月が見ている(バーボン)

 

 

 

 

 

 

 

 

「仕事してよ、バーボン」
「パートナーを気遣うのも、今夜の僕の立派な仕事だと思いますけど」

半分は皮肉で、半分は心配でそう返せば、彼女は不服そうに眉根を寄せた。
男なんて幾らでも手玉に取れそうな顔をしているのに、ドレスにハイヒールは履き慣れていないらしい。得たかった情報はもう手に入れているのだからこれ以上この会場に居る必要はない。なのに、彼女の考えはそうではなく、もう一押しで得られるものがあると思っているようだけれど、急いては事を仕損じるし、何より普段は外に出ない彼女にこれ以上こんな役目をやらせたくはない。ふらついた彼女を支える役目を他に譲りたくはなかった。

「どうぞ、こちらへ」

観念したのか、彼女は大人しく差し伸べた手を取った。会場の喧騒を離れて、庭園へと繋がる階段を降りる。触れる手で引き寄せてその身体に指を這わせたい衝動に駆られるけれど、そんな事をすれば彼女は二度とこの手を取ってはくれないだろう。

「だからベルモットを連れてくればよかったのに」
「あのひとは面が割れているんです。言ったでしょう」
「……分かってる」

噴水の影、会場を背にした淵に彼女を座らせる。正面にしゃがみ込み、その左足を裸にした。案の定、踵は擦り切れて血が滲んでいる。残念ながら絆創膏を携帯しておらず、さてリップクリームはあっただろうか、と思案するも、それを塗り込む事を彼女は嫌がるかもしれない。結局のところ、彼女を連れ出したところで、自分に出来る事は何もないのだ。
傷をなぞれば、彼女は痛みに顔を歪めた。

「……ッ、ちょっと。今の、わざとでしょう」
「すみません、つい」

傷が本当かどうか確かめたくなったので。
笑いながらそう告げれば、彼女は怒り、その足を振り上げる。避けるために立ち上がって後ろに下がった。彼女の装備は手にしたまま。彼女に僕を追う事は出来ない。

「慣れない靴を履いて、間抜け過ぎる。やっぱり貴女NOCなんじゃないですか?」
「……そういう貴方こそ、バカな女を気にかけるなんて、NOCだと疑われても仕方ない」
「なら、裏切り者同士でお似合いですね。手を組みますか?」
「遠慮するわ。命が幾つあっても足りない」

誘いはあっさりと断られた。もとより、本気でかけた言葉ではない。けれど、NOCではないか、と疑っているのは本当だった。分かりやすい理由を掲げて組織に居る人間など居ないけれど、彼女に関しては特別、謎が多すぎる。
彼女は、普段は飼い殺されて(本人の怠慢もあるだろうけれど)滅多に外へ出ない。デスクに向かってさえいれば優秀な人間である事は確かだけれど、ジンが執着する程の人材であるとも思えなかった。男女の関係としての執着であれば、簡単だった。彼女が一人で外を歩かせてもらえない理由がそれであれば、ジンを笑うだけで済む。
けれど、そうではなく、シェリーが消えた理由について彼女が何らかの鍵を握っているからではないか……というのが、これまで彼女を見て導き出される推測だった。証拠なんて何もなく、推理と言える根拠もない。それでも、ジンがそう疑っているのは確かだ。彼女が組織に打ち込む楔のひとつであるのなら、暴いてこちら側へ引き込みたい。それには相応のリスクが伴うだろう。自分を曝け出さずに暴ける相手ではない。

「ねえ。もう靴を返して」
「こんなところ、貴女には似合わない」
「そうね。こんなドレスまで着て、私の仕事じゃないと思う」
「ドレスはよく似合っていますよ。今日の為に選んだんですか?」
「知らない。ジンが用意してくれたの」
「……へえ」

ウォッカならともかく、あの男がそんな事をするだろうか。いや、しないだろう。他の人間にならば。ならば何故、の答えは明確だった。彼女だからだ。
酷く、濁った感情に覆われるのを自覚した。こんな些細な事で血を流す彼女は組織に向いていない、きっとNOCに違いない、なんて全て馬鹿げた妄執に過ぎない。そうだったらいいのに、なんて、確かな証拠も見つけられないのは、事実がないからに他ならないのに、僅かな希望に縋っている。もうずっと、執着しているのは、誰だろうか。

「……バーボン?」
「いえ、すみません。こちらはお返しします」

少し休んだだけでも楽になった、と彼女は苦笑する。痛々しい傷口にまた原因をあてるのは忍びないけれど、抱き上げて会場に戻るわけにもいかない。話をしたくて庭園に連れ出したけれど、さっさと退場すべきだった。早く彼女を帰そう。
再び彼女の前に跪き、その足に靴を嵌める。月に照らされる白い脚。触れてはいけないものに触れている気がした。自然と、その足首に唇を寄せる。

「ちょ……っ! バーボン!?」
「……戻りましょうか」

何事もなかったかのように立ち上がり、手を差し伸べる。彼女は顔を赤くし、口をはくはくさせている。そんなに簡単に感情を出すのに、よくこんな仕事を回されたものだ。本当に、向いていない。
やっぱりNOCに違いない、絶対に証拠を見つけて、暴いて、彼女を守ろう、と盲目にもそんな事を思う。スコッチが聞けば、呆れ顔で頭を抱えるに違いない。

 

 

 

好きになったから負け(及川徹)

好きになったから負け

 

 

 

好きだ、って気付いたのは、失恋と同時でした。

 

 

 

その男が告白されるなんて別に珍しいことでもないだろう。とはいえ、実際そのシーンに遭遇して他人の告白の一部始終を聞いてしまう、なんてそうあることではない。
だけど、わたしは2回目だった。

昼休み、中庭にある自販機のいちごオレが売り切れていた。だから校舎の端にある自販機まで探しにくるしかなかった。だって、どうしても飲みたかったんだもん、いちごオレ。無事に買えたことに満足して機嫌よくパックを手にした、その瞬間だった。校舎の角を曲がった向こうから聞こえてきたのは、少し震えた女のコの声で「好きなんです」の一言。出来ることなら続きを聞くことなくこの場を立ち去ってあげたいけれど、何せここは行き止まりで教室に戻るには植木に突っ込むか彼らの横を通るかしかない。葉っぱだらけになったところで物音で気付かれてしまうのは必須。ならば何も知らない聞いてないふりで横切るか、事が終わるまで空気になるか……。そうして逡巡している間に会話は進み、彼女がどうして彼を好きになったのか、それは彼女が音楽室に忘れた楽譜を彼、及川徹が、優しくも教室まで届けたのがきっかけでした────なんてストーリー展開が始まってしまった。
失敗した。もたもたしてるうち完全にタイミングを失い、出るに出られなくなった。いちごオレはここで飲むしかない。諦めて、手元のパックにストローを突き刺した。

