が好きだと告白してしまえる人が居るのは知っている。いわゆる一目惚れとか、そうじゃなくてもこっそり見てました、とか、そういうやつ。でも、宮くんとは同じクラスなのに挨拶程度以上を交わしたこともなければ、吊り橋効果に陥るようなイベントが発生した記憶もない。寧ろ女子グループで話しているとき五月蠅そうに睨まれた覚えがあるくらいだ。
そういえば、あのときも机に突っ伏して寝てた気がする。休み時間とはいえ、そんな宮くんの席の近くで騒いでたのは少し悪かったと思うけど、そんな怒らなくてもいいじゃないか、ってくらい怖い目を向けられた。女子の一人はちょっと怯えてたし。わたしはわたしでムッとして、気持ちのこもってない謝罪を投げつけたと思う。それに対して宮くんは嘲笑するような顔をして、でも何も言わずにまた寝てしまったんだっけ。
うん。やっぱり、宮くんはわたしのことを好きじゃない。寧ろ敵意すら感じている。だから、どんな意図で発した言葉なのか、考えてもさっぱり分からなかった。

「好きやで?」
「なんで? どこが?」
「顔。かわええもん」

頰が引き攣る。顔が理由。そこそこ傷付く告白のひとつだ。宮くんなら分かりそうなものだけど、違うんだろうか。それとも、嫌がるのを分かって言ってるんだろうか。分からない。はあ、とたっぷり溜息を吐き出した。

「……そんなんで付き合うたりせん」
「悪い話ちゃうと思うけどなあ」
「何が?」

わたしがイライラしはじめたのが面白いのか、宮くんは楽しそうに笑っている。その大きな身体を背もたれに預けると、椅子はギイギイと軋みを上げた。あの椅子はほんとうにわたしの椅子と同じサイズなんだろうか。

「俺な、何や知らんけどモテんねん」
「知っとるけど、それが何でわたしに関係あるん」
「モテるんは悪い気せんけどな、知らんブタからの告りで時間とられるんウザいんよ。なら特定のカノジョ作ればーって言われてな」
「幾らでもおるやろ、宮くんの彼女なりたいコ」
「でもバレーの邪魔になるような女いらんし。どっち取るって言われたらバレー取るし。なら、俺のこと好きとちゃうコがええな、って思ってん。せやけどせっかくならかわいいコのがエエやん? それに、そっちかて知らん男からの告白ウザいなー、って思っとるやろ? 俺おったらそういうん減ると思うけど。な、利害一致しとるやろ」

いっそ清々しいほどのクズな回答だった。眉間の皺は取れそうにない。

「メリットよりデメリットの方が大きいやろ、そんなん」

すごく最低なことを言われてる気がするし、そういう問題じゃないとも思うけど、つい利害の部分に反応してしまった。それに、ここで彼を詰ったところで効果はないだろう。
数分前まで、何の冗談だ、と笑い飛ばしてしまうつもりだったけど、笑顔を崩さないくせに目は笑っていない宮くんを見ると、どうやら言葉は本気らしい。でも宮くんの言うメリットはメリットにならないのはお互いに、だと思う。彼に彼女が出来たところで稲荷崎でバレー部の芸能人みたいな人気ぶりは変わらないだろうし、その彼女になる方は周りからの好奇心や嫉妬に覆われるようにしか思えない。自分がその貧乏くじを引いた状況を想像すると、ゾッとする。

「ほな試しでええで? 今カレシも好きなヤツも居らんのやろ?」
「無理やから。もうええやろ。授業行くわ」
「もう始まんで?」

宮くんが言うと同時、チャイムが鳴った。遅刻して教室に入れば先生に叱られるし目立つことは必須だ。かといって、このままサボればどこで何をしていたか友だちに聞かれるに決まってる。そうだ、気分が悪くなって休んでいたことにしよう。宮くんに引き止められて告白紛いのことされてました、なんて言わなければ誰にも分からない。

「俺、好きなコには結構尽くす方やと思うけどなあ」
「でもわたしのこと好きちゃうやろ。わたしも宮くんを好きやない」
「好きやで? そやってはっきりモノ言うとことか」
「わたしは違う」
「そんなん後からついてくるかもしらんやろ」
「そうやけど!」

そうかもしれないけど、そんな一般論が誰にでも当て嵌まるわけじゃない。

「ほな、決まり。今日からよろしくな、なまえ」
「は?」
「俺、保健室でサボるわ。一緒いく?」
「行かん! っていうか、よろしくって……」
「付き合ったら好きになるかもしらんから付き合ってみるんやろ」
「そんなこと一言も、」
「キライじゃないなら好きなるかもやろ。ならええやん」

小綺麗な顔に嘘くさい笑顔を乗せて、話は終わり、とばかりに宮くんは立ち上がりすたすたと行ってしまった。追いかければよかったのに、何が起こっているのか理解する方に脳のリソースを使ってしまい出遅れた。一人教室に取り残され、ぽかんと口を開けたまま立ち尽くした。正直、何が何だか分からない。

ただの冗談であればいい、と願った。昨日は結局あれから宮くんは教室に戻らず、放課後もエンカウントする間もなく部活へ向かったらしく真意が何だったのかを問いただすことは叶わなかった。憂鬱を抱えたまま登校すると、上履きに履き替えるところから周囲にじろじろ顔を見られてヒソヒソ噂されている気がした。その原因が何かなんて、考えたくもなかった。教室へ入ると、嫌な予感は的中した。

「なまえ、おはよ」

宮くんは手を振り、わたしの下の名前を口にした。宮くんの周りに集まっていた人たちが、一斉にこちらを向く。正直に、うげっ、と声が漏れた。そして案の定、続くクラスメイトの質問攻め。

なまえ、いつの間に!? アツムみょうじのこと好きやったんやな〜、両想いやったん!? 何しかオメデトウ! 新カップル誕生かぁ!

わたしの回答を待たず矢継ぎ早。あからさまに戸惑っているわたしをヨソに、全ての質問に宮くんが勝手に回答した。それによるとどうやら宮くんは、わたしのことが去年から密かに気になっていて同じクラスになって接点を探り最近ようやく話すようになって距離を詰めて告白して渋々ながらOKを貰ったので付き合うことにはなったけどまだ片想いのようなものである────という設定、らしい。昨日のうちに拒否できなかったわたしには空笑いする以外、最早どうすることも出来なかった。ずぶずぶと底無し沼に沈んでいく自分の絵面を頭に描く。やがて予鈴が鳴り、席に着くと、今度はスマホの通知がぽこぽこと上がる。同じクラスはもちろん、他クラスの友人たちからも噂の真偽を確かめるような内容がどんどんと送られてきていた。誰も彼もが、どういうことだ聞いてないぞ、と問いかけている。そんなの、わたしが一番聞きたい。返信どころか既読にする気にもなれず、通知を放置したまま授業へ集中することにした。

現実逃避をしたところで、それは一時的な回避に過ぎず、休み時間の度に質問攻めは行われるし、友人たちを無視し続けることもできない。正直に打ち明けるかどうか悩みに悩み、それはもう悩んだ結果……打ち明けるタイミングを逃した。幸いにも宮くんの設定ではわたし自身の感情に嘘を吐く必要はなかったから、戸惑っているうちに周りは勝手に解釈した。本気か気まぐれかは知らないが宮くんと付き合うことになったラッキーガールの一人。そういうことになった。それはトレンドになる話題ではあるけれどいつまでも続くほど珍しいネタでもなく、一週間もすれば周囲はすっかり日常に戻っていた。宮くんは宮くんで部活が忙しいらしく一緒に通学するようなことはなく、お昼休みすら近寄ってこない。未だ互いの連絡先も知らず、あれから二人きりで話すこともない。つまり、わたしたちはただのクラスメイトのままだった。

今回ばかりは、保健室のお世話になることを決めた。いつもは割と何ともないのに、午後から酷くなった。お腹も頭も鈍い痛みに襲われている。そして何より、眠気が酷かった。普通の授業なら舟を漕いでも何とかやり過ごせるけど、とても体育を頑張れる体力じゃなかった。
保健室に入ると先客が居た。見慣れた……とは言い難いが、毎日見ているその顔と同じ顔、がベッドに腰掛けていた。どうやら先生は不在らしい。
治くんの方の宮くんとは、去年クラスが一緒だっただけでなく、今年も委員会が同じで接点がある。双子のもう一人よりはまだ自然に話すことができる相手だ。