校舎の角から見えてしまったその姿、「告白されている側」は同じクラスの及川徹、その人だった。「している側」の女のコに見覚えはなく、及川に敬語を使っているので1年か2年か、とにかく後輩なんだろう。相変わらず他学年にはモテる男だ。ちらり、と覗いてまた校舎の陰でなるべく小さくなる。聞いちゃってごめんね、の気持ちとこんなところで告白するなよ、の気持ちが拮抗する。どちらにせよ、それが終わるまでわたしに出来ることは気配を消すくらいだった。

及川のことが好き。そう自覚したのは、どう考えても失恋の瞬間だった。彼にカノジョが出来たとき。だからってどうするわけでも別になくて。だってそうでしょう、仲のいいクラスメイトというポジションに甘んじて3年になるまで過ごしてきて、彼女が居るのに今更「好きみたいです」なんて言えるわけがない。負けると分かってる勝負なんてしたくない。けれど、あのコは違うらしい。気持ちを伝えたいだけなのかそれとも勝算があってのことかは分からないけれど、見てるだけのわたしより勝率はあるだろう。

「かっこわる……」

壁に背を預けたまま呟いて、ずるずるとその場にしゃがみ込んだ。

「及川先輩、彼女と別れたって聞きました」

 

 

 

────別れた。

震えた声の女のコは、確かにそう言った。
つまり、それはあのときの、1回目の遭遇のときの彼女か。

 

 

そんなに昔でもない。あのときも今と同じように校舎の陰に隠れて、及川が告白されるのを聞く羽目になった。但し、隠れるのが下手すぎて盗み聞きしてることはあっさりバレてしまっていたんだけど。
あのときは好きです、と言うだけ言って答えも聞かず女のコが走り去ったその後、一人になった及川に見つかり、あからさまに動揺した。狼狽えた。ただ盗み聞きしてしまったのが気まずかったから、だけじゃない。不可抗力のようなものとはいえ及川が告白を断らなかったことに対して、密かに、確かに、平手打ちされたような衝撃を覚えていたのだ。
それが何なのか、なんて考える間もなく元凶だろう男と対峙する羽目になったのだから、普段通りに振る舞えなくても仕方なかったと思う。
わたしを見つけた及川は、いけ好かないいつもの笑顔を打ち消してこちらを見下ろしていた。わたしはその口から言葉が飛び出す前に『相変わらずモテますね』なんて軽口を叩いた。そうしたら及川は『そうだね。どうすればいいと思う? 付き合ってみようかな』と宣った。
どう思う? なんて聞かれて。うまく頭の回らないわたしは、口の中がカラカラに乾いているのを自覚しながら、それでも動揺を悟られないよう精一杯の虚勢を張って、いいんじゃない、なんて答えていた。かわいいコだったじゃん、付き合ってみれば。なんて。思ってもない言葉を。

及川くんまた告白されたらしいよ、とは女子の間でよく上がる噂ネタのひとつだった。最も、その対象が及川でなくても、誰が誰を好きらしい、誰と誰が付き合って今度は別れた、告白した告白された、なんて思春期の学生には大好物の話題。かく言うわたしも例外ではなく、少女マンガやドラマの感想を話すのとは違う身近な恋の話題をドキドキしながら聞いたり話したりした。

及川徹という男は、軽薄なようでいてその実、向かい合ったものに対しては酷く真面目だった。オンオフの切り替えがはっきりしている。些か、はっきりしすぎている、とも感じるくらいに。
全部見透かしたようなその目が、はっきり言って苦手だ。

 

 

物思いに耽けるうち、告白は失敗に終わったらしい。よく聞いてなかったけど女のコが走り去ったのが足音で分かった。
はあ、これでやっと教室に戻れる。そう安心して、ゆっくりと立ち上がった。

「盗み聞きなんて随分と悪趣味だね」
「ひっ」

驚きに悲鳴を上げて、原因となる声がした方を振り返れば、角の向こうに居たはずの男が穏やかじゃない顔をこちらへ向けていた。

「また覗き見してたの」
「ひ、人聞き悪いこと言わないで。そっちが後から来たんでしょ。こんなところで話してる方が悪い」
「俺が場所決めたわけじゃないしー」
「だったら、わたしが不可抗力ってのも分かるでしょ」
「まあね。あーあ、相変わらずツイてない」

それは完全に、わたしが言いたい。
及川はもう一度「本当にツイてない」と呟いた。頭の後ろで手を組み、曲げた背中でやるせなさを物語っている。告白してる姿を見られたわけじゃあるまいし、そんなに嫌がらなくてもいいと思う。わたしだったらどっちも見られたくないけど。

「で、どう思ったの」
「は?」
「聞いてたんでしょ」
「どうすればいいと思う、って? 知らないよ、そんなの。今カノジョ居ないんでしょ。好きにすればいいじゃない」

相も変わらず可愛げのない返ししか出てこない。だけど他に何て答えろっていうんだ。彼女なら中途半端にせずにちゃんと断ってよと怒れるだろうし、親友と呼べるくらい親しければもっと良い相手が居るよなんて嘯くことも出来たかもしれない。そのどちらでもないから、わたしに言えるのはやっぱり、及川の好きにすればいい、の一言だけ。
逡巡しても至極真っ当な返答だと思えたのに、及川は片眉を吊り上げて不服そうにした。

「全部 聞いてたわけじゃないの」
「たまたま居合わせただけで、わざわざ聞き耳立てないよ。また新しい彼女できるんだなー、って思っただけ」
「あのねえ……別に来るもの拒まず、ってわけじゃないんだよ。誰でも良いわけでもない」
「なら、好きなコとしか付き合わないの?」
「それは……まあ、後から付いてくるかなって思うときもあるケド」

そうでしょうね。そうだろうね。
男ってやつは、なんて括るつもりじゃない。男女関係なく、そういうことに潔癖では世の中こんなに彼氏彼女に溢れていないだろう。

「ふーん」
「何その反応」
「別に。愛するより愛される方が幸せってこともあるよね、と思って」
「みょうじは好きじゃない奴とは付き合えない?」
「え」

好きな人だろうが好きじゃない人だろうが、そもそも誰かと付き合ったことがない。好きな人に告白する勇気もない。告白されたこと、は、あるけど学年が同じなだけで知らない人だったし、付き合うとか考えられなくてその場でゴメンナサイをした。