「みょうじさんやん。どないしたん」
「ちょい貧血で……宮くんは?」
「俺は眠いから寝にきた」

正直か。いや、眠いから来たのは私も同じだけど。

「宮くんもそんなサボりするんやね」
「俺”も”?」
「あ、いや……」
「侑と付き合うてるてホンマなんやな」
「あ〜、うーん、うん……」
「何や、煮えきらんなぁ。侑のヤツ、いつもやったらべらべら彼女のハナシすんのに、みょうじさんのことは何も喋りよらん」
「そう、なんや」

正直、宮くん……侑くんの方、の、真意は未だに掴めないままだった。聞き出そうとしないわたしも悪いけど、また煙に巻かれそうな気がして半分諦めていた。無気力過ぎる、だろうか。宮くんが本当に告白してくる女子を減らすためだけにわたしを選んだんだとしたら、よく人を見ているな、と感心してしまいそうだ。とはいえ、このままでいいのかは疑問だった。本当に付き合っているのか、と聞かれてハイと答えられないような関係が健全と言えるだろうか。それに、もしわたしが本当に宮くんを好きになったらどうするんだろう。
片割れのことなら何か分からないか、と尋ねるため口を開きかけたけど、宮くんは「ほな、おやすみ」と言ってベッドのカーテンを閉めてしまった。まぁいいか、と空いた方のベッドへ上がり、同じようにカーテンを閉めた。

「やっと起きた。もうHRも終わったで」
「……宮くん?」

微睡から目を覚ますと、室内の人物は先ほどの銀髪から金髪に変わっていた。カーテンの内側、椅子を引っ張ってきてベッドに片肘を立ている。
体育どころか午後の授業が終わっても一向に教室へ戻らないわたしの荷物を、彼氏だからと押し付けられたらしい。

「ごめん、ありがと」
「寝顔はかわいないな」
「は!? ひど!」
「ウソウソ。カワイイカワイイ」

完全に棒読みだった。じとり、と睨め付ける。それでも、貴重な放課後にわざわざ来てくれたのだからあまり強くも言えない。

「起きんかったらどうしよ思たわ」
「そうやん。宮くん、部活は?」
「俺はバレー部やで」
「それは全校生徒が知っとる」
「今度の試合、応援来てな」
「クラスみんな行くからいつも行っとるよ」
「つれへんなあ。そこはガンバッテ、とかそんなんでええねん」
「ガンバッテ」
「棒読みか!」

仕返ししてやった。宮くんのテンポいいツッコミに思わず笑ってしまう。すると宮くんは「お、やっと笑ったな」とニヤニヤするので、何となく顔を背けた。

「部活は今から行く。そっちは? なまえて、ナニ部?」
「……好きとか言うなら少しは予習し。帰宅部や」
「はは」

乾いた笑い。やっぱり宮くんは、適度にわたしに興味がない。

「ちゃんと一人で帰れるん?」
「大丈夫。……ありがと」
「ほな帰ったらちゃんと報告な。連絡先教えてや」
「え、うん」

強く断る理由もなく連絡先を交換した。
それから少しずつメッセージのやり取りをするようになった。学校で話す頻度は変わらなかったけど、文字とスタンプだけで話す宮くんは思っていたよりも嫌なヤツではなかった。部活お疲れさまとか今日のご飯は何だとか、わたしはお昼はお弁当を持参して教室で食べることが多いけど宮くんはお弁当だけじゃ足らなくて購買で何か買い足してること、そのまま部室だったり片割れや角名くんの居る1組で食べていること、朝練があるから朝早くてしんどいけどバレーは苦にならないということ、部長の北さんは怒らなくても怖くて逆らえないんだということ、アランくん先輩のツッコミは欠かせないということ、朝から双子でケンカしたけどもう理由は忘れたこと、来週の球技大会は所属している部活の種目には出られない決まりだからバレーが出来なくて残念だということ、それからおやすみとかおはようとか、そんな話をした。少しずつ宮くんの情報が増えていった。何だか本当に彼氏彼女みたいだ。