「わたしは、無理かなあ……何か、付き合ってみても虚しくなりそう」
「……ふーん」
「聞いといて何なの」
「別に。そりゃそうだよね、って思っただけ。何もないよ。もう教室戻ろう」

無駄話を始めたのは自分のくせに、背中を向けてさっさと行ってしまう。わたしは慌てて追い掛けた。

「付き合ってから好きになるかも、なんてのはさ、好きな相手がいないときにしか言えないんだよね」

後ろ頭を掻きながら、及川はそんなことを呟いた。その表情は見えない。
思わず顔をこわばらせた。及川のその理論で行くなら、好きな人とじゃなきゃ付き合えないと答えたわたしは好きな人がいます、と言ったようなものじゃないか。その相手が及川だ、ということまでは分からないとしても、好きな人がいるなんて及川にバレたいネタではない。相手が誰か聞き出そうとして、からかってくるに決まってる。
そう思って構えたのに、及川は予想に反して静かに言葉を続けた。

「もう懲りたからしないよ」
「え?」
「好きじゃないコとは付き合わない」
「そう、なんだ」

よく分からないけど、わたしの話じゃなかったらしい。よかった。拍子抜けしてついでに肩の力も抜けた。
そうこうしているうち、とっくに予鈴が鳴り終わっていることに気付き、わたしたちは慌てて教室へ駆け込んだ。

 

 

 

純度高き泡沫(赤葦京治)

 

 

 

 

 

 

 

授業を終えて、いつもなら部室へと急ぐところ、今日の放課後はまず図書室へと向かう。当番の為だった。
試合で公休、ちょうどその日に委員会を決めたらしい。居ない奴が悪いのだ、と容赦の無かったクラスメイトたちの手により決められた俺の役割は図書委員。司書がいるとはいえ、定められた時間には図書室でじっとしていなければならないアレだ。よりにもよって、放課後に影響する活動内容のものだった。今は少しの練習時間を失うのも惜しい。彼らと共にバレーを出来る時間は限られている。
本を読むのは好きだ。先輩たちが回し読みしている漫画雑誌も悪くないけど、それよりは細やかな文字に綴られた世界を追う方が好きだった。また、誰かがひっきりなしに訪れる場所で読書に没頭できるかといえばそうではなく、図書当番は読み手に適した時間とは言えない。それでも比較的人気のある委員だと認識していたけど、うちのクラスに限りそうではなかったらしい。文化祭や体育祭の実行委員にならなかっただけずっとマシだけど。放課後が奪われるとはいっても、一ヶ月に一度か二度のこと。適当にやり過ごせばいい。
そう思っていた、のに。その集まりに肩を落として向かったのは初日だけ。定例会議も、放課後の当番も、何ら苦にはならなかった。偏に彼女が居たからだ。
通常なら同学年同クラスの二人で組まれる昼と放課後の当番は、用事があれば生徒同士での交代を許されている。当番の順番について説明がなされた日、彼女は委員の中で数少ない顔見知りであろう俺に交代を依頼してきた。理由も聞かず、速やかに自分のペアにあたる女子を差し出して、彼女と俺が同じになるように設定した。
今はテスト期間でも何でもない普通の平日、つまり放課後に図書室を利用する生徒はそう多くない。渡り廊下を抜けて、校舎とは別棟にある図書室の扉を開けると、大きめのカウンターから期待通りの人が顔を上げた。

「赤葦くん。こんにちは」
「……こんにちは」

関係の出来ていない間柄特有の、ぎこちない挨拶を交わす。
カウンターの中、その手元には教科書とノートが広げられており、どうやら彼女は宿題をこなしていたらしい。その隣に鞄をおろし、席に着く。

「すみません。遅くなりました」
「大丈夫だよ。うちのHRが短いだけだから」

彼女のクラスのHRが早く終わった理由については「議題もないのに長引くと木兎がうるさいんだよね」ということらしい。

「早く終わって喜んでたけど、赤葦くん借りるよって言ったら、忘れてたらしくて拗ねてた」
「今日の放課後は当番で遅れるって、朝練のときにも言ったんですけどね」
「赤葦くん、愛されてるねえ」

彼女と俺の共通の話題といえば、この委員会と木兎さんたちのことくらいだった。木兎さんに限らず、三年の先輩たちは彼女と顔見知りらしい。

「愛されてるかどうかは分かりませんけど、欠かせないと思われてるなら嬉しいです」
「赤葦くんの名前、一日に何回も聞かされてるんだよ」
「そういうみょうじさんも木兎さんと仲良いですよね」
「そうかな。まあ、ずっと同じクラスだしね」

もっと聞きたいことがあるのに、返却を依頼する生徒が訪れ、会話はそこで途切れてしまった。彼女が対応している間に、自分が借りていた本の返却処理を行う。先程の生徒が返却したものと共に本棚へと戻すべく、立ち上がって目的の場所を探し歩く。区の図書館ほど広いわけではないけど、近隣の学校よりはずっと広いんじゃないだろうか。だというのに、今日の利用者はカウンターからは死角になったテーブルに一人二人散る程度だった。
カウンターへ戻ると、彼女は宿題を終えたらしく、広げていたノートを閉じて鞄にしまうところだった。

「今日、利用者少ないですね」
「そうだね。小さい声なら話してても問題なさそう」
「話したいことがあるんですか?」

俺はありますけど、とは言わずに意地の悪い聞き方をした。案の定、彼女は「え、や、そういうわけじゃないけど」と狼狽えてしまった。何かしら話題を探そうと目を泳がせたあと、思い付いた、とでも言うように視線をこちらへと向けた。すべてが表情に出ていてとても愛らしい。そんな彼女の口から飛び出た話題はとても予想していなかったもので、今度はこちらが狼狽える番だった。

「赤葦くん、彼女いるの?」
「……居ません、けど、何ですか急に」
「いや、赤葦くんモテるから彼女の一人や二人居るのかなって」
「一人も居ませんし、モテた覚えもないです」
「球技大会のとき、皆カッコイイって言ってたよ」
「……そういうのはモテるって言わないです」

そうなの? と首を傾げた彼女に苛立ちを覚える。どんな意図で投げられた質問なのか、と少しは期待したのに、好奇心以上の興味がある風でもない。
球技大会といえば、木兎さんが木兎さんらしく輝いていた一日だった。運動部は所属している部活と同じ種目に出られないルールだけど、そんなことは関係なくサッカーだろうとバスケだろうと木兎さんは今年も大活躍だった。選手としてだけでなく応援に回ってもその姿はとにかく目立つ。わざわざ来なくてもいいのに、俺が出る試合にも木兎さんは現れた。同じクラスである彼女もその隣に連れて。バレーならコートの外に誰が居ようが気にならないのに、あの時ばかりは少し集中を欠いたことを認める。