現役バスケ部員はバレーへ、バレー部員はバスケへ。背が高いから、という安直な理由で球技大会の出場種目が決まるのはどこのクラスも同じらしい。宮ツインズの激戦は、それはもう凄い大歓声だった。観覧者は女子も男子も関係なく大盛り上がりでその戦いを見守った。いつもの試合とは違いお祭り騒ぎなものだから、本人たちも大はしゃぎ。身体だけでなく口も忙しそうな試合だった。結果は、うちのクラスの勝ち。尚、高身長二人は、もう少しやる気を出せ、とクラスメイトたちに怒られていた。

男子のバスケが一試合終わった後は、隣の体育館で女子のバレー。これもまた、対するは1組だった。球技大会は、所属してる部活の種目には出られない。けれど、そのルールは経験者には当て嵌まらないから、うちのクラスはやったことがある人を中心にチームを組む方針だ。つまり、わたしもバレーに出場する。中学の部活を引退してからは、体育の授業くらいでしかやらないバレー。正直、まともに動けるか心配ではあったけど、賞品がかかっているのだからやるしかない、と腹を括った。
結果は、快勝だった。

「びっくりした。みょうじさん、バレーしとったんやな」

汗を拭っていると、話しかけてきたのは治くんの方の宮くんだった。バスケで負けてしまって、もう午前の出場予定はないから出歩いているらしい。

「バレーな。中学までやけど」
「さっき思い出したけど、たぶん試合見たことあるわ」
「ほんまに!?」
「侑のやつ、それでか」
「何が?」

ならしゃあないな、と宮くんは笑った。何がしゃあないの、と聞いてみたけど、一人で納得して満足したようで、何も教えてはくれない。

「保健室んとき、みょうじさんと話した言うたらアイツ拗ねとったで。お前の許可いるんかって聞いたら、許可とってくれな困る、やと」
「ええ……」

何やらむず痒い話だった。ここ暫くで、仲は随分とよくなった。よくなったと思う、けど、宮くんは別にわたしのことを好きなわけじゃない、と思う。『思う』というのは、少し願望が込められてしまっているかもしれない。ああ、イヤだ。
バレーをしてたから何だって言うんだろう。バレーは嫌いじゃなかったけど、高校まで続けるほど夢中なわけでもなかった。ただそれだけ。推薦はあったけど、別に将来有望だったわけじゃない。親は好きなことをやれ、と言ってくれたからバレーは続けず、ただ家から比較的近くて学力の見合う稲荷崎を選んだ。男バレが強豪なのは知ってたけど、特別に意識はしなかった。宮くんはわたしを見たことあると言ったけど、わたしが宮ツインズを知ったのは高校に入ってからだ。考えても、何も繋がらない。さっぱり分からない。後で宮くん本人に聞いてみよう。

そういえば、今日は日直だった。球技大会の日に日直やなんてラッキーやな、と言われながら日誌を書いた。書くことなんてロクにない一日だったわけだから適当で構わない。球技大会はみんなの頑張りの結果、2組は見事に学年優勝を飾った。おめでとうございます、というわけで、つまり、今から陽気な打ち上げだ。早くしろ早くしろ、と周りから急かされて書き上げたソレを待って職員室へ走った。
先生の長話にたっぷり付き合わされてから戻ると、教室は宮くんを残して誰も居なくなっていた。宮くんはずり落ちそうな座り方でスマホをいじっている。戻ってきたわたしに気がついているだろうに、顔を上げる様子はない。

「あれ、皆は?」
「先行け言うた」
「なんで」
「何で、て。カレシやから?」

尤もらしいことを嘯くものだから、こちらもあーそーいえばそーやったね、と適当に返してやる。席に戻り荷物を持って、なら早よ行こ、と促すも宮くんは全く動く様子がない。

「どうしたん」
「んー?」
「……何かあるん?」
「まぁ、ある。今日の動き、へっぽこもええとこやったなぁ。相手がド下手糞やったからええけど、あれでよう勝とう思たな」
「いやいや十分やったやろ、帰宅部やで? 何年バレーやってないと思っとるん」
「知らん。何でやってないんや」

何年、と言ったのに何で、を聞かれても困るる。宮くんの主張は、わたしにとって完全にいちゃもんだった。バレーのことだから熱くなるのか知らないが、わざわざ待ってまで言うことだろうか。いつもの軽口か、と顔を見れば、宮くんは全く笑っていなかった。一体、何だというのか。宮くんはスマホを机に置くと、睨み付けるようにわたしを見た。思わず怯む。

「治から聞いたんやろ」
「宮くん……治くん? わたしの中学の試合見たことある、ってハナシ? それが何なん?」
「それだけか。何やねん。お前ムカつくねん」

非もないのに貶されてお前呼ばわりされて、仕舞いにはムカつくとか言われて意味が分からない。ムカつく、のはこっちだ。不穏な空気を感じて、宮くんから距離を置いたまま続きを聞く。

「ほんま腹立つ。俺が見たお前は今日みたいなへっぽこちゃうかった。トス呼んで飛んで誰よりも点入れてカッコ良かったのにすっかりヘタレになってもて、真面目に勉強しよるし休み時間は女子でペチャクチャ呑気に喋りよるし帰宅部ってありえんやろ。それが今日はへっぽこのくせにいっちょまえに勝っとるし。大体、俺と付き合うてなったら喜べや!全然話しかけてこーへんし、一緒に帰りたいて言うどころか部活も見にこーへんし連絡先すら聞かんしどないやねん!何で俺から聞かなあかんねん!あまつ治クンって何やねん俺は宮クンのままやのに何でアイツは治クンやねんおかしいやろ、カレシ俺やぞ!」

それは自白だった。捲し立てられたけど、褒めてるのか貶されてるのか分からない。その上、後半はまるで嫉妬のようなことまで言い出す始末。治くん、と言ったのは別に会話上ややこしいと思ったから口にしただけで普段からそう呼んでいるわけじゃないけど、論点はそこじゃないだろう。正直、さっきよりもワケが分からなかった。

「えーと、宮くん、わたしのこと好きやったん?」
「ンなわけあるかい!……って言うはずやったのに、何やねん」
「いや、何やねんはこっちのセリフやし」
「お前なんか好きちゃうわ。やから惚れさせて捨てたろ、思ったのに」
「え、そんな計画やったん?」

思わず口が開きっぱなしになる。宮くんはそっぽを向いてしまった。近付くと、机に突っ伏して顔を隠してしまう。覗く耳が少し赤い。

「ムリやったけどな」
「つまり、わたしのこと嫌いやったわけや」
「嫌いとか言うてへん」
「何で無理なったん」

うっさい、と言いながら宮くんは少しだけ顔を上げた。

「……バレーしとるとき、やっぱカッコ良かったわ」
「わたしが?」
「おん。全然動けてない、へっぽこやったけど」

へっぽこは余計や、と思いながらも腹立たしさはもうすっかり抜けてしまった。何だか身体の力も抜けてしまって、宮くんの横の席を借りて座る。

「何か宮くん、思ってたんと全然ちゃうわ」
「思てたって、何なん」
「人を小馬鹿にして後ろで意地悪く笑ってるタイプやと思ってたけど、ウソ吐かれへんのやね」
「俺、性格悪すぎやん!」
「宮くんの日頃の行いやろ」

思ったままを言えば、宮くんは納得がいかない様子で、笑ってしまう。宮くんは深く溜め息を出しながら、今度こそ身体を起こした。

「宮クン、ってソレもうやめへん? 名前呼んで」
「…………侑くん?」
「なに? なまえ」

用があって呼んだわけじゃないのに、返事をされる。嬉しそうに笑うので何だか照れ臭い。

「……なぁ、何でバレーやめたん。推薦とかもあったんとちゃうん」
「あ……ったけど。他にやりたいことあったから。勉強と両立できるほど器用ちゃうし」
「やりたいことって?」
「親にも言うてない」
「そぉか。ならええわ」

言いたいことを散々言って満足したのか、もう毒気は漂っていなかった。
侑くん、は、わたしのことを好きじゃない。言葉通り、虫よけにするためにたまたま選んだだけで、選んだから一応相手をしようとしてるんだと思っていた。蓋を開けてみれば、そんな複雑な感情を抱かれていたなんて、気付くはずもない。

「なあ、俺と付き合うて」
「……もう付き合うてる」
「なら好きなって」
「…………うーん…」
「そこは『もう好き』って答えるとこやろ!」
「知らんよ」

テンポのいい会話に、顔を見合わせて笑った。それから、侑くんはいつものニヤニヤを作って言った。

「俺はほんまに好きなってもた。どーしよ」

知らんよ、とは言うわけにはいくまい。

 