「その”皆”の中にみょうじさんは入ってないんですか」
「へ、ああ、うん。赤葦くんカッコよかったよ!」
「完全に言わされてるじゃないですか」
「そんなことないって」
「バレーだと木兎コール凄いけど。赤葦くん、バスケ大活躍だったもん! 赤葦くんのクラスのコたちも声援すごかったし、やっぱり人気者なんだなぁって」
「やっぱり、の意味が分からない」
「赤葦くんこっそりモテるタイプなんだよ、きっと。普段から分かりやすくキャーキャー騒ぐんじゃなくて、想い募らせてるファンが多いんじゃない?」

ますます意味が分からない。こっそりモテるって何だ。それに、こっそりだろうが堂々だろうが、モテたところで。

「……好きな相手からじゃないと、意味無いでしょう」
「え、好きなコ居るんだ!?」

彼女は少し声が大きくなったことを自覚したのか、しまった、と開いた口を手で覆う。心配せずとも、さっき出て行った生徒が恐らく今日最後の利用者で、後はもう誰も訪れないだろう。彼女もそれに気付き、辺りを見回して照れ笑いをした後、輝いた目でこちらを見上げる。
それはどうせ女子特有の、恋話好きが見せる好奇心なんだろうけど。気に食わない。

「居ますよ、好きな人。全然脈なさそうですけどね。男として見られてないというか」
「意識させるところからってことかー」
「意識……ですか?」
「うん。そんな風に言うってことは、知らない人ではないんでしょ。男として見てもらうところから勝負スタート?」

初手からペースを崩される。もっと、相手は誰だとかどんな人だとか、好奇心でも切り込んでくれたら、それはアンタだよと言わんばかりに、少しでも自分かもしれないと考えてくれるように攻め返すのに。変化球を使うつもりだったわけでもないが、よほど正攻法じゃないと通じないらしい。

「……どんなときに意識しますか?」
「え、わたし?」
「参考にするんで」
「参考になるようなこと言えるかな。うーん…………」

腕を組んで考え込み始めた。何となく、緊張して、彼女に見つからないように深呼吸する。やがて、何やら思い出したように鞄に手を入れ「返すの忘れるところだった」と一冊の本を取り出し、壁際の本棚へと歩いていった。
……溜め息を零してもいいだろうか。

「あ、さっきのことだけど。意識っていうか、ドキッとするとき」

次に借りる本を選んでいるのか、新刊コーナーを眺めながら、彼女は話題を戻した。一応、考えてくれていたのか。

「赤葦くん背が高いから、高いところにあるもの取ってあげるとか! それとも壁ドン顎クイ? キャラじゃないか。やっぱり、視線合わせる回数増やしたり……あとは手を握ったり抱き締めたり! どう?」
「最後ちょっと直接的過ぎませんか」
「えー、でも手っ取り早いじゃん」
「怖がられたり嫌われたりしたらどうするんです」
「そしたらすっぱり諦められるじゃん。何も起こらないまま終わるよりいいでしょ」

他人事と思ってるだからだろう、無邪気な笑顔で無責任な返答をくれた。残念ながら、全く以て他人事ではないんだけど。
目を合わせる? 同じクラスならそうやって詰まる距離があるかもしれないけどそもそも絶対数が少ない。毎日顔を合わせられるわけじゃない。こうやって月に一回程度の委員会ごと、朝練後の昇降口、購買……ほとんど俺か彼女のどちらかが木兎さんと一緒だ。
怖がられたり嫌われたりして、すっぱり諦める、なんてことが出来るだろうか。少なくとも当分は引きずる自信がある。バレーに少しも影響しない自信はないし、泡になって消えてしまいたくなるかもしれない。
それでも何もしなければ何も変わらない、とは尤もな指摘だった。
どうにでもなれ、と少しばかり自棄になった。立ち上がり、カウンターを出て彼女の元へと歩み寄る。

「まぁ……それもそうですね」

どうだ良いアイデアだっただろう、とばかりに胸を張る彼女を至近距離から見下ろすと、その耳にかけられた髪がぱらりと落ちた。その一房をすくって再び耳にかけてやる。彼女はきょとん、とこちらを見上げている。その口が何かを発する前に、身体の横にあった手に、触れる。驚きで強張るのが分かったけど、気付かないふりをして指を絡めた。

「あ、かあしくん……?」
「何ですか」
「なにしてるの」
「意識させようとしてます」
「いやいや、わたしにしてどうするの。好きなコにしてよ」
「だから、そうしてますよ。好きな相手じゃないと意味ないんで」

目を見開いて。やがて微かに朱の刺す頬、泳ぐ瞳。すぐには泡にならなくてもいいだろうか。
あからさまに狼狽える彼女が一歩、また一歩と後退るので、その背中が本棚に当たるまで追い詰めた。

「視線を合わせて、手を握って、壁ドンでしたっけ。あ、届かない本があれば取りましょうか。それから……何でしたっけ?」
「ああああかあしくん」
「何ですか」
「ちょっと状況が読めないんだけど」
「みょうじさんのことが好きなので、意識してもらえるように、行動してます」
「ひぇ……」
「嫌だったら、そう言ってください。すっぱり諦めるんで」

視線を逸らすように俯くので、空いている方の手でその顔に触れて上を向かせた。

「い、イヤとかじゃ」
「良かった。なら……続けてもいいですか?」
「続けるって、何を」
「どうしたら意識してくれるのか。もっと、教えてください」

彼女は金魚みたいに口の開閉を繰り返した。その様子が面白くて可愛らしくて、緊張で凝り固まっていた表情が思わず綻んでしまう。彼女は別に俺のこと好きでも何でもなくて、でも今は少し意識してる。手放しで喜べる事態じゃないけど悲観もしない。ここがスタート地点だと言ったのは彼女自身だ。

「俺のこと、意識してください」

絡めた指を少しだけ離し、中指を手のひらに這わす。熱を持った瞳が、俺の幻想じゃありませんように。

 

盲目なのです(赤葦京治)

 

 

体育館の補修作業があるから、と今日の部活はミーティングだけになった。少し待たせてしまうかもしれないけど今日みたいなチャンスは逃したくない。一緒に帰れますか、と彼女へメッセージを送れば『日直だから同じくらいに終わるかも』と嬉しい返事が送られてきた。