 

 

招かれざる客(バーボン)

 

 

 

 

 

 

 

 

鍵を回す音がした。
部屋の合鍵を持つ人間は限られている。ボスが訪れることはまず有り得ない、ジンはドイツに発つところだと先程ウォッカから電話で聞いたばかり、ということはベルモットが予定より早く帰国したのだろう。暫くは出前飯だと思っていたのにどうやら今夜は美味しいものが食べられそうだと浮き足立つ。デスクチェア────長時間座っても全く身体がつらくならないこだわりの────から立ち上がり、仕事部屋としている部屋を出た。

結論から言うと、リビングに居たのはベルモットではなかった。入るべき家を間違えた哀れな窃盗犯かというとそれも違う。けれど殺されても文句は言えない招かれざる客であることに変わりはない。

「こんにちは。あまり驚かないんですね」

銃は奥の部屋に置いてきてしまった。殺傷力が高い武器になりそうな調理器具は全て侵入者の背後にあり、果たして腕っぷしだけでこの男に隙を作れるだろうか。可能性を探し視線を巡らせる。

「顔付きが不穏ですけど、怪しい者では……」
「怪しい奴は皆そう言うよ」

反射で返せば何が面白いのか目の前の男は楽しそうに笑った。探り屋バーボン。侵入者は、そう呼ばれている男だった。

「何でここに居るの。どうやって入った。そもそも家を教えた覚えないんだけど!」

尤も、家と言っても組織が用意した仮住まいに他ならず、自分名義で借りているわけではない。セキュリティはしっかりしているはずで容易にピッキンングできるような作りではない。どうやって入ってきた。それよりも納得がいかないのは何故ここを知られているのか。探られるのが嫌で送迎させた覚えもない。尾けられたのだろうか。そんなヘマをした覚えはない。ならば誰かが情報を漏らしたか、データベースが探られたのどちらかだ。前者ならまだ良い。後者ならば最悪を考えなければならなかった。自分が管理しているからと甘く見ていたのかもしれない。さて、どう出るか。

「随分と警戒されてしまってますが……今日は悪さをしに来たわけではありませんよ」
「……だったら何をしに来たの?」
「何って、一人だとロクに食事も取らない貴女の健康管理の為に」

何もしない、のポーズなのか両手を顔の横で見せながら、視線でテーブルに置かれた物を示した。何を置いていた記憶もないのでバーボンが持ち込んだのだろう、それはスーパーの袋だった。

「ジンもウォッカもベルモットも暫く不在でしょう。彼女は貴女を心配していましたよ?」

……裏切り者はベルモットのようだ。

「食生活が破綻してるから体力が無いんですね。先日の任務の時も、大した長丁場でもないのに途中からふらふらとしてパーティ料理に気を取られ集中力を欠き、挙げ句の果てには靴擦れを起こす始末。組織は人手が足りないんですから、また外に出る事もあるでしょうし、少しは外に慣れて貰わないと困ります」
「なら私と組まなくて済むように言っておいてくれる?」
「いいえ、まさか。結果に不足はありませんでしたから……次回があれば、また宜しくお願いしますね」
「無いように願っとく。それで、お小言を浴びせに来たならもう気は済んだでしょ。お帰りください」
「嫌だな、用件なら初めに伝えたじゃないですか」

ぱっと笑うと共に両手を下ろし、買い込んできたらしい食材の調理を始めた男は、台所借りますねと 、言ってカウンターに向かった。如何にも手慣れた様子で用具を取り出す様に寒気を覚える。訝しんで見つめていれば「どこのキッチンにも、ある程度の法則がありますから」と笑った。
こめかみを抑え、深呼吸代わりに大きく溜息を吐き出した。

「貴方と話すと疲れる……」
「僕は貴女と居ると楽しいですよ。ほら、いつまで突っ立ってるんですか? こっちに来て」

仕方なし重い身体を引き摺ってテーブルに着く。自分の住処であるはずなのに、どうして指示されているのか。決して細かくはない事象も今は諦めるしかないらしい。そうする他なかった。時には諦めが肝心だ。ベルモットに言われて来ているのであれば、まさか食事に変な薬を混ぜることもないだろう。問題は彼の料理の腕だ。果たして期待できるんだろうか。