放課後、時間が空くのは俺の方が早かったらしい。終わった旨のメッセージを送ったけれどすぐに返事は来なかった。このまま大人しく待つかどうか悩んで、三年の教室へと続く階段を見上げる。待っていても仕方がない。昇降口から真っ直ぐ上がれば彼女とすれ違うことはないだろう、と階段を登った。

彼女の教室を訪ねるのは別に初めてのことじゃなかった。二人きりになることを気軽に誘えるような関係になる前から、そこには何度も足を運んだ。それは主将である木兎さんを訪ねて、であったけれど、彼女に会えるだろうか、という下心を抱いていたのは事実だ。
三年一組の教室を覗くと、他に誰も居ない教室で机に向かう目的の姿を見つけることができた。彼女はすぐにこちらに気付き、顔を上げた。手招きに従って教室へと足を踏み入れる。少しだけ緊張する。

「赤葦くん。早かったんだね。あと日誌書くだけだから、もう少し待って」
「一人ですか?」
「ペアの子にはごみ捨てをお願いしたの。そのまま部活に行ってもらった」

見知らぬ男の部活など興味もないのに、反射で「部活?」と反復すると「うん。サッカー部」とさらにどうでもいい情報が返ってきた。そのまま伝えてしまえば自分から聞いたくせに何だ、と叱られてしまうので顔に出したりはしない。本当のところ、同じクラスの男の話など聞きたくもない。アンタと同じ学年で同じクラスで、それだけで嫉妬の対象だと言えば、子どもっぽいと笑われるだろうか。

教室を見渡す。まだそこまで遅い時間でもないのにここは静かだ。開け放たれた窓の外から、運動部の掛け声や吹奏楽部の音が流れてくる。いつもならその喧騒に自分も紛れているのだから、こうやって外から見るのは不思議な気持ちだ。開かれたままの窓から風が送られて、教室のカーテンが揺れる。

「座ったら?」と促されるも何となく躊躇っていれば「木兎の席だから気にしなくて大丈夫だよ」と続けるので、椅子を引いて彼女の前の席に腰を下ろした。再び机上の日誌に向かった彼女の顔を見つめる。今日の出来事トピックスに悩んでいるらしい。そんなもの、適当に埋めてしまえばいいのに。

「変なところ真面目ですよね」
「うーん。今日も木兎がうるさかった以外に浮かばない……」
「そのまま書いてしまえばいいのに」

思わず零れ出た本音を口の中に戻すことはできず、しまった、を表情にすれば日誌から顔を上げた彼女が「共犯だね」といたずらな子どものように笑った。
そうと決まれば、とペンを走らせ仕事を終えた彼女は、最後に窓を閉めるため窓際へと向かう。手伝えばいいのに、立ち上がりもせずにその後ろ姿を眺めていた。
学年が違うのに、同じ教室に二人きり。当たり前ではないこの時間が、とても大切なもののように思えた。同じクラスの人は、いつもこの距離で彼女を見ることができる。

「……羨ましい」
「え、何が?」

また考えが口に出ていたらしい。それが、近くに戻ってきた彼女の耳に届いてしまったらしい。すこし逡巡して、正直に言葉の意図を白状することにした。

「みょうじさんと同じクラスの人が羨ましい、ってそう言ったんですよ」
「意外。赤葦くんもそんなこと考えるんだね」
「みょうじさんは考えたことないんですか」
「わたしは、今のままがいいな」

少し傷付いた。同じクラスどころか同じ学年ですらないし、別に本気で発言したわけじゃないけど、それにしてもそんな綺麗にぶった切ることはないだろう。

「そう、ですか」
「だって、赤葦くんがずっと教室に居るんでしょ? 気になって授業なんて集中できないと思う……」

顔を赤らめ、視線を逸らして告げられた言葉。今度は違う方向に予想外のボールが返ってきて面食らった。平静を保つために手で顔を覆って深く深呼吸する。

「ど、どうしたの赤葦くん」
「何でもないです。……帰りましょう」

立ち上がり、床に置いていた鞄を引っ掴んで教室から出る。日誌と鞄を手に追ってきた彼女は怪訝にこちらの顔を覗き込んできた。何でもないです、ともう一度繰り返す。今は顔を見られたくないし、かといってこちらの視界に居れるのも憚られた。見たら触れたくなる。その手に、口に。
初めてじゃあるまいし、してもいい関係ではあるけれど、いつ誰が通るか分からない。ここで手を出したら彼女は怒るだろうか。いや、きっと、顔を赤くして照れ隠しに文句を言う程度。なら、少しくらい色惚けたって許されるんじゃないか?

 

 

 

恋する乙女を侮るなかれ(岩泉一)

 

 

ピアス開けたら運命変わるって言うじゃん。

別に校則で禁止されてるわけじゃないけど、バイトや部活でダメだからとか親が嫌がるとか、そんな理由で同じ学年でも開けてる生徒は少ない。ピアス開けてるコはオシャレで可愛くて大人っぽくて、でもちょっと不良かも? なんて斜めに見たりして、つまりちょっと憧れてる。私の場合、部活はもう引退したしバイトもしてないし親は好きにすればって言う。だから開けてもいいかな、って思ってたけど、やっぱりちょっと勇気が必要で、でもその勇気を出せばちょっと何か変わるんじゃないかな、踏み出せるんじゃないかな、ってそう思った。

思い立った吉日はもう一週間前のこと。ドキドキしながらピアッサーを買って帰って、片耳にバチン。正直、すごく痛かった。
開けたはいいけど、しばらくは何となく気恥ずかしくて髪を下ろして隠してた。でも、安定するまでは付け続けないといけないし、っていうか、そろそろ見てほしい。誰に、って友だちとか好きな人に。

昨日は体育もあって、髪を久しぶりに結い上げた。覗いたピアスは思った通り女子からは好評で、いいなとか可愛いね、とか言ってもらえた。だけど彼はどうだろう。考えてなかったけど、もしかしてこういうの好きじゃないかも。不良だって思われたらどうしよう。そうじゃなくてもちょっと引かれる? どうしよう、早まったかも。なんて今更考えても遅いけど。