「これでも料理には自信があるんです。バイト先でも評判なんですよ。またそちらにも来てくださいね」
「馬鹿じゃないの。どこの馬鹿がコードネーム二人揃ってそんな往来で密会するの」
「密会って響き、良いですね。ですが、それなら仕事のない日に人気の無いところで密会しましょうか」

……ベルモット、帰って来たら覚えてろよ、と恨みの念を送りながら、もう一度深い溜息を吐いた。

結論から言うと食事の味は悪くなかった。食後の珈琲を口にしながら、率先して片付けまで行うバーボンをじっと観察する。

「驚いた。貴方、本当に料理するのね」
「そのクッキーも作ってきたんですよ」
「へえ……」

小皿に出されたクッキーを摘み上げて凝視する。普通に市販品かと思っていたのに、お菓子作りまで熟すとは芸の細かいことだ、と感心する。同時に、どこまでが素なのか分からず胡散臭い、とも思った。手に取ったソレを一口齧ると、ほのかに甘く、口の中でほろほろと解けた。これは定期的に差し入れてもらってもいい。

「さて……食後の運動に、散歩でもしましょうか」
「しない」
「食生活だけでなく運度不足も危惧してるんですが」
「私はここから出たくないの」
「ならベッドでの運動を手伝いましょうか」

取り出した銃の撃鉄を下ろし、テーブルの正面へ向けて構えた。その相手は銃口を向けられても平然としている。

「やだなぁ、冗談ですよ」
「冗談に聞こえなかった。いくら貴方が有能な手駒でも、襲われそうになったから撃ち殺したって言えばボスも許してくれると思うの」
「いつの間にそんな物騒なもの持ち出したんです?」
「いつまでも丸腰で居るわけないでしょう」
「襲いませんからそれを下ろしてもらえませんか。それに、せっかくの珈琲が冷めてしまいますよ」

シェルターの中だからといっていつも安全とは限らない。用意は周到であるに越したことはない。とはいえ、住居を汚すのは本意ではないから目的は牽制だ。相手が諦めてくれたならそれで構わない。膝の上に銃を戻しブレイクタイムを再開した。
あまり長くゆったりとした午後を過ごすつもりはない。時間に追われているわけではないがやることがないわけでもない。用件を済ませたならさっさと帰ってほしい。そんな思惑を込めて視線を送ると「心配せずともそろそろ退散しますよ」と返ってきた。どうやら彼の今日の任務は完了したらしい。立ち上がり、出入り口へ向かう彼の後を歩く。

「お見送りありがとうございます」
「勝手にうろうろされたくないだけ」

壁に体重を預けて、彼が扉を開く様を眺める。最初から最後まで貼り付けたような笑顔を崩そうとしない、胡散臭い男。

「それじゃ、お邪魔しました。また来ますね」
「来なくていい。けど、まあ…………美味しかった、ごちそうさま」

ベルモットに頼まれて来ているのであれば報酬を受け取っているのだろう。重ねて礼をするつもりはない、が、素直な感想だけ最後に述べる。すると彼は分かりやすく目を瞬いて、驚きました、という表情を作った。そして嬉しそうに目を細めた。

「……喜んでいただけたなら何よりです」

招かれざる客が帰った後は戸締まりを忘れない。鍵はベルモットから借りたと言っていたが、万が一を考えて変更した方がいいだろうか。しかし、面倒くさい。鍵を変えたら各メンバーにも知らせないといけないし、ジンに理由を聞かれたら説明するのも面倒くさい。ベルモットの仕業でこちらは完全に不可抗力であるとはいえ、バーボンを 部屋に入れたとなればお説教を食らうことは間違いないだろう。どうしたものか。暫し逡巡して、考えるのをやめた。
それからバーボンはこちらの意に介さずたまに部屋へ訪れるようになった。初めこそ抵抗を試みたものの、やがて諦めてしまった。バーボンの手土産は他の誰とも異なっている。手作りのプリンやアイス、シフォンケーキやスコーン……時には材料を持ち込んで作ることもあった。決して餌付けされたわけではないが、食べ物に罪はない。