昨日はアップにした髪を、今日はまた下ろしてる。耳はすっぽり隠れて、ピアスは見えない。

好きな人がいる。隣のクラスの岩泉一。3年になって、初めてクラスが離れた。正直すごくショックだったけど、幸いだったのは岩泉の幼馴染にあたる男子と同じクラスになれたこと。それまで大して話したこともなかったけど席が前後になったラッキーに乗じていっぱい話しかけてちょっとは仲良くなった。と思う。岩泉は教科書を忘れただの何だのって休み時間に来ていたり、たまにだけど同じ部活のコたちで集まってお昼を食べていたりする。……もちろん、私に会いにきているわけじゃないから話す機会なんて滅多にないんだけど。クラスが離れたら接点なんてそうそうない。だから、話せた日はちょっと幸せ。

不幸だったのは、その幼馴染である及川徹に、私が誰を好きなのかバレたこと。「すぐに分かったよ」なんてしたり顔で言われたときは、赤くなるやら青くなるやら忙しかった。それから及川は、岩泉が教室に来る度にニヤニヤしながらこっちに視線を送ったり関係ないところで同意を求めてきたり、私がすぐ後ろに居るからってちょっとわざとらしい。「岩泉にはゼッタイに余計なこと言わないで」と訴えれば、その表情を崩さないまま「言わないよ」と即答だった。但しその顔には『言わないよ、こんな面白いこと』と書いてあったけれど本人に伝わらないならこの際、何でもいい。
そう思った、けど、本当は仄めかしてくれるくらいならいいのに、って考えてた。他人の口からハッキリ告白されちゃうのは嫌だけど、もしかして、って私を意識してくれたらいいのに。なんて、他力本願がダメなのは分かってる。だから、運命変えて、一歩踏み出さないといけないの。だから、がんばるから、今日も会えますように。拳を握って気合入れて、上靴に履き替えた。

「……よしっ」
「靴替えんのに何を張り切ってんだよ」

後ろから送られた声が誰のものなのか瞬時に分かって、身体が硬直する。
ちょっと待って。まだ心の準備が出来てない。

「い、岩泉! おおおおはよう」
「おー」

何どもってんだよ、と見せる笑顔が朝から眩しい。エナメルのバッグに付いているゴジラにも心の中でこっそりとおはようを言った。髪の毛跳ねてないかな、とか服に糸くず付いてないかな、とか慌てて身なりを気にしてしまう。でも、もし寝癖がついてたら「跳ねてんぞ」って飛び出た髪を持ち上げて笑ってくれると思う。

自分も靴を履き替えた岩泉は私の横に並んで歩き出した。どうやら教室まで一緒に行けるらしい。顔が緩みそうになるのを必死で耐えて真顔を保つ。幸い、身長差のおかげで少し俯いてしまえば私の表情は岩泉に見えないだろう。

階段に差し掛かったところで「おまえ今日英語あるか?」と聞かれて、今日の時間割を頭に浮かべる。「あるよ」と返せば「ん」と意図の分からない応えが返ってきた。どうしたんだろ。「教科書でも忘れたの?」と尋ねれば、少し言い澱んで「……辞書」と呟いたので、被せるように「わたし! 持ってる! 貸せるよ」と訴えた。

「サンキュ。昼にでも行くわ」

分かりました。お昼休みは学食にもどこにも行かず教室で待機します。何なら私から届けに行ってもいいくらいだけど、それを言うと何で?と聞かれてしまうだろうから大人しく待つことを約束した。登りきった階段からは私の教室の方が近いから、また後でね、と手を振り、隣の教室へ進む岩泉を見送った。朝から遭遇できて、後でまた会えるなん嘘みたい。英語の辞書、ありがとう。ピアスよ、ありがとう。ピアスあんまり関係ないか。

「話してたのに置いてくんだよ! 岩ちゃんってばヒドイ」

廊下側の一番後ろの席が今の私の配置。目の前に座るのは体躯の大きい男子だけど、黒板を見るのに支障はない。
本鈴ギリギリに教室に滑り込んできた及川は、先生がまだ来ないのをいいことに愚痴がてら今朝の岩泉が何故一人だったのかを教えてくれた。

「私じゃなくて本人に言いなよ」
「でも岩ちゃんの話なら聞いてくれるでしょ? ちなみに話題は、クラスの女子で好みのタイプ」
「何それ、聞きたいようで全然聞きたくない!」
「まっつんは結構ハデめの女のコ選んでて意外だった。マッキーはクラスには居ないとか言って怪しかったな~。俺はちゃんと後ろの席のコって言っといたよ」
「私じゃん。はいはい、お世辞ありがと」
「岩ちゃんはね、聞き出す前に逃げちゃったんだよね」

ザンネン、と言って及川は笑うけれど、私は全然笑えなかった。クラスで好きなタイプ、って何それ。せめて学年にしてよ。頬杖をついて不貞腐れる。授業が始まっても、ちっとも集中できなかった。
そんなの、そんなの、答えなくたって聞かれたら考えるじゃん。芸能人で好みのタイプだったら知りたいよ、参考に出来るし、もしかして自分と全然違うタイプかもしれないけど付き合いたい相手と好きな芸能人って違うもんだし。でも、同じクラスなんてそんなの、ちょっと好みだな、が次の瞬間「好き」に変わるかもしれないし、もしかしたらもう好きなコが居るのかも。だから及川たちに言わなかったのかも。ひょっとしたら、好きなだけじゃなくてもう付き合ってるかもしれない。5組の女子って誰が居たっけ。仲良いコもあんまり居ないから、岩泉が誰とよく話してるのかも分かんないし聞けない。どうしよう。バレーばっかりしてるからって油断してた。去年までは「比較的仲の良い女子」ポジションを維持してたと思うけど、クラスが離れたら話す機会もめっきり減って単なる「去年クラス一緒だったヤツ」だ。モブ。完全にただのモブ。何で去年のうちに動けなかったんだろ。わたし、何も行動出来ないまま失恋? そんなのって、そんなのって、ない。

考えてもどうしようもないことをぐるぐると考えてたら、あっという間にお昼休みになってしまった。

「及川。さっきの古典、ノート見せてもらえないかな」
「いいけど、珍しいね。寝てたの?」
「起きてたけど、後半聞き逃した」
「恋煩いかな? 想われる方は幸せだね」

本当に思ってる? 今の私には、からかいに悪態を返す元気もない。ハイどーぞ、と手渡されたノートを受け取ってお礼を言う。

「ありがとう」
「購買行くから何か買ってこようか」
「ほんと? 助かる。でも牛乳パン以外でお願いします」

自分のついでに、とお使いを引き受けてくれた及川に有り難さを感じながらも軽口を返す。及川は「牛乳パン美味しいじゃん! 早く行かないとなくなっちゃう」とぷんすかしながら購買へ駆けていった。走らなくても牛乳パンは売り切れないと思う。

学食へ誘ってくれたクラスメイトにも断りを入れて、借りたノートをパラパラとめくった。几帳面にまとめられている。たまに端っこに書かれているのはバレーのコート上の配置だろうか。ノートを見る限り授業は真面目に聞いているようなのに、それを遥かに上回る熱量でバレーが存在していた。6つの印のうち、どれが岩泉だろう。授業内容を書き写しながら頬が緩む。

「……試合、見にいきたいな」
「来ればいいべ」

ひとり言のつもりの呟きを拾われてしまって、思わず身体が硬直する。声をもとに見上げれば、思った通りの人物がそこに立っていた。

「練習試合でも結構見に来てるヤツ居んぞ。ここんとこは毎週どっかしらとやってるし、見にくればいいだろ」

言いながら、岩泉は目の前の席に腰掛けた。疲れてなんかないだろうに、はあ、と大きく息を吐き出していた。

「ば、バレー部の試合だなんて言ってない」
「でもそうなんだろ? 及川目当ての女子なんていつも居るから別に目立たねえよ。つーか、去年はたまに来てたろ」

何で来なくなったんだよ。そう言われて、言葉がぐっと詰まった。だって去年はクラスに私が岩泉のこと好きだって知ってる友だちが居て、そのコは及川ファンだったから一緒に行けたんだもん。だけどクラスが離れた上に最近彼氏ができたらしくて放課後はいつも一緒に帰ってて、つまり「友だちが及川ファンだから」って言い訳が出来なくなった。
それに去年までなら「及川くん格好いいね」なんてテキトーなこと言えたけど、及川と同じクラスになって冗談も言い合うような仲になってしまった今は周囲にまさかガチ恋と思われかねないそんな行動はできないというかしたくない。及川ファンはもとより、誰よりも岩泉に勘違いされたくない。「一人だと行きづらいよ」と無難な答えを返せば、片眉を上げて怪訝な顔。納得のいく返答ではなかったらしい。

これ以上追及されても困るので、話題変換を試みる。

「そういえば岩泉、お昼ごはんは?」
「教室で食ってきた」
「早。及川、購買向かったところだよ」
「ん。さっきすれ違った」

ごはんは食べた。及川が居ないのも知ってる。なら、何だ。あれだ。辞書だ。

「辞書だよね。ロッカーに置いてるから取ってくる」
「後でいい」

立ち上がりかけたけど手ぶりで制止されて、再び腰を下ろす。

「ノート写してんだろ。別に急がねぇから」
「う、うん。分かった」

言葉に甘えて、再び二冊のノートへと向かう。早く書き写さなくちゃ。量はそこまで多くないから、集中すれば及川が戻ってくるまでに終わるだろう。そう、集中さえできれば、だけど。正面からの視線が刺さってシャーペンの芯は何度も折れた。手汗までかいてる。本当にただ書き写すだけの作業になってしまい、内容なんてちっとも頭に入って来ない。さっきの授業中よりずっと散漫だ。ウソ。全神経が目の前の人に奪われてる。
なんで、ずっと見てるの。

「あの……岩泉?」
「ん?」
「見られてると緊張するんだけど」
「あー、悪ぃ」
「なに、何かヘン?」
「いや……お前さ、」

視線を泳がせ言い澱んだ岩泉がやっと目を合わせてくれたのに、いつもいつでも空気を読んでくれそうで敢えて読まない男が元気よく帰ってきて、その場の空気を断ち割った。

「たっだいまー! 牛乳パン2つあったから買ってきてあげたよ!」
「2個も食うのかよ」
「これは頑張ってるコにプレゼント」

購買の袋が目の前に掲げられた。机のかろうじて空いたスペースにクリームたっぷりの四角いパンが置かれる。それを予測しなかったわけじゃないけど、得意げに笑う及川を見るとげんなりした。

「牛乳パンは要らないって言ったのに」
「こっちも要らない?」
「わー、焼きそばパン! 及川すごい! ありがとう」

走る意味ないじゃん、なんて思ってごめん。競争率の高い焼きそばパンをゲットしてくるなんて、さすがです。一転して感謝の意を示して及川を拝む。これ以上ペンを握っていても身にはならない、と大人しくノートを閉じた。財布を取り出そうとして、鞄ごとロッカーにしまっていたことを思い出した。辞書と一緒に取ってくるね、と二人に声をかけて立ち上がった。

「岩ちゃん辞書忘れたの? いつも置き勉して忘れるとかないのにめずらしー」
「うるせぇ」

及川が戻ってきて緊張がとけた気がする。変な空気もなくなった。よかった。ぎこちなくて変に思われただろうか。岩泉と話すなんて、別に珍しくもない。去年クラスが一緒だったことを知ってる人は多いし、周りの皆も別に気にしてない。のに、どうしても意識してしまってダメ。毎日会えるわけじゃないから想いが募るのか、顔を合わせたときにソレが溢れ出しそうになる。顔に昇りかけた熱を下げるために両頬をぺちんと叩いた。
小走りで戻ると、及川の席には変わらず岩泉が座っていて、その後ろの私の椅子は及川が占領していた。

「ちょっと及川、どいてよ」
「だって俺の席とられてるんだもん。あ、半分こして座る?」
「座りません!」
「えー、空けるのに」
「こっち座れ」

岩泉が傍らへと立ち上がり、及川の席に私を促す。好きな人の前で立ち食いはしたくないから、ちょっと渋々だけど空いた椅子に腰を下ろした。牛乳パンを取り出して頬張り始める。

「私の席そっちなんだけど」
「まぁまぁ、いいじゃん」
「……お前ら、仲良いのな」

岩泉の一言に対して「良くない!」と「そうでしょー」が重なった。ニヤニヤしている及川をキッと睨む。鼻唄でも歌いそうなムカつく表情だ。仲は良い、良くなった、と思う。でも。

「そ、そういえば岩泉、さっき何か言いかけた?」
「なになに」
「及川が騒がしく戻ってくるから会話途切れたの! ごめん、何だった?」
「いや……、別に大したことじゃねぇけど」

少し泳いだ視線をこちらに戻し、頰をかく岩泉を見上げる。す、と伸ばされた手が、髪を避けて、直接触れる。

「お前、耳あけたんだなと思って」
「ひぁっ」

触られた瞬間、背中に電気が走ったみたいで、自分でも聞いたことないような高い声が出た。近くにいたクラスメイトの何人かどうした、という顔をしてこちらを見ている。顔に熱が昇るのを自覚した。どうしよう。すごく恥ずかしい。岩泉の顔が見れない。どうしよう。

「岩ちゃん、それセクハラ。耳って性感帯なんだよ」
「お前の発言のがよっぽど問題だべや!」

ゴッ、と鈍い音が及川の方から届いた。どうやら鉄拳を食らったらしい。羞恥に苛まれながらも恐る恐る顔を上げると、バツの悪そうにする岩泉の顔が心なしか赤い。私の顔は、もっと赤いだろうけど。

「あー……悪かった。そんなに驚くとは思わなくて」
「いや、うん、私こそ大きい声出してごめん。び、びっくりして……」

暫しの無言。他のクラスメイトは多分だけど平常運転に戻っていて、後ろの座席からはうう、と苦しむ声が聞こえて、だけど私はそれどころじゃない。

「……わっ、私、飲みもの買ってくる!」

気まずさに堪えきれず逃げ出した。おい、とか何とか、不自然すぎる行動を咎める声に追われた気がするけど、ぱたぱたと廊下を駆け抜けた。一段飛ばしで階段を降りて、自販機のある中庭は進まず、それ以上降りられない階段裏へと入り込み、ぴたりと足を止める。

「はぁ〜〜〜」

大きい大きい溜息を吐いてその場にしゃがみ込んだ。耳に触れる。サーモグラフィーで測ったらそこだけ真っ赤になってるんじゃないか、というくらい熱い。

「おい」
「うわっっ!」

驚きで飛び上がった。そのまま立ち上がれたらよかったのに、間抜けにもバランスを崩し膝をつく。心臓をばくばくさせながら、声の方を振り返る。
追い掛けてくるなんて思ってもなかった。

「何やってんだ、ほら」

差し出された手を取れば、想像よりも勢いよく引かれて持ち上がった身体はそのまま正面の岩泉にぶつかった。「軽……」と呟かれた声で距離の近さを意識する。重なったままの手と、支える為に掴まれた二の腕が熱い。お互いの息遣いを感じる距離。頭は、パニックだ。

「お前、ほっそいな。ちゃんと食べてんのか?」
「えっ、んん!?」

掴まれたままの二の腕をむにっと揉み込まれた。驚いて声を上げそうになるけど、先程の気まずさを思い出して口を抑える。岩泉はというと、分かりやすくやばいって顔をして私から離れた。

スキンシップの多い人だ、と思ったことはこれまで特にない。及川をどつく姿はよく見るけど。あれだ。試合後に後輩の頭を撫でてたみたいな。あれかも。可愛がってる犬に触るみたいな。相手が女子だとか、多分そんな深く考えてなかったんだと思う。きっとこれまで私のこと全然意識してなくて、なのに、そうじゃないって気付いたんじゃないか。もしかして。

だったら、そんなに悲観する状況でもない。

「……悪い。軽率だった」
「いや、気にしてないから! それに、その……岩泉なら、いいよ」

他のコにはしてほしくないけど私ならいい。他の人には触られたくないけど、岩泉ならいい。
結構、思い切って言った。顔を見上げて反応を窺う。目をまんまるにした岩泉は、バツの悪そうに視線を逸らして頭をガシガシと乱した。

「あー…………そういうこと言うの、やめとけ」
「だ、だって本当のことだし!」
「勘違いされたらどーすんだよ」
「勘違いじゃなかったら、いいじゃん」

岩泉の顔に「?」が浮かぶ。そりゃそうだ。自分でもいきなりすぎるとは思う。でも。

自棄か、賭けか。

「好きな人だから、いいって言ってるの!」

恥ずかしくて顔は見れなかった。俯いたまま、ギュッと拳を握り込む。

やがて響く予鈴がやけに遠くに聴こえた。岩泉は何も言ってくれなくて、でも様子を窺うこともできなくて、チャイムが鳴り終わるのを黙って待つしかなかった。
そして、再び静かになった。これ以上、沈黙に堪えられそうにない。

「……授業始まっちゃう! もう戻らないと」

はは、と乾いた笑いで誤魔化した。
そそくさと横をすり抜けて去ろうとしたのに、再び腕掴まれて留められた。

「待て。ちょっと……考えてるから、逃げんな」
「え、考えてるくれるの?」
「そういう意味じゃねえ」
「違うなら今聞きたくないから放してほしいんだけど」
「そうじゃねぇって……くそ、カッコわりぃ」

空いた手で額を覆い、溜息を吐く岩泉を下からじっと見つめる。隠せていない耳が赤かった。これは、期待とまではいかなくても、頑張っても、いいんだろうか。考えなしに引き止めたんだったら、さすがに落ち込む。

「……岩泉のこと、格好悪いなんて思ったことないよ。試合観に行くのだって岩泉を見たかったからだし、クラス離れてショックだったし、今日だって朝から話せて嬉しかっ、ぶ」
「ちょっと一回黙れ」

今度は明確な意思を持ってその胸に抱き込まれた。頭を押し付けられた、と言った方が近いか。私が口を開けば開くほどにその顔を茹でだこのようにしていった岩泉は、こっち見んなとばかりに私が顔を上げることを許してはくれない。こっからどうしろと言うのだ。
案外、煮えきらない。

「岩泉。私ね、ピアス開けたの。あと少し前に前髪切ったし、メイクも変えた……気付いてなかったと思うけど」

誰の為だと思う? なんて言ったら、鬱陶しいと嫌われるだろうか。でも、他でもなく岩泉に見て欲しかったからなんだと、言わなくちゃ伝わらなさそうだから。
後頭部に置かれた手から少しずつ力が抜ける。その隙を逃さず、岩泉の顔を見上げた。

「ピアスは気付いただろ」
「へ、変じゃない?」
「……かわいいと思った」

それまで逸らされていた視線が真っすぐにぶつかった。
射抜かれて卒倒しそう。どうしよう。今、すごく間抜けな顔をしている自信がある。
言葉の出なくなった私をよそに、遂に本鈴が鳴ってしまった。

やばい、午後の授業が始まっちゃう。机の上には焼きそばパンが出しっぱなしのはずだし、サボりなんてしたことない。岩泉だってそのはずだ。でも、今、戻りたくない。岩泉も同じ気持ちだったらいいのに、とその表情を確認すると、眉間に皺を寄せたまま耳まで真っ赤になっていた。どうしよう、かわいい。やっぱり授業行きたくない。
及川、焼きそばパン食べられなくてごめん。後でちゃんと食べるから、先生にはどうか適当に誤魔化してください。
神様、ピアス様、ありがとう。思い切って良かったです。まだまだここからが勝負だと思うけど、でも。

運命、変わりそう。